- 屋根から吊り下ろされた中風の人。弟子たちの召し。花婿がいるときに断食はしない。古い着物に新しいつぎあて。古い皮袋に新しいワイン。安息日。 -
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※ 神について、神とあなたの関係についてのあなたの人生にとって一番重大な質問
2章も、アクションに満ちた章です。実際2章は、マルコがしょっちゅう使う、あのすばらしい接続詞「そして」で始まる、1章の続きです。「そして」は小さなことばですが、この福音書をひとつにまとめる働きをしていますこのことばがいつでも、前になにがあって、これから何が起こるかをつなげるのです。
(マルコ2:1)「数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。」
主は本拠地をご自分の郷里であるナザレからカペナウムに移されました。カペナウムは、3年間、主の地上でのミニストリーの本拠地となりました。この人にも他の人々にも、主の奇蹟について話して欲しくなかったのは、主が来られたのは霊的なミニストリーをするためだったからなのです。主は世の罪のために十字架上で死なれるために来られました。このような類の宣伝は、福音をぼやかします。主がカペナウムに戻られてシモン・ペテロの家にいるというニュースが行き渡りました。
(マルコ2:2)「それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。」
主のミニストリーは神さまのことばを宣べ伝えることでした。今日も、そのように強調されなければならないと感じますね。神さまのことばと、そして神さまのことばの完全性と無謬性に強調点があります。私は今もっているよりももっと確信を持つべきなのです。これは神さまのことばであり、神さまのことばがむなしく神さまのところに帰ることはないということを覚えていなければなりません。
(イザヤ55:11)「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」
ですから私は、ここで主が神さまのことばを宣べ伝えておられることを喜びます。
(マルコ2:3-4)「そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。」
この人をキリストの御前に下ろしたとき、彼らは恥ずかしかったんじゃないかと思いますね。なぜなら、自分たちが集会を中断してしまったことが分かったからです。進行中の集会にどのような影響を与えたか、想像がつくでしょう!このとき、主が何を教えておられたかは知る由もありませんが、その集会が突然ストップしました。でも、主はきっと彼らを見て微笑まれたことでしょう。きっとそうだと私は思うのです。
(マルコ2:5)「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました』と言われた。」
この人を、主イエスが個人的に取り扱われるのを聞くことのできる場所に連れて来たことは、彼らの信仰でした。今日の教会に必要なのは、担架を運ぶ人々です。出て行って、救われていない人々が福音を聞くことができるように彼らを連れてくるような信仰を持った人たちです。彼らはこのあわれな人が、主イエスが話されているのを聞き、個人的に取り扱って「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われるのを聞くことができるように、この人を連れてくる信仰を持っていました。
(マルコ2:6-7)「ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。『この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。』」
法律を作られた方は、ご自分もそれらの法律に従われます。そして神さまの法律は厳然たる物です。この法律は全く変えられることがなく、これらの法律によって、私たちは神さまの御前に有罪なのです。私たちには罪の赦しが必要で、神さまは赦してくださる方です。
(マルコ2:8)「彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。『なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。』」
主は彼らの心を引き出そうとされますが、彼らは前に主と衝突したことがあり、いつでも痛手を受けていたのです。そこで彼らは、ここでは黙っているのが最善だと決めて、黙っていました。主は彼らに言われました。
(マルコ2:9)「『中風の人に、「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて、寝床をたたんで歩け」と言うのと、どちらがやさしいか。』」
答えたとしたら、彼らはどちらももう片方と同じように不可能だ、と言ったに違いないと私は思います。どちらも、神さまにしかできないことです。だからこそ、主イエスはこの人に寝床をたたんで歩きなさいと言われたのです。
(マルコ2:10-11)「『人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。』こう言ってから、中風の人に、『あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい』と言われた。」
彼はこの寝床、この担架には戻っていきません。今からは彼は歩くのです。主がいやしをされたとき、人々は本当にいやされました。
(マルコ2:12)「すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、『こういうことは、かつて見たことがない』と言って神をあがめた。」
ご覧のとおり、この福音書は、アクションの福音書で、ここにそのひとつのアクションの奇蹟が書かれているのです。
(マルコ2:13-14)「イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、『わたしについて来なさい』と言われた。すると彼は立ち上がって従った。」
次は奇蹟ではありませんが、アクションが続きます。この福音書ではたくさんのアクションを見ますよ。これは、レビ、またはマタイの召しです。彼は祭司の部族に属していたのに、他でもない、取税人になったのです。それはそうと、これは失われた10部族についての質問への答えです。この箇所は、ユダ族以外の部族に属する人が出て来る、たくさんの箇所のひとつです。まさにここに、レビ族の出の人が主の弟子のひとりになっています。主はこの素晴らしいできごとの中で彼を召されています。マタイは自分の書いた福音書の中には、彼が自分の友人達を呼んで素晴らしい宴会をしたことについて何も書いていなかったことを覚えておられるでしょう。ところで、彼の友人達はみんな罪人でした。
