セブンスデーアドベンチスト 聖書研究シリーズ 聖書入門その3

セブンスデーアドベンチスト 聖書研究シリーズ 聖書入門その3

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イスラエルも皆彼にならった

「レハベアムはその国が堅く立ち、強くなるに及んで、主のおきてを捨てた。イスラエルも皆彼にならった。」(歴代志下12:1)

 

 ソロモンが背信した時の濫費は、人々に重税を課し、彼らから多くの労役を要求するに至らせた。……

 もしレハベアムと未経験な彼の助言者たちが、イスラエルに関する神のみこころを理解したならば、彼らは国家の行政に決定的改革を求める国民の要求を聞き入れたことであろう。しかし、シケムの集会においてやってきた好機に際して、彼らは、原因から結果を推論することをしなかった。……

 霊感の筆は、ソロモンの後継者が、主に忠誠をつくすために強力な影響を及ぼさなかったという悲しい記録をとどめている。彼は生まれながら強情で、自己を過信し、わがままで偶像礼拝を好んだのであったが、もし彼が神に心から信頼したならば、強い品性と堅い信仰と神の要求に服従する精神を啓発させることができたのであった。しかし、時が経過するにつれて、王は地位の権力と彼が建てた要害を頼りにするようになった。……

 「イスラエルも皆彼にならった」という言葉は、なんと悲しく、なんと深い意義を持っていることだろう。周囲の国々に対する光として神が選ばれた民が、力の根源から離れて、周囲の国々と同じようになろうとしていた。ソロモンと同様に、レハベアムの悪影響も、多くの人々を神から離れさせた。悪にふける者は、今日においても、程度の差こそあれ、彼らと同じであって、悪行の影響は、それを行った者だけにとどまらない。だれひとりとして、自分だけで生きていないのである。また、だれひとりとして、その罪のなかでひとりで死なない。どの人の生涯も、他の人々の道を明るく楽しいものにする光となるか、それとも、失望と破滅をもたらす暗いみじめな影響力となるのである。われわれは、他の人々を幸福と永遠の生命に向上させるか、それとも、悲哀と永遠の死へと堕落させるかのどちらかである。そして、われわれが自分たちの行為によって、われわれのまわりにいる人々の悪の力を強めて、活動を起こさせるならば、われわれは、彼らの罪にあずかるのである。(国と指導者上巻62-68)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

麻痺した手

「彼にむかって伸ばした手が枯れて、ひっ込めることができなかった。」(列王記上13:4)

 

 ヤラベアムは、これを見て、神に対する反抗的精神に満たされ、彼に使命を伝えた者を止めようとした。彼は怒って、「祭壇から手を伸ばして、『彼を捕えよ』と言ったが」、彼の性急な行動は、直ちに譴責を受けた。主の使命者に向かって伸ばした手は、急に力がぬけて、枯れ、ひっ込めることができなくなった。

 王は驚いて、彼のために神に祈ってほしいと、預言者に訴えた。「『あなたの神、主に願い、わたしのために祈って、わたしの手をもとに返らせてください』。神の人が主に願ったので、王の手はもとに返って、前のようにった」。

 異教の神の祭壇を厳粛に奉献しようとしたヤラベアムの努力はむだに終わった。それを尊敬するということは、エルサレムにある主の神殿の礼拝を敬わないことになるのであった。イスラエルの王は、預言者の言葉を聞きいれて、神の礼拝から人々を引き離していた彼の邪悪な目的を悔い改めて捨て去るべきであった。しかし、彼は心をかたくなにして、自分勝手な道を歩こうと決意したのである。 ……

 主は、滅ぼすことではなくて、救おうと努めておられる。主は罪人を救うことを喜ばれる。「わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない」 (エゼキエル33:11) 。彼は警告と嘆願とによって、心のかたくなな人々が、彼らの悪い行いを離れて神に帰り、生きるように呼びかけておられる。神は、お選びになった使命者に、聖なる大胆さをお与えになる。それは、聞く人々が恐れを抱いて、悔い改めに至るためである。神の人は、なんと厳然と王を譴責したことであろう。そして、この確固不動の態度は必要であった。これ以外に、当時の罪悪を譴責する方法 はなかった。主は、聞く者の心に忘れ得ない印象を与えるために、彼のしもべに大胆さをお与えなったのである。主の使命者は、人の顔を恐れずに、正義のために、ひるまず立たなければならない。彼らは、神に信頼しているかぎり、恐れる必要はない。なぜならば、任命を彼らにお与えになるかたは、また、彼の守護の確証をもお与えになるからである。(国と指導者上巻74-77)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アサは神により頼んだ

「時にアサはその神、主に向かって呼ばわって言った、『主よ、力のある者を助けることも、力のない者を助けることも、あなたにおいては異なることはありません。われわれの神、主よ、われわれをお助けください。われわれはあなたに寄り頼み、あなたの名によってこの大軍に当ります。主よ、あなたはわれわれの神です。どうぞ人をあなたに勝たせないでください』。」(歴代志下14:11)

 

 「エチオピヤびとゼラが、百万の軍隊と三百の戦車を率いて」攻めて来たときに、アサの信仰ははげしく試みられた。アサは、こうした危機において、彼が建てた石垣とやぐらと門と貫の木のあるユダの「要害の町」や、訓練された彼の軍勢の「大勇士」たちにも頼らなかった。王は万軍の主によりたのんだ。……アサは、彼の軍隊を戦闘体勢にしておいて、神の助けを仰いだのである。

 今や、敵軍は眼前に迫ってきた。これは、主に仕える者にとって試練の時であった。すべての罪を告白したであろうか。ユダの人々は神の救いの力に全的に信頼したであろうか。指導者はこのような事を考えていたのでる。人間的考えからすれば、エジプトの大軍はその前にあるものをみな一掃するように思われたのである。しし、アサは、平和の時に、娯楽と快楽にふけっていなかった。彼は、どんな緊急事態にも対処できるように準備していたのである。彼は戦闘の準備のできた軍隊をもっていた。彼は国民に神との平和を結ばせるように努力したのであった。そして、今、彼の軍隊は、敵軍よりも数は少なかったが、彼が信頼した神に対する信仰は少しも衰えなかった。

 王は、繁栄の時に主を求めていたのであるから、こうした逆境の時においても、主によりたのむことができた。彼の嘆願は、彼が、神の驚くべき力を知らない人でなかったことを示している。……

 アサの祈りは、すべてのキリスト者が祈るにふさわしい祈りである。……われわれは、人生の戦いにおいて、正義に反抗する悪の勢力に立ち向かわなければならない。われわれの希望は人間ではなくて、生ける神にある。われわれは、神が、み名の栄光のために、神の全能の力を人間の器の努力に結びつけてくださることを、心から確信して期待することができる。われわれは、神の義の武具をまとって、すべての敵に勝利すことができるのである。(国と指導者上巻81, 82)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イゼベルの破壊的影響

「アハブのように主の目の前に悪を行うことに身をゆだねた者はなかった。その妻イゼベルが彼をそそのかしたのである。」(列王記上21:25)

 

 アハブは、道徳的能力が弱かった。彼が、勝気で積極的性格の持ち主であった異邦の女と結婚したことは、彼自身と国家とに悲惨な結果をもたらした。主義をもたず、正しい行為に対する高い標準も持っていなかったので彼の性格は、イゼベルの決然とした気質にやすやすと動かされていった。……

 イスラエルは、アハブの治世の破壊的影響の下にあって、生ける神から遠く離れ、神の前で悪を行った。彼は、長年の間、神を敬い恐れる心を失ってきていた。そして、今となっては、広く行きわたった神を汚す精神に公然と反対して立ち上がり、彼らの生活を大胆に暴露するものはひとりもいなくなったように見えた。背信の暗い影が全国をおおった。バアルとアシタロテの像は至るところにあった。人間の手のわざが礼拝された偶像礼拝の神殿と奉献された木立とは増し加えられた。空気は、偽りの神々に献げられる犠牲の煙で汚染された。日、月、星に犠 牲を献げた異教の祭司たちの酒に酔った叫びが、丘や谷にこだましていた。

 イゼベルと彼女の邪悪な祭司たちの影響を受けて、人々は、神としてあがめられている偶像が、その神秘的な力によって、地、火、水などの宇宙の構成要素を支配していると教えられた。天のあらゆる境界、流れる小川わき出る泉の流れ、静かにくだる露、地をうるおし、田畑に豊かな実りをもたらす雨などは、みな、あらゆるい完全な賜物の与え主であられる神からのものではなくて、バアルとアシタロテの恵みによるものとされたのである。人々は、丘や谷、流れや泉などが、生ける神のみ手のうちにあること、また、神は、太陽、空の雲、その他すべての自然の力を支配しておられることを忘れた。……

 彼らは愚かにも、神と神の礼拝を拒絶した。(国と指導者上巻85,86)

 非献身的な女性の力を悟っている人はなんと少ないことであろう。……もしアハブが天の勧告のうちに歩んだならば、神はアハブと共におられたであろう。しかし、アハブはこれをしなかった。彼は偶像礼拝に身を捧げた女性と結婚した。イゼベルは、王に対しては神よりも威力があった。彼女は彼と民を偶像礼拝に導いた。(SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ホワイト・コメント]2巻1033)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

荒野の声

「ギレアデのテシベに住むテシベびとエリヤはアハブに言った、『わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう』。」(列王記上17:1)

 

 アハブの時代に、ヨルダン川の東のギレアデの山中に、信仰と祈りの人が住んでいて、彼の大胆な活動によって、急速に進んでいたイスラエルの背信は阻止されるのであった。テシベびとエリヤは、有名な都市から遠く離れて住み、高い地位を占めてはいなかったけれども、神が彼の前に道を備えて、豊かな成功をお与えになることを確信して、仕事に着手したのである。彼は信仰と力に満ちた言葉を語った。そして、彼はその全生涯を、改革の事業に献げていた。彼は、罪を譴責し、罪悪の潮流を押しとどめるために、荒野に呼ばわる者の声であった。彼は罪の譴責者として、人々のところに来たのではあったが、彼の言葉は、癒しを願うすべての悩める人々に、ギレアデの乳香を与えたのである。……

 天からの刑罰の言葉をアハブに伝える任務が、エリヤに負わせられた。彼は主の使命者になることを求めたのではなかった。主の言葉が彼に臨んだのである。彼は神の働きの栄誉のために熱心だったので、従うことは悪の手にかかって、速やかに殺されることを招くようなものであったが、神の召しに従うことをためらわなかった。……

 エリヤが彼の言葉を語ったのは、神のみことばの確実な力に対して強い信仰を働かせたからにほかならなかった。もし彼が自分が仕える神に絶対的信頼を持っていなかったならば、アハブの前に立つことはしなかったであろう。エリヤはサマリヤへ行く途中で、水のつきない流れや、緑におおわれた山々や、かんばつに襲われそうもない堂々とした森林を通過した。彼が見たものは、すべて、美におおわれていた。預言者は、どのようにして、流れの水が止まって干からび、山々や谷が、かんばつで焼けつくようになるだろうかと、怪しむこともできた。しかし、彼は、不信仰におちいらなかった。彼は、神が背信したイスラエルを卑しめて、刑罰によって彼らを悔い改めさせることを疑わずに信じていた。天の神の厳命が出されたのである。神の言葉に誤りはあり得なかった。エリヤは自分の生命の危険をもかえりみずに、恐れることなく、彼の任務を果たしたのである。(国と指導 者上巻87-90)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

乏しい食物を分けあう

「エリヤは彼女に言った、『恐れるにはおよばない。行って、あなたが言ったとおりにしなさい。しかしまず、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。「主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない」とイスラエルの神、主が言われるからです』。」(列王記上17:13, 14)

 

 この女はイスラエル人ではなかった。彼女は神の選民が享受した特権と祝福を受けたことはなかった。しかし、彼女は真の神を信じ、彼女の道を照らしたすべての光に従って歩いていた。そこで、イスラエルの地にエリヤが安心して住むところがなくなったときに、神はエリヤを彼女の家に送り、そこに避難させられた。 ……

 飢饉はこの貧困にうちひしがれた家庭をきびしく傷めつけ、哀れにも乏しい食糧はなくなりかけていた。やもめ女が生きるための戦いをやめなければならないと思ったその時に、エリヤがやって来たことは、なくてならぬものを備えて下さるという、彼女の生ける神の力を信じる信仰に対する最大の試練であった。しかし、彼女は貧窮の極に達していても、彼女の最後の食事を分けてほしいと願う旅人の要求に応じて、彼女の信仰のあかしを立てたのである。……

 これ以上に大きな信仰のテストを要求することはできなかった。やもめ女は、これまで、すべての旅人を親切に手厚くもてなしたのであった。今、彼女は、自分と子供が苦しみに会うことをも顧みず、イスラエルの神が彼女のすべての必要を満たしてくださることを信じて、「エリヤが言ったとおりに」行い、旅人をもてなすことについてのこの最高のテストに耐えたのである。……

 ザレパテのやもめ女は、彼女の乏しい食物をエリヤに分け与えた。そして、その返礼として、彼女と彼女の息子の生命が保護されたのである。そして、試練と欠乏のときに、われわれよりさらに困窮状態にある人々に同情と援助を与えるすべての者に、神は大きな祝福を約束しておられる。(国と指導者上巻97-99)

 飢餓の時にエリヤを養われた神は献身しているご自分の子らの一人を見捨てられることはない。その髪の毛までも数えておられるお方は、彼らを養われ、飢餓の時に彼らは満たされるのである。悪人たちが彼らの周りで、食物の欠乏のゆえに滅んでいく間、彼らのパンと水は保証される。(教会への証1巻173,174)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

与える方が幸い

「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。」(ピリピ4:19)

 

 ザレパテのやもめの女についての話を読みなさい。異邦の地に住むこの女の所に、神は食物を求めるようにと、ご自分の僕を飢きんの時に送られた。……このフェニキヤの女が神の預言者に示した親切なもてなしは素晴らしいものであった。そしてその信仰と物惜しみをしない行為は驚くほど報いられたのである。

 神は変わってはおられない。そのみ力は今もエリヤの時代と同じである。…… キリストのみ言葉は、その初めの弟子たちへと同様、今日の忠実な僕にむかっても、「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをおつかわしになったかたを受け入れるのである」と仰せになる(マタイ10:40)。キリストのみ名のゆえに示された親切な行為は必ず覚えられ、報われる。そしてキリストは、神の家族のうちで最も弱々しく地位の低い者であっても、同じに優しく覚えてくださるのである。「わたしの弟子であるという名 のゆえに、この小さい者」、すなわちその信仰とキリストを知る知識が子供のようである者たち「の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」と仰せになる(同10:42)。

 貧困が、わたしたちが親切な行為をすることを妨げる必要はない。わたしたちは持っているものを分け与えるべきである。 暮らしをたてるのに苦労している人々、またその必要を満たす収入を得るのが非常に困難な人々がいる。しかし、この人々は主の聖徒の中のイエスを愛して、信者にも未信者にも、彼らの訪問を有益なものにしようとして、親切な行為を示す準備ができている。家庭の食卓で、また家庭の祭壇で訪問客は歓迎される。祈りの時間は、もてなしを受け入れる人々に感銘を与える。そしてただ一度の訪問でも死から魂を救う機会になることができるのである。この働きのために主は、「わたしが報いる」と仰せになって、清算されるからである。……

 「人はパンだけで生きるものではな」い。だからわたしたちはこの世の食物を 他の人々に分け与えるように、希望と勇気とキリストのような愛を分け与えるべきである。……そう すれば「神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ちたらせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである」との保証はわたしたちのものである(コリント第二9:8)。(教会への証6巻345-348)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アハブの前に立つエリヤ

「彼は答えた、『わたしがイスラエルを悩ますのではありません。あなたと、あなたの父の家が悩ましたのです。あなたがたが主の命令を捨て、バアルに従ったためです』。」(列王記上18:18)

 

 長年のかんばつと飢饉の間、エリヤは、イスラエルの人々が偶像礼拝を離れて神に忠誠をつくすように、熱心に祈っていた。主のみ手が、災禍に苦しむ地上に置かれていた間、預言者エリヤは忍耐強く待っていた。……

ついに、「多くの日を経て」、「行って、あなたの身をアハブに示しなさい。わたしは雨を地に降らせる」という主の言葉がエリヤに臨んだ。……

 王と預言者はたがいに面と向かい合って立っている。アハブは激しい憎しみを抱いているにもかかわらず、エリヤの前では、女々しく、力がぬけたように思われる。彼は、まず、どもりながら「、イスラエルを悩ます者よ、あなたはここにいるのですか」と言い、無意識のうちに、彼の心の奥にひそむ感情をあらわすのである。アハブは、天が青銅のようになったのは、神の言葉によるものであったことを知ってはいたが、それでもなお、彼は、地に下った厳しい刑罰の責任を預言者に負わせようとしていたのである。……

 エリヤは自分の潔白なことを意識して、アハブの前に立ち、自分を弁解しようとも、また、王にへつらおうともしないのである。また、かんばつは、ほとんど終わったというよい知らせによって、王の怒りを避けようともしないのである。彼は何の謝罪もしないのである。彼はいきどおりと神のみ栄えのための熱意に燃えて、アハブの告発を彼に帰して、この恐ろしい災害をイスラエルにもたらしたのは、彼の罪であり、彼の先祖の罪であると、恐れることなく王に宣言するのである。……

 今日、断固とした譴責の声が必要である。なぜならば、悲しむべき罪が、人々を神から引き離したからである。……よく聞く耳ざわりのよい説教は、心に永続的印象を与えない。ラッパは音をはっきり出さない。人々は、神の言葉の明白で鋭い真理によって、心が切り裂かれない。……

 神は、エリヤ、ナタン、バプテスマのヨハネのような人々、すなわち、結果がどうなろうとも、忠実に神の言葉を伝える人々を召しておられる。また、所有するすべてのものを犠牲にすることを要求されても、勇敢に真理を語る人々を、神は召しておられるのである。(国と指導者上巻100-111)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神の勇士たち

「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい。」(列王記上18:21)

 

 全体的な背教のただ中で、エリヤは自分が天におられる神に仕えているという事実を隠そうとしなかった。バアルの預言者は450人を数え、祭司は400人、そしてその礼拝者は何千人もいた。しかしエリヤは、自分が人気のある側にいるように見せようとはしなかった。彼はただ一人で威厳をもって立った。……はっきりとした、トランペットのような声で、エリヤはおびただしい群衆に向かって、「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか」と話しかけるのであ る。……今日のエリヤはどこにいるのであろうか。(教会への証5巻526,527)

 神は人々の前で至高者としてのご自分の栄誉が高められ、また神の勧告が確認されるのを望まれる。カルメル山での預言者エリヤの証は、地上において、神と神の働きのために毅然と立った人の模範となっている。……「イスラエルでは、あなたが神であること、わたしがあなたのしもべであって、あなたの言葉に従ってこのすべての事を行ったことを今日知らせて下さい。主よわたしに答えて下さい。わたしに答えてください。」と彼は祈り嘆願する。……

 神の栄光のためという彼の熱意とイスラエルの家のための深い愛は、今日地上における神の働きの代表者として立つすべての人々のために教訓を与えている。(SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ホワイト・コメント]2巻1034)

 わたしたちが神の戒めを守る民であるということが知られるのを恐れたり、臆病であることによっては何も得られない。自分の信仰が恥ずかしいものであるかのように、わたしたちの光を隠すなら、結果として不幸が生じるだけである。神は、わたしたちが弱いままにしておかれる。主がわたしたちを召されるどのような場所においても、自分の光を輝かせるのをわたしたちが拒むことのないよう、主が助けて下さるようにと祈る。もしわたしたちが自分自身の考えや計画に従って、あえて自分自身を前に押し出し、イエスを後に残そうとするなら、堅忍や勇気、また 霊的活力を得ようと期待しても無駄である。神は道徳上の勇士、すなわち神の 特別の民であることを恥としない人々を持っておられたし、今も持っておられる。彼らの意志と計画はすべて神の律法に従ったものである。イエスの愛は彼らに自分の生命を大事なものと考えないよう導いてきた。彼らの働きは神のみ言葉からの光を捕え、世にはっきりとした変わらない光線を輝き出させるようにしてきた。「神への忠誠」が彼らのモットーである。(教会への証5巻527,528)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

過去と現在の偶像礼拝

「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」(出エジプト 20:3)

 

 形こそ違うが、偶像崇拝は、今日のキリスト教界にも、古代イスラエルのエリヤの時代にあったのと同じように存在している。自ら賢人と称する多くの人々、哲学者、詩人、政治家、ジャーナリストたちの神、洗練された上流社会、多くの大学、はては幾つかの神学校などの神も、フェニキヤの太陽神バアルとほとんど変わるところがない。

 キリスト教界で受け入れられている誤謬ほど、天の神の権威に大胆に打撃を与えるものはなく、また、神の律法はもはや人間を拘束しないという、急速に力を増しつつある近代的教理ほど、結果の有害なものはない。……

 聖書はどんな人の手にも入るが、それを真に人生の道しるべとして受け入れる人は少ない。不信仰は単に世の中ばかりでなく、教会内にも驚くほど広くゆきわたっている。多くの人は、キリスト教信仰の支柱そのものになっている教理を否定するようにさえなっている。霊感を受けた記者たちによって書かれている、創造の偉大な事実、人類の堕落、贖い、神の律法の永遠性などの大真理が、自称キリスト教界の大部分の人たちによって、全体的に、あるいは部分的に受け入れられなくなっている。知恵と自主性を誇る幾千もの人々が、聖書に絶対的信頼を置くことを弱さの証拠と考え、聖書の揚げ足を取ったり、最も重要な真理を抽象化したり言い抜けたりすることを、優れた才能や学識の証拠だと思っている。神の律法が変更されたとか廃されたとかいうことを、信者たちに教えている牧師や、学生たちに教えている教授、教師が多い。そして、律法の要求がなお有効であり、字義通りに従わなければならないものであるとみなす人々は、嘲笑と侮べつにしか値しないと思われている。……

 真理と誤謬の最後の大争闘は、長い間続いてきた神の律法に関する論争の最後の戦いにほかならない。われわれは今や、この戦い、……に入っているのである。(各時代の大争闘下巻345,344)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神を待ち望む

「エリヤはアハブに言った、『大雨の音がするから、上って行って、食い飲みしなさい』。」(列王記上18:41)

 

 エリヤがこのような確信をもってアハブに雨の準備をするように命じたのは、雨が降りそうな外面的証拠が何かあったためではなかった。エリヤは空に雲を見なかった。雷の音も聞かなかった。彼はただ彼自身の強い信仰に答えて、主の霊が彼を動かして語らせられた言葉を語ったに過ぎなかった。……彼は力のなし得る限りのことをなし終えた。そこで彼は、天の神が預言された祝福を豊かにお与えになることを知っていた。かんばつをお与えになった同じ神が、正しい行為の報いとして豊かな雨を約束されたのである。そしてエリヤは今、約束された雨が注がれるのを待った。彼は「顔をひざの間に入れ」て謙遜な態度をとり、悔い改めたイスラエルのために、神にとりなしの祈りを捧げた。 ……

 しもべは、青銅のような空には雨の降るしるしは何もないと言って6回も帰ってきた。エリヤは臆することなく、もう1度彼を送り出した。するとしもべは、今度は帰ってきて「海から人の手ほどの小さな雲が起っています」と言った。

 これで十分であった。エリヤは空が暗くなるまで待たなかった。彼は信仰によって、その小さな雲のなかにあふるるばかりの雨を見た。そして彼は、その信仰に従って行動した。……

 彼は祈り、信仰の手をのばして天の神の約束をつかんだ、そして彼は祈りが聞かれるまで祈りつづけた。彼は神が祈りをお聞きになったという十分な証拠が与えられるまで待たず神の恵みのほんのわずかなしるしにすべてをかけるのであった。しかし彼が神の助けによってなし得たことは、すべての者がそれぞれの神の奉仕における範囲内においてなし得ることなのである。……

 このような信仰、すなわち、神のみ言葉の約束をつかんで、天の神がお聞きになるまで、どんなことがあっても手を離さない信仰が、今日世界に必要である。 ……

 われわれはヤコブの不撓不屈の信仰、エリヤのたゆまぬ忍耐力とをもって、われわれの願いを天の父に申し上げ、彼が約束されたすべてのことを自分のものとすればよいのである。神はそのみ座の名誉にかけて、ご自分のみ言葉を成就してくださるのである。……(国と指導者上巻123-125)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自己を明け渡す

「エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈をささげたところ、三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた。」(ヤコブ5:17,18)

 

 エリヤの経験の中で、重要な教訓がわたしたちに与えられている。カルメル山上で彼が雨のために祈りをささげた時、彼の信仰は試されたが、神に彼の要求を訴えて頑張り通した。……彼が六回で落胆してあきらめたならば、彼の祈は答えられなかったであろう。しかし、彼は答えが来るまで忍耐強くやり通した。わたしたちには、わたしたちの嘆願に耳を閉じられることのない神がおられる。だからもしわたしたちが「神のみ言葉を証明するならば、神はわたしたちの信仰に光栄を与えられるであろう。神はわたしたちがすべての関心を神の心と織り合せることを望まれる。なぜなら、祝福がわたしたちのものとなる時、わたしたちは自分の栄誉としないで、神にあらゆる賞賛を帰すようになるからである。神は、いつもわたしたちの祈りに最初から答えられるとは限らない。なぜなら、もしそうなったら、わたしたちは神がお与えになったあらゆる祝福と恩恵を受ける権利を当然の事と思うからである。自分が何かの悪をもてあそんだり、罪にふけっていないかどうかを吟味するためにじっくり考えることをしないで、わたしたちは不注意になって、神に信頼することと神の助けの必要性を真に理解しなくなるのである。

 エリヤは、自分に栄誉を帰すことがないという状態まで、自分自身を謙虚にした。これが、主が祈りを聞かれる状態である。なぜなら、その時わたしたちは主をほめたたえるからである。人間に賞賛を捧げる慣習は、大きな害悪という結果を産む。一方が他者を賞賛する。このようにして人々は、栄光と名誉が彼らに属すると感じるようになる。あなたが人を高めるとき、まさにサタンがあなたにするように、あなたは彼の魂に罠を仕掛けるのである。……神だけが賞賛されるにふさわしい方である。(SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ホワイト・コメント]2巻1034,1035)

 彼(エリヤ)が自分の心を探ったとき、自分自身の評価と神の御前の両方において、ますます自分が小さく思えた。彼にとって自分は無であり、神がすべてであると思えた。そして、彼が自己放棄の点に達し、また自分の唯一の力と義として救い主にすがりついたときに応答がきた。(同上1035)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

落胆に圧倒される

「[彼は]自分の死を求めて言った、『主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません』。」(列王記上 19:4)

 

 あのように不屈の勇気を示し、国王や祭司たちや国民に対してあのように完全な勝利を収めたエリヤは、その後落胆したり、おじ気づいたりすることはあり得ないかのように思われる。しかし、このように多くの神の愛の保護の証拠を与えられた彼も、人間的弱さに勝つことができず、この暗黒の時に信仰と勇気を失ってしまった。……

 彼がその場にとどまり、神を彼の避け所、また力として真理のために固く立ったならば、彼は危害を受けることなく守られたことであろう。主はイゼベルに刑罰をお与えになって、もう一つの著しい勝利をお与えになったことであろう。……

  だれでも時には、激しい失望と絶望に陥る時があって、心は悲しみに満たされ、神が今でも地上の子供たちの慈悲深い保護者であられることを信じ難い日々があるものである。心は悩みにさいなまれて生きているよりは死んだほうがましだと思われる時がある。そうした時に多くの者は、神に対する信頼を失って、疑いと不信の奴隷になるのである。そのような時に、もしわれわれが霊的洞察力をもって、神の摂理の意味を悟ることができたならば、天使たちがわれわれを助けて、われわれの足を永遠の山よりも堅い基礎の上に置こうと努めているのを見ることができるであろう。そして、新しい信仰と新しい生命がわき上がることであろう。……

