-  ヨハネ、しもべである方を紹介する。父なる神さま、しもべである方を示される。誘惑によって、しもべである方の(働きが)開始される。働きとことばがしもべである方を描写する。御国の福音の宣教。弟子たちの召し。会堂にいた人。ガリラヤでの説教。ペテロのしゅうとめ(熱)と他の人々のいやし。;ガリラヤの悪霊。ツァラアトにおかされた人のいやし。 -

※下記サイトの内容を掲載しております。

 

※ 神について、神とあなたの関係についてのあなたの人生にとって一番重大な質問

 

 創世記1 章を除いては、おそらくマルコの1章は聖書の中でもっとも内容の多い章であると言えるでしょう。この章では、イザヤとマラキの預言に戻ったあと、ヨハネのミニストリーを網羅しています。この章にはイエスさまのミニストリーの最初の1年が含まれ、忙しい安息日まで続きます。1年目は、ツァラアトに冒された人をきよめるという素晴らしいわざでしめくくられます。

 

 忙しい生活のプレッシャーにもかかわらず、イエスさまは時間を取って祈られました。しもべに必要なのは、「出生証明書」ではなく、推薦状です。この福音書では、主の先祖がだれかではなく、主の行動が問題なのです。主に、このことができるのだろうか?エホバのしもべである方はここではご自身の達成されたことをもって選び分けられています。それに加えて、ローマ人や他の外部者たちはアブラハムにさかのぼるイエスさまの系図など気にもしなかったことでしょう。

 

 この福音書の本文を始めるにあたって、私たちをイエスさまとの活力に満ちた関係に入れてくださるように、神さまにお願いしましょう。私たちは、主イエス・キリストを見つめるのです。A・J・ゴードン博士はこう書きました。「(主を)見ることは救いをもたらし、じっと見つめることは聖化をもたらす。」

 

(マルコ1:1-3)「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」』そのとおりに、

 

 これは、主イエスがこの世に来られて、十字架上で死に、よみがえられたときの福音の始めです。それ自体が、福音なのです。聖書の中には、三つの始まりが記録されています。年代順に並べてみましょう。

1.(ヨハネ1:1)「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」神さまは私たちにお会いになるために、永遠の中から出て来られるのです。ただ、神さまが私たちに出会われる、私たちが考えうるもっとも昔に足場をすえて、そして、神さまがそれよりも前からそこにおられたことに気づくのです。

2.(創世記1:1)「初めに、神が天と地を創造した。」ここで私たちは永遠から出て、時間の中に入ります。たくさんの人たちがこの宇宙に日付をつけようとしたにもかかわらず、今まで、だれにもその始まりは分かってはいません。

3.(マルコ1:1)「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」これには日付がついています。イエス・キリストが人間の肉の形をとられたその瞬間にさかのぼります。イエス・キリストが福音なのです!マルコは主の推薦状はイザヤとマラキにさかのぼることを示しています。ヨハネも、マルコも、バプテスマのヨハネが来たのは、キリストのさきがけとなる者に関する預言の成就であったと宣言しています。

 

(マルコ1:4)「バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」

 

 ヨハネは、悔い改めを宣べ伝え、罪のための赦しに入るバプテスマを授けたのであって、罪を赦すためのバプテスマを授けたのではありません。ヨハネのミニストリーは、準備でした。人々を、主イエス・キリストがこの世にいらっしゃることに備えるためのミニストリーでした。罪を赦される方は、イエス・キリストです。

 

(マルコ1:5-6)「そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」

 

 バプテスマのヨハネは、そのメッセージだけでなく、服装と食べ物に関しても特筆すべき人物でした。この人は、このミニストリーのために取り分けられた人でした。彼は、祭司の家系であるレビ人の出身で、本来ならエルサレムの宮で奉仕するべきでした。でも、神さまは彼を預言者として召し出され、彼は荒野で説教をしていました。人々は彼のメッセージを聞くために、やって来たのです!