(マルコ2:15-16)「それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。『なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。』」
ここで、ゲストが取税人や罪人だったと3度も言っていることに気づかれましたか?良い人はどうもリストにはのっていなかったようです。この町のエリートはひとりもそこにいませんでした。取税人が罪人の前にきていることに注目してください。彼らはその当時の税金取立人でした。
(マルコ2:17)「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』」
これは素晴らしい答えです。みんな健康なときに、お医者さんを呼ぶことはありません。お医者さんに来て欲しいのは、自分が病気のときですね。
(マルコ2:18)「ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。『ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。』」
彼らは律法のもとにありましたが、律法には断食に関する指示は与えられていませんでした。神さまはご自分の民に、七つの祭りを与えられましたが、断食の日というのは与えられませんでした。
(マルコ2:19-20)「イエスは彼らに言われた。『花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。』」
主が彼らに言っておられるのは、主と良い関係を保ち、交わりを持つことの方が、断食よりも大切なのだ、ということです。今日も同じですよ。宗教的になって体裁を繕うことと、主イエスとの交わりを楽しみ、主を愛することとは違います。
(マルコ2:21-22)「『だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。』」
主はモーセの体制に洗練や進歩を付け加えるために来られたのではありません。新しいことをされるために来られました。主は、キリストを信頼した罪人に与えられる新しい義の衣をくださるために来られました。そしてその新しいものとは、主が世の罪のために死なれるという事実なのです。新しいワインは、新しい皮袋に入ります。新しい着物は新しい人に着せられます。この義の衣は、信仰によって神さまの子とされた人に与えられるものです。何とすごいことでしょう!主は、ご自分が安息日の主であることを明らかにされ、とにかく大切なことは、良いことをすることだと示しておられます。
(マルコ2:23)「ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。」
弟子たちはその穀物を摘んで食べていました。律法では、穀物を引き抜くことは許されています。申命記の23:24-25にはこう書かれています。
(申命記23:24-25)「隣人のぶどう畑に入ったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。隣人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。」
もしも彼らがかまを入れたなら、収穫したことになったでしょう。でも、パリサイ人たちは自分たち独自の解釈をほどこし、弟子たちの行動を律法を破っていると解釈しました。
(マルコ2:24-25)「すると、パリサイ人たちがイエスに言った。『ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。』イエスは彼らに言われた。『ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。』」
主はダビデの生涯の中で彼が確かにモーセの律法を破り、それでも正しいとされたできごとについて語られます。ご覧のとおり、神さまに仕えようとしている神さまのしもべのひとりに困難をもたらすのなら、律法の字義は押し付けられるべきものではありません。もちろんダビデの物語がその良い例で、主はそのことを実例として使っておられるのです。
(マルコ2:26-28)「『アビヤタルが大祭司のころ、ダビデは神の家に入って、祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを、自分も食べ、またともにいた者たちにも与えたではありませんか。』また言われた。『安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。』」
これは安息日とその意味に関する偉大な原則です。律法は本当に人のために造られたのであって、人が安息日のために造られたのではありません。もうひとつの偉大な原則は、主イエスは安息日の主であるということです。どちらもとても大切なことです。私たちは安息日に関して、古いモーセの体制のもとにあるのではありません。なぜなら、安息日はイスラエル民族と神さまとの間の契約の一部だったからです。
(出エジプト記31:12)「【主】はモーセに告げて仰せられた。『あなたはイスラエル人に告げて
言え。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する【主】であることを、あなたがたが知るためのものなのである。これは、あなたがたにとって聖なるものであるから、あなたがたはこの安息を守らなければならない。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、【主】の聖なる全き休みの安息日である。安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。イスラエル人はこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。これは、永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるしである。それは【主】が六日間に天と地とを造り、七日目に休み、いこわれたからである。』」
畑での安息日のできごとと、3章の始まりの安息日のできごとは、一緒でなければなりません。ですから、聖書の章の切れ目ではありますが、安息日に関連する学びをこのまま続けましょう。
※ 是非、引き続きブログテーマ「マルコの福音書」をお読みください。
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神の御子イエス・キリストは、罪深い人間の身代わりに、十字架で死なれ、死の力を打ち破ってご復活されたまことの神、救い主なる御方です。
※ 約12分の救いのためのメッセージ動画です。是非ご覧下さい。
救いの福音のメッセージ文書版です。是非お読みください。
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イグアスの滝(自分で撮った写真です。)悪魔の喉笛です。
~一番ポピュラーな、悪魔の喉笛の由来は、その下の岩に打ち付ける滝の音が、悪魔が唸り声を上げている様に聞こえるから...~