 気落ちしている者に対して、信頼できる救済策がある。それは信仰と祈りと行いである。……一見絶望的で、最悪の事態にあっても恐れてはならない。神を信じよう。神はあなたの必要を知っておられる。神はすべての力を持っておられる。神の無限の愛と憐れみは、消耗することがない。……そして神は、忠実なしもべたちが必要とするだけの能力をお与えになる。……

 神はエリヤを、試練の時にお捨てになったであろうか。いや、そうではない。神はエリヤの祈りに答えて、天から火を降らせて山の頂を照らされた時と同様に、彼が神と人に捨てられたと感じた時にも、彼を愛しておられた。(国と指導者上巻127-135)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたはここでなにをしているのか

「その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、『エリヤよ、あなたはここで何をしているのか』。」(列王記上19:9)

 

 エリヤがホレブ山に隠れたことは、人間にはわからなかったが、神は知っておられた。そして疲労し、絶望に陥った預言者はそこにただ一人残されて、押し寄せる悪の勢力と戦うのではなかった。……

 神は疲れたしもべに、「あなたはここで何をしているのか」とおたずねになった。私はあなたをケリテ川に送り、その次にはザレパテのやもめのところに送った。私はあなたにイスラエルに帰って、カルメル山上で偶像礼拝の祭司たちの前に立つことを命じた。そして、王の車をエズレルの門まで導く力をあなたに与えた。しかしこんなにあわててあなたを荒野に逃亡させたのは、いったいだれなのか、あなたはここで何の用があるのか。……

 真実で忠実な人々のたゆまぬ活動に負うところが多いのである。そのためにサタンは、服従する人々によって行われる神のみこころを、なんとかして妨げようと努力するのである。サタンはある者に、彼らの崇高で聖なる任務を見失わせて、この世の快楽に満足を味わわせようとする。……また他の人々を、反対や迫害のゆえに失望させて、義務を行うことを回避させる。……魂の敵によってその声を沈黙させられたすべての神の子に対して、「あなたはここで何をしているのか」という質問が投げかけられている。わたしはあなたに、全世界に出て行って福音を 宣べ伝え、人々に神の日のための備えをさせるように任命したのである。あなたは、なぜここにいるのか。……

 個人と同様に家族に対しても、「あなたはここで何をしているのか」という質問がなされている。多くの教会の中には、神のみ言葉の真理についてよく教えられた家族がある。そのような人々は、彼らのできる奉仕を必要としている場所へ移っていって、彼らの影響力の範囲を広げるとよいのである。神はキリスト者の家族が、地上の暗黒の場所へ出ていって、霊的暗黒に閉ざされている人々のために、賢く忍耐強く働くように招いておられる。……世俗的利益のためや科学的知識獲得のために、人々は喜んで伝染病の多い地域へ入って行って、苦難と欠乏とに耐えるのである。救い主のことを他の人々に伝えるために喜んでそれと同じことをする人々がどこにいるのであろうか。(国と指導者上巻136-141)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日必要とされるエリヤ

「また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である。」(列王記上19:18)

 

 エリヤはイスラエルの中で、自分だけが真の神の礼拝者であると考えていた。しかしすべての人々の心を読まれる神は、長くつづいた背信のなかにあって神に忠誠を保った者が多くいたことをエリヤに示された。……

 一見、失望と敗北と思われる時におけるエリヤの経験から多くの教訓を学ぶことができる。すなわち、人々が一般に正義から離反している、現代の神のしもべたちに非常に貴重な教訓を教えている。今日広く行きわたっている背信は、預言者の時代にイスラエルに広がった背信とよく似ている。今日多くの人々は神よりも人間を高め人気ある指導者を称賛し、富を礼拝し、啓示の真理よりも科学を尊重してバアルに従っている。疑惑と不信は人々の心に悪影響を及ぼし、多くの者は人間の理論を神の言葉の代わりにしている。彼らは、人間の理性が神の言葉の教え以上に高められるべき時が来たと、公然と教えている。義の標準である神の律法は、もうその効力を失ったと言われている。すべての真理の敵は欺瞞的な力をもって働きかけ、神の占めるべき位置に人間の制度を設け、人類の幸福と救いのために定められたものを彼らに忘れさせようとしている。

 しかしこの背信は、広がっているとは言っても、普遍的なものではない。世界中のすべての人が不法で罪深いのではない。すべての者が敵の側に加担したのではない。神は、……イエスが速やかに来られて、罪と死の支配を終わらせてくださることを切望している者を多く持っておられる。……

 このような人々は、神を知り、神のみ言葉の力を知った人々の個人的な援助を必要としている。……聖書の真理を知っている者が、光を熱望する男女をたずね求める時に、神の天使は彼らに伴っていく。……多くの人々が偶像礼拝から生きた神の礼拝に立ち返るのである。多くの人々は人間が作った制度を崇敬することをやめて、恐れることなく神と神の律法の側に立つのである。(国と指導者上巻139,140)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

弱いその時

「彼は言った、『わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者たちを殺したからです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています』。」(列王記上19:14)

 

 もし霊的力に満ちた人が、困難な状況のもとで極度の苦しみに遭い、失望落胆して生きがいを全く見失ってしまったとしても、これは不思議でも新しいことでもないのである。そうした人々はみな、最大の預言者の一人が、激怒する女の怒りを避けて命からがら逃げ出したことを思い出すとよい。……

 自分たちの生命のエネルギーを自己犠牲的働きのために使い尽くしながらも、落胆と疑惑に打ちひしがれそうになる者は、エリヤの経験から勇気を得るとよい。 ……

 サタンが最も激烈な攻撃をしてくるのは、魂が最も弱っている時である。……かんばつと飢饉の年月の間主に信頼しつづけ、恐れることなくアハブの前に立ち、カルメル山上におけるあの試練の日に、イスラエル全国民の前に真の神のただ一人の証人として立った彼が、疲れ果てた時には死の恐怖に襲われて、彼の神に対する信仰を失ってしまった。……

 ……われわれも疑惑に襲われ、窮地に陥り、貧苦に悩むとき、サタンはわれわれの主に対する確信を動揺させようとするのである。……

 しかし神は理解し、なお憐れみ、愛されるのである。神は心の動機と目的とをお読みになる。万事が暗澹としている時に、忍耐強く待ち信頼することは、神の働きの指導者たちが学ばなければならない教訓である。神は逆境の中にある彼らをお見捨てにならない。自分の無価値なことを知って全く神に寄り頼む魂ほど、一見無力に見えるが、真にこれほどに打ち勝つことができないものはほかにないのである。

 試練の時に神に信頼することを改めて学ぶというエリヤの経験の教訓は、大きな責任の地位にある人々のためだけではない。エリヤの力であられたお方は、どんなに弱い者であっても、苦闘する神のすべての子供を支える力を持っておられる。神はすべての者に忠誠をお求めになり、すべての者に必要な力をお授けになるのである。(国と指導者上巻141-143)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戦いは神のもの

「われわれの神よ、あなたは彼らをさばかれないのですか。われわれはこのように攻めて来る大軍に当る力がなく、またいかになすべきかを知りません。ただ、あなたを仰ぎ望むのみです。」(歴代志下20:12)

 

 ヨシャパテの治世の晩年においてユダ王国は敵軍の侵略を受け、地の住民はそれを前にして震えおののいた。……

 ヨシャパテは勇猛果敢な人であった。彼は永年にわたって、軍隊と要害の町々を強化してきた。彼はどんな敵にも対応する準備が整っていた。しかし彼はこの危機において、肉の腕に頼らなかった。彼は訓練された軍隊や城壁をめぐらした町々ではなくて、イスラエルの神に対する生きた信仰によって諸国民の前で、ユダを辱めようとして力を誇示するこれらの異教徒に勝とうと望んだのである。

 「そこでヨシャパテは恐れ、主に顔を向けて助けを求め、ユダ全国に断食をふれさせた。それでユダはこぞって集まり、主の助けを求めた。すなわちユダのすべての町から人々が来て主を求めた」。

 ヨシャパテは人々の前で、神殿の庭に立って心を注ぎ出して祈り、イスラエルの無力さを告白して神の約束を願い求めた。

 ヨシャパテは確信をもって、「ただあなたを仰ぎ望むのみです」と言うことができた。彼はむかし神の選民を全滅から救うために度々介入された神に信頼するように、永年にわたって人々を教えてきた。そして今、王国が危機にひんしたときに、ヨシャパテはただひとりで立ったのではなかった。「ユダの人々はその幼な子、その妻、および子供たちと共に皆主の前に立っていた」(歴代志下20:13)。彼らは一つになって断食して祈った。彼らは一つになって、主が彼らの敵を混乱させ、主のみ名があがめられるように願い求めたのである。 ……

 神はこの危機においてユダの避け所であられたが、今日も神の民の避け所であられる。われわれはもろもろの君たちに頼ったり、人間を神の位置に立てたりしてはならないのである。われわれは、人間は倒れ、誤りを犯すものであることと、全能の神がわれわれの力強い防御のとりでであることを忘れてはならない。あらゆる危機において、戦いは神のものであると思わなければならない。神の資源は無限である。そしていかにも不可能と思われる事態は、それだけ勝利を大いなるものにするのである。(国と指導者上巻164-169)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戦いの歌

「彼はまた民と相談して人々を任命し、主に対する聖潔の美を賛美させ、軍勢の前に進ませ、主に向かって歌をうたい、かつさんびさせ、『主に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない』と言わせた。」(歴代志下20:21英語訳)

 

 歌を歌って主を賛美し、イスラエルの神をあがめながら敵軍に向かっていくというのは、奇妙な方法であった。これは彼らの戦いの歌であった。彼らは聖なる飾りを身に着けていた。もしわれわれが、今もっと神を賛美するならば、希望と勇気と信仰が増しつづけることであろう。そしてこれは、今日真理を擁護して立っている勇敢な兵士たちを奮起させるのではなかろうか。(国と指導者上巻168)

 彼らは勝利を求めて神を賛美した。そして四日後に敵の分捕り品を積み上げ、勝利のゆえに賛美の歌を歌いつつ、軍勢はエルサレムに戻ってきた。(神の息子、娘たち7月11日)

 わたしたちが神の憐れみと慈愛について、より深い感謝の心を持つ時、つぶやく代りにこのお方を讃美していることであろう。主の愛に満ちた見守りについて、良い羊飼いである方の優しいあわれみについて語ることであろう。心から出る言葉は利己的なつぶやきや愚痴ではなくなる。透き通った流れのような讃美が、真に神を信じる者たちから出てくるのである。

 人生の旅路において霊的歌声をあげようではないか。……わたしたちは神のみ言葉を研究し、瞑想と祈りをする必要がある。そうすればわたしたちは天にある宮の奥殿をはっきり と見る霊的視力を持ち、み座の周りにいる天の聖歌隊によって歌われる感謝のしらべを捕えるのである。シオンが起きて光を放つとき、その光は最もよく輝きわたり、讃美と感謝の歌が聖徒たちの集会の中で聞こえる。ささいな失望や困難は忘れ去られるのである。

 主はわたしたちの助け手であられる。……神に信頼して徒労に終った者はいない。このお方は、ご自分に寄り頼む者たちを決して失望させられない。主がわたしたちに望んでおられる働きを、イエスの足跡をたどりつつ行いさえすれば、わたしたちの心は聖なる立琴となり、そのすべての弦は世の罪を取り除くために神が送られたお方に向かって讃美と感謝を発するのである。(同上7月10日)

 

神との契約

「ダビデの子ソロモンはその国に自分の地位を確立した。その神、主が共にいまして彼を非常に大いなる者にされた。」(歴代志下1:1)

 

 ソロモンの治世の初期の真の栄光は、卓越した知恵、驚くばかりの富、また、彼の広範囲に及んだ権力と名声にあったのではなかった。それは、彼が神の賜物を賢明に用いることにより、イスラエルの神の名をたたえたことにあったのである。(国と指導者上巻9)

 高貴な身分に生まれて成人し、神に愛されたソロモンは、繁栄と栄誉を約束された統治の位についた。諸国の民は、神が知恵をお与えになったソロモンの知識と洞察力に驚嘆した。しかし繁栄の誇りはやがて神からの離反をもたらした。神と交わる喜びから離れて、ソロモンは官能の快楽に満足をもとめた。(教育171,172)

 サタンは服従に伴う結果についてよく知っていたので、ソロモンの治世の初期、すなわち王の知恵と善行、その高潔さによる栄誉に満ちた年月の間、原則に対するソロモンの忠誠を気づかれないように蝕み、神から離れさせる感化をもたらそうと努力していた。(クリスチャンの教育の基礎498)

 ソロモンを偉大な責任ある地位につけたことで、主は間違いを犯されたのだろうか。否、神はこれらの責任を負えるように彼を準備なさり、服従を条件に、恩恵と力を約束なさった。……

 神は、主にある人々を責任ある立場に据えられる。それは彼ら自身の意向ではなく、主のみ旨を遂行するためである。主の統治の純粋な原則を大事にする限り、主は彼らを主の器として認知なさり、彼らを祝福し強められるであろう。原則に対して真実な者を、神は決して見捨てられない。(SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ホワ イト・コメント]3巻1128)

 主は、ソロモンが主の道に歩むなら、その祝福は彼と共にあり、知恵が与えられるであろうと約束された。しかし、ソロモンは神との契約を守り続けることに失敗した。彼は自分自身の心を駆り立てたことに従ったので、主は彼が自分自身の衝動に従うままにされた。

 今日一人一人に、担うべき役割、すなわち果たすべき義務とやり抜くべき責任がある。だれ一人として上からの知恵なしに、自分の役目を無事に果たすことはできない。(手紙104,1902年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小さな子供のように

「わたしは小さい子供…ゆえ、聞きわける心をしもべに与えて、あなたの民をさばかせ」(列王記上3:7,9)

 

 ギベオンにおける昔ながらの祭壇の前でささげた、ソロモンの祈りの言葉は、彼の謙遜と神に栄誉を帰そうとする熱意をあらわしている。もし神の助けがなければ、彼に負わせられた責任を果たすのに、彼は子供のように無力であることを自覚したのである。彼は識別力に欠けているのを知り、このような大きな必要感から知恵を神に願い求めたのである。彼の心の中には、他の者の上に自分を高めようとする利己的な知識に対する野望はなかった。彼は自分に負わせられた義務を忠実に果たすことを願った。そして、彼の治世を神に栄光を帰するものにすることができるような賜物を選んだ。ソロモンは、「わたしは小さい子供であって、出入りすることを知りません」と告白したときほどに富み豊かで、賢明で、真に偉大だったことはなかったのである。

 今日、責任を負わせられている者は、ソロモンの祈りが教える教訓を学ばなければならない。人の占める地位が高ければ高いほど、背負う責任も大きく、及ぼす影響の範囲も広くなり、神に依存する必要もそれだけ大きいのである。働きの召しとともに、同胞の前で用心深く歩くという召しをも受けていることを、常に記憶していなければならない。彼は学ぶ者の態度で神の前に立たなければならない。地位は品性を清くしない。人間が真に偉大なものとされるのは、神を尊び、神の命令に従うことによってである。(国と指導者上巻6)

 わたしたちの神への嘆願は、利己的な野心で満たされている心から出てきてはならない。神に栄光を帰するような賜物を選ぶように神は勧めておられない。神は地上のもののかわりに天上のものを選択するよう望んでおられる。神はわたしたちの前に、天の交わりの可能性と利点を解放される。神はわたしたちに最も高尚な目的を持つようにと励ましを与え、わたしたちの最高の宝を保証しておられる。この世のものへの執着が払い除けられる時、信じる者はどのような地上の災害によっても失われることのない天の宝と富を持つであろう。(SDAバイブル・コメ ンタリ[E・G・ホワイト・コメント]2巻1026)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

求める者のための知恵

「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」(ヤコブ1:5)

 

 われわれが仕える神は人をかたよりみないかたである。ソロモンに賢く物をわきまえる霊をお与えになったかたは、今日、神の子供たちに同じ祝福を喜んでお与えになる。「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」と神のみ言葉に書いてある。重荷を背負っている者が、富、権力、名声を求める以上に知恵を求めるならば、失望させられることはない。このような人は、ただ何をすべきかということだけでなく、どのような方法でそれを行って、神のみこころにかなうようにすべきかを、偉大な教師であられるイエから学ぶのである。

 神が識別力と才能をお与えになった人は、献身を維持している限り、高い地位に対する熱望をあらわしたり支配したり監督したりしようと努めない。人は必要に迫られて責任を負わなければならない。しかし、真の指導者は最高の地位を求めようとはせず、善悪をわきまえる理解力が与えられることを祈り求めるのである。

 指導者の立場に置かれた人々の道はやさしいものではない。しかし、彼らは困難に出会うごとに、それが祈りへの招きであることを認めなければならない。彼らは、あらゆる知恵の大いなる源であられる神のみこころを伺うことを怠ってはならない。彼らは、大いなる働き人であられる主の力と教えを受けて、悪の勢力に固く立ち向かい、善悪、正邪の区別をすることができるようになる。彼らは神がお認めになるものを認め、神のみ事業のなかに誤った原則がとりいれられることに極力反対するのである。

 神はソロモンが、富、栄誉、あるいは長寿などよりも願い求めた知恵を、彼にお与えになった。機敏な知力、寛大な力、慈悲深い精神に対する彼の祈願は聞き入れられた。(国と指導者上巻6-8)

 わたしたちがソロモンの祈りを注意深く研究すること、また主が喜んで彼に与えられた豊かな祝福を受ける条件についてよく考えるのは良いことである。

 神はソロモンの祈りをよしとされた。そして神は今日信仰とへりくだりのうちに、ご自分に助けを叫び求める人々の祈りを聞き入れられるのである。このお方は奉仕の準備のための熱心な祈りに必ず応えられる。「わたしはここにおる。あなたに何を与えようか」と言われるのである。……この祈りをするようにとソロモンの思いを導かれたお方は、今日ご自分の僕たちに、自分の必要のためにどのように祈るかをお教えになる。(SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ホワイト・コメント]2巻1026)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人々のうちで最も賢い者

「彼はまた草木のことを論じてレバノンの香柏から石がきにはえるヒソプにまで及んだ。彼はまた獣と鳥と這うものと魚のことを論じた。」(列王記上4:33)

 

 年月が経過して、ソロモンの名声が高まったときに、彼は、自分の知的、霊的能力を強めて、彼が受けた祝福を他の人々に分け与え続けることにより神に栄光を帰そうとした。彼に権力と知恵と悟りが与えられたのは、主の恵みによるものであること、また、これらの賜物が与えられたのは、彼が王の王の知識を世界に伝えるためであったことを他のだれよりもよく知っていたのは彼であった。

 ソロモンは博物学に特に興味を持ったが、彼の研究は学問の一分野だけにとどまらなかった。彼は生物、無生物を問わず、創造されたあらゆる事物を熱心に研究して、創造主について明快な考えを持った。彼は、自然界の威力、鉱物や動物界、あらゆる樹木、かん木、草花の中に、神の知恵の啓示を見た。そして、彼は学べば学ぶほど、神についての知識と神を愛する愛とが、絶え間なく増し加わるのであった。ソロモンの霊感による知恵は、賛美の歌や多くの格言となって表現された。……

 ソロモンの箴言には、清い生活と大きな努力の原則、敬虔な生活へ導く天来の原則、人生のあらゆる行動を支配すべき原則などの概略が述べられている。このような原則が広く一般に普及していたことと、すべての賛美と誉れを帰すべきおかたとして、神を認めたことが、ソロモンの初期の治世を、物質的繁栄と同時に道徳的に向上した時代としたのであった。……

 後年において、ソロモンがこれらの驚くべき知恵の言葉に聞き従ったならば、どんなによかったことであろう。「知恵ある者のくちびるは知識をひろめる」 (箴言15:7) と言った人、また、地上の王に帰そうとした賛美を王の王に献げるように地の王たちに教えたその当人が、「高ぶりとおごりと……偽りの言葉」によって、神にのみ帰すべき栄光を自分に帰すことをしなかったならば、どんなによかったことであろう。(国と指導者上巻9-11)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何という墓碑名であろう

「だから、『彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ』、と主は言われる。」(コリント第二6:17上句)

 

 ソロモンが高い地位にあって持っていたのと同様、限られた領域においてではあったが、はじめはすばらしく前途有望であった多くの人々が、結婚関係における取り消すことのできない誤った一歩を踏み込むことによって、自らの魂を失い、また他の人々を破滅に招く。ソロモンの妻たちが彼の心を神から偶像崇拝に向けたように、原則の深みを持たない軽薄な伴侶たちは、以前は高潔で真実だった人々の心を虚無や堕落した楽しみや全くの悪徳に向ける。(SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ホワイト・コメント]2巻1031)

 ソロモンは彼の知恵と模範の力が、彼の妻たちを偶像礼拝から真の神の礼拝に導き、こうして結ばれた同盟によって周囲の国々はイスラエルと親密になるだろうと、安易に考えていた。しかしそれはむなしい望みであった。ソロモンが、自分は異教徒の影響に十分抵抗できると誤って判断したことは、致命的であった。また、自分は神の律法を無視したとしても、他の人々はその聖なる戒めを尊んで従うだろうという希望を彼に抱かせた欺瞞もまた致命的なものであった。(国と指導者上巻29, 30)

 ソロモンの背教という悲しい記憶でもって、同じ断崖を避けるようにすべての魂に警告しよう。……かつては権力を行使し、神に愛されたと言われた偉大な王は、誤って与えられた愛情によって汚され、神から見捨てられた。地上の最も力強い支配者は、自分自身の激情を支配することに失敗した。ソロモンは「火の中をくぐって」救われたかもしれない。しかし、彼の悔い改めはこれらの高き所を取り除くことができなかったし、またこれらの石を取り壊すこともできなかった。そして、それらは彼の罪の証拠として残った。彼は神の性質にあずかるよりもむしろ強い欲望に支配されるのを選ぶことによって神のみ名を辱めた。ソロモンの生涯は、彼の例を使って自分自身の卑劣な行為を覆い隠そうとする人々に、何という遺産を残したことであろう。わたしたちは善悪どちらかの遺産を伝えなくてはならない。わたしたちの生涯と模範は祝福となるのであろうか。それとものろいになるのであろうか。人々はわたしたちの墓を見て、「彼はわたしを滅ぼした」と言うのであろうか。それとも「彼はわたしを救った」と言うのであろうか。(SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ホワイト・コメント]2巻1031)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

裏切り

「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」(マタイ6:24)

 

 ソロモンは気がつかないうちに徐々に背信していって、神から遠くさまよい出た。彼はほとんど無意識のうちに、徐々に神の導きと祝福に頼ることをやめて、自分自身の力に頼り始めた。……

 王は外面的虚飾において他の国々をしのごうという圧倒的野望に心を奪われて、品性の美と完全を得ることの必要を見過ごした。彼は世界の前で自己に栄光を帰すことを追求して、彼の名誉と誠実さとを犠牲にした。……彼の治世の初期に、人々を扱うときに彼が抱いていた、良心的で同情に満ちた精神は変わってしまった。彼は、最も賢明で最も恵み深かった王から、暴君に堕落してしまった。かつては、情け深く神を恐れる国民の指導者であった彼が、圧政的な独裁者になった。(国と指導者上巻30, 31)

 金銭を使用する人々はソロモンの生涯から教訓を学ばなければならない。資力のある人は、金銭や立場によって自分はすぐれた者だと思い、自分たちはそれほど厳密である必要はないと考える危険性がたえずある。しかし自己賞揚は泡沫にすぎない。自分に与えられたタラントを誤って用いることにより、ソロモンは神を捨てた。神が人間に繁栄をお与えになる時、彼らは自分自身の心にある想像の産物に従わないように気をつけねばならない。自分の信仰の単純さを危険にさらし、宗教体験の質を悪くさせないためである。(原稿40,1898年)この堕落 した人生の経歴からわたしたちが学ぶべき教訓は、絶えず神の勧告に頼る必要性であり、わたしたちの歩みの傾向に注意深く気をつけることと、神からわたしたちを引き離しそうなあらゆる習慣を改善することである。熱心な注意と用心深さと祈りが、信仰の単純さと純潔さを汚さないで守るのに必要であることをわたしたちに教えている。もし、わたしたちが最も高い道徳的卓越さにまで上り、宗教的品性の完全さに達したいと思うならば、友を作ることに、また生涯の伴侶を選ぶことにどれほど注意深くあるべきであろうか。(SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ホワイト・コ メント]2巻1031)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真の富

「主の祝福は人を富ませる、主はこれになんの悲しみをも加えない。」(箴言10:22)

 

 多くの人は、ソロモンの人気と豊かな繁栄をうらやんで、すべての人の中で彼が最も幸福に違いないと思っていた。しかし、人がうらやんだうわべだけの見せびらかしというあらゆる栄光の中で、彼は最も哀れに思われるべき人である。彼の絶望した顔の表情は暗い。彼が、道楽とあらゆる欲望の自己満足を通して幸福を求める浪費の生活を回顧する時、彼のまわりの栄華は、彼にはただ、苦痛や苦悩の思いというあざけりにしかならない。(SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ホワイト・コ メント]2巻1030)

 繁栄のただ中に危険が潜んでいた。いつの時代においても、富と栄誉には、謙遜と霊性を失う危険が伴っていたのである。運ぶのが難しいのは空のコップではない。注意深くバランスを保たなければならないのは、ふちまで満たされたコップである。苦難と逆境は悲しみをもたらすであろうが、霊的生活に最も危険なのは繁栄である。人間は常に神のみこころに従い、真理によって清められているのでなければ、繁栄の時に、生まれながら持っている自己信頼の傾向が必ず出てくるものである。

 人々が屈辱の谷間で神の教えを仰ぎ、一歩一歩神の導きに依存している時は、比較的安全である。しかし、高い塔の上のようなところに立ち、その地位のゆえに大きな知恵の持ち主であるかのように思われるときに、その人々は大いなる危険にさらされているのである。彼らは神に寄り頼まない限り必ず倒れるのである。

 誇りと野心を抱くときに、人は人生において必ず失敗する。というのは、誇りは必要を感じないので、天の無限の祝福に対して心を閉ざしてしまうからである。自分に栄光を帰することを求める者は、自分が神の恵みに欠けていることを見い出すであろう。われわれは神の力によって、真の富と最も満足感のある喜びを味わうことができるのである。すべてをキリストのために献げて、キリストのためにすべてをなす人は「主の祝福は人を富ませる。主はこれになんの悲しみをも加えない」という約束が成就されるのを知るであろう。(国と指導者上巻34,35)

 ソロモンのあらゆる罪と不謹慎は、知恵を求めて神に信頼することと、神のみ前に謙遜に歩むことを止めたところに、その原因を見出すことができる。(SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ホワイト・コメント]2巻1031)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

十字路で

「諸国の人々はソロモンの知恵を聞くためにきた。地の諸王はソロモンの知恵を聞いて人をつかわした。」(列王記上4:34)

 

 ソロモンの時代に、イスラエル王国は北はハマテから南はエジプト、また、地中海からユフラテ川にまで及んだ。この地域の中を昔ながらの通商路が数多く通っていた。そして、遠国からの隊商が絶えず行き来していた。こうして、ソロモンとその国民には、万国の人々に、王の王の品性をあらわし、彼らに神をあがめて従うように教える機会が与えられていた。……

 ソロモンはまわりの国々に対する燈台として立てられた国家の首長の地位におかれていたので、神と神の真理を知らない人々に光を照らすための大運動を組織して、それを指導するために、神から与えられた知恵と影響力とを用いなければならなかった。そうするときに、多くの人々が神の戒めに忠誠をつくすようになり、イスラエルは異教徒の悪習慣から保護され、栄光の主は大いにあがめられたことであろう。ところが、ソロモンはこの大いなる目的を見失ってしまった。彼は彼の領地を絶えず通過し、主要な町々に滞在する人々に光を照らすすばらしい機会を活用しなかったのである。

