-  1章 パウロの個人的なあいさつ。 パウロの目的 。パウロの三つの「私は」。神さまの自然の中の啓示。人間の半自然(subnatural)な応答。人間の不自然な退化。 -

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※ 神について、神とあなたの関係についてのあなたの人生にとって一番重大な質問

 

この最初の章は包括的です。ここには、イントロダクション、偉大な使徒の宣教師としての動機、福音の定義、そして福音が必要になった、罪の中にある人間の状況が書かれています。この章が、この書簡全体のテンポを定めています。ローマ人への手紙は、人間の完全な堕落を教えています。人間は取り返しがつかないほど、救いようもなく失われています。自分自身には義がまったくないので、人間は神さまの義を頂かなければなりません。ローマにある教会が異端に陥らないようにと書かれた、この偉大なキリスト教教理の文書は、 興味深いことにその目的を達成することはありませんでした。ローマ教会は、ローマ人への手紙の中に書かれている信仰とは、とんでもなくかけ離れてしまいました。そのことは、この書簡に書かれている、人間は神さまを理解することもないし、神さまを求めることもない、という事実の実例です。16節17節は、長い間この書簡のカギであると認められてきました。このふたつの節を暗唱して、ひとつひとつのことばの意味を消化しなければなりません。

 

(ローマ1:1)「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、」

 

 パウロは、ローマ人たちに一番最初から自分を主イエス・キリストの奴隷、または“ドウロス(doulos)”として示しました。彼は自ら進んで、しもべの立場を取りました。主イエス・キリストは私たちを愛して私たちのためにご自分を与えられましたが、主は一度も私たちをご自分の奴隷にされたことはありません。私たちは自分から主のところに行き、自分を主の奴隷にしなければならないのです。

(使徒22:10)「『私が、「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか」と尋ねると、主は私に、「起きて、ダマスコに行きなさい。あなたがするように決められていることはみな、そこで告げられる」と言われました。』」

 

 このときにパウロは自分自身を主イエス・キリストの奴隷にしたのです。彼が使徒になったのは、彼自身の決断ではありませんでした。それは神さまの決断であり、神さまが彼を召されたのです。パウロはまず最初に、自分をキリストの奴隷としました。そして今、彼は召された使徒、主イエス・キリストのための証人なのです。神さまは、ご自分が選ばれた神さまのしもべだけをお用いになります。

 

 パウロが使徒であったというもうひとつの証拠は、パウロには私たちが「しるしの賜物」と呼ぶ賜物があった、ということです。何か“から”選び分けられても、キリストの“ために”選び分けられていないクリスチャンは、不毛な生涯を送ります。その人の生涯には喜びがなく、批判的になり、ときにはひねくれ屋になります。私の地平線は広がったのです。そして、あなたが神さまのために選び分けられるとき、それはあなたを小さくしたり、偏狭にしたりするという意味ではありません。むしろ、数え切れないほどのどきどきするような、すばらしい経験を含むように、人生の幅が広がるのです。さて、パウロが「“神”の福音のために選び分けられ」たと言っていることに注目してください。言い換えれば、人間が福音を作り出したのではないということです。神さまは、私たちがもっと良い計画を持っているかどうか確かめるために待つようなことはされませんでした。神さまの福音です。私たちはそれを受け入れるか拒否するかのどちらかです。福音は神さまから始まっているのです。

 

(ローマ1:2)「──この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、」

 

 福音は真新しいものではありません。神さまの預言者たちによって、福音は旧約聖書を通してずっと約束されて来ました。福音は、神さまが人類を愛しておられる、人類を救う道を神さまが提示されている、というメッセージなのです。福音によって、私たちは愛の関係に入れられます。主は私たちを愛し、ご自身を私たちにくださいました。なんとすばらしいことでしょう!2節から6節は、福音の定義を示す、挿入語句になっています。まず最初に、福音はイエス・キリストに関することがすべてです。

 

(ローマ1:3)「御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、」

 

 福音は、すべてイエス・キリストに関することです。主が何をされたかです。福音は、「御子に関することです。」(訳注:英語訳ではconcerning his Son Jesus Christ our Lordつまり、「神さまの御子、私たちの主イエスキリストに関することです」となります。)主は私たちの信仰を助けるために祈られました。でも、この方は主イエス・キリストなのです。これはイエスさまの人間性です。主は処女からお生まれになりました。なぜなら、主は大能によって公に神の御子として示された方だからです。