 

(マルコ1:7)「彼は宣べ伝えて言った。『私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。』」

 

 彼の謙遜さを見てください。バプテスマのヨハネは謙虚な人でした。

 

(マルコ1:8)「『私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。』」

 

 これが、ヨハネとイエスさまの大きな違いです。 “本物の”バプテスマは、聖霊によるバプテスマです。バプテスマの“儀式”は水で行います。水のバプテスマは、今日とても大切です。なぜなら、これは証しだからです。マタイの福音書で学びましたが、主イエスがバプテスマを受けられたのは、実際にご自分を人類と同一化するためでした。

 

(マルコ1:9)「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。」

 

 でも、ここでは主イエスは、30年間の小さな町ナザレでの訓練の無名時代を過ごされて、来られました。主は今来られて、バプテスマによってご自分を人類の家族と同一化されます。(マタイ3:15)「・・・『今はそうさせてもらいたい。・・・』」と主が言われたのを覚えておられるでしょう。“イエスさま”という名前が、マルコの中では他のどんな名前よりも頻繁に使われています。

 

(マルコ1:10-11)「そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」

 

 ここに私たちは、三位一体がとても明確に一緒になるのを見ます。神さまの第二格である主イエス。神さまの第三格である御霊さま。神さまの御霊が鳩のように主の上に下られます。そして神さまの第一格である父なる神さまの声が、天からこのように言われます。ところで、このことが、イエスさまのご人格の上に押された天の保証であり、また献身でもあるのです。ここで、とても速い速度でものごとが起こっていることに気づかれるでしょう。

 

(マルコ1:12)「そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。」

 

 神さまの御霊が、主が誘惑されるために、すぐに荒野に主を移されました。私たちは、誘惑によって主がご自分の働きを開始されるのを見ます。

 

(マルコ1:13)「イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。」

 

 40日間ずっと誘惑を受けられたのです。主が40日間断食され、そのあとサタンが主を誘惑した、と言う印象を持っている人たちもいるようですが、主は、ずっと誘惑されていたのです。マルコがここで言っているのは、主が野の獣とともにおられ、御使いと動物がともに主に仕えていたいうことです。私たちが知る限り、人類がいて、しかも人が住むことのできる場所はこの地球だけです。ここでは、人であるイエス・キリストの下にある獣と、上にある御使いの両方が主に仕えました。マルコが言っているのはそういうことです。

 

(マルコ1:14-15)「ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』」

 

 主は今、神さまの福音を宣べ伝えてご自分のミニストリーを始められ、こう言われます。「時が満ち、神の国は近くなった。」神さまの福音とは、神さまの御国が近づいた、ということです。マタイでは、これは「天の御国」と言われていました。天の御国は、地上での神さまの支配です。神の国は、神さまのこの地球を越えた、宇宙全体を含みます。ですから、天の御国は、神の国の“中に”あるのです。

 

 私たちの時代、メッセージがあべこべになっていると私は思います。つまり、悔い改めの前に信仰を置くのです。アナタが信仰によってイエス・キリストのほうを向くとき、アナタは実際、何か違うもの“から”主の“方へ”向くのであって、この、何か“から”向き直るのが、悔い改めです。もしそこに何か“から”の向き直りがなかったのなら、明らかに本当のキリストの“方へ”の向き直りもなかったのです。もしもそこにキリストへの本当の向き直りがあるならば、何かからその信者が向き直ったという変化が、その人の人生に現れるのです。ですから、そこには何も矛盾はありません。人々にとって大切なことは、福音を信じることです。

 

 速い動きを見てきていますが、思い出してください。この福音は、行動の人であるローマ人のために書かれているのです。彼らは世界を支配した権力の人々でもありました。マタイは宗教的な人に宛てられています。マルコは強い人のために書かれています。ルカは考える人に呼びかけています。ヨハネの福音書は、救いが必要な惨めな人間に向けられています。

 

(マルコ1:16-20)「ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。」

 