 神がソロモンとすべての真のイスラエル人の心に植えつけられた伝道の精神は、商業主義の精神に取って換わられた。多くの国々との接触によって与えられた機会は、自己の勢力を増強するために用いられた。……

 このわれわれの時代においては、あらゆる階級の男女と多くの国民とに接する機会が、イスラエルの時代よりはるかに多いのである。交通の路線はおびただしく増加しているのである。今日の至高者の使命者たちは、キリストのように世界のあらゆる所から来る群衆に接することができる、これらの主要道路に位置を占めていなければならない。彼らは主のように神の中に自己を隠して、福音の種をまき、他の人々に聖書の尊い真理を示さなければならない。それらは、人々の思いと心の中に根をおろし、芽生えて永遠の命に至るのである。(国と指導者上巻 46, 48)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気づくのが遅かった

「そこで、わたしはわが手のなしたすべての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。日の下には益となるものはないのである。」(伝道の書2:11)

 

 ソロモンは自分自身の苦い経験から、地上の事物のなかに人生の最高の幸福を求めることのむなしさを学んだ。彼は異教の神々の祭壇を建てたが、それらが与える心の平安の約束がどんなにむなしいものであるかを学んだに過ぎなかった。陰惨な心の悩みが、夜も昼も彼を苦しめた。彼にはもはや人生の喜びも心の平和もなく、将来は暗たんとしていた。

 しかし、主は彼を見捨てられなかった。主は譴責の言葉と厳しい刑罰によって、王の行為の罪深さを彼に自覚させようとなさった。……

 ついに主は、預言者によって、ソロモンに驚くべき言葉をお伝えになった。……わたしは必ずあなたから国を裂き離して、それをあなたの家来に与える。しかしあなたの父ダビデのために、あなたの世にはそれをしないが、あなたの子の手からそれを裂き離す。

 ソロモンは彼と彼の家に対するこの刑罰の宣告によって、夢からさめたかのように、本心に立ち返り、彼の愚行の真相を見始めた。彼は神の懲らしめを受け、精神も体も衰弱して疲れ果て、かわき切って、世の水がめから離れて、もう一度生命の源の水を飲むために帰ってきた。……

 彼は罪の有害な結果を逃れて、自分がたどったあらゆる放縦の道を忘れ去ることはできなかった。しかし、愚かな道を歩かないように、熱心に他の人々に説き勧めるのであった。……

 真に悔い改めた人は自分の過去の罪を忘れてしまわない。彼は平和が与えられるやいなや、自分の犯した誤りに関して無関心のままにすごすことはない。彼は自分の行為によって悪に引き入れられた人々のことを考え、できる限りのことをして、彼らを正しい道に引き返そうとするのである。彼が受けた光が明るければ明るいほど他の人々の足を正しい道に導きたいという願いもまた強力なのである。(国と指導者上巻51-53)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

体験の声

「若い者よ、あなたの若い時に楽しめ。あなたの若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心の道に歩み、あなたの目の見るところに歩め。ただし、そのすべての事のために、神はあなたをさばかれることを知れ。」(伝道の書11:9)

 

 ソロモンの人生から学ばされる教訓は、高齢者の人々、人生の坂道を下って西の空に没する太陽を眺める人々にとって特別な意味がある。わたしたちはイエス・キリストへの愛と信仰によって支配されていない若者の品性に欠点を見るであろう。善悪の間で迷っていて、ゆるぎない原則と破滅に向かって足を押しながす程の抵抗できない強い悪の流れとの間でゆれている若者を見る。しかし、成熟した人々には、良いことを期待する。彼らは確固とした品性を築き、原則にしっかりと立ち、もう堕落するような危険はないと考えるであろう。しかし、ソロモンの場合はわたしたちの前に警告の標識として立っている。あなたが人生の闘いを終えた老いた巡礼者になって立っていると思うとき、倒れないように気をつけなさい。ソロモンの場合、生まれつき大胆で、強固な性格が、何ともろく誘惑者の勢力下で風の中の葦のように揺れたことであろう!レバノンの古くて節の多い杉の木、バシャンの頑丈なカシの木は、何ともろく誘惑の強風の前に折れ曲がったことであろう!絶えず目を覚まして祈り、自分の魂を救うことを望むすべての人々のために、何という教訓であろう!内なる腐敗と外からの誘惑との闘いのために、しっかりとキリストの恵みを心に保つようにとの、何という警告であろう。 (SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ホワイト・コメント]2巻1031,1032)

 自分も回復できると思って、だれもあえて罪の中に入り込んではならない。罪にふけると、永遠に失われる危険以外には何もないのである。しかし堕落してしまった者でも、絶望してあきらめてしまう必要はない。かつては神に栄誉を授けられた老齢の人々が強い欲望という祭壇の上で美徳を犠牲にして自分たちの魂を汚してしまったかもしれない。しかしその人々が悔い改めて、罪を捨て去り、神に立ち帰るなら、まだ彼らに望みはあるのである。ソロモンの場合における気高いタラントの誤用はすべての者にとって警告とならなければならない。高潔だけが真に偉大なのである。(手紙8b,1891年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

清められていない技術

「こうしてヒラムはソロモン王のため、神の宮の工事を終えた。」(歴代志下4:11)

 

 選ばれた人々は荒野の幕屋建設にさいして、神から知恵と技術を特別に授けられた(出エジプト記35:30-35参照)。……この人々の子孫は自分たちの先祖に与えられた技術を大部分受け継いでいた。……しばらくの間この人々は謙遜で無我であったが、徐々にほとんど気づかないうちに神とその真理から離れた。彼らは自分たちの優秀な技術のゆえに、より高い賃金を求め始めた。ある場合には彼らの要求は認められたが、もっと頻繁により高い賃金を求める者たちは、周囲の国々に職を見つけた。……モリヤ山上の宮の建設を監督するすぐれた職人を、ソロモンはこれらの背教者たちに求めたのである。……

 職人の長のヒラムは、母方が、数百年前に神が幕屋の建設のために特別の知恵を与えられたアホリアブの子孫であった。このようにしてソロモンの職人仲間の長に聖別されていない人が置かれたが、彼はその並はずれた技量のゆえに多額の賃金を要求した。……貪欲の精神をもったこの人を雇うことによって有害な影響が作用し始め、奉仕のあらゆる部門に広がって、ソロモンの王国全体に及んだ。 ……浪費と堕落がいたる所に見られた。貧しい者は金持ちに圧迫され、神の奉仕に自己犠牲の精神がほとんどなくなってしまった。

 ここに今日の神の民にとって最も重要な教訓、すなわち多くの者がなかなか学ぼうとしない教訓がある。……働き人の長であられる方に従っていると公言する人々、神の共労者としてその奉仕に携わっている人々は、自分たちの働きに、完全であられる神が地上の幕屋建設に要求された厳密さと技術、機転と知恵を持ち込まなければならない。そしてキリストが地上で奉仕された時と同様に、今も神に対する献身と犠牲の精神が神に受け入れられる奉仕の最初の必要条件と見なされるべきである。(セレクテッド・メッセージ2巻174-176)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おりにかなった賛美

「あなたの神、主はほむべきかな。主はあなたを喜び、あなたをイスラエルの位にのぼらせられました。主は永久にイスラエルを愛せられるゆえ、あなたを王として公道と正義とを行わせられるのです。」(列王記上10:9)

 

 ソロモンよりも偉大なおかたが神殿を設計なさったのであった。そこに、神の知恵と栄光があらわされた。この事実を知らなかった人々は、その設計家であり、建設者であるソロモンを賞賛したのは当然のことであった。しかし、王はその構想または建設に関する栄誉を自分に帰することをしなかった。

 シバの女王が彼を訪問したときに、ソロモンはそのような状態であった。彼女は、彼の知恵と彼が建てた壮麗な神殿のことを聞いて、「難問をもってソロモンを試みようと」した。そして、彼の有名な工事を自分の目で見ようとした。彼女は多くの従者を連れ「香料と、たくさんの金と宝石とをらくだに負わせて」はるばるエルサレムにやって来た。「彼女はソロモンのもとにきて、その心にあることをことごとく彼に告げた」。彼女は自然界の神秘について彼と語った。そして、ソロモンは自然界の神、偉大な創造者、いと高き天に住んで、万物を支配しておられる神について、彼女に教えた。「ソロモンはそのすべての問に答えた。王が知らないで彼女に説明のできないことは一つもなかった」。

 「シバの女王はソロモンのもろもろの知恵と、ソロモンが建てた宮殿、……を見て、全く気を奪われてしまった」。「わたしが国であなたの事と、あなたの知恵について聞いたことは真実でありました。しかしわたしがきて、目に見るまでは、その言葉を信じませんでしたが、今見るとその半分もわたしは知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄はわたしが聞いたうわさにまさっています」……

 シバの女王は、その訪問の終わりごろになると、ソロモンから彼の知恵と繁栄の源について十分の教えを受けたので、人間を高めるのではなくて、「あなたの神、主はほむべきかな。主はあなたを喜び、あなたをイスラルの位にのぼらせられました。主は永久にイスラエルを愛せられるゆえ、あなたを王として公道と正義とを行わせられるのです」と叫ばずにはおられなかった。すべての国民にこのような印象が与えられることが、神のご計画であった。(国と指導者上巻41, 42)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

不名誉な記念碑

「わたしは日の下に一つの悪のあるのを見た。それはつかさたる者から出るあやまちに似ている。すなわち愚かなる者が高い地位に置かれ」ている。(伝道の書10:5, 6)

 

 ヨシヤ王の時代に神の宮の反対側に異なる光景が見られた。オリブ山の上にそびえ立つもの、ミルトスとオリブの木立ちの上に見えているものはその場にふさわしくない巨大な偶像であった。ヨシヤ王はこれらの偶像を壊すようにと命令し、それが実行されて、砕かれた破片がキデロンの谷にころがった。偶像の礼拝堂は廃墟のかたまりのまま放っておかれた。

 しかし多くの敬虔な礼拝者が、「どうしてエホシャパ峡谷の反対側にこのような建造物があって、不敬にも神の宮に向いあっているのか」と質問した。正直な答えがなされねばならない。すなわち建設者はかつて大いなる権力をふるっていた最大の王ソロモンであると。これらの偶像は、諸王の間で最も賢いと賞賛され、名誉を受けていた彼が、屈辱的な敗残者になったという証をしていた。

 かつては神と正義のために勇敢で真実であった彼の高貴な品性は堕落してしまった。利己的な放縦をするための浪費は彼をサタンの策略の道具とした。ソロモンの良心は無感覚になり、裁判官としての行為は公正と正義から暴政と圧迫へと変化した。……ソロモンは光と闇、キリストとベリアル、純潔と不純を合体させようとした。しかし異教徒を真理に改心させる代りに、異教の心情が彼の宗教と合体し、彼は背教者となった。(原稿47,1898年)

 ソロモンの背教の汚点は、何年も彼につきまとった。キリストの時代、宮の礼拝者たちは、彼らの反対側に、違反の山を見ることができた。彼らは、華美で壮麗な宮の建築者、すべての王たちの中で最も有名な王が、神から離れ異教の偶像のために祭壇を建築したこと、地上で最も力強い支配者が、自らの精神を支配し損なったことを思い出すことができるのであった。ソロモンは悔い改めた人として臨終の床についた。しかし彼の後悔と涙は、彼の神からの卑劣な離反の罪を、違反の山からぬぐい去ることはできなかった。荒廃した城壁と破壊された柱は、かつて地上の王座に君臨した最も偉大な王の背教に対して何千年もの間、 無言の証言をしたのである。(SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ホワイト・コメント]2巻1032,1033)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神の秘密

「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。」(使徒行伝1:7)

 

 エンドルの口寄せは、すべての事柄においてサタンの指示に従うという協定を結んでいたので、サタンは彼女のために不思議と奇跡を行い、もし彼女が、彼の悪魔的主権による支配に全く身を任せるならば、究極の秘密を彼女に示そうとした。彼女はこれをしたのであった。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]2巻1022)

 サタンはエンドルの女によって、サウルの運命を予告し、イスラエルの人々を陥れようとたくらんだ。サタンは彼らが、口寄せの女を信頼して、彼女に問うてくるようになることを望んだ。こうして、彼らは、神を彼らの助言者とせず、サタンの指導のもとに陥ってしまうのであった。心霊術が多くの人々を引きつける魅力を持っているのは、将来の幕を開いて神が隠されたものを、人間に示す力があると主張するからである。神は、われわれが知らなければならない将来の大事件を皆、み言葉の中に示しておられる。そして、あらゆる危険の中にあってわれわれの足を導く安全な道標をお与えになった。しかし、サタンは、神に対する人間の信頼を失わせ、この世において彼らが置かれた境遇に不満をいだかせる。また、神が知恵のうちに隠されたことを知ろうと思わせ、聖なるみ言葉の中に神が啓示されたことを軽べつするようにさせる。

 事態の明白な結果を知ることができなければ、落ちつかない人々が多くいる。彼らは、不安定に耐えられない。そして、忍耐しきれないで、神の救いを見るのを待とうとしない。彼らは、災いを恐れて、狂気のようになる。彼らは、反逆的精神をいだいて、啓示されていないことを知ろうと求めて、悲嘆にくれ、あちらこちらを奔走する。もし彼らが神に信頼して、目をさまして祈っているならば、彼らは神の慰めを得ることができるであろう彼らの心は、神との交わりによって、平安が与えられる。重荷を負うて苦労している者は、イエスのもとに行きさえすれば休みが与えられる。しかし、神が彼らの慰めのためにお定めになった方法を無視して、神が隠されたことを知ろうとして、ほかのところへ行くとすれば、彼らは、サウルと同じあやまちを犯し、それによって得るのは、ただ悪の知識だけである。(人類のあけぼの下巻371-373)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自殺

「誠実な者は、その正義によって、その道をまっすぐにせられ、悪しき者は、その悪によって倒れる。」(箴言11:5)

 

 サタンの指示に従うことにより、サウルは、清められていない能力でもって回避しようと努めていたまさにその結末へと自ら急いでいたのである。

 反逆の精神に満ちた王によって、主の勧告は何度も繰り返し無視され、主は彼が、自分自身の知恵という愚かさへと赴くままに任せられた。神の御霊の感化は、彼が自ら選び、ついに破滅へと至らせた悪の道に彼が向かうのを抑制するはずであった。神はすべての罪を憎まれるので、人が執拗に天の勧告をことごとく拒むとき、彼は敵の欺瞞の中に取り残されて、自らの欲情へと引きつけられ、そそのかされるのである。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]2巻1019)

 イスラエル初代の王は失格者であることを立証した。なぜなら、彼は自らの意志を神の意志の上に置いたからである。主は預言者サムエルを通して、サウルの行動方針は、イスラエルの王として極めて厳格な程に高潔でなければならないことを教えられた。それから神は、彼の統治を繁栄させ、祝福なさるおつもりであった。ところがサウルは、神への服従を第一に考え、天の原則に行動を支配させることを拒んだ。彼は不名誉と絶望の内に死んだ。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホ ワイト・コメント]2巻1017)

 シュネムの平原とギルボア山の山腹で、イスラエルの軍勢とペリシテ人の軍勢は、決死の戦闘に従事した。サウルは、エンドルのほら穴の恐るべき光景によって、絶望状態に陥っていたのであるが、王位と王国の擁護のために、必死で戦った。しかし、それはむだであった。「イスラエルの人々はペリシテびとの前から逃げ、多くの者は傷ついてギルボア山にたおれた」。王の勇敢な三人のむすこたちは、王のかたわらで倒れた。弓を射る者どもがサウルに迫った。彼は、彼の軍勢が回りで倒れ、王子たちが剣で殺されるのを見た。彼自身も負傷して、戦うことも逃げることもできなかった。逃亡は不可能であった。彼は、ペリシテ人に捕われまいとして、武器をとる者に言った。「つるぎを抜き、それをもってわたしを刺せ」。しかし、その人は主に油を注がれた者に手をふりあげることを拒んだので、サウルはつるぎをとり、その上に伏して自害した。こうして、イスラエルの最初の王は、自殺の罪を犯して死んだ。(人類のあけぼの下巻365)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

悲しむ友人

「ああ、勇士たちは倒れた。戦いの器はうせた。」(サムエル記下1:27)

 

 ダビデは、サウルを二度も自分の手の中に入れ、彼を殺すように勧められたけれども、イスラエルを支配するために神の命によって聖別された者に、手をふり上げることを拒んだのであった。……ダビデは、サウルの死を心から深く悲しんだ。それは、ダビデの気高い心の広さをあらわしていた。彼は、敵が倒れたことを喜ばなかった。彼がイスラエルの王座につく障害は除かれたけれども、彼はこれをうれしく思わなかった。サウルの不信と残酷さの記憶は、死によって消し去られて、気高い王者としての彼の記憶のほかは、何も心に浮かばなかった。サウルの名は、真実で無我の友情の持ち主であったヨナタンの名と結び合わされた。(人類のあけぼの下巻384,385)

 生まれながらにして王位の継承者であったヨナタンは、神のご命令によって自分が退けられたことを知りながら、競争者に対して友としての愛情と忠誠を示し、自ら生命の危険を冒してまでダビデの生命をかばい、父の勢力が衰えてゆく暗い時代にも父のそばからはなれず、ついには父と運命を共にしたのであった。ヨナタンの名は天にとどめられるとともに、地にあっては、無我の愛の存在と力を実証している。(教育177)

 ダビデが、彼の気持ちを表現した歌は、彼の国の宝となり、その後の各時代の神の民の宝となった。……

 ああ、勇士たちは戦いのさなかに倒れた。ヨナタンは、あなたの高き所で殺された。わが兄弟ヨナタンよ、あなたのためわたしは悲しむ。あなたはわたしにとって、いとも楽しい者であった。あなたがわたしを愛するのは世の常のようではなく、女の愛にもまさっていた。ああ、勇士たちは倒れた。戦いの器はうせた。(人類のあけぼの下巻385, 386)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウザの最後の過ち

「彼らがナコンの打ち場にきた時、ウザは神の箱に手を伸べて、それを押えた。牛がつまずいたからである。すると主はウザに向かって怒りを発し、彼が手を箱に伸べたので、彼をその場で撃たれた。彼は神の箱のかたわらで死んだ。」(サムエル記下6:6, 7)

 

 ウザの死は、明白な命令にそむいた罰であった。主は、モーセによって、箱を運ぶときの特別の指示を与えておられた。アロンの子孫の祭司以外は、それに触れることも、おおいをかけずに見ることさえできなかった。……

 祭司が箱におおいをかけ、そのあとでコハテ人が、箱の両側の環に通して固定されたさおを持って持ち上げなければならなかった。モーセは、幕屋の幕と板と柱の責任を負わせられたゲルションの子たちとメラリの子たちには、ゆだねられたものを運ぶために牛車を与えた。「しかし、コハテの子たちには、何をも渡さなかった。彼らの務は聖なる物を、肩にになって運ぶことであったからである」 (民数記7:9)。したがって、彼らがキリアテ・ヤリムから箱を移動した場合、主の指示に対して直接、許すことのできない違反を犯したのであった。……

 ペリシテ人は、神の律法を知らなかったから、箱をイスラエルに返すときに車に載せた。そして、主は、彼らの努力をお受け入れになった。しかし、イスラエル人は、彼らの手中に、これらすべてのことに関する神のみむねを明らかにしるしたものを持っていた。そして、これらの指示をなおざりにすることは、神のみ栄えを汚すことであった。ウザは僣越というさらに大きな罪を犯した。彼は神の律法を犯して、その神聖さを自覚しなくなり、告白しない罪をいだいたまま、神が禁じておられるにもかかわらず、神の臨在の象徴にあえて触れようとした。神は、部分的服従や神の戒めをあいまいに取り扱うことをお受け入れにならない。神は、ウザを罰することによって、神の要求に厳密な注意を払う重要性を、全イスラエルに印象づけようとされた。こうして、ひとりの人間の死によって、人々が悔い改めるようになり、幾千の人々を罰する必要がないようにするのであった。(人類のあけぼの下巻400,  401)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サタンのひそかな働き

「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」(エペソ6:12)

 

 聖書には、人間を賞賛する言葉がほとんどない。この世に生存した最も善良な人々の美徳でさえ、聖書にあまり書かれていないのである。この沈黙は無意味ではない。そこに教訓が隠されている。人間が持っている美点は皆、神の賜物である。彼らの善行は、キリストを通して与えられた神の恵みによって行なわれた。彼らは、すべてを神に負うているのであるから、彼らがどんな人間で、どんな行為をしようとその誉れは神にだけ帰すべきである。彼らは、ただ、み手の中の器に過ぎないのである。そればかりではない。聖書歴史のすべての教訓が教えているように、人間を賞賛し、高めることは危険である。なぜなら、人間が、神に全く依存していることを見失い、自分自身の力にたよるようになると、彼は必ず堕落するからである。……

 われわれは、自分の力で戦い続けることはできない。そして、心を神からそらし、自己高揚と自己依存に陥れるものは何であっても、必ず、われわれを敗北させるものである。聖書は、人間の能力にたよらず、神の力にたよることを奨励するのをその主題としている。ダビデを堕落させたのは、自己過信と自己高揚の精神であった。甘言、陰険な権力の誘惑、ぜいたくなどが、彼に影響を与えずにはおかなかった。回りの国々との交際もまた悪影響を及ぼした。東方の諸王の間の習慣に従って、国民の間では許されない犯罪が王には許された。王には、国民と同様の自制をする義務がなかったのである。こうしたことは、すべて、罪が、はなはだしく憎むべきものであることを、ダビデに感じさせなくしたのである。そして、彼は心を低くして主の力にたよる代わりに、自分自身の知恵と力にたよりはじめた。

 サタンは、唯一の力の源である神から魂を引き離すとすぐに、人間の肉の心の汚れた欲望を起こさせようとする。敵の働きは、急激ではない。それは、最初は、突然でも驚くほどのものでもない。それは、原則の城塞をひそかにくつがえすことである。(人類のあけぼの下巻414, 415)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一つの罪は他の罪へと導く

「ダビデがしたこの事は主を怒らせた。」(サムエル記下11:27)

 

 落ちついて、自己の安全が確保されたときに、彼は神を手放した。ダビデはサタンに敗れて、魂に罪の汚点をつけた。国家の指導者とし神の命を受け、神の律法を施行するために神に選ばれた彼自身が、その戒めをふみにじった。悪人を恐れさせるべきであった者が、自分自身の行為によって、悪を勧めたのである。

 ダビデは若いころ、危険のまっただ中にあったとき、自分の潔白を意識して、自分のことを神にゆだねることができた。主の手は、彼の足をつまずかせようとしておかれた無数のわなの間を導いて、無事に通らせてくださった。しかし、彼は、今、罪を犯しても悔い改めず、天の神の助けも導きも求めずに、罪のために陥った危険から、自分で脱出しようとしたのである。王を罪に陥れた美しい女バテシバは、ダビデの最も忠勇な将軍のひとりヘテ人ウリヤの妻であった。もし、犯罪が明るみに出たら、どういうことになるかは、だれにも予測できなかった。……

 罪を隠そうとするあらゆる努力は、すべてむだに終わった。……彼は絶望のあまり、急いで姦淫に殺人の罪を加えたのである。サウルの滅びを企てた者が、ダビデをも滅ぼそうとしていた。誘惑は異なっていたが、それらは、ともに神の律法を犯させるものであった。……

 ウリヤは、自分自身の死の命令書を持って送り出された。彼によって王からヨアブへ送られた手紙は、こう命じていた。「あなたがたはウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼の後から退いて、彼を討死させよ。ヨアブは、すでに非道な殺人の罪を一つ犯していたので、王の命令に従うことをためらわなかった。こうして、ウリヤはアンモン人の手によって倒れた。……

 自分の生命が危機にひんしたときさえ、主が油を注がれた者に手を下さなかったほどに敏感な良心と強い栄誉尊重の心をもっていたダビデが、彼の最も忠実で勇敢な軍人のひとりに対して悪事を行なって殺害し、罪によって手にしたものを、ひそかに楽しもうとするまでに堕落したのである。ああ、精金はなんと曇ったことであろう。最も純粋な金は、なんと変化したことであろう。(人類のあけぼの下巻415-418)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

譴責された王

「ナタンはダビデに言った、『あなたがその人です』。」(サムエル記下12:7)

 

 時の経過につれて、バテシバに対して行なったダビデの罪が明るみに出て、彼がウリヤの死を計画したのではないかという疑惑が起こった。主のみ栄えが汚された。

 主は、ダビデを恵み、高められた。ところがダビデの罪は、神の品性を誤表し「神のみ名をはずかしめた。それは、イスラエルにおける敬神の念の標準を下げ、多くの人々の心の中の罪に対する嫌悪感を低下させるものであった。他方では、神を愛することも恐れることもしない人々は、それによって、大胆に罪を犯すのであった。

 預言者ナタンが、ダビデに譴責の言葉を伝えるように命じられた。それは、恐ろしくきびしい言葉であった。たいていの王は、このような譴責を受ければ、譴責者を死刑に処することは確実であろう。ナタンは、神の言葉をひるまず伝えたが、それを天から授かった知恵によって語り、王の共感を呼び、良心を覚醒させ、彼自身のくちびるから、自分に死の宣告を下させたのである。……

 悪人は、ダビデのように、人間から犯罪を隠そうとする。彼らは、悪い行為を人間の目と記憶から永久に葬り去ろうとする。しかし、「すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない」。(人類のあけぼの下巻418-420)

 ダビデ王に与えられた預言者ナタンのたとえ話は、すべての人が研究すべきである。……彼が放縦と戒めの違反という道を進んでいる時に、貧しい人から一頭の小羊を奪った富める人のたとえ話が指示された。ところが王は、罪の衣に完全に包まれていたので、彼がその罪人であることを悟らなかった。彼はわなに陥って……自分では別の人だろうと想像していた者に、死の宣告を下した。……

 ダビデにとって、これは最も辛い経験であったが、最も有益でもあった。しかし、彼に自分自身の姿をはっきりと 認めさせた鏡を、ナタンが彼の面前に掲げなければ、彼は忌まわしい罪を自覚することなく、破滅に至ったことだろう。罪の自覚が彼の魂の救いとなった。彼は、主が彼をご覧になった角度から自分自身を見た。そして生きている限り、自らの罪を悔いたのであった。(SDAバイブルコメンタ リー[E・G・ホワイト・コメント]2巻1023)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

罪の道は大変な道である

「あなたはこの行いによって、おおいに主の敵に主を冒涜する機会を与えたので」(サムエル記下12:14欽定訳)

 

 各時代を通じて無神論者たちは、この暗いしみをもつダビデの品性を指摘し、勝ち誇るとともにちょう笑して「、これが神の心にかなった人だ」と叫んだ。こうして、宗教が恥辱をこうむり、神と神の言葉が冒涜された。人々は、神を信じようとせず、多くの者は、敬虔なよそおいの陰で大胆に罪を犯すようになったのである。

 しかし、ダビテの生涯は、罪を犯すことを勧めてはいない。彼が、神のみこころにかなった人だと言われたのは、彼が神の指示に従って歩んでいたときのことであった。彼が罪を犯したときに、悔い改めて、主に立ち返るまでは、そうではなかったのである。……

 ダビデは罪を悔い改めて許され、主に受け入れられたのではあったが、彼は、自分自身がまいた種の痛ましい実を刈り取ったのである。……彼自身の家の中での彼の権威と、むすこたちに尊敬と服従を要求する彼の力とは弱まった。彼は、罪を責めるべきときにも、自己の罪悪感のために、沈黙を守った。これは、彼の腕を弱めて、彼の家の中で正義を行なうことを不可能にした。……

 ダビデの例を引用して、自己の罪のとがを軽減しようと試みるものは、不真実な者の道は滅びであることを聖書から学ばなければならない。彼らも、ダビデのように悪の道から立ち直っても、罪の結果はこの世においてさえ、苦く耐えがたいものであることを知るであろう。(人類のあけぼの下巻423, 424)