 

(ローマ1:4)「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。

 

 ごらんのように、復活が主を神さまの御子にしたのではありません。復活はただ単に、主が神さまの御子であることを示しただけなのです。「聖い御霊によれば、」主は大能によって公に神の御子として示された方です。私は個人的にこれは聖霊をさしているのだと信じています。ここには、三位一体が示されていると信じます。イエス・キリストが死からよみがえられたゆえに、あなたはいつの日にか主の前に立たなければならない、というのはもっとも重々しい事実です。主を自分の救い主として信じないなら、あなたは永遠に失われた者とされなければなりません。よみがえりは、私たちひとりひとりが主イエス・キリストに直面しなければならないことを保証しているのです。

 

(ローマ1:5)「このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。」

 

 もしも神さまが恵み深くなかったら、誰一人として救われる人はいなかったでしょう。“すべての”信者は「遣わされた者」です。近頃あなたは、神さまのみことばを伝えるために、何をしておられますか?それこそが、恵みと使徒の務めを受けた者たちのするべきことなのです。「それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。」信仰に対する従順は、神さまにとってとても大切なことです。神さまが私たちを救われたあと、神さまは私たちの行いについて、また神さまへの従順について、私たちと話されたいのです。「救いにいたる信仰」は、私たちを愛し私たちのためにご自身をお与えになった神さまの御子に自分を“明け渡す”ように私たちを導きます。正しい教理はとても大切なものですが、それには、訓練と“行うこと”が伴います。両方を一緒にしなければ、地の塩になることはできません。信じることと行いとは調和して、私たちを地の塩にするのです。

 

(ローマ1:6)「あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です、──このパウロから、」

 

 (ヨハネ10:27)もしあなたが誰かほかの人やほかのものについて行っているなら、あなたは主の声を聞いてはいません。あなたは主の羊ではないのです。主の声を聞いて主に従う者は、召された者たちなのです。

 

(ローマ1:7)「ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。」

 

 「神に愛されている人々」というのはすてきだと思いませんか?神さまはローマにいるこの信者たちを愛しておられました。イエス・キリストを信じる信仰と、あなたが主のために取り分けられたという事実が、あなたを聖徒にするのです。パウロがはじめに自分のことをそう言ったように、彼はイエス・キリストの奴隷だったのです。「恵みと平安」 が、すべてのパウロの手紙の正式なイントロダクションを構成しています。平安(“シャロームshalom”)がユダヤ人のあいさつの形であるのに対して、恵み(“チャリスcharis”)は異邦人のあいさつの形でした。パウロはそれを組み合わせたのです。

 

(ローマ1:8)「まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。」

 

 ローマにいる多くの人たちがキリストに立ち返っているということがローマ帝国中に知れ渡っていました。皇帝たちが心配するほどにです。のちになって、迫害が始まりました。パウロはここで、彼らの信仰が全世界に言い伝えられている、と言っています。

 

(ローマ1:9)「私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、」

 

 パウロは、長い祈りのリストを持っていました。聖書学校で教えていたとき、私は学生たちに、パウロが誰かのために祈っていると言うたびにそれを記録するように、という宿題を出しました。多くの学生たちが、パウロの長い祈りのリストに深く感動していました。パウロはここで、ローマの信者たちのためにたゆまず祈っていると言っています。

 

(ローマ1:10)「 いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。」

 

 使徒の働きの中で彼の旅のことを読むとき、それは必ずしも実り多い旅には見えません。彼は囚人としてローマに行きました。海ではひどい嵐にあいました。そして陸にたどりつたとき、まむしに噛まれました。それでも、実り多き旅だったのです。彼は「神のみこころによって」ローマに行きたいと言っています。私は、パウロが神さまの“みこころ”によってローマに行ったと信じています。

 

(ロ-マ1:11)「私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。」

 

 彼は神さまのみことばを教えるためにローマに行きたいのです。パウロは神さまのみことばを教えることを愛していました。説教者が神さまのみことばを教えたくないとき、彼は牧師となり、事務職者、主催者になることはできますが、みことばの務めを果たすことはもうできなくなります。

