結局、ホーリネス系の団体は福音の間違った解釈による、いわば聖書を基準とした新興宗教とも言え、正当なキリスト教とは言い難いと考えます。

神の恵みの解釈にも影響を与え実際に曲がった価値観の人が多いのも事実です。

実際にいた人ですが、
物や人間関係が神の恵みによりなんでも与えられると言うような人が以前行ったホーリネス系教会にいました。

神を自分の願いを叶えてもらう、ご利益機械か何かと勘違いしていました。
確かに神は必要な物事は与えてくださいますが、それを生かすも殺すも自分次第です。

またこういう方もいました。
自分には性格に問題があり、わがままで短期だけどあなたは私を愛してくれますよね?的な人です。

そこに健全な人間関係ができれば良いですが、与えてもらうしか考えてないような人と良好な人間関係が築けるはずがありません。
人間関係は両者が気持ちよくなるようにギブアンドテイクの世界です、
信頼は勝ち取っていくものです。

我々は少なくともスラム街にいるような全く物質的に恵まれていないわけではありません。
カルカッタの物質的に恵まれていないような方たちにはマザーテレサのような助け人が神により与えられました。
実際にカルカッタの方たちは神に願いもしないのに、与えられました。
神はそのくらい慈悲深い方ですが、
神の恵みを乱用するのはまた違います。

いったい誰が短期で自分勝手な人間と付き合いたいとおもうのでしょうか?
また神はそれを許されるのでしょうか?

世界がまるで自分のためにあるような錯覚を起こしている人がいましたが、
それも曲がった教理からの解釈かもしれません。

かわいそうですが、事実は事実として受け止め被害を少しでも減らさないといけません。









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もうひとつのホーリネス派の問題点は、終末論の曲解によるものでした。

終末論の中には「至福千年紀」という千年の間祝福(地上的なユートピア)が訪れる期間があるとされています。

その期間前後にキリストの再臨があるとされ、神学の間では議論されています。

中田氏がアメリカに神学の勉強をした時には、南北戦争の荒廃意識により偏った終末論解釈がされていたらしいです。

それにより、当時主流だった至福千年紀後再臨説をねじまげ、千年紀前再臨説をとりました。

千年紀前再臨説の場合、一度世界は完全に荒廃しなければなりません。

何故荒廃を迎えなければいけないのかと言うと、千年紀前再臨説の場合、もれなく7年艱難期説もついてくるからです。
7年艱難期というのはその文字通り7年間の艱難期(世界がとてつもなく荒れる期間)が訪れ、自然界の災害や世界大戦が訪れるというものです。

今の文明が荒廃するとなると、物凄い勢いで核戦争や世界規模的カタストロフィを人類は経験する事になります。

その荒廃した後にキリストの再臨が訪れ、最終戦争をハルマゲドンという地で行われ、最終的に神を信じているものと信じていないものが裁かれるというものです。

そのような過激な思想を中田氏は取り入れ、きよめ派の中に浸透させていきました。

有名な神学者の一人で、ベンジャミン•ウォーフィールドは、基本的に無千年紀説をとっています。
無千年紀説は、至福千年紀というのは現実的にはあり得ない、という意味ではなく
千年紀説を、ある象徴としてとらえています。

基本的な福音主義であれば、至福千年紀というのは、人類の善が悪に打ち勝ち、極めて完全に近い至福期間が訪れるというものです。

そもそも聖書というのは、色々な言葉を比喩として書かれています。
例えば7という数字ですが、7は聖書の中では『完全』を表します。

次に女ですか、女というのは聖書では『教会』を表しています。
本当に女性を表したい場合、『婦人』
とい言葉を直喩で表しています。

旧約聖書の箴言などの最初に女に気をつけろ、的な言葉がたくさんでてきますが、これは比喩として、間違った聖書解釈をした教会には近づくな、という意味で女性そのものの事ではありません。
これを直喩的に曲解した中世ローマは魔女狩りや女性差別に行き着きます。

話が逸れましたか、基本的に聖書は全てを比喩で表し直接的な物事とするのは曲解だと、ウォーフィールドも言っています。

なので、極端な黙示録解釈をしたきよめ派は教会が一番の平安な場所で、教会以外は悪の巣窟のような言い方をしたりします。

それにより信徒には、信仰や喜びからの福音信仰ではなく、恐れからの恐怖信仰へといきつきます。

まとめへ続く…






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その1から…

『ホーリネス』『きよめ派』と呼ばれる教会の問題点はなんだったのか。

それは
「聖化の曲解」「偏った終末論」「道徳的律法主義」
などがあげられます。

一番ネックになるのが「聖化の曲解」だと思います。

ホーリネス系団体の主になっている創設者は中田重治と言う人物です。

この中田重治氏は神学を勉強する際にアメリカに行きましたが、
当時のアメリカは南北戦争などで荒廃意識が強いためにキリスト教神学にも、カルト的な教理が埋め込まれていました。

具体的には、聖化の教理の部分ですが、聖化には異なったふたつの教えが基本にあります。

ひとつは
『瞬間的聖化』 です。
これは信じた瞬間に完全に清められ、神と一体化するような状態です。

もうひとつは『段階的聖化』です。
文字通り、日々の祈りやディボーション、み言葉などで霊性を徐々に高めていく、という教えです。

基本的には、この相異なるふたつの教理が混ざり合う事により聖化の救いが完成するのですが、
中田氏は前記の、瞬間的聖化によってだけ信徒は清められる教理をもちこんでいたために、混乱が生じたのでしょう。

具体的にどういった事態が起きるのか、自身の体験も兼ねてあげてみたいと思います。

•牧師の神格化(組織崇拝)
•道徳的律法主義
•間違ったエリート意識
•罪悪感を利用したマインドコントロール

まず牧師の神格化ですが、
これが最もたる原因のひとつではないでしょうか。

瞬間的聖化を信じている牧師は、自身が説教台に立ち説教している時は、完全に清められた、いわば神のような存在、
自分はキリストの代弁者的な勘違いを起こしてしまいます。

よって、自分に刃向かう者や教会にあまり出席しない人を、キリストに対して信仰が無い、と断定し信徒をいじめたり排除する傾向が出来上がってきます。

それにより誤ったエリート意識が芽生え、教会に来ない人、牧師に従わないものは劣等生と言うレッテルを貼られます。

更に牧師に歯向かわないような人物は、道徳的にもしっかりしていないといけません、
そうすると律法主義的な傾向生に強くなり、信徒を裁くようになってきます。

ここまでくるとキリスト教というより、共産主義政治に近いですね。

最後に、これが一番巧妙なのですが。、
いわゆる「救い」についての理解です。

聖化の理解と救いの理解は、非常に隣接していると言えます。

瞬間的聖化は長期的な救いに対して非常に弱いという側面があります。

つまり、信徒は瞬間的聖化を得るために教会に献身をし、道徳的な人間性を高めていきますが、いつまでたっても救われた感じがしません、
そして罪責感にかられまた献身。
この永久ループです。

この負のスパイラルから抜け出せず、精神にも影響をきたし、ついには自分に責任があると思い込みます。

この巧妙な罪悪感のマインドコントロールがホーリネス系教会に仕組まれている事実です。

その3へ続く…













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