 人は人を傷つけることで罪に問われるのだが、最も大きな罪は彼が主に対して罪を犯したこと、そしてその例によって他の人に悪い影響を及ぼしたことである。まじめな神の子は、神のご要求をいささかも軽んじたりはしない。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]3巻1147)

 ダビデの生涯は、神に大いに祝福され、恵まれた者でさえも、自分は安全であると思ったり、目をさまして祈ることを怠ったりすべきでないことを警告するためのものであった。こうして、これは心を低くして、神が教えようとされた教訓を学ぼうと努める者たちに対する警告となったのである。(人類のあけぼの下巻424)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

表面的な美

「しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、わたしの頭を、もたげてくださるかたです。」(詩篇3:3)

 

 ダビデは、自分自身が神の律法を犯したことを、深く脳裏に刻まれていたために、道徳的まひ状態に陥ったものと思われる。彼は、罪を犯す以前は、勇敢で決断力に富んでいたのに、今は弱く、優柔不断になっていた。彼の人々に及ぼす影響も弱まった。そして、こうしたことは、すべて親不孝な王子の策動に有利であった。……

 王は、次第に人を避け、孤独を好むようになる一方においてアブサロムはなんとかして人心を獲得しようと努めた。……

 この気高い容貌の男は、毎日、多くの嘆願者たちが、苦情の解決を求めて群がる町の門に姿を現わした。アブサロムは、彼らの中に混じって、彼らの苦情を聞き、彼らの苦難に同情し、政府の無能を嘆いた。(人類のあけぼの下巻434, 435)

 彼の際立った美しさと人を魅きつける方法またうわべの親切によって、アブサロムは人々の心を奪った。彼は心に慈悲を持ってはおらず、野心的であり、その方針が示していたように、王国を得るために陰謀と恥ずべき行為に頼った。彼は父の愛と親切に対してその生命を取ることによって応じた。アブサロムはヘブロンで自分に付き従う人々によって王であると宣言され、自分の父親を彼らに追跡させた。(霊的賜物a89)

 ダビデは、恥辱と悲しみのうちに、エルサレムの門を出た。彼は、愛した王子の謀叛によって、王位と王宮と神の箱とから追われているのであった。(人類のあけぼの下巻437)

 神が見られるようには見ないで、人間の見地から物事を見る多くの者はダビデが不満を抱くことに対する言い訳として、何年も前の誠実な悔い改めによって現在の審判を逃れることができると考えるであろう。……ダビデはつぶやきを口にしない。彼が歌った中でも最も感銘を与える詩篇はオリブ山を泣きながら、はだしで登って行き、なおかつへりくだって無我と寛容と従順のうちに甘んじて従う精神を持っていた時のものであった。(手紙6, 1880年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

へりくだりのうちにある偉大さ

「わたしが暗やみの中にすわるとも、主はわが光となら主はわが訴えを取りあげ、わたしのためにさばきを行われるまで、わたしは主の怒りを負わなければならない。」(ミカ7:8, 9)

 

 ダビデは、激しく良心に責められ、恥じ入るばかりであった。彼の忠実な家来たちは、彼の突然の不運を不思議に思ったけれども、それは王にとって、何の不思議でもなかった。彼は、こうしたことの起こる予感がときどきあったのである。彼は、神が彼の罪を長く忍び、彼が当然受けるべき報いを延ばされたのを怪しんだのである。そして、今、急いで、悲しみのうちにはだしで、王衣の代わりに荒布をまとって町からのがれ、家来たちの嘆きの声が山々にこだましているときに、彼は、彼の愛する都のことを考えた。そして、そこは、彼が罪を犯した場所でもあったが、彼は、神の恵みと忍耐を思い起こして、希望が全然ないわけではないと考えるのであった。……

 ダビデが堕落したことを引用して、自分の罪の言い訳をする悪者たちが多い。しかし、ダビデのような悔い改めとけんそんを表わすものがなんと少ないことであろう。彼が表わしたような忍耐と堅忍不抜の精神をもって譴責と刑罰とに耐える者は、なんと少ないことであろう。彼は、自分の罪を告白したのであった。そして、長年神の忠実なしもべとしての務めをしようと努めてきた。彼は、王国の建設のために活躍し、彼の治世のもとに王国は、これまでになかったほどの勢力を得て繁栄したのであった。彼は、神の家の建設のために豊富な資材を集めたのであ ったが、今、彼の一生の努力が水泡に帰してしまうのであろうか。長年の献身的努力の結果、天才と献身と政治的手腕をもってなしとげた業績などが、神の栄光もイスラエルの繁栄も考えない無鉄砲な反逆児の手に渡ってしまわねばならぬのであろうか。こうした大きな苦難の中で、ダビデが神に向かってつぶやいても、当然のことのように思われる。

 しかし、ダビデは彼の苦難の原因が、自分の罪にあることを認めた。……主は、ダビデをお捨てにならなかった。ダビデは、残酷きわまる取り扱いとちょう笑の中で、けんそん、無我、寛大、服従を示したのである。この経験は、彼の一生の経験の中で、最も高貴なものの一つであった。イスラエルの王が、一見、屈辱のどん底に沈んだこのときほど、彼が天の神の前に偉大であったことはなかった。(人類のあけぼの下巻442-444)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

愚かな知者

「主がアブサロムに災を下そうとして、アヒトペルの良い計りごとを破ることを定められたからである。」(サムエル記下17:14)

 

 アヒトペルは、まず、自己の安全を確保する計画が成功を収めたので、すぐにダビデに対抗して行動する必要をアブサロムに勧告した。……この計画は、王の議官たちに承認された。もし、この通りに行なわれたならば、主がダビテを助けるために直接介入なさらないかぎり、彼は殺されてしまったことであろう。しかし、名声高いアヒトペル以上に知恵のあるおかたが、事件を導いておられた。……

 ホシャイは、会議に呼ばれていなかった。彼は、スパイだと疑われてはいけないから、求められもしないのに顔を出すことをしなかった。しかし、父の議官の判断を尊重していたアブサロムは、会議のあとでアヒトペルの計画を彼に話した。ホシャイは、その提案が実行されるならば、ダビデは敗北してしまうことを 認めた。それで彼は言った。「『このたびアヒトペルが授けた計りごとは良くあり ません』……ホシャイは、彼の虚栄と利己心と誇示愛好心に訴える計画を提案した。……「アブサロムとイスラエルの人々はみな、『アルキびとホシャイの計りごとは、アヒトペルの計りごとよりもよい』と言った」 (サムエル記下17:14 ) 。しかし、これに欺かれないものが、ひとりいた。彼は、アブサロムのこの計画が致命的誤りで、ついにどうなるかをはっきりと予想した。アヒトペルは、反逆の企てが失敗に終わったのを知った。そして彼は、王子の運命がどうなろうと、王子に最大の犯罪を犯すようにそそのかした議官には、助かる望みがないことを悟った。アヒトペルは、アブサロムに反逆を勧めたのであった。彼は、王子に最も憎むべき罪を犯して、父をはずかしめるように勧めたのであった。彼は、ダビデを殺すように助言して、その計画を実行しようとしていた。彼は、自分自身が王と和解する最後の可能性を断ち切ったのであった。ところが、今、アブサロムさえ、彼を捨てて他の者を選んだのであった。アヒトペルは、しっとと怒りと絶望のうちに、「立って自分の町に行き、その家に帰った。そして家の人に遺言してみずからくびれて死」んだ (同17:23)。豊かな才能に恵まれていながら、神の勧告に従わなかった者の知恵は、こうした結果に終わったのである。(人類のあけぼの下巻446~448)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

石の記念碑

「人々はアブサロムを取って、森の中の大きな穴に投げいれ、その上にひじょうに大きい石塚を積み上げた。」(サムエル記下18:17)

 

 ダビデと彼の一団、すなわち、軍人たちや政治家たち、老人も青年も、女子も小さい子供たちも、皆、暗い夜のうちに深い急流を渡った。……

 ホシャイの勧告は、ダビデに逃亡の機会を与えて、その目的を達した。しかし、向こう見ずで血気にはやった王子を長くとめておくことはできなかった。間もなく、彼は、父のあとを追った。……

 戦場は、ヨルダン川の近くの森であった。アブサロムの大軍も、ここでは、ただ邪魔になるだけであった。この訓練のない軍隊は、森の茂みや沼地で混乱し、統制がとれなくなった。……アブサロムは、戦いに敗れたのを知って逃げようとしたところ、彼の頭が茂った木の枝にひっかかってラバは彼の下を通りぬけて行ってしまった。彼は宙づりになってどうすることもできず、敵のいいえじきになった。ひとりの兵隊が、こういう状態の彼を見つけたが、王を悲しませることを恐れて、王子に害を加えず、彼の見たことをヨアブに報告した。ヨアブは、なんのためらいも感じなかった。彼は、アブサロムを助け、二度もダビデとの和解を成立させたのであったが、彼の信頼は、無暴にも裏切られてしまった。ヨアブの仲介によって得た有利な地位がアブサロムになかったならば、この恐ろしい反逆は起こり得なかったのである。今ヨアブは、こうしたすべての災いの張本人を一撃のもとに倒すことができるのであった。……「そこで、ヨアブは……手に三筋の投げやりを取り……アブサロムの心臓にこれを突き通した。……

 こうして、イスラエルの反逆の扇動者たちは倒れた。アヒトペルは自害していた。イスラエルが誇った美しい容貌の王子アブサロムは、若い盛りに倒されて、その死体は穴に投げ込まれ、石塚でおおわれて永遠の恥辱のしるしとなった。アブサロムは、生きていたころ、自分のために王の谷に高価な記念碑を建てたが、彼の墓の唯一の記念は、荒野の中の石塚であった。(人類のあけぼの下巻450453)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金銭よりも

「彼らがこのように真心からみずから進んで主にささげたので、民はそのみずから進んでささげたのを喜んだ。」(歴代志上29:9)

 

 ダビデは、その治世の最初から、主の神殿を建築することを彼の念願の一つにしていた。彼は、この計画を実行することが許されなかったけれども、そのために非常な熱心と誠意を示した。彼は、金、銀、しまめのう、色のついた石、大理石、貴重な材木など、高価な材料を多量に準備した。彼は、こうした貴重な材料を人の手にゆだねなければならなかった。神の臨在の象徴である箱のために、他の者が家を建てなければならなかった。王は、自分の最後の時が近いのを知って、イスラエルの長官たち、王国の各地からの代表者たちを集めて、この遺産を委託することにした。彼は、彼の遺言を彼らに伝えて、大いなる事業の完成のために、彼らの賛同と支持を得たいと望んだ。……

 「だれかきょう、主にその身をささげる者のように喜んでささげ物をするだろうか」と、多くのささげ物を持って、集会に集まった群衆に彼はたずねた。……

 群衆は、すぐにそれにこたえた。……

 王は、非常な関心をもって、神殿の建築と装飾のために豊富な資材を集めた。後年、神殿の庭に鳴り響くことになる荘厳な賛美歌を彼は作曲した。今、氏族の長たちやイスラエルの部族のつかさたちが、りっぱな態度で彼の訴えにこたえ、彼らの前にある重大な事業に献身したので、彼の心は、神にあって喜びに満たされた。……

 人間が神の豊かなものの中から受けるものは、すべて今なお神に属する。神が地上の価値ある美しいものとしてお与えになったものは、何であっても彼らを試みるために、人間に与えられる。それは、彼らの神に対する愛と神の恵みに対する感謝をはかるためのものである。それが富であれ、あるいは知性であれ、喜んでイエスの足もとに心からのささげ物としておかれるべきである。ささげる者は、ダビデとともに、「すべての物はあなたから出ます。われわれはあなたから受けて、あなたにささげたのです」と言わなければならない。(人類のあけぼの下巻461-466)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

恵みにみちて老いる

「わたしが年老いた時、わたしを見離さないでください。わたしが力衰えた時、わたしを見捨てないでください。」(詩篇71:9)

 

 ダビデは、年老いても見捨てないで下さいと、主に懇願した。なぜこのような祈りをしたのだろうか。彼は周囲の年老いた者たちが、年と共に増していく望ましくない性質のせいで、不幸であるのを見た。生来けちで貪欲であったとすると、彼らは年を取るほどつきあいにくくなるのであった。嫉妬深く、気難しく、短気であったとすると、年取るほどまた特にそうなるのであった。(SDAバイブルコメンタリー[E・ G・ホワイト・コメント]3巻1148)

 ダビデは、壮年期には神を畏れているように見えた王や貴族たちが、年老いた時に親友や親戚を嫉妬するのを見て悲しんだ。彼らは、友人が自分に関心を示すのは利己的な動機であるとたえず思っていた。彼らは、自分が信頼すべき人々に関して赤の他人の暗示や当てにならない忠告を聞きたがるのである。こういう人々の抑制のない嫉妬心は、時々皆が自分の間違った判断に同意しないからという理由で、炎となって燃えあがる。彼らのむさぼりは恐ろしいほどである。彼らはしばしば、自分自身の子供や親戚が、自分の地位を手に入れ、富を所有して、 自分に与えられていた尊敬を受けるために、自分が死ねばよいと願っていると考えた。そしてある者は自分自身の子供を殺すほどに自分の嫉妬心やむさぼりの感情に強く支配されたのである。

 ある者の生涯がその壮年期には正しかったのであるが年老いてきた時自制心を失っているように思えたことをダビデは記録している。サタンはそのような人々を不安にさせ、不満を抱かせつつ、彼らの思いに入り込み、また思いを導くのである。……

 ダビデは深く感動を受けた。彼は自分が老いねばならない時を先に見て嘆いた。彼は、神が自分を見放して、自分がその成り行きを知っている他の年老いた人々と同じように不幸になり、主の敵の非難を受けるがままになるのではないかと恐れた。この重荷を負って、ダビデは、「わたしが年老いた時、わたしを見離さないでください。わたしが力衰えた時、わたしを見捨てないでください」と熱心に祈るのである。(教会への証1巻422,423)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後の言葉

「これはダビデの最後の言葉である。」(サムエル記下23:1)

 

 記録に残っているダビデの「最後の言葉」 は歌である。それは、信頼の歌、高遠な原則と不滅の信仰の歌である。

 「エッサイの子ダビデの託宣、

 すなわち高く挙げられた人、

 ヤコブの神に油を注がれた人、

 イスラエルの良き歌びとの託宣。

 『主の霊はわたしによって語る、……

 「人を正しく治める者、

 神を恐れて、治める者は、朝の光のように、

 雲のない朝に、輝きでる太陽のように、

 地に若草を芽ばえさせる雨のように人に臨む」。

 まことに、わが家はそのように、神と共にあるではないか。それは、神が、よろず備わって確かなとこしえの契約をわたしと結ばれたからだ。

 どうして彼はわたしの救と願いを、皆なしとげられぬことがあろうか』」 (サムエル記下23:1-5 ) 。

 

 ダビデは、非常に堕落はしたが、深刻に悔い改めて、心をこめて愛し、信仰を堅く保った。彼は多くの罪をゆるされたので、多く愛した(ルカ7:47, 48参照)。

 ダビデの詩篇は、罪の自覚と自責の深淵から、最も高められた信仰と神との最も高められた交わりまでのあらゆる経験をうたっている。彼の生涯の記録は、罪がただ恥と災いだけをもたらすものであることを示している。しかし、神の愛とあわれみは、どんな深みにも達し、信仰は、悔い改める魂を引き上げて、神の子としての身にあずからせることを明らかにする。それは、神のみ言葉の中のすべての確証の中で、神の誠実と正義と神の契約のあわれみに関する最も強力なあかしの一つである。……

 ダビデと彼の家に与えられた約束は輝かしく、永遠のかなたを待望し、キリストにおいて完全に実現されるものであった。(人類のあけぼの下巻467-469)

 

真に悲しんではいない

「あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた。」(サムエル記上15:23)

 

 サウルは、預言者の告発に震えおののいてこれまで頑強に拒否していた罪を認めた。しかし、彼は、なお、罪を犯したのは、人々を恐れたからであると言って民を非難していた。

 イスラエルの王は、罪を悲しんだためではなくて、刑罰を恐れたためであった。 ……彼は、自分の権威を保ち、民の忠誠を保持することをまず第一に考えていた。 ……サムエルが去ろうとすると、王は、震えおののき、彼の上着をつかまえて引きもどそうとしたところ、それは裂けてしまった。そこで預言者は言った。「主はきょう、あなたからイスラエルの王国を裂き、もっと良いあなたの隣人に与えられた」。……

 サウルは、彼の高い地位に心がおごり、不信と不服従によって、神のみ栄えを汚した。彼は、最初王位に召されたときには、けんそんで自己の力にたよっていなかったが、成功するにつれて、自己過信に陥った。……犠牲のささげ物は、ただそれだけでは、神の前になんの価値もない。それは、犠牲をささげる者が、罪の悔い改めとキリストを信じる信仰を表わし、将来神の律法に従うことを約束することをあらわすためのものであった。しかし、悔い改めと信仰と服従心がないならば、ささげ物に価値はない。サウルは、神の命令に真正面から反逆して、神が滅ぼせと言われたものをささげ物にしようとしたときに、彼は、公然と神の権威を軽べつした。儀式は、天の神に対する侮辱であった。

 サウルの罪とその結果を眼前に見ながら、なんと多くの者が同じ道を歩いていることであろう。彼らは、主の要求の一部を信じて従うことを拒んでいるにもかかわらず、形式的な礼拝は熱心に続けている。こうした礼拝には、神の霊の応答がない。もし人々が、神の戒めの一つを故意に犯し続けているならば、彼らがどんなに熱心に宗教の儀式を守ったとしても、主は、それをお受けになることができない。(人類のあけぼの下巻303-307)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ほとんど正気を失う

「サムエルはサウルに言った、『あなたと一緒に帰りません。あなたが主の言葉を捨てたので、主もあなたを捨てて、イスラエルの王位から退けられたからです』。」(サムエル記上15:26)

 

 サウルはサムエルがそれ以上自分に指図しようとしないのを見て、自分がよこしまな針路を取ったがために、主が自分を拒まれたことを知って、自分の品性がその後いつも極端に採点されているように思えた。サウルの家来たちは……時々あえて彼に近づかなかった。それは彼が精神に異常があるように見え、暴力をふるい暴言を吐いたからである。サウルは度々悔恨の情がこみあげてくるように見えた。ふさぎ込んでは、何の危険もないときに恐れた。……彼はたえず不安にさいなまれ、憂鬱な気分になると邪魔をされないことを望んだ。そして時々誰も自分に近づくことを許さなかった。………彼は重臣の前でも民の面前でさえも狂気じみた勢いで自分自身に不利な預言的な言葉をくり返した。

 サウルのうちにあるこのような不思議なありさまを目のあたりに見た人々は、そのように心を取り乱した時に彼の心を落ち着かせることができるようにと音楽をサウルに勧めた。神のみ摂理のうちに、有能な音楽家としてダビデが見つかった。

 琴をかなでるダビデの巧みな調べは、サウルの悩む心を落ち着かせた。彼が、調べのうっとりさせる旋律を聞く時、その調べは彼の上に重くのしかかっている憂鬱を追い払い彼の興奮した心がもっと正常なまた幸福な状態になるという効果をもたらした。(霊的賜4巻一部78,79)

 サウルは、神の戒めへの服従を人生の規範とすることに失敗したために力を奪われた。人間にとって、その詳細にわたる要求に明示されている神の意志に反して、自らの意志を据えるのは、恐るべき事である。国の王座にあって人が受けることのできるすべての栄誉は、天への不忠行為を通して神の恩恵を失う埋め合わせとするには余りにも貧弱である。神の戒めに対する不服従は、結局災いと恥辱をもたらすことしかできない。ちょうど、神がサウルにイスラエルの統治を任命されたように、神はまさしくすべての人に働きをお与えになった。また、私たちに対する実用的かつ重要な教訓は、私たちが、悲しみではなく、喜びをもって生涯の記録に出会えるような方法で、任命された働きを成し遂げるべきだということである。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]2巻1018)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人の選びではなく神の選び

「さて主はサムエルに言われた、『角に油を満たし、それをもって行きなさい。あなたをベツレヘムびとエッサイのもとにつかわします。わたしはその子たちのうちにひとりの王を捜し得たからである』。」(サムエル記上16:1)

 

 犠牲をささげ終わって、一同が供え物のふるまいにあずかるに先立ち、サムエルは堂々たる外見をしたエッサイのむすこたちを預言者の目で見始めた。最年長のエリアブは、背の高さといい美しさといい、他のだれよりもサウルに似ていた。彼の顔かたちとよく発達した体格は預言者の注目をひいた。彼の貴公子のような姿を見たサムエルは、「この人こそ、神がサウルの後継者として選ばれた人だ」と思った。……ところが主は、外観を見られなかった。エリアブは、主をおそれなかった。もしも彼が王位に召されたならば、高慢で苛酷な支配者になったことで あろう。

 顔かたちが美しいからといって、神によく思われることはできない。品性と行為にあらわれる知恵と美徳が、人間の真の美を表現する。内面の価値と心の卓越性とが、万軍の主に受け入れられるかいなかを決定するものである。われわれは、自己、または、他人を評価するに当たって、この事実を深く感じなければならない。顔の美しさや姿の気高さによる評価が当てにならないことを、サムエルの失敗から学ばなければならない。(人類のあけぼの下巻311, 312)

 サムエルがえらぼうとした兄たちは、神がイスラエルの王として必要と思われる資格をそなえていなかった。高慢で、自己中心で、自信に満ちた彼らは退けられ、彼らから軽くみなされていた者、青年らしい単純さと誠実心をもった者、自分で自分をとるに足りないものに思っていた者、王国の責任を負うために神から教育される可能性のある者が選ばれた。同じように今日も、非常に有望視されている子供にあらわれている才能よりも、はるかにすぐれた才能が親からみすごされている多くの子供たちの中にひそんでいるのを、神はご覧になるのである。人生の機会については、だれがその大小を決定することができるだろう。社会の低い地位にありながら世人の祝福となる活動を始めて、王侯もうらやむような業績をなしとげた働き人がどんなに多いことであろう。(教育315)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

指導するための準備

「しし、あるいはくまがきて、群れの小羊を取った時、わたしはそのあとを追って、これを撃ち、小羊をその口から救いだしました。その獣がわたしにとびかかってきた時は、ひげをつかまえて、それを撃ち殺しました。」(サムエル記上17:34, 35)

 

 ダビデは、ますます神と人から愛された。彼は、主の道を歩くように教えられていたが、ここで、これまで以上にもっと神のみこころを行なおうと決心した。彼は、新しい主題について考えていた。彼は、王の宮廷に出入りして、王の責任がどんなものであるかを悟った。彼は、サウルの魂を悩ます誘惑を見いだし、イスラエルの最初の王の性格と行状の秘密を見抜いた。彼は、王の栄光が悲哀の暗雲におおわれるのを見、サウルの一族の家庭生活が、幸福なものでないことを知った。イスラエルの王として油を注がれたダビデにとって、こうしたことはすべて心配の種であった。しかし、彼は、物思いに沈み、心が苦しくなると、琴をかきならしてすべてのよい物の与え主であられる神のことを考えるのであった。こうして、彼の将来をかげらせるように思えた暗黒が消えるのであった。

 神は、ダビデに信頼という教訓を与えておられた。主は、モーセをその任務のために訓練されたように、エッサイのむすこに神の選民の指導者になる準備を与えておられた。彼は、自分の羊群の世話をしながら、偉大な牧者であられる主が、彼の牧場の群れを養われることを理解した。

 ダビデが、羊群を連れて放浪した寂しい山や険しい谷間には、野獣が横行していた。ヨルダンの茂みからライオンが出てきたり、山のほら穴から腹をへらしてどう猛になった熊が出てきて、羊群を攻撃することもよくあった。ダビデがそのころの習慣に従って持っていた武器は、石投げと羊飼いのつえだけであった。しかし、彼は、早くからゆだねられたものを保護する能力と勇気を持っていたことを示した。……

 ダビデは、こうした経験に会ってその心がためされ、勇気と堅忍不抜の精神と信仰とが強められていった。(人類のあけぼの下巻317, 318)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人間の誇示

「またこのペリシテびとは言った、『わたしは、きょうイスラエルの戦列にいどむ。ひとりを出して、わたしと戦わせよ』。」(サムエル記上17:10)

 

 イスラエルがペリシテ人に宣戦を布告したとき、エッサイの三人のむすこたちは、サウルの軍に加わった。しかし、ダビデは、家に残っていた。ところが、しばらくたって、ダビデはサウルの陣営をたずねた。彼は、父の命によって、兄たちのところへ伝言と贈り物を持っていき、彼らが安全で元気かどうかを見とどけてくることになった。……ダビテが軍隊に近づくと、今にも戦いが始まるような騒がしい物音がした。

 ペリシテ人の勇士ゴリアテが現われ、無礼な言葉でイスラエルに戦いをいどみ、彼と一騎打ちをする者を出せと言った。……

 イスラエルの軍勢は、四十日間もペリシテの巨人のごう慢な挑戦に震えていた。彼らは、身のたけが六キュビト半 (約三メートル) もある巨大な姿を見ておじけづいた。彼は頭に青銅のかぶとをかぶり、身には重さ五千シケルのよろいを着ていた。また足には青銅のすね当てを着けていた。このよろいは、青銅の板をうろこのように重ねたもので、どんなやりや矢も通さないように細かく結び合わされていた。巨人は、肩には青銅の投げやりを背負っていた。「手に持っているやりの柄は、機の巻棒のようであり、やりの穂の鉄は六百シケルであった。彼の前には、 盾を執る者が進んだ」。(人類のあけぼの下巻318-320)

 イスラエル人はゴリアテに戦いを挑まなかったが、ゴリアテは神と神の民に対してうぬぼれて誇った。戦いをいどんだり誇示したり暴言を吐くことは真理の敵から来るのであり、この人々はゴリアテのように行動する。しかしこの精神は神が運命の定まった世界に最後の警告の使命を宣布するために送られる人々の内に少しも見られてはならないものである。

 ゴリアテは自分の武器に頼っていた。彼は自分の強さであった堂々とした鎧かぶとを誇りながら、傲慢で残忍な誇示でイスラエル軍を恐れさせた。(教会への証3巻218,  219)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なめらかな5個の石

「ダビデはまた言った、『ししのつめ、くまのつめからわたしを救い出された主は、またわたしを、このペリシテびとの手から救い出されるでしょう』。サウルはダビデに言った、『行きなさい。どうぞ主があなたと共におられるように』。」(サムエル記上17:37)

 

 ダビデは、すべてのイスラエル人が恐怖に満ちているのを見た。そして、ペリ シテ人の挑戦を毎日耳にしながらも、だれひとり高慢なゴリアテを沈黙させる勇士が現われないのを知って、ダビデは奮起した。彼は、生ける神の誉れと神の民の名誉を保つ熱心に燃え立った。(人類のあけぼの下巻319)

 神と自分の民のために、ダビデは謙遜と熱心さをもってこの誇る者に相対することを申し出た。サウルは承諾して、自分自身の王の武具をダビデに着せた。しかしダビデはそれを身に着けるのに同意せず、王の武具を脱いだ。それに慣れていなかったからである。ダビデは神に慣れており、神を信頼して特別な勝利を得たのであった。サウルの武具を身に着けるということはダビデが羊の番をしていた少年にすぎないのに彼が戦士であるという印象を与えることになるのであった。彼はどのような信頼もサウルの武具に置くつもりはなかった。なぜなら彼の信頼はイスラエルの主なる神にあったからである。(教会への証3巻219)

 彼は、谷間からなめらかな石を五個選んで持っていた袋に入れ、手に石投げを持ってペリシテ人に近づいた。巨人は、イスラエルの最も強い勇士と対戦することを期待して、大またに進んできた。盾を執る者が彼の前に進んだ。彼に対抗することができる者は、だれもいないように思われた。彼が、ダビデに近づいてみると、ダビデはまだ若々しい少年にすぎないことがわかった。ダビデの顔は健康で血色がよく、彼のよろいを着ていないからだは、がっちりしていて身軽で有利にみえた。しかし、若々しいダビデの姿と、ペリシテ人の巨大な体格とは、著しい対照であった。