 

(ローマ1:12)「というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」

 

 言い換えれば、パウロは何かを伝えるわけですが、ローマの信者たちもまた、彼に何かを伝える、ということです。彼らはみことばのうちに、相互に祝福を受けるのです。

 

(ローマ1:13)「兄弟たち。ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。」

 

 彼らのうちの多くは、パウロがローマ帝国のほかの場所で会ったときにキリストのもとに導いた、パウロの回心者たちでした。「あなたがたの中でも・・・実を得ようと」というのは、おそらくたましいを勝ち取ろう、というのではなく、信者の生活の中に御霊の実を得ようということだと思われます。(ガラテヤ5:22-23参照) 

 

(ローマ1:14)「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。」

 

 「ギリシヤ人にも未開人にも」というのは、ギリシャ語では全人類という意味です。神さまの恵みがあまりにも豊かに彼の上に与えられたからです。パウロは、失われたこの世に対して負債を負いました。“すべての人々が”イエス・キリストの福音を聞くまで、あなたも私も私たちの正当な負債を払い終えることはないのです。 正当なすべての人がよき知らせを聞くまでは、私たちは負債を払い終えてはいないのです。まだ大ぜいの人々が福音を聞いてはいません。パウロは、「私は負債を負っている」と言いました。それが、パウロがローマに行きたいもうひとつの理由でした。

 

(ローマ1:15)「ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」

 

 彼は準備ができているだけでなく、福音を説教したくてたまらないのです。ああ、私たちには、神さまのみことばを伝えるためにそのような熱心さと高い期待とがどれほど必要であることでしょう!

 

(ローマ1:16)「 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」

 

 私は負債を負っている―それは認めること(admission)です。私は用意ができている―それは支払うこと(remission)です。私は恥としない―それは従うこと(submission)です。これらはパウロの三つの「ミッション(mission)」です。ローマのような重要な場所にそのメッセージを持ってくるのは恥ずかしいんだろうよ。」そこでパウロは、「私は福音を恥とは思いません」と言っているのです。福音は自らのうちに生来の力を秘めています。福音は、とてもはっきりしたことのために力を持っています。「救いを得させる神の力」なのです。それが福音の目的であり、結果です。救いを手に入れる唯一の方法は、個人の信仰によるしかありません。この節の中の、三つのとても重要な真理に私たちの注意を促しています。福音の結果―救い。範囲(これは世界的です)―すべての人。条件―イエス・キリストを信じる信仰です。

 

(ローマ1:17)「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」

 

 これは、“ひとつの”義(a righteousness)であり、その義はかみさまから来るものです。人間の義ではありません。信者は、キリストがしてくださったことによって完全に受け入れられています。この義を手に入れる唯一の方法は、信仰によってです。これは信仰による義なのです。そのために努力することはできません。預金することもできません。買うこともできません。信仰によって受け入れる以外には、なにもすることができないのです。「義」とは、“ディカイオスネー(dikaiosune)”ということばです。「正しくなる(to be right)」というのが主要な意味で、罪の反対語です。正しくなることのおかげで人間は、神さまの理想と基準として神さまと神さまのみこころに調和するのである。神さまは信仰によってあなたを救われます。あなたは信仰によって生きます。信仰によって死に、信仰によって天国に行くのです。「義人は信仰によって生きる」信仰による義認は、キリストを信じた罪人が、キリストが死なれたことによって赦される、ということだけでなく、その人は、キリストのうちに完全にされて神さまの御前に立つ、ということも意味しています。つまり、罪が取り去られるというだけでなく、義が加えられるのです。(ローマ4:25)それは私たちが、キリストのうちに完全にされて神さまの御前に立つことができるためです。

 

(ローマ1:18)「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」

 

 パウロは、人間が罪人であると言う事実を書いているだけです。人間の罪に対する神さまの“怒り”が啓示されていることを示しているのです。実際、もしも救いが本当にどのようなものだか知りたいならば、罪がどれほど悪いものであるかを知らなければなりません。不敬虔は神さまのご性質を否定します。神さまの存在自体を無視する人々が大ぜいいます。それがたましいの“状態”なのです。それは罪です。不義は人間に対する反抗です。神さまの定めを否定することです。これはたましいの“行動”です。「不義をもって真理をはばんでいる人々」は文字通り、不義のうちに真理を押さえつける人々です。このようなことをする人たちに対して、神さまの怒りが明らかにされるのです。