 使徒たちに対する、別々の、そして明瞭な召しが三回ありました。

1.ヨハネ1:35-51に、イエスさまがエルサレムに行かれたときに彼らに出会い、一般的で形式ばらない、気楽な召しを与えられました。

2.さて今、マルコのここの箇所の主のミニストリーの始まりに、主は砂浜に沿って歩かれ、弟子たちが漁をしているのを見かけられます。そして彼らを弟子訓練のために召されるのです。彼らは「人間をとる漁師」となるべきでした。

3.最後の召しは、使徒職への召しでした。このことはマルコ3章、マタイ10章、そしてルカ6章に記録されています。彼らは漁に戻っていましたが、シモン・ペテロは主にこう言いました。(ルカ5:8)「・・・『主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。』・・・」ペテロがここで本当に言っていることは、「だれか他の人を召してください。私をひとりにしてください。私はあなたの期待に背いたのです。私は罪深い人間です」ということなのです。でも、主はペテロをあきらめることはなさいませんでした。神さまに感謝しましょう。そこで主は3度目に来られて彼らを使徒として任命されたのです。

 

(マルコ1:21)「それから、一行はカペナウムに入った。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂に入って教えられた。」

 

 主はカペナウムに行かれ、地上でのミニストリーの間ずっと、カペナウムをミニストリーの本拠地にされました。

 

(マルコ1:22)「人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」

 

 真理から離れてしまったので、説教壇と神さまのことばの間にはとても大きなギャップがあります。ここに出て来る会堂にも、その当時何のいのちもなく、その結果主がお話しになったとき、人々は主の教理に驚愕したのです。

 

(マルコ1:23-24)「すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。『ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。』」

 

 この、マルコの福音書で最初の奇蹟は、霊的な領域のものです。神さまだけが霊的な領域を支配しておられます。神さまは悪霊を支配しておられます。ローマ帝国全体の中で、悪霊崇拝が蔓延していたという歴史的な証拠がとてもたくさんあります。悪霊崇拝に対抗できるのは、主イエスによるしかありません。なぜなら、主おひとりだけが、この領域に入っていくことがおできになるからです。そういう訳でマルコはこの記事を最初の奇蹟として記しているのです。クリスチャンのみなさん。悪霊の働きを処理するには、方法はひとつしかありません。主イエス・キリストの御名によって処理するのです。

 

(マルコ1:25-27)「イエスは彼をしかって、『黙れ。この人から出て行け』と言われた。すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。『これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。』」

 

 主はご自分の権威を、教えの中と奇蹟の中において実演しておられますが、人々はそれを理解できません。主は、彼らが十分に理解することのできない権威を持っておられるのです。

 

(マルコ1:28)「こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。」

 

 マルコは、明らかに同じ日の午後の何時かに起こった次の出来事に私たちを導きます。

 

(マルコ1:29-31)「イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家に入られた。ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた。イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした。」

 

ここに書かれているのは、同じ日に主が行われた奇蹟です。そして、その夜のできごとへと続きます。

 

(マルコ1:32)「夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人をみな、イエスのもとに連れて来た。」

 

 これから見るように、悪魔はひとりしかいませんが、悪霊はたくさんいます。

 

(マルコ1:33-34)「こうして町中の者が戸口に集まって来た。イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をいやし、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。」

 

 主は文字通り何百人もの人々をいやされましたが、ほんの少しの個別の例だけが私たちのために記録されているのです。主とともに、私たちも忙しい一日を過ごしました。 

 

(マルコ1:35)「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」

 

 忙しい日曜日のあと、月曜日に休みを取る牧師はたくさんいます。無理もありません。私も以前はそうしていましたが、そうしなくなってからもう何年にもなります。イエスさまは寂しい所へ行って祈るために朝早くおきておられます。これは私たちのための教訓です。

 

(マルコ1:36-39)「シモンとその仲間は、イエスを追って来て、彼を見つけ、『みんながあなたを捜しております』と言った。イエスは彼らに言われた。『さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。』こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。」

 