 ゴリアテは、驚きと怒りに満ちた。「つえを持って、向かってくるが、わたしは犬なのか」と彼は叫んだ 。そして、彼は、自分の知っているすべての神々の名によって、恐ろしいのろいの言葉をダビデに浴びせた。彼は、あざわらって叫んだ。「さあ、向かってこい。おまえの肉を、空の鳥、野の獣のえじきにしてくれよう」。 (人類のあけぼの下巻321,  322)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

確かな結果

「ダビデはペリシテびとに言った、『……わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう』。」(サムエル記上17:45)

 

 ゴリアテはダビデをののしり、自分の神々によって彼をのろった。ゴリアテは武具すらつけていない単なる若者が自分に対戦するのは自分の威厳に対する侮辱であると感じた。……ダビデは非常に劣ってみられてもいらいらせず、ゴリアテのおどかしにもおののかず、「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう」と答えた。(教会への証 3巻219)

 よく通る音楽のような声で語られたこの言葉は、空に鳴り響き、戦いに召集された幾千の者にはっきりと聞きとれた。ゴリアテの怒りはその極に達した。彼は激しい怒りに燃えて、彼のひたいを保護していたかぶとを押し上げて、敵に恨みを晴らそうと走りよった。エッサイのむすこは、敵に立ち向かう用意ができていた。「そのペリシテびとが立ちあがり、近づいてきてダビデに立ち向かったので、ダビデは急ぎ戦線に走り出て、ペリシテびとに立ち向かった。ダビデは手を袋に入れて、その中から一つの石を取り、石投げで投げて、ペリシテびとの額を撃ったので、石はその額に突き入り、うつむきに地に倒れた」。

 両軍の兵隊たちは驚いた。彼らは、ダビデが殺されるものと思い込んでいた。しかし、石が宙に飛んで、目標に的中したときに、彼らは、大きな勇士がちょうど突然に撃たれて目がくらんだように、震えおののいて両手を上げるのを見た。巨人は、かしの木が倒れるように揺れ動いて、地に伏した。ダビデは、一瞬もためらわなかった。彼は、ペリシテ人のうつぶしたからだの上に飛びかかり、そのゴリアテの重い剣を両手でつかんだ。巨人はついさきほど、そのつるぎで青年の首を切って、彼のからだを空の鳥に与えると豪語した。ところがそのつるぎが、今、高く振り上げられて、豪語した者の首は切り落とされ、そして、イスラエルの軍勢には、歓喜の叫びが起こったのである。(人類のあけぼの下巻322, 323)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だれも憂えない

「あなたがたは皆共にはかってわたしに敵した。……またあなたがたのうち、ひとりもわたしのために憂え…ない。」(サムエル記上22:8)

 

 悪霊がサウルに臨んでいた。イスラエルの王座から失脚させられるという厳粛なメッセージによって、自分の運命は決定されていると彼は感じた。神の明確な要求から離れたことが、その確実な結末をもたらそうとしていた。 彼は引き返すことも、悔い改めることも、また神のみ前に心を低くすることもしないで、敵のあらゆる提案を受けることに心を開いた。イスラエルの王座を継ぐようにと油を注がれた者に対し、ますます激しくなる妬みと憎悪をむき出しにすることの言い訳を見つけようと望んで、彼はあらゆる偽証人に耳を傾け、ダビデの品格に害を及ぼすものなら何であっても真に受けた。

 ダビデのかつての性質や習慣とどれほど矛盾し、かけ離れていようと、あらゆる噂が信用された。

 神の保護がダビデの上にあるというすべての証拠は、夢中になって決意を固めたサウルの一つの目的を募らせ深めるかのように思われた。彼自身のもくろみ遂行の失敗は、彼の捜索をうまく回避している逃亡者と、著しい対照をなした。しかしそれは、王の決意をますます容赦のない、断固としたものにしただけであった。彼はダビデに対する自らのもくろみを注意深く隠そうとせず、目的を果たすのにどのような手段が用いられるのかについても周到ではなかった。

 王が戦いを挑んでいたのは、彼に何の危害も加えなかった人間ダビデに対してではなく、天の王に対してであった。エホバに支配されない心をサタンが支配することを許されるとき、サタンは思いのままにその心を誘導し、このように彼の権力下にいる者は、ついに彼のもくろみを遂行するための有効な手先となるのである。神の御目的に対する罪の創始者の敵意は余りに痛烈で、彼の邪悪な力は余りにも恐ろしいものであるために、人々が神から離れると、サタンが彼らを感化し、彼らの心はますますその支配下に陥り、ついに彼らは神に対する恐れと人権の尊重を投げ捨てて、神とその民の大胆かつ公然たる敵になってしまうのである。……神はすべての罪を憎まれるので、人が執拗に天の勧告をことごとく拒むとき、彼は敵の欺瞞の中に取り残される。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメ ント]2巻1019)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ほら穴の中での歌

「わたしの魂はししの中にいます。そしてわたしは火を燃え立たせる者の中に横たわっています。」(詩篇57:4欽定訳)

 

 失望または落胆した魂に働きかけ、気落ちした者を励まし、衰えた者を強め、試練の中にある主のしもべたちに勇気と力を与える神の霊のお働きはなんと尊いことであろう。また、われわれの神は、なんという神であろう。神は、誤った者をやさしく扱い、われわれが逆境または、大きな悲しみに圧倒されているときにも忍耐深くあわれんでくださるのである。

 神の子供たちの失敗は、みな彼らの信仰の欠如が原因である。魂が暗黒におおわれ、光と指導が必要になったときには、見上げなければならない。暗黒のかなたに光がある。ダビデは、一瞬でも神に対する信頼を失ってはならなかった。彼は、神に信頼する十分の理由があった。彼は、主に油を注がれていた。そして、危険のさ中にあって、神の天使に守護されていたのである。彼は驚くべきことを行なう勇気が与えられていたのである。そして、彼が、自分の置かれた窮地から目を離して、神の力と威光とを考えさえしたならば、彼は死の陰のさなかにあっても、平安を保つことができたのである。……

 ダビデはユダの山の中で、サウルの追跡を避けていた。彼は、アドラムのほら穴へ逃げた。ここはわずかの人数で、大きな軍勢を防ぐことができた。「彼の兄弟たちと父の家の者は皆、これを聞き、その所に下って彼のもとにきた」。……

 アドラムのほら穴で、家族は同情と愛に結ばれた。エッサイのむすこは、楽の音に合わせて歌うのであった。「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう」。彼は、自分の兄弟たちに信用されないつらさも味わったことがあった。不和に代わって和合が実現したことをダビデは心から喜んだ。ダビデは、ここで詩篇第57篇を作った。(人類のあけぼの下巻335, 336)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

狂気の結末

「王は言った、『アヒメレクよ、あなたは必ず殺されなければならない。あなたの父の全家も同じである』。」(サムエル記上22:16)

 

 人間が神の勧告を離れるならば、正義と分別をもって行動する冷静さと知恵を保つことができなくなる。神の知恵の指導を仰がないで、人間の知恵に従うことほど恐ろしく、絶望的狂気はない。

 サウルは、アドラムのほら穴で、ダビデをわなにかけて捕えようとしていた。ところが王は、ダビデがこの隠れ家を去ったことを知って、非常に怒った。サウルは、どうしてダビデが逃亡したのかわからなかった。これは必ず陣営の中に裏切り者がいて、王の接近と計画とをエッサイのむすこに知らせたとしか考えられなかった。

 彼は、自分に対する謀叛が起こったにちがいないと家来たちに告げ、多くの報賞と名誉ある地位を約束して、彼の国民のうちでだれがダビデの味方になったかを聞き出そうとした。エドム人のドエグが通報者になった。彼は、野心と貪欲に動かされるとともに、彼の罪を責めた祭司に対する憎悪とから、ダビデがアヒメレクを訪問したことを知らせ、神の人に対してサウルを激怒させるような言い方をした。あの邪悪な舌の言葉は、地獄の火を燃やし、サウルの心の最も醜い感情をかき立てた。彼は怒り狂って、祭司の全家族に死刑を宣告した。そして、その恐ろしい命令は執行された。アヒメレクだけでなくて、彼の父の家族の者たち、「亜麻布のエポデを身につけている者八十五人」が王の命令のもとに、ドエグの手によって殺された。……

 サタンに支配されたサウルには、こうしたことができたのである。アマレク人の罪悪が満ちて、神が彼らを全滅させるように命令されたときに、サウルは彼らをあわれんで神の命令に従わず、滅ぼすべきものを残しておいた。しかし、今度、神の命令ではなく、サタンに支配されていたときには、主の祭司たちを殺し、ノブの住民を全滅させることができたのである。神の指導を拒む人間の心は、このように邪悪なのである。(人類のあけぼの下巻337,338)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

釣り合わない二人

「あでやかさは偽りであり、美しさはつかのまである、しかし主を恐れる女はほめたたえられる。」(箴言31:30)

 

 わたしたちは、ナバルの妻アビガイルの品性において、キリストの命令に従う女らしさの実例を見る。一方彼女の夫は、サタンの支配に身を任せる者がどうなるかを例証している。 (SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]2巻1022)

 ダビデがサウルから逃げていた時、ナバルの所有地の近くに野営をしており、この人の羊の群れや羊飼いを守ってやった。……窮乏に際して、ダビデは自分自身と家来のための食物を求めて、礼儀正しいメッセージを持たせて、ナバルの所へ使者を送った。しかしナバルは横柄に悪をもって善に報い、自分の豊かな食物を隣人と分けあうことを拒む返事をした。ダビデがこの人に送った以上に丁重なメッセージはなかったのであるが、ナバルは利己心から自分自身を正当化するためにダビデとその家来たちをもっともらしく非難して、ダビデと彼につき従う者 たちを逃亡した奴隷と表現した。使いの者がこの傲慢なののしりを帰って伝えた時、ダビデは憤慨し、すぐに復讐する決心をした。ナバルの、ののしりのために悪い結果が生じるのを恐れた雇人の若者の一人が、ナバルの妻のところへ来て、この婦人が夫とは異なった精神の持主であり、非常に思慮分別があることを知っていたので、ことの次第を報告した。……

 アビガイルは、ナバルの落ち度による結果を避けるために何かしなければならないことと、夫の勧告抜きですばやく行動しなければならないことを悟った。彼女は夫に話すのは無駄であることを知っていた。彼は妻の計画に暴言と侮辱で応じるだけだからであった。ナバルは自分は一家の主人であって、アビガイルは妻であるから自分に服従し、自分が命令することを実行しなければならないことを気づかせたいと思っていた。……

  夫の同意なしに、アビガイルはダビデの憤りを静めるために最善と思える食糧を寄せ集めた。なぜならダビデが自分の受けたののしりに対して復讐する決心をしていることを知っていたからである。……このことについてアビガイルの取った行動は神が是認されたことであり、状況は彼女に高貴な精神と品性があることを表していた。(原稿17, 1891年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

優しい譴責

「どうぞ、はしためのとがを許してください。主は必ずわが君のために確かな家を造られるでしょう。わが君が主のいくさを戦い、またこの世に生きながらえられる間、あなたのうちに悪いことが見いだされないからです。」(サムエル記上25:28)

 

 アビガイルはダビデに礼を尽くし尊敬を示しながら敬意を表しつつ会い、雄弁にまた首尾よく自分の立場を嘆願した。夫の暴言を言い訳しないで、なお彼の助命を請うた。彼女はまた思慮分別があるだけでなく、ダビデの内に神のみ業と方法を知らせた信心深い婦人であるという事実を表した。彼女はダビデが主の油注がれた者であるという事実に堅い信仰を明言した。(原稿17, 1891年)

 アビガイルは、暗に、ダビデがどういう道を進むべきであるかを示した。彼は、主のいくさを戦うべきであった。彼は身に危害を加えられ、裏切り者として迫害されても、報復をしようとしてはならなかった。……

 こうした言葉は、天からの知恵を受けた者だけが語ることのできるものである。アビガイルの敬神の念は、花のかおりのように、顔や言葉や行動に、無意識のうちにただよっていた。神のみ子の霊が、彼女の心に宿っていた。彼女の言葉は、恵みによって味つけられ、好意と平和に満ち、天の感化を及ぼしていた。ダビデは、われに返り、自分の早まった考えがどんな結果をもたらすものであったかを思って戦慄した。……

 献身したクリスチャンの生活は、常に光と慰安と平安を放っている。それは、純潔、気転、単純、有用性などの特性を持っている。それは、感化力を清める無我の愛に支配されている。それは、キリストに満ち満ちていてその人が行くところは、どこにでも、光の足跡を残すのである。アビガイルは、賢明な譴責者であり、勧告者であった。ダビデの怒りは、彼女の感化と道理にかなった話しぶりによっておさまった。……

 彼は、へりくだって譴責を受け入れた。彼女が彼に正しい勧告を与えたために、彼は感謝して祝福した。譴責される場合に、腹を立てずに譴責を受け入れるならば、賞賛に値すると考えている人が多い。しかし、自分を誤った道から救おうとした人に、感謝と祝福の気持ちを持ってその譴責を受け入れる人はなんと少ないことであろう。(人類のあけぼの下巻350, 351)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神の復讐

「愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである。」(ローマ12:19)

 

 ナバルはダビデと家来たちの必要には応じなかったけれども、その夜、自分と放埒(ほうらつ)な友人たちのために贅沢な宴会を開いて、酔い、意識混濁になるまで飲み食いをほしいままにした。(原稿17,1891年)

 ナバルは放縦と自らの栄誉のために莫大な富を費やすことは気にしなかったが、彼にとってそれほどでもない出費を、彼の大家族にとって城壁のようであった人々に与えるのは、あまりにも痛い犠牲のように思われた。ナバルは、譬え話の金持ちのようであった。彼はただ一つのことしか考えなかった。それは、神の情け深い贈り物を自分本位の動物的欲望を満たすために用いることであった。彼は与え主に感謝することを考えなかった。彼は、神に対して富んではいなかったのだ。永遠の宝は、彼にとって何の魅力もなかったからである。現在のぜいたくと利得が、彼の関心をそそる人生のテーマであった。これが彼の神であった。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]2巻1021,1022)

 ナバルは臆病者であった。そして、彼が自分の愚かな行為によって、突然の死が、どんなに迫っていたかを悟ったとき、彼のからだはまひしたようになった。彼は、ダビデがまだ、彼に報復しようとしているのではないかと恐れて、人事不省に陥った。彼は、十日後に死んだ。神が彼にお与えになった生命は、世をのろうだけのものであった。彼が、喜び楽しんでいた最中に、主がたとえの中の金持ちに言われたのと同じように、神は彼に言われた。「あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう」(ルカ12:20)。 (人類のあけぼの下巻351)

 ナバルの死の知らせをダビデが聞いたとき、神がご自分の手で復讐されたことに対し、感謝の祈りを捧げた。彼は悪行を抑止され、主は悪人の悪を彼自身の頭上に戻された。ナバルとダビデに対する神の扱いの内に、人々は、神の御手に自分たちの実状を置くよう励まされるだろう。神ご自身がよしとなさる時に、物事を正しい状態にされるからである。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]2 巻1022)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神からの答えはない

「主は夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても彼に答えられなかった。」(サムエル記上28:6)

 

 主は、真心からへりくだって、主のもとに来る魂を退けられることはない。主は、なぜサウルに返答を与えず、退けられたのであろうか。それは王が、彼自身の行為によって、神に問うことができるあらゆる方法の特典に浴されなくなったからであった。彼は、サムエルの勧告を拒否した。彼は、神が選ばれたダビデを追放した。彼は、主の預言者たちを殺した。……彼は、罪を犯して、恵みの霊を去らせてしまった。彼は、夢または主の幻によって答えを得ることができようか。サウルは、へりくだって悔い改め、神に立ち帰らなかった。彼が求めたのは、罪の許しや神 との和解ではなくて、敵からの救済であった。彼は、自分自身の強情と反逆によって、神から切り離された。ざんげと悔い改めによる以外に、彼が立ち帰る道はなかった。しかし、高慢な王は、苦悶と絶望のうちに、他に助けを求めることにしたのである。……エンドルに、ひとりの口寄せの女がひそかに住んでいることが王に伝えられた。……サウルは変装して、ふたりの従者とともに、夜、口寄せの女の隠れ家を捜した。……

 自己という最悪の暴君の支配に屈した者の束縛ほど恐ろしい束縛があろうか。サウルがイスラエルの王であり得る唯一の条件は、神を信頼し、神のみこころに服従することであった。彼がその治世を通じて、この条件に応じていたならば彼の王国は安泰を保ったことであろう。神が彼を指導し、全能者が彼の盾となられたことであろう。神は、サウルを長く忍ばれた。そして彼は、反逆と頑強さによって彼の魂のうちの神の声をほとんど沈黙させてしまったとはいえ、まだ悔い改める機会は残されていた。しかし彼が、この危機において神から離れ、サタンの共謀者からの光を得ようとしたときに、彼は、創造者との最後のきずなを切ってしまったのである。……

 暗黒の霊に問うことによって、自分を滅ぼした。絶望の恐怖に苦悩する彼は、軍勢を勇気づけることができなかった。彼は、力の源である神から離れたので、神をイスラエルの援助者として仰ぐように人々の心を導くことはできなかった。こうして、不吉な予告は実現されるのであった。(人類のあけぼの下巻359-365)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サムエルではない

「生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない、また、もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも、ついに忘れられる。」(伝道の書9:5)

 

 サウルがサムエルとの面会を求めたとき、主はサムエルをサウルの前に出現させられなかった。サウルは何も見なかった。墓にいるサムエルの休息を妨害し、現実にエンドルの口寄せの所へ彼を連れてくることは、サタンには許されていなかった。神は死人をよみがえらせる力をサタンに与えておられない。しかし、サタンの使らが、死んだ友人たちの姿を装って彼らのように語り、行動する。死去した友人たちと称する者を通して、彼は欺瞞の働きをよりうまく進めることができる。サタンはサムエルを良く知っていて、エンドルの口寄せの前で彼を演じ、サウルとその息子たちの運命を語る方法を知っていた。

 サタンは、彼が欺くことのできるような者たちのところに極めてもっともらしい方法で入ってきて、巧みに彼らの好意を得、ほとんど気づかれずに彼らを神から引き離すであろう。最初は慎重に、彼らの知覚が鈍くなってしまうまで、彼らをうまく自分の支配下に置く。それから、徐々に大胆な提案をし、ついにはいかなる程度の罪でも犯すように誘導することができるようになる。彼らを完全に自分の罠へと導いたら、彼らが自分たちのいるところを、その時、初めて悟るようにさせ、サウルを欺いたときのように、混乱に陥った彼らに狂喜する。サウルは自ら進んで、サタンが自分を虜にするのを許し、今になってサタンは、目の前で彼の運命を正しく描いてみせる。エンドルの女を通して、サウルの最期について正しく伝えることによって、イスラエルがサタンの悪魔的狡猾さによる通告を受ける道を開く。イスラエルが神に反逆した状態の中で彼について学び、こうすることによって、彼らを神のもとに留め得た最後の絆を断ち切らせるためである。

 エンドルの魔術師にこの最後の相談をしている最中、サウルは自分を神のもとに引き留めていた最後の糸を断ち切ったということを知った。以前は、意図的に神から離れてはいなかったとしても、この行為はその別離を決定的、かつ最終的なものにしたのであった。サウルは地獄と協定を結び、死と契約を結んだ。彼の罪の杯は満たされた。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]2巻1022,1023)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

延ばされた刑罰

「その日には、わたしが、かつてエリの家について話したことを、はじめから終りまでことごとく、エリに行うであろう。」(サムエル記上3:12)

 

 エリは、自分のむすこたちを聖職につかせて、大きな過失を犯した。エリは、あれやこれやにかこつけて、彼らの行動を黙認し、彼らの罪に盲目になっていた。しかし、ついに、エリは、彼のむすこらの罪に目をそむけていることができなくなってしまった。人々が、彼らの非行を非難し、大祭司は、悲しみと悩みに沈んだ。彼はもう黙ってはおれなくなった。しかし、彼のむすこたちは、自分のこと以外は、だれのことも考えないように育てられていた。それで、彼らは、人のことは何もかまわなかった。彼らは、父親の悲しみを見たが、その堅い心は動かなかった。彼らは、父の穏やかな勧告を聞いたが感銘を受けなかった。その罪の結果の警告を聞いたけれども、その悪行を改めようともしなかった。もし、エリが、その悪いむすこたちを正当にあつかっていたならば、彼らは、祭司職から退けられて、死に処せられていたことであろう。(人類のあけぼの下巻232,233)

 主は、何年も刑罰をくだすことを延ばされた。その間に、過去の失敗を償う多くのことができたのであったが、年をとった祭司は、主の聖所を汚し、イスラエルの幾千という魂を滅びに陥れていた悪を正すために、効果的な手段を取らなかった。神の忍耐は、ホフニとピネハスの心を堅くし、さらに大胆に罪を犯させた。エリは、自分の家に与えられた警告と譴責の言葉を、全国に知らせた。彼は、こうした方法で、彼の過去の怠慢の悪影響をいくらかでも取り消そうと望んだ。(同上241)

 神は罪と犯罪を放置しておく怠慢と、クリスチャンであると公言する家族の内にある有害なものを発見するのが遅い無神経をとがめられる。子孫の過失や愚行の程度に応じて両親の責任を問われる。神はエリの息子ばかりではなく、エリ自身にも災いを下された。そしてこの恐るべき例は現代の両親への警告でなければならない。(教会への証4巻200)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

意気地のない父親

「エリの家の悪は、犠牲や供え物をもってしても、永久にあがなわれないであろう。」(サムエル記上3:14)

 

 エリは、家族の管理に関する神の規則に従って、彼の家を治めなかった。彼は、自分の判断に従った。……今も、それと同じようなまちがいを犯している者が多い。彼らは、神がみことばのなかにお与えになった方法よりも、さらにすぐれた子供の教育法を知っていると思っている。彼らは、子供たちに悪い癖をつける。そして、「彼らは、まだ小さくて、罰することはできない。大きくなるまで待って、よく言いきかせよう」と申しわけをする。こうして、悪癖は助長されて、第二の天性になってしまう。子供たちは、抑制を受けず、彼らの生涯を通じてののろいとなり、また他の人にも伝染する可能性のある品性の傾向をもって成長する。(人類のあけぼの下巻235)

 アブラハムの忠実さについての称賛の言葉と対照的に、エリについて述べられた言葉は、息子たちが大きな罪を犯していた間、彼らに務めをさせ続けていた人としてエリのことを記録している。ここにすべての両親のための教訓がある。……エリは悪を抑制せず、寛大に取り扱った。その結果は、今後永久に、犠牲によっても供え物によってもあがなうことのできない罪となった。(手紙144,1906年)

 ある者たちが過度に厳しすぎる一方で、エリはもう一方の極端に走った。…… 彼らの欠点は幼児期に見過ごされ、青年期には多めに見られた。両親の命令は無視され、父親は服従を強いなかった。

 子供たちは、自分たちは手綱を取ることができると知って、その機会を利用した。息子たちの年齢が進むにつれ、彼らは意気地のない父親に対してあらゆる尊敬を失った。彼らは思いのままに罪を継続した。父親(エリ)は子供たちをいさめたが、彼の言葉は無視された。主ご自身がその律法の違反に裁きを下されるまで、日々彼らは、目に余る罪と不快な犯罪を行った。

 エリの息子たちの罪は、いけにえや供え物によっても永久に償われないことを、主ご自身が決定された。厳粛な責任が負わされていたのに、聖であり、義であられる神のあわれみから見放された者たちの堕落は、どれほど大きくどれほど嘆かわしいことであろうか。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]2巻1009,1010)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世代の格差はない

「わらべサムエルは、エリの前で、主に仕えていた。」(サムエル記上3:1)

 

 サムエルは、幕屋の働きをするために連れてこられたときは、幼かったけれども、そのときでさえ、彼の力量に応じた任務を負わせられて、神のご用を果たした。初め、このような仕事は、非常にいやしいことで、必ずしも快いものではなかった。しかし、彼は、最善を尽くして、喜んでその務めを果たした。……

 日常の小さな義務をくりかえして行なうことは、主が子供たちのために指示された道であり、それは、彼らが忠実に力ある奉仕をするための訓練を受ける学校であることを、子供たちに教えるならば、彼らの仕事は、どんなに楽しく尊いものとなることであろう。すべての義務を主のためにするように行なうことは、どんなにいやしい仕事をも魅力あるものにし、地上の働き人を、天で神のみこころを行なう天使たちと結合させるのである。(人類のあけぼの下巻228,229)

 幼年期以来、サムエルの人生は、敬虔と献身の生涯であった。彼は少年のころ、エリの管理に委ねられ、彼の愛くるしい性格は老いた祭司の暖かい愛情を引き出した。彼は親切で寛大、勤勉で従順、そして礼儀正しかった。少年サムエルの歩みと祭司の息子たちのそれとの対比は、大変目につくもので、エリは自分に委ねられた者の存在に、安らぎと慰めと祝福を見出した。国家の最高行政官エリと純真な子供との間に、大変暖かな友情が存在したのは、類いまれなことであった。サムエルは有用で愛情深く、エリがこの少年を愛した以上に、我が子を愛し た父親はいない。老齢による衰えが進むにつれて、エリは一層、息子たちの向こう見ずで不品行なやり方に激しい落胆を覚え、慰めと心の支えを求めてサムエルに愛情を傾けるようになった。

 若者が助言と知恵を与えてくれる老人を尊敬し、老人は若者の助けと同情を頼みにする、といった相互依存の若者と老人を見るのは、何と感動的であろう。これがあるべき姿である。若者たちが、墓場に近づきつつある老人たちと愛情の絆で結ばれるために、彼らが年老いた者との友情に喜びを見出せるような品性の資格を持たせたいと、神はお望みになる。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コ メント]2巻1021)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

リバイバル

「われわれは主に対して罪を犯した……われわれのため、われわれの神、主に叫ぶことを、やめないでください。」(サムエル記上7:6,8)

 

 サムエルは、全国の町々村々を巡回して、人々の心を彼らの先祖の神に向けようと努めた。そして、彼の努力は、よい結果をもたらした。二十年間も敵の圧迫に苦しんだあとで、イスラエルの人々は「主を慕って嘆いた」のである。サムエルは彼らに勧告した。「もし、あなたがたが一心に主に立ち返るのであれば、ほかの神々とアシタロテを、あなたがたのうちから捨て去り、心を主に向け、主にのみ仕えなければならない」。イエスが、地上におられたときにお教えになったのと同じ実際的敬虔と心の宗教が、サムエルの時代に教えられたことをここに見るのである。古代のイスラエルにとって、キリストの恵みがないならば、宗教の外的形式は無価値なものであった。それは、現代のイスラエルにとっても同じである。 

 古代イスラエルが経験したのと同じ真の心の宗教のリバイバルが、今日必要である。神に帰ろうとする者のとるべき第一歩は、悔い改めである。だれも人に代わって、悔い改めることはできない。われわれ個人個人が、神の前にへりくだり、偶像を捨てなければならない。われわれのなし得るすべてを尽くしたときに、主は、彼の救いをあらわされる。……

 大群衆がミヅパに集まった。ここで彼らは、厳粛な断食を行なった。人々は、心を低くして罪を告白した。そして彼らは、教えられた命令に従う決意の証拠として、サムエルに士師の権を授けた。……

 サムエルが、小羊を犠牲にささげようとしていたとき、ペリシテ人は、戦いをいどんで近づいてきた。……攻撃軍の上に恐ろしい暴風が起こった。そして、強力な戦士たちの死体が地上に乱れ散った。

 イスラエルの人々は、希望と恐怖に震えて、黙って恐れながら立っていた。彼らは敵が殺されたのを見たときに、神が彼らの悔い改めをお受け入れになったことを知った。……国家であろうと、個人であろうと、神に服従する道は、安全と幸福の道であるが、罪の道は、ただ不幸と敗北に至らせるだけである。(人類のあけぼの下巻250-252)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