 

(ローマ1:19)「それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。」

 

 神さまからの、元来の啓示があります。

 

(ローマ1:20)「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」

 

 私たちが住んでいるこの宇宙は、神さまのことについてふたつのことを私たちに教えてくれます。神さまのご人格と力です。これはこの世が創造されたときから明らかに見えています。   (詩篇19:1)「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」

 

創造は、はっきりとした啓示の光です。創造は根本的な啓示です。私は、人間が保持することのできる、もっともばかばかしい立場は、無神論だと思います。それは非論理的だし、非常識です。詩篇記者が

(詩篇14:1)「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている。・・・」と言ったとき、 “愚か”ということばは、「 正気でない」という意味です。人間が神さまの存在を否定するとき、その人は正気ではないのです。「彼らに弁解の余地はないのです。」創造があまりにも神さまをはっきりと示しているので、人間には弁解の余地がありません。この箇所は、人間の罪の歴史的な根拠を明らかにしています。罪は、無知を通して来たのではありません。罪は、明らかな光の中での意思的な反抗だったのです。

 

(ローマ1:21-23)「それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」

 

 これからの数節を注意深く調べてみると、人類がエデンの園から下に向かって落ちていったのには、7つのステップがあったことが分かります。自分たちの持っていた光にふさわしく生きた人はひとりもいません。彼らは神さまに関する知識は持っていましたが、神さまから遠ざかって行ったのです。

 

 「神を神としてあがめず」彼らは神さまにふさわしい場所を与えず、自己充足しました。私たちの時代には、人間が、神さまは死んだとアナウンスしたのです。始めのころには、人類の種族は神さまは死んだとは言いませんでした。彼らは単に神さまに背を向け、人間を自分たちの神にしました。

 

 「感謝もせず」。恩知らずは、数ある罪のうちの最悪の物のひとつです。主イエスが10人のツァラアトに冒されている人をいやされたのに、主のところに感謝するために戻ってきたのは、たったひとりだったことを思い出されるでしょう。十パーセントの人だけが感謝していました。今日はもっと少ないだろうと思います。

 

 「かえってその思いはむなしくなり」彼らは進化論さえもでっち上げたのです。「その無知な心は暗くなりました。」彼らは異教の闇の中に入って行きました。エジプトのカイロの町を歩いても、トルコのイスタンブールの町を歩いても、その生きた証明を見るのです。「彼らは自分では知者であると言いながら、愚かな者となり」人間の知恵は神さまにとっては愚かなことです。人間は論理的な論法を通して真理を探しますが、神さまの目には愚かな哲学にたどり着くのです。

 

 「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」アルテミスはディアナとも呼ばれていますが、それはギリシャの彫刻に見られるような愛らしいものではありませんでした。彼女は意地の悪い女神でした。もっとも文化的で文明的な人々が持っていた神さまのイメージがそれだったのです!彼女は主役の女神で、はなはだしい不道徳と最悪の不正がアルテミスの神殿の周りで行われていました。彼らは不滅の神さまの御栄を、滅ぶべき人間のかたちに代えてしまったのです。実際、偶像は神さまを漫画にしたようなものです。神さまに対する悪口と中傷です。

 

 個人的に、私は、イエスさまの絵を見るのは好きではありません。パウロが言ったように、私たちはもはや主を人間的な標準で知ってはいないからです。(II コリント5:16参照)主は今日、栄化されたキリストなのです。私たちの主の絵をかかげて神さまを中傷するようなことはしないでください!神さまのみことばの中では、偶像礼拝の最初の記録は、ラケルが彼女の父親の偶像を盗んだことと関連しています。人間は下に降りていきました。上向きに発達したのではありません。

 