 ご覧のとおり、これは福音の始めです。主はご自分の教えによって人々を救いに備えておられます。救いとは、つまり主の死とよみがえりです。主の教えはアナタを救うことはありません。むしろ主の十字架上でのわざが私たちを救うのです。主は、ご自分の3年間のミニストリーでガリラヤ全土をまわられたのです。

 

(マルコ1:40-41)「さて、ツァラアトに冒された人がイエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。『お心一つで、私をきよくしていただけます。』イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。『わたしの心だ。きよくなれ。』」

 

 きっと、家族に手をふるくらいのことはできたでしょうが、彼らの近くに行ったり、家族を腕に抱いたり、さわったりすることは絶対にできませんでした。でも今、主はこの人に“さわり”、この人をきよめられるのです!

 

(マルコ1:42-44)「すると、すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよくなった。そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。そのとき彼にこう言われた。『気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物をしなさい。』」

 

 ツァラアトに冒された人のきよめは、モーセの儀式に従う必要がありました。主は、モーセの律法を破られませんでした。

 

(マルコ1:45)「ところが、彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表立って町の中に入ることができず、町はずれの寂しい所におられた。しかし、人々は、あらゆる所からイエスのもとにやって来た。」

 

 だれにも何も言わないようにするかわりに、この人は出て行っていやしのことを言い広めました。もし、何かを広めたいのなら、ふれ回り、新聞にのせ、ラジオで流すことです。この人がしたことはまさにそうでした。「言い広める(訳注:英語ではblaze で、ここではしゃべりまくるという意味 。炎が燃え広がるというのが第一義的な意味)」とは、山火事のように、何かに火をつけるという意味です。もしアナタのお隣さんがアナタの言うことに耳を貸さないなら、自分の家に火をつけてごらんなさい!ご近所中の人たちがあなたの周りに集まってくること請け合いです。

 マルコの福音書のこの箇所を説教して、彼は言いました。「主はこの人に誰にも言ってはいけない、と言われたのに、彼はみんなに言い広めました。主は私たちに言い広めなさい、と言われたのに、私たちは誰にも言わないのです。」なかなか良いコメントだと思いました。私が言いたいのは、このきよめられたツァラアトに冒された人の不従順は、今日の私たちの不従順ほど悪くはないということです。私たちは言い広めるべきなのに、誰にも言わないのです。それにしても、彼がニュースを言い広めたせいで、群衆が集まり、主は一時的にカペナウムから退かなければなりませんでした。

 

※ 是非、引き続きブログテーマ「マルコの福音書」をお読みください。

 

是非お近くの方は「聖書のみことば、罪のゆるし、死後のさばきからの救いのメッセージ、福音」を聞きにお越しください! 

 

 

神の御子イエス・キリストは、罪深い人間の身代わりに、十字架で死なれ、死の力を打ち破ってご復活されたまことの神、救い主なる御方です。

 

    
キリストは罪人である私たちの身代わりとなられ、十字架にかかり、死んでくださり、墓に葬られ、ご復活されました。その神の御子なるお方イエス・キリストを真の神、救い主と信じ受け入れることによって、私たちの罪がゆるされ、永遠の地獄の裁きから救われます。これが罪のゆるし、死後の裁きからの救いの福音です。

 

※ 約12分の救いのためのメッセージ動画です。是非ご覧下さい。

救いの福音のメッセージ文書版です。是非お読みください。

 

 

 

是非これを読まれた方が主イエス・キリストを信じ救われることを心より願っております。罪のゆるしについて、死後のさばき(永遠の地獄)からの救いについて、真剣に考えたい方、話を聞きたい方は是非プロフィールクリック→メッセージください。あなたがどうすれば救われるのか一緒に考えさせてください。

 

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イグアスの滝(自分で撮った写真です。)悪魔の喉笛です。

~一番ポピュラーな、悪魔の喉笛の由来は、その下の岩に打ち付ける滝の音が、悪魔が唸り声を上げている様に聞こえるから...~