周りと同じように

「いいえ、われわれを治める王がなければならない。われわれも他の国々のようになり」(サムエル記上8:19, 20)

 

 へブルの人々は、自分たちの周囲の国々のような王をサムエルに要求した。神ご自身による知恵ある穏やかな統治よりも専制的な独裁的統治者を好むことにより、また神の預言者の権限の範囲にいながら彼らは神への信仰の欠如と、自分たちを導き統治するために支配者を起こす神のみ摂理に対する信頼に欠けていることを示した。イスラエルの子らは神の特殊な民であるので、当地の形態も周囲のすべての国々とは本質的に異なっていた。神は民に規則と律法を与え、彼らのために支配者を選び、民はこれらの指導者に、主にあって従わなければならなかった。困難や大きな困惑がある場合はすべて、神に向かうべきであった。王を求める要求は、自分たちの特別の指導者である神に反抗して背反することであった。神は、ご自分の選ばれた民にとって王が最善のものではないことを知っておられた。……もし心が高ぶり、神に正しくない者が王になれば、その王は民を神から引き離し、神に反抗させるであろう。主は、だれも王の立場を占めて、ほめそやされずに、王に通常与えられる名誉を受けることはできないことを知っておられた。そして彼らが神に対して罪を犯しているその瞬間にも自分たちの方法が自分の目には正しく思えることも知っておられた。(霊的賜物4巻65,66)

 神は、イスラエルの人々を、他のすべての国民から分離して、神ご自身の特別の宝とされたのであった。しかし、彼らは、この大きな栄誉を無視して、異教徒の風習を模倣することを切望した。そして、世俗の風習に従おうとする切望は、今なお神の民と自称する人々の間にもあるのである。彼らが主から離れると、世の利益と栄誉を熱望するようになる。クリスチャンは、この世の神の礼拝者の風習を常に模倣しようと努めている。世の人々と一致し、彼らの風習に従うことによって、神を信じない人々に強力な感化を及ぼすことができると力説する人々が多くいる。しかし、そうする者はみな、そのために、彼らの力の根源である神から離れる。世の友となれば、神の敵である。(人類のあけぼの下巻270)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

謝罪の必要がない

「サムエルは彼らに言った、『あなたがたが、わたしの手のうちに、なんの不正をも見いださないことを、主はあなたがたにあかしされる。その油そそがれた者も、きょうそれをあかしする』。」(サムエル記上12:5)

 

 世的な権力と誇示への飽くことのない渇望は、サムエルの時代と同様に、今日も治す事は困難である。クリスチャンたちは、世俗の人たちのように建て、衣服を身につけ、この世の神だけを拝む者たちの習慣と習わしを真似ることを求める。神の言葉の指示、神の僕らの勧告と叱責、また神の御座から直接送られた響告でさえ、このくだらない野心を抑制する力がないように思える。心が神から遠ざかるとき、ほとんどどのような口実でも、神の権威を無視することを正当化するのに十分である……

 たいていの有用な人々は、めったに真価を認められない。同胞のために極めて精力的に無我の働きをなし、また最高の成果を上げるのに貢献した人たちが、しばしば忘恩や無視といった報いを受ける。このような人たちは、自分が無視され、その勧告が軽んじられて軽蔑されるのを見るとき、自分は大きな不正を被っていると思うかもしれない。

 しかし彼らに、神のみ霊が確かに促さない限りは、自分自身を正当化したり、弁護すべきでないことを、サムエルの模範から学ばせなさい。……

 働きを終える彼に与えられた栄誉は、義務の遂行に取りかかったばかりの人や、尚も試みられねばならない人が受ける喝采と祝いの言葉よりも、はるかに価値がある。……

 裁判官のような責任ある地位を引退する人で、自らの清廉潔白さについて、次のように言うことができる人がどれだけいるだろうか。「あなたがたの内の誰が、私に罪を悟らせるだろうか。わいろを受け取るために、私が正義からそれてしまったことを、誰が証明できるだろうか。審判と正義を行う者として、私は自分の記録を汚したことはない」と。イスラエルの民が王を立てることに決めた故に、サムエルが彼らに別れを告げるときに述べたようなことを、今日誰が言い得るだろうか。……勇敢で高潔な士師!しかし、厳格なほどに清廉潔白な人物が、自己弁護をするために自らを低くしなければならないというのは悲しいことである。 (SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]2巻1013, 1014)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

民の選び

「あなたがたの選んだ王、あなたがたが求めた王を見なさい。」(サムエル記上 12:13)

 

 神は、人々が望んだ通りの王サウルをイスラエルにお与えになった。彼は眉目秀麗で背が高く、風釆がりっぱであったので、彼の外観は、人々の王に対する期待にかなっていた。そし て、彼の勇気と軍隊を指揮する能力とは、他国の尊敬と誉れとを得るために何よりもたいせつなものであると彼らが考えた特質であった。彼らは、王が正義と公平とをもって、国を治めるためには、不可欠のより高尚な特質を持っているかどうかは少しも考えなかった。彼らは真に品性の気高い人、神を愛しおそれる人を求めなかった。彼らは、神の特選の民としての独特の清い生活を保つために、支配者が持つべき特質について、神の勧告を仰がなかった。彼らは、神の望まれることではなくて、自分たちのしたいことをしようとしていた。であるから、神は、彼らが求めたような王を彼らに与え、彼らと同じ品性の持ち主をお与えになった。彼らの心は、神に従っていなかった。そして、彼らの王もまた、神の恵みに従っていなかった。彼らは、この王の支配下にあって、自分たちの誤りを認め、神に忠誠を尽くすようになるために必要な経験を得るのであった。

 しかし、主は、サウルに王国の責任を負わせられたので、彼をそのまま放任なさらなかった。神は、サウルに聖霊を与えて、彼の弱さと神の恵みの必要をあらわされた。だから、サウルが神に信頼したならば、神は、彼と共におられるのであった。彼の意志が神のみこころに支配されているかぎり、そして、彼が霊の訓練に服するかぎり、神は、サウルの努力を成功させられるのであった。しかし、サウルは、神を度外視して行動したときに、主は彼を指導することができなくなり、彼を捨てられたのである。そのとき、「主は自分の心にかなう人」を王位に召された 。彼は、品性の欠点がなかったわけではなかった。しかし、彼は自己にたよる代わりに神にたより、神の霊に導かれるのであった。彼は、罪を犯したときには、譴責とこらしめに従うのであった。(人類のあけぼの下巻308, 309)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

可能性がそこにある

「イスラエルの人々のうちに彼よりも麗しい人はなく」(サムエル記上9:2)

 

 将来の王の人間的特質は、王を求めた人々の誇りを満足させるものでなければならなかった。……背が高く、りっぱで気高い威厳を備えた壮年期の彼は、生まれながらの指導者のように思われた。サウルは、これらの外面的魅力はあったが、真の知恵を構成するのに必要な気高い特質に欠けていた。彼は、青年時代に、その性急な激情を支配することを学ばなかった。彼は、神の恵みの改変の力を感じたことがなかった。(人類のあけぼの下巻272)

 主は、神の教えを与えないままで、サウルを責任のある地位に放って置かれることはなかった。新しい召命を持つべきであった彼に、主のみ霊が下った。その結果、彼は新しい人に変えられた。主はサウルに新しい心と、彼が以前に持っていたのとは異なる思考と目的と希望をお与えになった。彼を有利な立場に置いた神の霊的知識に伴うこの啓発は、彼の意志をエホバの御旨に結合させるはずだった。……

 もしサウルの能力が神の支配に従っていれば、彼は王国を治めることのできる精神と影響力を持っていたが、サタンの力に屈服し、悪のための広範囲にわたる影響力を及ぼすことになった。善を行うために与えられていた生まれつきの才能そのものが、サタンに利用されたのだった。 彼は、神から与えられている優れた知性と精神の故に、他の人たちよりも、もっと過酷で執念深く、有害になり、自らの聖くないもくろみをやり遂げようと決意することになった。(SDAバイブルコメンタ リー[E・G・ホワイト・コメント]2巻1013)

 サウルが自分自身の力と判断に頼るならば、彼は衝動的に行動し、重大な過ちを犯したであろう。けれども、もし彼が謙遜なままで、絶えず神の知恵に導かれることを求めて、神の摂理が道を開くにつれて前進するならば、彼は自らの高い地位の義務を、成功と名誉をもって果たすことができたであろう。神の恵みの影響下で、あらゆる良い特質が力を得る一方、悪い特性は同じくらい着実に力を失ったであろう。これは、主に己を捧げるすべての人のために、主がしてあげようと言われる御業である。(同上1016, 1017)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神の前に走る

「サウルは、サムエルが定めたように、七日のあいだ待ったが、サムエルがギルガルにこなかったので、民は彼を離れて散って行った。」(サムエル記上13:8)

 

 サウル王の治世の第二年めになって、初めて、ペリシテ人を征服しようとする動きが起こった。王子ヨナタンが、まず攻撃を開始し、ゲバにある彼らの要塞を攻撃して打ち破った。この敗北に激怒したペリシテ人は、すぐにイスラエルを急襲する準備を開始した。ここで、サウルは……全国に戦いの布告を伝えた。 ……

 預言者によって定められた期間が完了する前に、彼は遅延にしびれを切らし、周囲の困難な状況に失望してしまった。……

 サウルを試みる時が来た。ここで、彼は、神に信頼するかどうか、また神の命令に従って忍耐して待つかどうかを明らかにしなければならなかった。こうして、彼は、困難に当面した場合、神の民の指導者として、神の信頼を受けるに足る人物であることを示すか、それとも、動揺して、彼にゆだねられた聖なる責任を負う価値がないかを示すことになった。(人類のあけぼの下巻285, 286)

 サムエルを手間取らせて、サウルの心が暴露されることが、神の目的であった。緊急時に彼がどうするかを、他の人たちが知るためであった。苦しい立場に置かれることになったが、サウルは命令に従わなかった。誰がどのような方法で神に近づこうが全然違いはないだろうと彼は感じ、勝手にやる気満々になって、神聖な儀式に自ら乗り出した。

 主は、自らお定めになった代理者を持っておられる。神の働きに関係する者たちが、もしこれらの代理者を認めず、尊敬せず、人々が自由に神の要求を無視すると感じるようであれば、そういう者たちは責任ある地位についているべきではない。定められた代理者を通じての勧告や神の命令に、彼らは耳を傾けようとしない。彼らはサウルのように、自分たちに全く任じられていない働きを軽率に行おうとし、自分たちの人間的判断に従って犯した過ちは、神のイスラエルを、全能の指導者が彼らにご自身を表すことが出来ないところに置くのであった。(SDA バイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]2巻1014)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

足りないことが判明

「その燔祭をささげ終ると、サムエルがきた。サウルはあいさつをしようと、彼を迎えに出た。」(サムエル記上13:10)

 

 神は、その務めのために聖別されたものだけが、神の前でささげ物をささげなければならないという指示を与えておられた。しかし、サウルは、「幡祭…… をわたしの所に持ってきなさい」と命じた。彼はよろいを着て、武器を持ったまま祭壇に近づいて、神の前に犠牲をささげた。……もしサウルが、神からの援助を受ける条件に従っていたならば、主は、王に忠誠を尽くした少数の者を用いて、イスラエルのために驚くべき救いをもたらされたことであろう。しかし、サウルは自分と自分の業績に満足し、譴責ではなく賞賛に値するもののように、預言者を出迎えた。(人類のあけぼの下巻287)

 サウルは自らのやり方を弁護しようと努めて、自己を厳しく非難する代わりに預言者をとがめた。今日にたような道をたどる者が多い。彼らはサウルのように自分の誤りについて盲目である。主が彼らを正そうとなさるときに、彼らは叱責を侮辱と受け止め、神の使命をもたらす人のあら探しをする。

 サウルが自らの誤りを喜んで認め、告白していれば、この苦い経験が将来のための防御となったことだろう。その後彼は、神の非難を招いた過ちを避けたことだろう。しかし、自分は不正に非難されたと感じつつ、当然のごとく、再度同じ罪を犯すことになるのであった。

 主はその民に、あらゆる状況下で、絶対的信頼を表すことを希望なさる。我々はいつもみ摂理の働きを理解できるとは限らないが、主が我々に光を注がれることをよしとなさるまで、忍耐と謙遜をもって待つべきである。

 サウルの罪は、彼が神聖な責任を担うのにふさわしくないことを証明した。 ……彼が神の試みに耐えていれば、王冠は彼と彼の家に定着したことだろう。事実サムエルは、まさにこの目的のためにギルガルに来ていた。しかしサウルははかりで量られて、量の足りないことが判明した。彼は、神の栄誉と権威を厳粛に見なす人物に地位を譲るために解任されなければならなかった。(SDAバイブルコメン タリー[E・G・ホワイト・コメント]2巻1014,1015)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

勇気を出す時

「ヨナタンはその武器を執る若者に言った、『さあ、われわれは、この割礼なき者どもの先陣へ渡って行こう。主がわれわれのために何か行われるであろう。多くの人をもって救うのも、少ない人をもって救うのも、主にとっては、なんの妨げもないからである』。」(サムエル記上14:6)

 

 主は、サウルが、僭越にもささげ物をささげて罪を犯したために、ペリシテ人を滅ぼす栄誉を彼にお与えにならなかった。主をおそれた王子のヨナタンが、イスラエルを救う器に選ばれた。彼は神からの感動を受けて、武器をとる若者に向かって、敵の陣地にひそかに乗り込もうと言った。……

 他の者に反対されるのを避けるために、ふたりでひそかに陣地を抜け出た。彼らは、先祖たちを導かれた神に熱心な祈りをささげてから、その後の行動に移る場合の合図をきめた。……やがて彼らは、ペリシテ人の陣地に近づいて、敵前に姿を現わした。すると、ペリシテ人は彼らをあざけって、「見よ、ヘブルびとが、隠れていた穴から出てくる」と言った。彼らは、「われわれのところに上ってこい。目に、もの見せてくれよう」といどみかけ、接近してきたこのふたりのイスラエル人に罰を与えようと考えた。この挑戦は、主が彼らの企てを成功させてくださる証拠として、ヨナタンと武器をとる若者とが定めておいた合図であった。勇者たちは、ペリシテ人の前から姿を消して、けわしい隠れた通路を選び、接近するのが不可能と思われていただんがいの頂上に進んで行った。そこは、強固な防備がほどこされていなかった。こうして、彼らは、敵の陣地に侵入して、守備兵を殺した。敵は不意を打たれて、あわてふためき、なんの抵抗もしなかった。

 天使たちが、ヨナタンと武器をとる若者を守護し、彼らと共に戦ったので、ペリシテ人は、彼らの前に敗れ去った。(人類のあけぼの下巻290-292)

 この二人は、自分たちが人間の司令官以上の方の感化と命令の下に行動していたという証拠を示した。外面的には、彼らの冒険は無分別であり、軍のあらゆる規則に反していたが、ヨナタンの行動は人間的な無分別ではなかった。彼は自分と武器をとる若者ができることに頼ったのではなく、神がご自分の民イスラエルのために用いられた器であった。(神の息子、娘たち7月20日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真の王

「『夕方まで、わたしが敵にあだを返すまで、食物を食べる者は、のろわれる』。」(サムエル記上14:24)

 

 王が断食の命令を出したことは、利己的野心からであって、自己を賞揚するためには、民の必要などには無関心であることを明らかにした。その禁令を誓ってまでも厳守させたことは、サウル王が向こう見ずで、神を敬わない人間であることをあらわした。のろいの言葉自体も、サウルのこの熱心さが、神の栄光のためではなくて、自己のためであることを証明している。彼の目的は、「主が敵にあだを返される」ことではなくて、「わたしが敵にあだを返す」ことであると彼は言った。……

 王が、禁令を出したことを知らなかったヨナタンは、昼間、戦っていたときに通った森の中ではち蜜を少し食べて、禁令を知らずに犯した。夕方になって、サウルはこのことを聞いた。禁令の違反者は、死に処せられると彼は言っていた。ヨナタンは故意にそむいたのではなかった。また、彼の生命は奇跡的に保護され、彼によって救済がもたらされたにもかかわらず、王は、刑の執行を命令した。サウルが王子の命を救うことは、このような向こう見ずの誓いをさせた自分が、罪を犯していたことを自認することになるのであった。それでは、彼の誇りが傷つけられるのであった。「神がわたしをいくえにも罰してくださるように。ヨナタンよ、あなたは必ず死ななければならない」と、彼は恐ろしい宣告を下した。……

 サウルは、この少し前に、ギルガルにおいて、差し出がましくも、神の命令に反して祭司の務めを行なったのであった。彼は、サムエルの譴責を受けると、頑強に自分を正当化した。ところが、彼の命令の違反者があれば、その命令が不合理で、しかも、知らずに犯したものであっても、王であり父であるサウルは、王子の死を宣告したのである。

 人々は、その宣告の執行を拒否した。彼らは、王の怒りを恐れずに言った。「イスラエルのうちにこの大いなる勝利をもたらしたヨナタンが死ななければならないのですか。決してそうではありません。主は生きておられます。ヨナタンの髪の毛一すじも地に落してはなりません。彼は神と共にきょう働いたのです。」 高慢な王は、この満場一致の裁決を無視することはできなかった。そして、ヨナタンは救われた。(人類のあけぼの下巻292-294)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

両方に働く

「あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」(マタイ7:2)

 

 サウルは、王子が自分以上に神からも人々からも愛されていることを感じないわけにいかなかった。ヨナタンが救われたことは、王の無分別に対するきびしい譴責であった。彼は、自分ののろいが自分の頭にかえってくるのを感じた。彼は、ペリシテ人との戦いを長く続けないで、ゆううつと不満のうちに家に帰った。

 すぐに自分の罪の言い訳をしたり、弁解をしたりする人は、他人をきびしくさばき非難する人でもある。多くの者は、サウルのように、神の不興を招くのであるが、勧告を拒み、譴責を軽べつする。主が彼らと共におられないことが明らかになっても、悩みの原因が、自分たち自身にあったことを認めようとしない。彼らは、高慢で自負心をいだいている。その反面、彼らは、彼らよりも善良な他の人々を残酷にさばき、きびしく譴責する。……

 自己を高めようとする者は、その本性を暴露する立場に置かれることがよくある。サウルの場合もその通りであった。人々は、王が、正義、あわれみ、愛よりも、王の栄誉と権威を重んじたことを、彼自身の行動によってはっきりと知ることができた。こうして、人々は、神がお与えになった統治を拒否したことが誤りであったことを悟らされた。彼らは、彼らのために祝福を祈り求めた敬神深い預言者の代わりに、盲目的熱心さをもって祈り彼らにのろいを下す王を選んだのであった。

 もし、イスラエルの人々が、ヨナタンを救うために介入しなかったならば、彼らの救済者は、王の命令によって殺されてしまったことであろう。その後、人々はどんな不安感をいだいて、王に従ったことであろう。人々は、彼ら自身がサウルを王位につけたことを、どんなに悲しんだことであろう。主は、人々の頑強さを長く忍ばれる。そして、すべての者に、罪を認めて悔い改める機会をお与えになる。神のみこころを無視し、神の警告を軽べつする者は、栄えるように見えても、神がお定めになった時が来れば、必ずその愚かさをあらわすのである。(人類のあけぼの下巻294, 295)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

再び試みられる

「『今、行ってアマレクを撃ち、そのすべての持ち物を滅ぼしつくせ。彼らをゆるすな。男も女も、幼な子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも皆、殺せ』」。(サムエル記上15:3)

 

 主は、彼のしもべをつかわして、サウルにもう一つの使命をお与えになった。サウルは、服従することによって、神に対する忠誠とイスラエルを指導する彼の資格とをまだ証明することができた。サムエルは、王のところに来て、主の言葉を伝えた。……

 アマレク人は、荒野でイスラエルに戦いをいどんだ最初の民族であった。この罪と彼らの神への反抗と彼らの堕落した偶像礼拝のゆえに、主は、モーセによって彼らに宣告を下された。……この宣告は、四百年の間執行が延ばされていた。しかし、アマレク人は、彼らの罪を離れなかった。この邪悪な民族は、もしできることなら、神の民と神の礼拝とを地上からぬぐい去ろうとしていたことを主は知っておられた。今、長く延期されていた宣告の執行の時が来ていた。

 神が悪人を長く忍ばれるために、人々は大胆に罪を犯す。しかし、長く延期されても、刑罰の確実なことと恐ろしさにはなんの変わりもない。……

 神は刑罰を喜ばれないが、神の律法を犯す者には刑罰を与えられる。地の住民が全く腐敗して滅亡することを防ぐために、神はやむをえずこれをなさらなければならない。神は、いくらかの人々を救うために、罪にかたくなになった人々を滅ぼさなければならない。……主が刑罰の執行を延ばしておられること自体が、神の刑罰を招いた罪の恐ろしさと、罪人に臨もうとする報復のきびしさを証明して る。

 神は、刑罰を与えながらも、あわれみを忘れられない。アマレク人は、滅ぼされなければならなかったが、彼らの中に住んでいたケニ人は救われた。この人々は、偶像礼拝から全く離れてはいなかったが、真の神の礼拝者で、イスラエルの友であった。モーセの義理の兄弟ホバブは、この種族の出身で、荒野のことをよく知っていたので、イスラエル人の荒野の旅に同行してよい助言を与えた。(人類のあけぼの下巻296-298)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

信頼されるに足りない

「しかしサウルと民はアガグをゆるし、また羊と牛の最も良いもの、肥えたものならびに小羊と、すべての良いものを残し、それらを滅ぼし尽すことを好まず、ただ値うちのない、つまらない物を滅ぼし尽した。」(サムエル記上15:9)

 

 サウルは、ミクマシで、ペリシテ人を滅ぼしてから、モアブ、アンモン、エドム、アマレク、ペリシテなどの国々と戦った。そして、彼の行くところ連戦連勝であった。彼は、アマレク人を撃滅する任命を受けるやいなやすぐに宣戦を布告した。彼自身の権力に預言者の権力も加えられた。そして、イスラエルの人々は、召集に応じて彼の旗のもとに集まった。この遠征は、自己誇張のために行なわれるものではなかった。イスラエルの人々は勝利の栄誉も敵のぶんどり物をも受けてはならなかった。彼らは、ただ、アマレク人に対する神の刑罰の執行のために、神に対する服従の行為として戦いに従事するだけであった。神は、すべての国々が、神の主権に逆らった国民の運命を見、彼らが軽べつしたその国自身に滅ぼされることを注目するように計画された。……

 アマレク人に対するこの勝利は、サウルのこれまでの勝利中の最大のものであった。そして、これは、彼にとって最も危険な誇りをふたたび燃え上がらせた。神の敵を全滅させよという神の命令は、部分的にしか行なわれなかった。サウルは、王を捕虜にして連れて帰り、凱旋の栄光を盛り上げるために、周囲の国々の習慣をまね、勇猛果敢なアマレクの王アガグを生かしておいた。人々は、羊と牛と家畜の最もよいものを残しておき、それらを主に犠牲としてささげるために保留したと彼らの罪の弁解をした。しかし、彼らは、自分たちの家畜の代わりに、これらをささげようとしていたに過ぎなかった。

 サウルは、ここで、最後の試練に当面したのであった。彼は、神のみこころをあえて無視し、独立した王として国を治めようと決意したことを示したので、主の代表者として王権を委託されることができないことになった。(人類のあけぼの下巻298, 299)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

羊の声を聞く

「『わたしはサウルを王としたことを悔いる。彼がそむいて、わたしに従わず、わたしの言葉を行わなかったからである』。サムエルは怒って、夜通し、主に呼ばわった。」(サムエル記上15:11)

 

 サウルと彼の軍勢が、勝ち誇って帰途についたとき、預言者サムエルの家では大きな苦悩があった。彼は、王の行動を非難した主からの言葉を聞いたのであった。……

 神の悔いとは、人間の悔いのようなものではない。「イスラエルの栄光は偽ることもなく、悔いることもない。彼は人ではないから悔いることはない」。人間の悔いは心の変化を言うのである。神の悔いは環境と関係の変化を意味する。人間は、神の恵みにあずかることのできる条件に応じることによって、彼の神との関係を変えることができる。それとも、自己の行為によって、恵まれた状態の圏外に自分を置くこともできる。

 しかし、主は、「きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」(ヘブル13:8)。サウルの不服従は、彼の神との関係を変えた。しかし、彼が神に受け入れられる条件に変わりはなかった。神の要求は、なお、同じであった。神には、「変化とか回転の影とかいうものはない」のである。

 翌朝、預言者は、悲痛な思いをいだいて、誤った王に会うために出かけた。サムエルは、サウルが自分の罪を認め、悔い改めて心を低くして、神の恵みにふたたびあずかるようになることを希望していた。しかし、罪の道に一歩踏み込めばその先はやさしい。不服従によって心がゆがんだサウルは、サムエルに会いに来て偽りを言った。彼は、「どうぞ、主があなたを祝福されますように。わたしは主の言葉を実行しました」と叫んだ。預言者の耳に聞こえた音は、不服従な王の言葉が偽りであることを証明した。(人類のあけぼの下巻299, 300)

 サウルは雄牛と羊の鳴き声が自分の犯した罪を明らかにしている間でさえ、自分の罪を否定した。(手紙12a、1893年)

 

多すぎる兵士

「主はギデオンに言われた、『あなたと共におる民はあまりに多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、「わたしは自身の手で自分を救ったのだ」と言うであろう』。」(士師記7:2)

 

 戦争に出かける前に次のような宣言が全軍に行なわれることが、イスラエルの律法になっていた。「『新しい家を建てて、まだそれをささげていない者があれば、その人を家に帰らせなければならない。そうしなければ、彼が戦いに死んだとき、ほかの人がそれをささげるようになるであろう。ぶどう畑を作って、まだその実を食べていない者があれば、その人を家に帰らせなければならない。そうしなければ彼が戦いに死んだとき、ほかの人がそれを食べるようになるであろう。女と婚約して、まだその女をめとっていない者があれば、その人を家に帰らせなければならない。そうしなければ彼が戦いに死んだとき、ほかの人が彼女をめとるようになるであろう』。つかさたちは、また民に告げて言わなければならない。『恐れて気おくれする者があるならば、その人を家に帰らせなければならない。そうしなければ、兄弟たちの心が彼の心のようにくじけるであろう』」(申命記20:5-8)。

 ギデオンは、敵の数と比較して自分のほうがいかにも少なかったので、いつもの宣言をするのを差し控えていた。彼は、自分の軍隊がまだ大きすぎるという宣告を聞いて、驚きに満たされた。しかし、主は、彼の民の心に誇りと不信仰があるのをごらんになった。彼らは、ギデオンの力強い訴えを聞いて奮い立ったのではあるが、ミデアン人の大軍をながめて恐怖をいだいたものが多かった。それにもかかわらず、もし、イスラエルが勝利をおさめるならば、勝利を神に帰すかわりに、自分たちに栄光を帰してしまったことであろう。

 ギデオンは、主の指示に従った。彼は、全軍の三分の二以上の二万二千人が家に帰るのを見て、非常に心を痛めた。(人類のあけぼの下巻195,196)

 主は、わたしたちのために喜んで偉大なことをなそうとしておられる。わたしたちは数によってではなく、イエスに対する全き魂の献身によって勝利が得られるのである。わたしたちは、力強いイスラエルの神に信頼しつつ、神の力により、前進すべきである。ギデオンの軍隊の話には、わたしたちのための教訓がある。 ……主は今日、人間の努力を通して喜んで働こうとしておられ、弱い器を通して偉大なことを成し遂げようとしておられる。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント] 2巻1003)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まだ多すぎる

「主はまたギデオンに言われた、『民はまだ多い。彼らを導いて水ぎわに下りなさい。わたしはそこで、あなたのために彼らを試みよう。わたしがあなたに告げて「この人はあなたと共に行くべきだ」と言う者は、あなたと共に行くべきである。またわたしがあなたに告げて「この人はあなたと共に行ってはならない」と言う者は、だれも行ってはならない』。」(士師記7:4)