  宗教的に、人間は神さまから離れてしまいました。今日、貧困対策や健康対策、そのほかの社会的なプログラムに失敗があるのは、ひどい不道徳と神さまからの離反のせいなのです。彼らは「私たちは実際的にやりたい。宗教を持ち込みたくない」と言います。それが問題なのです。人間がするべき唯一の“実際的な”ことは、生けるまことの神さまに立ち返ることです。

 

(ローマ1:24)「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。」

 

 人間の堕落は、性の倒錯で測られます。現代の多くの教会が、性的倒錯を罪に定める代わりに擁護している一方、神さまは彼らを引き渡された、と言っておられます。偶像礼拝とひどい不道徳は、神さまの啓示を拒否したことの苦い結果です。「神は、・・・彼らを・・・引き渡され」というのは、積極的であって、消極的な態度ではありません。

 

(ローマ1:25)「それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。」

 

 「彼らが神の真理を偽りと取り代え」これが示唆するところは、彼らが神さまに背を向けて、偽りの創始者であり偶像礼拝の父である、サタンに向いた、ということです。これは、道徳の堕落の、一番深みにつながる偶像礼拝です。

 

(ローマ1:26-27)「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。」

 

 今日の大衆の意見がどうであろうとも、これらは、不名誉と恥辱と堕落の激情です。ギリシャ人たちの生活の中に倒錯が入り込み、それがギリシャを滅ぼしたのです。今日ギリシャへ行って、そこを見て御覧なさい。栄光は去ってしまいました。なぜでしょう?性的倒錯が彼らの罪だったからです。

 

(ローマ1:28)「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。」

 

 だれであっても、倒錯の中に生活しながら神さまの子どもでいられる、などと口にする人は、私たちの時代の自由奔放の泥沼の中に生きているのであって、自分以外の誰をもごまかすことなどできません。でも、もし人がキリストのもとに行くなら、その人は解放されるのです。これに続く3つの節は、人間の、神さまへの反抗に続く恐ろしい一連の罪をリストしています。

 

(ローマ1:29-30)「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。」

 

 でもここでは、これは今日人間の種族が行っていることであると言うことで十分でしょう。神さまはあとどのくらい我慢して、私たちに対して忍耐深くいてくださるでしょう?神さまは、この方向に歩んだ過去の大きな国々をさばかれたのです。

 

(ローマ1:32)「彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。」

 

 人間は神さまの啓示を与えられていますが、そのような罪に対する神さまのさばきを無視することで、非道にもそれをあなどっています。そのようなことを続け、同じことをする人たちを賞賛し、彼らに同意しているのです。

 

※ 是非、引き続きブログテーマ「ローマ人への手紙」をお読みください。

 

― 特別聖書集会のご案内 香川県高松木太キリスト教会 -

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6月3日(金) ① 19:30~20:30

6月4日(土) ② 14:00~15:00  ③ 19:30~20:30  

6月5日(日) ④ 10:00~11:00  ⑤ 14:00~15:00

 

是非お近くの方は「聖書のみことば、罪のゆるし、死後のさばきからの救いのメッセージ、福音」を聞きにお越しください! 

 

神の御子イエス・キリストは、罪深い人間の身代わりに、十字架で死なれ、死の力を打ち破ってご復活されたまことの神、救い主なる御方です。

 

    
キリストは罪人である私たちの身代わりとなられ、十字架にかかり、死んでくださり、墓に葬られ、ご復活されました。その神の御子なるお方イエス・キリストを真の神、救い主と信じ受け入れることによって、私たちの罪がゆるされ、永遠の地獄の裁きから救われます。これが罪のゆるし、死後の裁きからの救いの福音です。

 

※ 約12分の救いのためのメッセージ動画です。是非ご覧下さい。

救いの福音のメッセージ文書版です。是非お読みください。

 

 

 

是非これを読まれた方が主イエス・キリストを信じ救われることを心より願っております。罪のゆるしについて、死後のさばき(永遠の地獄)からの救いについて、真剣に考えたい方、話を聞きたい方は是非プロフィールクリック→メッセージください。あなたがどうすれば救われるのか一緒に考えさせてください。

 

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イグアスの滝(自分で撮った写真です。)悪魔の喉笛です。

~一番ポピュラーな、悪魔の喉笛の由来は、その下の岩に打ち付ける滝の音が、悪魔が唸り声を上げている様に聞こえるから...~

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