 

 すぐに敵に向かって行くつもりで、人々は水ぎわにつれていかれた。進みながら手で水をすくって、急いで水を飲んだ者がわずかながらいたが、大部分は、ひざをかがめて、水面に口をあててゆっくり飲んだ。手を口にあてて水を飲んだ者の数は、一万人のうちわずかに三百人であった。けれども彼らが選ばれて、残りの者はみな、家に帰ることを許された。

 品性は、ごく簡単な方法で試みられるものである。危機に際して、自分の必要を満たすことに心を奪われているような者は、危急の場合に信頼できる人ではない。主は、怠惰で放縦な人をご用にお用いになることはできない。主が選ばれる人は、自己の必要のために義務の遂行を遅らせたりしないわずかの人々である。三百人は、勇気と自制があるばかりか信仰の人であった。彼らは、偶像礼拝によってその身を汚していなかった。神は、彼らを導き、彼らによってイスラエルを救済することがおできであった。成功は、数によらない。神は、多数によると同様に、 少数によっても救うことがおできである。神は、神に仕える者の数の大きさよりは、むしろ、彼らの品性によって、栄誉をお受けになる。(人類のあけぼの下巻196, 197)

 キリストの十字架の兵卒であるすべての人々は、よろいを身に着けて戦闘の準備をしなければならない。彼らは脅迫におびえたり、危険を恐れたりすべきではない。彼らは、危機において慎重でなければならないが、敵に立ち向かい神のために戦う際は固く勇敢でなければならない。キリストに従う者たちの献身は完全でなければならない。父、母、妻、子供たち、家、土地などすべてのものは、神の働きの次に置かれなければならない。神の摂理の内に彼が耐えなければならない苦しみが何であろうとも、忍耐強く、快活に喜んで耐える気持ちがなければならない。彼の最後の報いは、キリストと共に不屈の栄光に満ちた御座を分かち合うことである。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]2巻1003)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

過失に陥る

「ギデオンはそれをもって一つのエポデを作り、……それはギデオンとその家にとって、わなとなった。」(士師記8:27)

 

 イスラエルの人々は、ミデアン人から救い出されたことを感謝して、ギデオンが彼らの王となり、彼の子孫が代々王となることにしようと申し出た。この申し出は、神政政治の原則とは全く正反対のものであった。……ギデオンは、この事実を認めた。彼の返答は、その動機がいかに真実で気高いものであったかを示した。「わたしはあなたがたを治めることはいたしません。またわたしの子もあなたがたを治めてはなりません。主があなたがたを治められます」と彼は言った。

 しかし、ギデオンは別の過失に陥り、彼の家とイスラエルの全家を不幸に陥れた。大きな争闘に続く不活動の期間は、苦闘の期間以上に大きな危険をはらんでいることがある。ギデオンは、このような危険にさらされた。彼は、不安な気持ちに襲われた。彼は、これまで、神の指示を実行することに満足していた。しかし、今、彼は神の指導を待たずに自分で計画を立て始めた。主の軍勢が大勝利を得ると、サタンは、神の働きをくつがえそうとして、その努力を倍加する。 ……

 ギデオンは、主の使いが彼に現われた岩の上で犠牲をささげるように命令を受けたので、自分は祭司としての役目を果たすように任命を受けたものと考えた。彼は、神の許しを得ようともしないで、適当な場所を備え、幕屋で行なわれている礼拝に似た制度を始めようとした。一般の人々の強力な支持もあったので、その計画の実行はなんの困難もなかった。(人類のあけぼの下巻201,202)

 最高の地位に立っている人々が、特に危険がないと感じる時に、誤った方向に導く可能性がある。もっとも賢い者も過失を犯し、最も強力な人もよろめき、つまずくであろう。……

 良心から一つの防御を取り除くこと、一つの良い決心を実行するのに失敗すること、一つの悪い習慣を形成することは、わたしたち自身だけでなく、わたしたちに信頼する人々も、破滅させるかもしれないというのは厳粛な思想である。わたしたち唯一の安全は、主の足跡が導くところに従っていくこと、「わたしに従ってきなさい」と言われたお方の保護に絶対的信頼を置くことである。(SDAバイフ ルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]2巻1004,1005)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

赤ちゃんが生まれる前に

「……わたしたちがその生れる子になすべきことを教えさせてください。」(士師記13:8)

 

 神ご自身がマノアの妻に現れ、彼女が息子を産み、その子は偉大な人となってイスラエルを救い出すはずであることを告げられた。その時神は彼女の食事に関して特別な指示を与えられた。……このことを、世のすべての母親に与えられた指示とみなそうではないか。もしあなたがたが自分の子供たちに調和のとれた精神をもってほしいのであれば、あなたがた自身が節制をしなければならない。あなたがた自身の心と愛情を健全にまた健やかに保ちなさい。それはあなたがたが自分の子孫に健やかな精神と身体を分け与えることができるためである。(原稿18,1887年)

 母親はみんな自分の義務を理解することができる。自分の子女の品性は外面的な条件の良し悪しよりも彼らが生まれる前の彼女の習慣と彼らが生まれてから後の彼女の個人的な努力によって非常に大きく決定されるということを母親は悟ることができるのである。……自分の子女の教師としてふさわしい母親は、子供たちが生まれる前に克己と自制の習慣を形成しなければならない。なぜなら、母親は子供たちに自分自身の資質、すなわちその品性の強い特徴や弱い特徴を遺伝させるからである。(食事と食物への勧告第12部20)

 賢明でない勧告者は、母親がすべての欲求や衝動を満足させる必要があると勧めるが、こうした教えは誤りで有害である。母親は、神ご自身の命令によって自制を働かせるという、最も厳粛な義務のもとにおかれている。

 母親と同様に父親にも、この責任が負わせられている。両親が、彼ら自身の知的、体的特徴、性質、欲求などを子供たちに伝える。(人類のあけぼの下巻209,210)

 多くの人は節制ということを軽く考えている。主はわたしたちの飲食といった些細な事柄を気にかけておられないと彼らは主張する。しかし、もしも主がこれらの事柄に注意を払われなかったのであれば、マノアの妻にご自身を表して彼女にはっきりとした指示を与え、その教えを彼女が無視するといけないので気をつけるよう彼女に二度も命じられることはなかったのである。(節制233,234)

 妊娠中の影響が及ぼす結果について小さい問題のように考えている親が多いが、神はそうみてはおられない。……ヘブルの母親に語られた言葉を通して、神は各時代のすべての母親に言われているのである。(ミニストリー・オブ・ヒーリング343)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

妥協

「不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。」(コリント第二6:14)

 

 ゾラの町は、ペリシテ人の国に近かったので、サムソンは、彼らと交わって仲よくなった。こうして、彼が若いときに結んだ親しい交わりが、彼の全生涯を暗くした。ペリシテ人の町テムナに住む若い婦人が、サムソンの心を捕えたので、サムソンは彼女を自分の妻にしようと決心した。神を敬う両親は、なんとかして彼の心を変えさせようと努力したが、彼は、「彼女はわたしの心にかないますから」と答えるだけであった。両親は、ついに折れて、彼の希望をかなえ、結婚を許した。

 彼がちょうど成人し、神の任命を実行しなければならないとき、他のどんなときよりも神に忠誠を尽くすべきときに、サムソンは、イスラエルの敵と結合してしまった。彼は自分の選んだ者と結婚することによって、神に栄光を帰すことができるか、それとも、自分の生涯によって完成しようとしている目的を達成できない地位に自分をおいているのかどうかをよく問うてみなかった。神をまずあがめようと求めるすべての者に、神は知恵を約束なさった。しかし、自己を喜ばせようとする者には、なんの約束もない。……

 キリスト教は、結婚関係に支配的影響を及ぼさなければならないのに、この結合の動機がキリスト教の原則に一致していないことがあまりにも多い。サタンは、神の民にサタンの部下と結合するようにしむけて、自分の勢力を強化しようと常につとめている。サタンはそれを実現するために、清められていない欲望を心に起こそうとつとめているのである。……

 サムソンは、彼の結婚式のときに、イスラエルの神を憎む者と親しく交わった。このような関係に自分から進んではいる者は、彼の仲間の習慣や風習に、いくぶんかは従わねばならぬと感じるのである。こうして費やされた時間は浪費以上にいけなかった。そこでは、原則のとりでを破壊し、魂の要塞を弱める思いをいだき、言葉が語られていた。(人類のあけぼの下巻211-213)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

力の強い柔弱者

「彼はペリシテびとの手からイスラエルを救い始めるでしょう。」(士師記13:5)

 

 サムソンを用いて、神が「ペリシテびとの手からイスラエルを救い始める」という約束は実現した 。しかし、神の賛美と国家の栄光となり得た生涯の記録は、なんと暗く恐ろしいものであったことであろう。もしサムソンが、神の任命に忠実であったなら、神の目的は、彼の栄誉と昇進によって、成しとげられたことであろう。しかし、彼は誘惑に負け、信頼にそむき、その働きは、敗北と捕囚と死によって成しとげられた。

 サムソンは肉体的には、世界で一番強い人であった。しかし、自制、誠実、堅実という点では、最も弱い人のひとりであった。激しい感情の人を強い性格の人と考える者が多いが、実は激情に支配される人は弱い人である。人間の真の偉大さは、その人が支配する感情によるのであって、彼を支配する感情によるのではない。

 神は、サムソンが召された働きを達成する準備が与えられるように、常に摂理的に、彼をお守りになった。彼の生涯の一番初めから、肉体的力、知的活力、道徳的純潔を養うためによい環境に囲まれていた。しかし、悪い友だちの感化によって、彼は、人間の唯一の保護であった神を手放し、悪の潮流に流された。義務の道を歩んでいて試練に会うならば、必ず神が守ってくださることを確信してよい。しかし、人間が、故意に誘惑の力に身をさらすときに、おそかれ早かれ倒れるのである。

 神がご自分の器として、特別の働きのために用いようとなさるその人々を、サタンは全力を尽くして挫折させようとする。サタンは、われわれの弱点を攻撃し、品性の欠点を通じて、人間全体を支配しようとする。そしてサタンは、こういう欠点が人の心にいだかれているかぎり、自分の成功はまちがいないことを知っている。しかし、だれでも打ち負かされる必要はない。人間は、自分の弱い力で悪の力を征服するように、放任されていない。援助は手近にある。そして、だれでも真にそれを望む者には与えられる。ヤコブが幻に見たはしごを上り下りする神の使いたちは、最高の天にまででものぼろうと志すすべての魂に助けを与えるのである。(人類のあけぼの下巻218,219)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

秘密は何か

「そこでデリラはサムソンに言った、『あなたの大力はどこにあるのか』。」(士師記16:6)

 

 サムソンが勝利を収めたあとで、人々は彼を士師にした。彼は、二十年の間、イスラエルを治めた。しかし、二つの悪は、さらに次の悪へと導くのであった。 ……彼は、彼の身を破滅に陥れる肉の快楽を求め続けた。サムソンは、その故郷からあまり遠くない「ソレクの谷にいる……女を愛した」 。その女はデリラ(消費者)という名であった。……ペリシテ人は、敵の行動を絶えず見張っていた。彼が新しい女を愛して堕落したときデリラを用いて、彼を破滅させようとした。

 ペリシテの各地方の代表者から成る一団が、ソレクの谷を訪れた。彼らは、サムソンが大力を持っているまま彼を捕えようとはせず、できれば彼の力の秘密がどこにあるのかを聞き出そうとした。そこで、彼らは、それを見つけ出して知らせるようにデリラを買収した。

 裏切り者のデリラが、いろいろと手を尽くしてたずね出そうとしたところ、サムソンは、ある一定の方法でわたしを縛れば、わたしはほかの人のように弱くなる といって、彼女をだました。彼女が言われた通りにしてみると、うそがばれてしまった。それで、女は、サムソンがうそを言ったことを責めて言った。「あなたの心がわたしを離れているのに、どうして『おまえを愛する』と言うことができますか。 ……

 サムソンは、ペリシテ人がサムソンの愛人と組んで、三回も自分を殺そうとしている明らかな証拠をみた。それが失敗するたびに、彼女はそれをただのたわむれのように装ったので、サムソンは愚かにも恐れを感じなかった。(人類のあけぼの下巻214-216)

 この魅惑的な女との交際で、イスラエルの士師は、民の幸福のためにきよいものとしてささげられるべきであった貴重な時間を浪費した。しかし、最も強い人を弱くさせる盲目的激情が、理性と良心を支配してしまった。……

 サムソンが理性を失ったことはほとんど信じがたい。初め、彼は秘密を漏らすほど完全な虜にはなっていなかった。しかし、彼は魂を裏切る者の網に故意にかかり、その網目は一歩進むごとに、彼の周りに張り巡らされた。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]2巻1007)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これが秘密

「彼は主が自分を去られたことを知らなかった。」(士師記16:20)

 

 デリラは、毎日彼に迫ったので、ついに「彼の魂は死ぬばかりに苦しんだ」。それでも彼は不思議な力にひかれて、彼女のそばにいた。サムソンは、とうとうたまらなくなって、秘密を明かした。「わたしの頭にはかみそりを当てたことがありません。わたしは生れた時から神にささげられたナジルびとだからです。もし髪をそり落されたなら、わたしの力は去って弱くなり、ほかの人のようになるでしょう」。ペリシテ人の君たちのところへ、すぐに彼女のところへ来るようにという知らせがとんだ。勇士サムソンが眠っている間に、ふさふさした髪の毛が彼の頭からそり落とされ た。そうして、前にも三回したのと同じように、デリラは、「サムソンよ、ペリシテ びとがあなたに迫っています」と言った。サムソンは、急に目をさまして前と同じように、力を出して敵を殺そうとした。しかし、彼の腕からは力が抜けて言うことをきかなかった。彼は、「主が自分を去られたこと」を知った。デリラは、サムソンの髪の毛をそったときに、彼を苦しめ痛みを与えて、その力をためした。ペリシテ人は、サムソンの力が完全になくなったことを十分確かめないうちは近づいてこなかったからである。こうして、彼らは、サムソンを捕えて、両眼をえぐってガザへ連れて行った。そこで、彼は獄屋のかせにつながれて重労働を課せられた。 

 イスラエルの士師であり、勇士であった彼が、今は、力なく、盲目になり、獄屋につながれて、最もいやしい 仕事をさせられるとは、なんという変わりようであろう。彼は、自分の聖なる任務の条件を少しずつ破っていったのである。神は、彼を長く忍耐なさった。しかし、彼が自分の秘密を明かすほどに罪の力に身をゆだねてしまったときに、主は、彼を去られたのである。彼の長い髪だけに力があったのではなくて、それは、彼が神に忠誠を尽くしているしるしであった。そして、その象徴が、肉欲をほしいままにして犠牲にされたときに、それが象徴していた祝福もまた取り去られた。(人類のあけぼの下巻216,217)

 サムソンの頭が、彼の側に落ち度がなくて剃られたのであれば彼の力はなくならなかったであろう。しかし彼のとった道は、あたかも彼が自分を嫌悪して頭から髪を切り落としたかのように、神の恩寵と権威に対する軽蔑を示していた。そのために、神は彼自身の結果を耐えるままに放っておかれた。(SDAバイブルコメンタリ ー[E・G・ホワイト・コメント]2巻1007)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

確かな収穫

「わが子よ、悪者があなたを誘っても、それに従ってはならない。」(箴言1:10)

 

 サムソンは、彼の危機の時、ヨセフと同じ力の源を持っていた。彼は自由に善悪を選択できた。しかし、神の力をつかむ代わりに、彼は性質の激しい情欲が彼を完全に支配するのを許した。理性の力は歪められ、品行は堕落した。神はサムソンを責任の重い、名誉ある有能な地位に召された。しかし、彼はまず神の律法に従うことを学ぶことによって抑制を学ばなければならなかった。ヨセフは自由意志を持つ道徳的人物であった。彼の前に善と悪があった。彼は純潔で清く、節操ある道か、あるいは不道徳で堕落の道かを選択できた。彼は正しい道を選び、神に是認された。サムソンは自分で引き起こした同じ誘惑の下で、情欲に身を委ねた。自分が踏み入れた道は、恥辱と惨事と死に終わることを彼は悟った。ヨセフとは何と対照的であろう。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]2巻1007)

 主はみ言葉の中で、主を愛し恐れることをしない人々と結合しないようにと、ご自分の民にはっきりと指示なさった。そのような伴侶たちは、当然彼らのものである愛と尊敬にめったに満足しないであろう。彼らは神を恐れる妻、あるいは夫から、神の要求を無視することを含む何らかの行為を得ようと絶えず求めるだろう。神を敬う人にとっても、彼が属する教会にとっても、世俗的な妻、あるいは友人は陣営の中のスパイのようなものである。そのような人は、キリストの僕を誘惑しようとあらゆる機会を見張って、敵の攻撃にさらすであろう。(同上)

 サムソンの生涯は品性がまだ十分に発達していない、まだ社会人になっていない人々のために教訓を伝えている。わたしたちの学校や大学に入る青年は、そこで色々な考え、心を持っている人を見るであろう。もし彼らが娯楽と愚行を望むならば、もし彼らが善を避けることを求めて悪と結びつくならば、彼らの前にはその機会がある。彼らの前には罪と義があり、自分でどちらかを選ばなければならない。しかし「人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」ことを彼らに覚えさせなさい。(同上)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神は覚えられる

「サムソンは主に呼ばわって言った、「ああ、主なる神よ、どうぞ、わたしを覚えてください。」(士師記16:28)

 

 サムソンは、ペリシテ人の見せ物となって、苦しみとはずかしめを受け、これまでになかったほどに、自己の弱さを知った。そして、彼は、苦難によって悔い改めるに至った。髪が伸びるにつれて、彼の力も徐々にもどってきた。しかし、敵は、彼をくさりにつながれた無力な囚人であると思って、恐怖を感じなかった。

 ペリシテ人は、彼らの勝利を彼らの神々に帰した。そして、勝ち誇ってイスラエルの神をあなどった。「海の守護神」魚の神、ダゴンをあがめる祭りの日が定められた。ペリシテの平原全体の町々村々から、人々や君たちが集まった。礼拝者の群れが大きな神殿に満ち、屋根のまわりの桟敷にあふれた。それは、祭りの楽しい光景であった。荘厳な犠牲をささげる式に続いて、音楽と祝宴が開かれた。それから、ダゴンの力を示す最高の戦利品として、サムソンが引き出された。彼が現われたとき、人々は歓呼の声をあげた。一般の人々も、君たちも、サムソンのみじめな姿をあざ笑い、「われわれの国を荒し」た者を倒した神をたたえた 。しばらくして、サムソンは、疲れたようなふりをして、神殿をささえている まん中の二本の柱にもたれて、休むことを許してほしいと願った。そうして、彼は、神に黙祷をささげた。「ああ、主なる神よ、どうぞ、わたしを覚えてください。ああ、神よ、どうぞもう一度、わたしを強くして、……ペリシテびとにあだを報いさせてください」。彼は、こう祈って、その強い腕で柱をかかえ、「わたしはペリシテびとと共に死のう」と叫び、身をかがめた。すると、屋根が落ちて、そこにいた大群衆を一度に殺してしまった。「こうしてサムソンが死ぬときに殺したものは、生きているときに殺したものよりも多かった」 。

 偶像とその礼拝者たちは、祭司も農民も、勇士も、つかさたちも共にダゴンの神殿の瓦礫の下に葬られてしまった。その中に、神が、神の民の救済者としてお選びになった人の大きな遺体があった。(人類のあけぼの下巻217,218)

 サムソンとペリシテ人の代わりに、今や、エホバとダゴンの争いとなった。そして、主はその全能の力と最高の権威を行使するよう促された。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]2巻1007,1008)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼女は約束を守った

「わたしはその子を一生のあいだ主にささげ」ます。」(サムエル記上1:11)

 

 エフライムの山地のレビ人エルカナは、富と勢力を持った人で、主を愛しおそれる人であった。彼の妻ハンナは、信仰のあつい女であった。優しく、けんそんで、非常な熱心さとあつい信仰とが彼女の性質の特徴であった。

 ヘブル人ならだれでも、熱心に求める祝福が、この敬神深い夫婦には与えられなかった。彼らの家庭には、子供たちの喜ばしい声がなかった。そして、家名を永続させたいという願いは、他の多くの者と同じように、第二の結婚契約を結ばせるにいたった。しかし、これは、神に対する信仰の足りなさによるものであったために、幸福をもたらさなかった。家庭に、むすこ、娘は加えられた。しかし、神の聖なる制度の喜びと美とは傷つけられ家族の平和は破られた。新しい妻のペニンナは、しっと深くて、心が狭く、高慢で横柄な態度を取った。ハンナにしてみれば、希望はくじかれ、人生は耐えられない重荷のように思われるのであった。しかし、彼女は、つぶやくことなく柔和に試練に耐えた。……

 地上の友に打ち明けられない重荷を、彼女は神にゆだねた。ハンナは、神が恥を除いて、彼女にむすこという尊い賜物を賜わり、その子を神のために養育し、訓練することができるようにと熱心に願い求めた。そして、彼女は、自分の願いがかなえられるならば、その子を生まれたときから神にささげることを厳粛に神に誓った。……

 ハンナの祈りは、聞きとどけられた。彼女は、心から願い求めた賜物を受けたのである。彼女は子供を見て、サムエル (神に求めた) と名づけた。(人類のあけぼの下巻220-222)

 幼児が母親から離れるのに十分な年齢に達するとすぐに彼女は自分の厳粛な誓いを果たした。彼女は母親の愛情の限りを尽くして子供を愛した。子供の伸びていく能力を見守り、子供らしい片言に耳を傾けるにつれ、日毎に彼女の愛情はより強く彼に注がれた。彼は彼女の一人息子であり、天からの特別な贈り物であった。だが彼女は、神に聖別した宝物として彼を授かったので、与えてくださったお方に返すつもりであった。信仰が母親の心を強め、親の本能的愛情に屈することはなかった。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]2巻1008)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神の所有物

「わたしもこの子を主にささげます。」(サムエル記上1:28)

 

 ハンナは、大祭司の教育のもとで、神の家の奉仕のための訓練を受けることができるように、幼児サムエルを残して、静かにシロからラマの家に帰った。子供の物ごころがつき始めたころから、彼女は、その子に神を愛し敬うことを教え、子供自身が主のものであることを自覚するように教えた。彼女は、サムエルの回りにある見なれたあらゆるものによって、彼の心を創造主に導こうと努めた。子供と別れてからも、彼女の忠実な母としての心づかいがやんだのではなかった。サムエルは、彼女の日ごとの祈りの主題であった。彼女は、毎年、手ずから彼の仕事着を作った。そして、主人と共にシロに礼拝に上ったとき、彼女はこの愛のしるしを子供に与えたのである。小さな着物の一糸一糸は、サムエルが、清く気高く真実になるようにという祈りによって織られた。ハンナは、そのむすこが世的に偉大になることを求めるのでなくて、彼が天の認める偉大さに達することを熱心に求めた。すなわち、それは彼が神をあがめ、同胞を祝福することであった。

 ハンナには、どんな報いが与えられたことであろう。そして、彼女の模範は、忠実であることに対してなんという激励を与えていることであろう。測り知れない価値のある機会と、無限に尊い有利な立場とが、すべての母親にゆだねられている。女がたいくつな仕事と考える日常のいやしい務めは、偉大で高貴な働きとみなされなければならない。母親には、その感化力によって世界を祝福するという特権がある。そして、そうすれば、彼女自身の心にも喜びがわくのである。彼女は、照っても曇っても輝くみ国へ行く子供たちの足のために、まっすぐな道を備えるのである。しかし、それは、母親が自分自身の生活において、キリストの教えに従おうとするときにのみ、子供たちの品性を神のみかたちにかたどって形成することを望みうるのである。世の中には、腐敗的感化がみなぎっている。流行や慣習が青年たちに強く働きかけている。もしも母親が、教え、導き、制する義務を怠るならば、子供たちは、自然と悪に従い、善から離れていく。すべての母親は、たびたび救い主のみもとに行って、「どのように子供をしつけ、子供に何をしたらよいかを教えてください」と祈らなければならない。母親は神がみことばの中にお与えになった教えに心を向けるとよい。そうすれば、必要に応じて、知恵が与えられることであろう。(人類のあけぼの下巻225,226)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子は親に似る

「わが子よ、あなたの父の戒めを守り、あなたの母の教を捨てるな。」(箴言6:20)

 

 子供はたいてい両親のとおりになるものであり、親のからだの状態や気性や食欲、知的、道徳的な傾向は多少にかかわらずその子供に再び現われる。

  両親の目標が高潔で知的、霊的な能力が高く、体力の発育がよければ、子供に与える生命もそれだけりっぱなものである。また、親は彼らが持っている最高のものを育成することによって社会を形成し、将来の時代を進歩させる影響を及ぼすのである。

 父母はその責任を理解する必要がある。社会には青年のゆくてを誤らせるわながいっぱいある。……彼らは……幸福と見える道に隠されている危険や恐ろしい結果を見抜くことができない。……

 子供が悪に対する戦いにりっぱに勝てるように、生れ出る前からもその準備を始めなければならない。

 責任は特に母親にあるのであって、母親は生命の血液によって子供を養い、その肉体を築くばかりでなく、その子供の精神や品性を形成する知的、霊的感化を与える。……

 また神から教育された子供であり、高潔なさばき人であり、イスラエルの聖なる学校の創始者であったサムエルを生んだのは、祈りと自己犠牲の人、神の霊感を受けた婦人ハンナであった。(ミニストリー・オブ・ヒーリング342,343)

 すべての母親が、彼女の義務と責任がどんなに大きいか、また忠実に対する報いがどれほど大きいかを悟ることができたら、と思う。子供たちへの母親の日々の感化が、彼らを永遠の生命か永久の死かに備えている。家庭における母親の権限は、説教壇に立つ牧師や、あるいは王座についている王よりも、もっと決定的なものなのである。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]2巻1008, 1009)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

危険な実例

「しかし彼らは父の言うことに耳を傾けようともしなかった。」(サムエル記上2:25)

 

 エリは、イスラエルの祭司であり、士師であった。彼は、神の民の中で、最高で最も責任ある地位を占めていた。祭司の聖職に選ばれた人、また、国じゅうで最高の裁判権を持った者として、エリは、人々の模範として尊敬され、イスラエルの部族に大きな感化を及ぼしていた。ところが、彼は、人々を治める任命は受けたが、自分自身の家は治めなかった。……彼は平和と安易を愛したので、彼の権威を行使して子供たちの悪習慣と情欲を是正しなかった。彼は、子供たちと争ったり彼らを罰したりしないで、子供たちのしたいほうだいのことをやらせておいた。彼は、子供たちの教育が、彼の最も重大な責任の一つであることを自覚しないで、そのことを軽視した。イスラエルの祭司であり、裁判官である者は、神がおゆだねになった子供たちを制し、治める義務について、無知であったわけではなかった。しかし、エリは、義務を行なうことを恐れてしなかった。なぜなら、それは、むすこたちの意志にさからい、彼らを罰し、拒むことを必要としたからであった。……

 犯罪ののろいは、彼のむすこたちの行為にあらわれた腐敗と悪に明らかに見られた。彼らは、神の品性も神の律法の神聖さも正しく理解しなかった。彼らにとって、神に仕えることは、普通のことであった。彼らは、子供のときから聖所とその務めになれていた。しかし、彼らは、もっと敬神深くなるかわりに、その神聖さと意義とを、まったく見失ってしまった。父親は、子供たちが、自分の権威を敬わないことを是正せず、厳粛な聖所の務めを尊ばないのを抑制しなかった。それで、彼らが成人したときに、彼らは、懐疑と反逆の恐ろしい実に満ちていた。 ……

 青年たちに、好きかってなことをさせておくことほど家庭にとって大きなのろいはない。親が、子供たちの欲することをみな許し、彼らのためでないと知っていることをしたいままにさせておくとき、まもなく子供たちは親に対する尊敬を全く失い、神または人の権威も全然認めなくなり、サタンの意のままに捕虜になってしまう。(人類のあけぼの下巻230, 235)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

抑制がない

「わたしはエリに、彼が知っている悪事のゆえに、その家を永久に罰することを告げる。その子らが神をけがしているのに、彼がそれをとめなかったからである。」(サムエル記上3:13)

 

 エリは善良で道徳的に純潔な人であったがあまりにも手ぬるい人であった。彼は自分の品性における弱点を克服しなかったので、神のご不興をこうむった。彼は誰の感情も傷つけたくはなく、罪を譴責したり、とがめる道徳的勇気を持ち合わせていなかった。……

 エリは純潔と正義を愛したが、悪を抑えるための十分な道徳力がなかった。彼は平和と調和を愛し、不純と犯罪に対してますます無感覚になった。……

 エリは寛大で愛情に満ち、親切であって、神への奉仕と神のみ業の繁栄に真の関心を持っていた。彼は祈りに力ある人であり、神のみ言葉に反抗して立つことは決してなかった。しかし彼には欠けているところがあった。イスラエルを純潔に保つために、神が彼に信頼することができるように、罪を譴責し、罪びとに対して処罰を実行するという品性の堅固さが彼にはなかった。彼は正しい時と場所で「だめ」という勇気と力を自分の信仰に加えなかった・(教会への証4巻 516,517)

 エリは神のみ旨をよく知っていた。神がどんな品性をお受け入れになるか、またどんな品性をお嫌いになるか知っていた。にもかかわらず、彼は自分の息子たちが、度を越えた欲情と歪められた食欲、腐敗した道徳を助長しながら育つままに放っておいた。

 エリは神の律法を子供たちに教え、自らの生活において彼らに良い手本を与えたが、彼の義務はこれだけではなかった。父親として、また祭司として、彼らに自らの歪んだ意志に従うことを抑制させるように、神は求められた。彼はこの事をし損じたのであった。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]2巻1009)

 悪を譴責する勇気に乏しく、怠慢または関心が欠けているために、家族または神の教会を清める努力を熱心にしない者は、その義務の怠慢の結果生じた悪の責任を問われる。親として、または牧師としての権威によって、とどめることができた人の悪は、あたかもそれが自分の行為であるかのように責任を問われる。(人類のあけぼの下巻234)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

報酬のための預言

「彼らは正しい道からはずれて迷いに陥り、ベオルの子バラム、報酬さえ得られれば、悪に対して良心のとがめを感じないバラムの道に従った。」(ペテロ第二2:15, 16フィリップス訳)

 

 バラムは、かつては、善人であって、神の預言者であったが、背教して欲に目がくらんでいた。それでいてもなお自分はいと高き者のしもべであると自称していた。彼は、神がイスラエルのためになされたみわざについて無知ではなかったから、使者が用向きを伝えたとき、自分としては、バラクの報酬を拒み、使者を去らせるのが義務であることをよくわきまえていた。それにもかかわらず、彼はあえて誘惑に手を出し、主に勧告を求めるまでは、はっきりした解答を与えるわけにはいかないと言って、その夜は、使いの者たちを泊まらせた。バラムは自分ののろいがイスラエルに災いをもたらし得ないことを知っていた。神が、彼らについておられ、彼らが神に誠実であるかぎり、地の上、また、黄泉のどんな敵対力も勝つことはできなかった。しかし、「あなたが祝福する者は祝福され、あなたがのろう者はのろわれる」と使者に言われて、彼はうぬぼれた。高価な贈り物の贈与、また、高い地位の約束などによって、彼は欲を起こした。彼は、贈られた宝を欲ばって受け取った。そして、口では神のみ旨に厳格に従うと言いながら、バラクの願いに応じようとした。……

 神が、偶像であると言明されたむさぼりの罪によって、彼は日和見主義者となってしまった。この一つの過失によって、サタンは、彼を完全に支配するようになった。彼を破滅に陥れたのは、このむさぼりであった。誘惑者は、人々を神に仕えさせないようにしようとして、常にこの世の利得と名誉を提供する。あまり良心的すぎては繁栄しないとサタンは人々に言う。こうして、多くの者は、厳格な誠実の道から離れるように誘われるのである。悪の一歩は、次の一歩をたやすくする。彼らは、ますます僣越になる。彼らはひとたび貪欲と権力欲に支配されると、どんな恐ろしいことでも、あえてするようになる。多くの者は、自分はこの世の利得のために一時的に厳格な誠実の道を離れてもかまわないと思い、そして、目的が達せられたならば、いつでもそれをやめられると考えている。そのような人はサタンのわなに陥り、それから逃げることができないのである。(人類のあけぼの下巻45, 46)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

義務か欲望か

「かえって、あなたがたはわたしのすべての勧めを捨て、わたしの戒めを受けなかったので、」(箴言1:25)

 

 夜、神の使いがバラムを訪れ、こう伝えた。「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。またその民をのろってはならない。彼らは祝福された者だからである」 ……

 バラムは、二度試みられた。彼は、使者の懇請に答えて、自分が非常に良心的で誠実であって、金銀がどんなに積まれても、神のみ旨に逆らって出かけることはできないことを強調した。しかし、彼は、王の求めに応じたいと願っていた。神のみ旨が、すでにはっきりと知らされていたにもかかわらず、彼は、使者たちに、しばらくとどまるように勧め、もう一度神に尋ねてみようと言った。彼は永遠の神を、あたかも人間のように説得できると思った。

 夜、主はバラムにあらわれて言われた。「この人々はあなたを招きにきたのだから、立ってこの人々と一緒に行きなさい。ただしわたしが告げることだけを行わなければならない」。バラムはすでに心に決めていたので、主は、ここまでバラムが自分の思い通りにすることを許されたのである。バラムは、神のみ旨を行なうことを求めず、かえって自分の道を選び、主の承認を得ようとつとめたのである。

 今日も、同様のことをするものが数多くいる。彼らは、自分たちの傾向と一致しているならば、どんな義務も困難なく理解する。それは、聖書が明らかにし、環境と理性も共にそれをはっきり示しているのである。しかしこうした証拠が彼らの欲望と傾向に反するものであるため、彼らは、しばしば、それをないがしろにして、神のみ前に出て、自分の義務を知ろうとする。彼らは、一見、非常に良心的にふるまい、光を求めて長い祈りをささげる。しかし、神を軽んじることはできない。神は、そのような人々が、欲望のままに行なって、その結果、苦しむことをお許しになることがよくある。……義務をはっきり示されたとき、それを実行しなくてもよいという許しを受けるために、神に祈ろうなどと思ってはならない。 かえって謙虚なへりくだった心をもって、その要求を履行するために、神の力と知恵を求めるべきである。(人類のあけぼの下巻47, 48)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同類の二人

「それから人々にむかって言われた、『あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである』。」(ルカ12:15)

 

 バラムは神の民に対して宣言することのできなかったのろいを、彼らを罪に誘惑することによってついに彼らの上にもたらすことができた。(各時代の大争闘下巻276)

 バラムは、彼の悪魔的な企てが成功するのを見た。彼は神ののろいがその民にくだり、幾千の者が刑罰を受けるのを見た。しかし、イスラエルの中の罪を罰した神の義は、誘惑者がのがれるのを許さなかった。イスラエルとミデアン人とが戦ったときに、バラムは殺された。……

 バラムの運命はユダのそれと同じであった。彼らの性質は、互いによく似ている。両者とも神と富にかね仕えようとして、完全に失敗した。バラムは真の神を知り、彼に仕えることを公言した。ユダはイエスをメシヤとして信じ、彼に従う者たちに加わった。しかし、バラムは主の奉仕を富と世俗のほまれを得る踏み石にしょうと望み、これに失敗して、つまずき倒れ、滅びた。ユダは、キリストと結合することによって、メシヤがまもなく樹立すると彼が信じたこの世の王国において、富と昇進にあずかろうと期待した。彼の希望が裏切られると、彼は背教して破滅した。バラムもユダも大きな光を受け、大きな特典にあずかった。しかし、心にいだいた一つの罪が全人格を毒し、滅亡の原因となった。……

 心に秘められた一つの罪は、徐々に性質を堕落させ、その高尚な能力をすべて悪い欲望に屈服させる。良心から一つの保護物を取り除くこと、一つの悪い習慣にふけること、義務の重要な要求を一度怠ることなどは魂の防壁を破り、サタンがつけ入って、われわれを誤らせる道を開くのである。唯一の安全な道は、ダビデのように、次の祈りを、毎日、まごころからささげることである。「わたしの歩みはあなたの道に堅く立ち、わたしの足はすべることがなかったのです」(詩篇17:5)。(人類のあけぼの下巻63, 64)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

傷跡を残す罪

「戒めはともしびである、教は光である、教訓の懲らしめは命の道である。これは、あなたを守って、悪い女に近づかせず、みだらな女の、巧みな舌に惑わされぬようにする。」(箴言6:23, 24)

 

 イスラエルの上に神の天罰をもたらした犯罪は不道徳の罪であった。魂をわなにかけるための女たちの働きかけはベオルのバアルだけにとどまらなかった。イスラエルにおける罪人たちに罰が与えられたにもかかわらず、同じ犯罪が何度も繰り返された。サタンはイスラエルを完全に打ち倒そうとして最も活発に活動していた。バラムの助言によってバラクはわなをしかけた。イスラエルは戦いでは敵に勇敢に立ち向かい、彼らを阻止し、勝利者となったが、女たちが彼らの注意を引き、彼らの同席を求め、その魅力で彼らを喜ばせた時、彼らは誘惑に抵抗しなかった。彼らは偶像崇拝の祭礼に招かれて、酒を飲みたいだけ飲み、幻惑した精神をますます混乱させた。自制力や神の律法への忠誠心を保ちつづけなかった。彼らの感覚は酒で混乱し、汚れた情欲があらゆる防壁を打ち負かすほどに完全に支配したので、偶像崇拝の祭礼へ出席するという誘惑さえも招いたのである。戦いにおいては決してひるむことのなかった者、勇敢だった者が、最も卑しい情欲にふけるという誘感に抵抗するために、自分の魂を防ぎ守らなかった。……彼らはまず淫らなことで良心を汚し、このようにしてイスラエルの神を侮りつつ、偶像礼拝によって神からますます遠く離れて行ったのである。

 地上歴史の終りが近づくにつれて、サタンは全力を尽くして同じ方法、すなわち古代イスラエル人を約束の地に入る直前に誘惑したのと同じ方法で働く。サタンは神の戒めを守ると公言する人々、天のカナンへのほとんど境界線近くにいる人々にわなをしかける。彼は魂をわなにかけるために、また神の民であると公言する人々の一番の弱点を突くために最大限度にまで自分の能力を用いる。……

 現在目を覚まして祈り、聖書を勤勉に探って、心の内に神のみ言葉をたくわえ、偶像礼拝的な考えや品位を落す行動で神に対して罪を犯さないようにし、このようにして神の教会が堕落することのないようにすることが、神の戒めを守る民の義務である。(レビュー・アンド・ヘラルド1887年5月17日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

勝利する唯一の方法

「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。」(ヨシュア1:8)

 

 もし人々が、神が彼らのために計画している道に歩むならば、彼らはどんな人間の知恵よりも、はるかに優る知恵を所有する助言者を持つことだろう。ヨシュアが賢明な将軍であったのは、神が彼の導き手であったからである。ヨシュアが用いた最初の剣は、御霊の剣、すなわち神の言であった。……

 主が憐れみのうちに、右にも左にも曲がってはならないと命じられたのは、彼の義の原則に反する最も強力な影響がもたらされようとしていたからであった。彼は、最も厳格な高潔な道をたどらなければならなかった。……もしヨシュアの前途に危機がなかったなら、神は彼に雄々しくあるよう何度も繰り返し命じられなかったであろう。しかしあらゆる心配のただ中にあって、ヨシュアは神を導き手とした。

 人がどのような困難の中にあっても、あらゆる緊急事態において、より賢明な助言を与えて下さるお方、いかなる境遇においてもより強力な防御であられる神よりも優れた導き手を見い出すことができると考える程、巧妙な欺瞞はない。 ……

 主は我々の世界においてなすべき偉大な働きを持っておられる。主はすべての人に、なすべき主の働きをお与えになっている。しかし、人を導き手とすべきではない。惑わされないためである。これは常に危険である。聖書の宗教は、奉仕における活動の原則を具体的に表現しているが、同時にすべての知恵の源であるお方に、日々知恵を求める必要がある。ヨシュアの勝利とは、どのようなものであったのか。あなたは、昼も夜も神の言葉を思いなさい。ヨシュアがヨルダンを渡る直前、主の言葉が彼に与えられた……。これが、ヨシュアの勝利の秘訣であった。彼は神を導き手とした。

 勧告者という立場にある人々は、無我の人、信仰の人、祈りの人、あえて自分自身の人間的知恵に頼らず、彼らの事業を営む最善の方法については熱心に光と知恵を求める人であるべきである。イスラエルの指揮官ヨシュアは、軽率に行動しないように、モーセが神によって与えられた命令―神の要求、叱責、制限―を忠実に記録していた書物を、勤勉にくまなく調べた。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ ホワイト・コメント]2巻993, 994)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目には見えない協力者

「わたしは……あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。」(ヨシュア1:5)

 

 イスラエルのカナンへの旅における体験を注意深く学びなさい。……我々は、主が古代の神の民に教えられた教訓で記憶を新たにすることによって、心と思いを訓練し続ける必要がある。そうすれば、主が彼らに対して計画されたように、我々にとっても、主の言葉の教えは常に、興味深く印象的なものとなるであろう。

 エリコを征服する前日の朝、ヨシュアが出発したとき、彼の前に完全武装した一人の戦士が現れた。そこでヨシュアが、「あなたはわれわれを助けるのですか。それとも、われわれの敵を助けるのですか」と尋ねると、彼は答えた、「いや、わたしは主の軍勢の主将として今きたのだ」と。もしヨシュアの目が、ドタンにおけるエリシャの召使のように開かれて、その光景に耐え得たならば、彼はイスラエルの子らの周りに陣を張っている主の使いたちを見たことだろう。訓練された天の軍勢が、神の民のために戦おうとやってきて、主の軍勢の長が、指揮のためにそこにおられたからであった。エリコが陥落したとき、人の手はいっさい都の城壁に触れなかった。主の使いたちが砦を打ち倒して敵の要塞の中に入ったからであった。エリコを占領したのはイスラエルではなく、主の軍勢の長であった。しかしイスラエルは、彼らの救いの長に信仰を示すため行うべき役割があった。

 戦いは毎日なされねばならない。大争闘は、暗黒の君と生命の君との間で、すべての魂をめぐって繰り広げられている。……

 あなたは神の代理者として、神に自らを任せるべきである。神があなたの協力を得て、あなたのために計画して指揮を執り、闘争を戦われるためである。生命の君が、その業の頭である。あなたが原則に忠実で、勝利を得ようと奮闘するとき、キリストの恵みによって情欲が抑えられ、我々を愛されたお方を通してあなたが勝ち得てあまりある者となるよう、彼は日々、自己と戦うあなたと共にいるのである。イエスはその戦地をくぐってこられた。彼はすべての誘惑の力をご存知である。彼はあらゆる非常事態に対処する方法と、あらゆる危険な道中を導く方法をご存知である。だから、彼に信頼しようではないか。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイ ト・コメント]2巻994, 995)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神だけがそれをすることがおできになった

「そして祭司たちが雄羊の角を長く吹き鳴らし、そのラッパの音が、あなたがたに聞える時、民はみな大声に呼ばわり、叫ばなければならない。そうすれば、町の周囲の石がきは、くずれ落ち、民はみなただちに進んで、攻め上ることができる。」(ヨシュア6:5)

 

 エリコの占領において、力強い軍勢の司令官は人間が自分に名誉を帰すことができないような単純さを用いて、戦闘計画を立てられた。人が勝利の栄誉を得ることのないように、人の手が都の城壁を打ち崩してはならなかった。そのように今日も、人間は自ら成し遂げる働きの栄誉を自分自身に帰すべきではない。主だけが讃えられるべきである。人々が任務遂行のために、神からの指示を頼みにする必要性を悟るならどんなに良いことだろう。

 主は、運命の定まった都の周囲に軍勢を配置なさった。それに向かって人の手があげられることなく、天の軍勢はその城壁を打ち倒した。それは、神の御名だけが栄誉を得るためであった。それは、不信仰な斥候たちに恐怖を起こさせる程の、巨大な砦を誇る都であった。今、エリコの占領において、神はヘブル人に、彼らの父祖たちが神にただ信頼していたら、彼らは40年前に都を占領していたであろうと言明された。(SDAバイブルコメンタリー[E・ G・ホワイト・コメント]2巻995)

 弱い人間は、あらゆる激しい闘争の際に全能者のみわざを行うための超自然の力と助けを見出すであろう。忍耐強い信仰と神にある完全な信頼が成功を確実なものとする。

 かつての悪の同盟軍が彼らに対して勢揃いする一方、主は強く、また雄々しく勇敢に戦うよう彼らに命じられる。彼らには勝ち取るべき天国があり、彼らの軍勢には、天使以上のお方、すなわち力強い司令官がおられて、天の軍勢を先導されるからである。エリコ占領の際、イスラエルの軍勢の内一人として、城壁を打ち倒すために限りある力を発揮させて誇ることはできなかったが、主の軍勢の長は、最も単純な方法で闘うように計画された。それは、主だけが栄誉を受け、人間が称賛されることのないためであった。神は、我々にすべての力を約束しておられる。約束はあなたとあなたの子供たちに、我々の神、主が召される限りの、離れたところにいるすべての人に与えられているからである。(同上996)

 わたしたちの救いの長に対する、絶え間ない信仰と信頼がなくてはならない。わたしたちは彼の命令に従わなければならない。エリコの城壁は、命令に従った結果崩れ落ちたのである。(同上)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ひとりの人の罪

「金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。」(へブル13:5上句)

 

 アカンは罪の知覚が鈍くなるまで、心の内で貪欲と欺瞞を育み、とうとう誘惑の餌食となった。知っている罪にあえてふける人々は、二度目にはもっとたやすく征服されるであろう。初めの罪は誘惑する者に戸を開き、彼は徐々にすべての抵抗を抑えて魂の砦を完全に占領する。アカンは貪欲の罪に対する警告を何度も繰り返して聞いていた。明確に述べられた神の律法が、盗みとあらゆるごまかしを禁じていたのに、彼は罪を心に抱きつづけた。見破られず、公然と叱責されなかったので、彼はもっと大胆になっていった。彼は警告に次第に麻痺してきて、ついに彼の魂は暗黒の鎖に縛りつけられてしまった。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]2巻997)

 恥と敗北、そして死が一人の人の罪によってイスラエルにもたらされた。戦いの時に民の上をおおっていた保護が取り除かれた。クリスチャンであると公言する者が心に抱き、実践するさまざまな罪は教会に神のご不興をもたらす。……

 教会にとって最も恐るべき影響は、公然とした反対者や無神論者、また神を冒涜する者ではなく、キリストを公言しながら一貫性のない人の影響力である。この人々はイスラエルの神の祝福を隠しておき、たやすく拭い去ることのできない不名誉を教会にもたらす。……

 キリスト教の精神は単に安息日に自分をひけらかしたり、聖なる場所で目立つようにすることではない。キリスト教の精神は週のうちの毎日、あらゆる場所で発揮されねばならない。礼拝において家庭において、また兄弟や世との業務取引において、キリスト教の要求を認め、またこれに従わなければならない。……

 罪を犯すよりは死んだ方が良い。だまし取るよりは欠乏している方がよい。うそをつくよりは飢える方が良い。誘惑されるすべての者に次の聖句をもってサタンに立ち向かわせなさい。「すべて主をおそれ、主の道に歩む者はさいわいである。あなたは自分の手の勤労の実を食べ、幸福でかつ安らかであろう」(詩篇128:1, 2)。(教会への証4巻493-495 )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神から隠れるものはない

「あなたがたが、その滅ぼされるべきものを、あなたがたのうちから滅ぼし去るのでなければ、わたしはもはやあなたがたとは共にいないであろう。」(ヨシュア 7:12下句)

 

 ひとりの人の罪が、イスラエル人が敵の前で打ち破られる原因となった。祈り以上の何かが要求された。彼らは立ち上がり、イスラエルの陣営を清めなければならなかった。(原稿12, 1893年)

 あなたはなぜアカンにつながりのあるすべての人が神の刑罰の対象となったのかについて考えたことがあるだろうか。それは彼らが神の律法という偉大な標準において彼らに与えられていた指示に従って彼らが訓練されず、教育されていなかったからである。アカンの両親は、自分の息子が主のみ言葉に従わなくてもかまわないと思うようなやり方で教育してきた。彼の生涯に植え付けられた諸原則が彼を導いて自分の子供たちも堕落するような方法で彼らを取りあつかうようにさせたのであった。……刑罰は……すべての者が不法にたずさわっていたことを明らかにしている。

 アカンの経歴は、違反が捜し出されて罰せられるまで、一人の罪のために、神の怒りが民や国家の上に留まるという厳粛な教訓を与える。罪はその性質上、犯す者を堕落させる。致命的ならい病に感染した一人が、幾千もの人々に病毒を感染させることができる。民の後見人として責任の重い地位を占める人々が、もし忠実に罪を捜し出してとがめないならば、それは彼らが責任を果たしていないことである。……

 神の愛は罪を軽んじるようには決して導かない。告白しない誤りをかばうことはない。……それは、わたしたちのあらゆる行為や思い、感情に関係がある。それは私たちの後をたどり、あらゆる密かな行為の源泉に達する。罪にふけること によって、人は神の律法を軽く見なすようになる。多くの人は仲間に自分の罪を隠し、神は不正を記録する程に厳格な方ではないと思い上がる。しかし、神の律法は義の崇高な基準であり、それに対して人生のあらゆる行為は、良かろうと悪かろうと、神がすべての事を裁かれる日に、すべての隠れたことと共に比較されなければならない。心の純粋さは、純粋な生活へと導く。罪に対する弁解はすべて無駄である。神が罪人に不利な証言をなさるとき、彼を誰が弁護できるのだろうか。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]2巻996, 997)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遅すぎた!

「その罪を隠す者は栄えることがない、言い表わしてこれを離れる者は、あわれみをうける。」(箴言28:13)

 

 アカンは罪を告白したけれども、時はすでにおそく、彼にはなんの役にも立たなかった。彼は、イスラエルの軍勢がアイで敗北し、失望したのを見た。しかし、彼は進み出て罪を告白しなかった。彼は、ヨシュアとイスラエルの長老たちが、言葉で表現できない大きな悲しみのうちに、地にひれ伏したのを見た。もし彼がそのときに告白していたならば、それは、真の悔い改めの証拠となったことであろう。しかし、彼は、まだ黙したままであった。彼は、大きな犯罪が行なわれたこと、そして、その罪の性質さえもはっきり宣言されたのを聞いた。しかし、彼は、くちびるを閉じていた。それから厳粛な調査が始まった。彼の部族、氏族、そして家族が指摘されたとき、彼の心は、恐怖にふるえたことであろう。それでも彼は告白しなかったので、ついに、神の指が彼を指さすにいたった。こうして、彼は、罪をこれ以上かくすことができなくなって事実を認めた。同様の告白が、なんと多くなされていることであろう。事実が証明されたあとで、それを認めることと、神とわれわれだけに知られた罪を告白するのとは、非常な相違がある。アカンは、告白することによって、犯罪の罰をのがれようとする気がなかったならば、告白はしなかったことであろう。しかし、彼の告白は、その刑罰の正当なことを示したに過ぎなかった。彼は、罪に対する真の悔い改めも、悔悟も、目的の変更も、悪に対する憎しみも感じていなかった。

 すべての人の運命が、生か死かに決定したあとで、罪人が神のさばきの座の前に立つとき、同じような告白をする。……天の記録が開かれるとき、審判の主は、人の罪を言葉で宣言されるのではなくて、心の奥底まで見抜き、人を納得させずにはおかないまなざしでごらんになる。そうすると、すべての行為や、人生のすべての取り引きが、悪者の記憶にまざまざと印象づけられる。ヨシュアの時代のように、部族から氏族と人をさがし出す必要はない。彼自身のくちびるが、その恥を告白する。そのとき、人に知られなかった隠れた罪が、全世界に広く知られるのである。(人類のあけぼの下巻121-123)

 もしあなたに告白すべき罪があるなら、時を逃してはならない。一瞬一瞬が貴重である。「もしわたしたちが自分の罪を告白するならば、彼は真実で正しい方であるからその罪を許し、すべての不義からわたしたちを清めてくださる」(ヨハネ第一1:9)。(セレクテッド・メッセージ1巻352)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

偽りの代価

「偽りを言うくちびるは主に憎まれ、真実を行う者は彼に喜ばれる。」(箴言12:22)

 

 イスラエル人は、シケムからギルガルの陣営へもどった。するとまもなく、ここに見知らぬ代表団がやってきて、協定を結びたいと希望した。使節団は、遠い国からやってきたと言い、彼らのようすからすればそれが真実らしく思えた。彼らの衣服は古びて破れ、くつはつぎ当てがしてあり、食料品はかびがはえ、酒を入れる皮袋は破れたのを旅の途中で急いでつくろったかのようにしばりつけてあった。……

 この陳情は成功した。ヘブル人は、「主のさしずを求めようとはしなかった。そしてヨシュアは彼らと和を講じ、契約を結んで、彼らを生かしておいた。会衆の長たちは彼らに誓いを立てた」。こうして契約が結ばれた。……

 しかし、ギベオン人が正直にイスラエル人と交渉したのだったら、事はもっとうまくいったであろう。彼らは主に服従したことによって生かされたが、彼らの欺瞞は不名誉と苦役をもたらしたにすぎなかった。神は、異教を捨ててイスラエルに加わりたい者は、だれでも契約の祝福を受けられるように道を備えておられた。「あなたがたと共にいる寄留の他国人」(レビ記19:34)の条件に彼らは含まれ、この種の人たちは、ほとんど例外なしに、イスラエルと同じ恩典と特権を受けられるのであった。主の命令は次のようなものであった。「もし他国人があなたがたの国に寄留して共にいるならば、これをしえたげてはならない。あなたがたと共にいる寄留の他国人を、あなたがたと同じ国に生れた者のようにし、あなた自身のようにこれを愛さなければならない」(同19:33, 34)

 もしギベオン人が欺瞞的な手段に訴えなかったら、このような立場を与えられたのであった。「王の都にもひとしい」町の住民で、「そのうちの人々が、すべて強かった」といわれていた人々にとって、子孫末代まで、たきぎを切ったり、水をくんだりする者となることは、けっしてなまやさしい屈辱ではなかった。彼らは、欺瞞の目的で貧しい着物を身につけていたが、それは彼らがいつまでも人に使われる身分であるしるしとして、彼らにつけられた。こうして、何代にもわたって、彼らの奴隷状態は、神が虚偽を憎まれる証拠となるのであった。(人類のあけぼの下巻129-133)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この山地をわたしにください

「わたしは……今もなお、モーセがわたしをつかわした日のように、健やかです。それで……この山地を、どうか今、わたしにください。」(ヨシュア14:10-12)

 

 土地の分配をはじめる前に、カレブが、彼の部族の首長たちを従えて、特別な要求をもって出頭した。ヨシュアを除けば、カレブは、今や、イスラエルで最年長者であった。斥候たちの中で、カレブとヨシュアだけが、約束の地について、よい報告をもち帰って、人々に主の名によってのぼって行ってそこを占領するようにと励ましたのであった。カレブは今、彼の忠誠の報いとして、そのとき与えられた約束、すなわち、「おまえの足で踏んだ地は、かならず長くおまえと子孫との嗣 業となるであろう。おまえが全くわが神、主に従ったからである」という約束をヨシュアに思い出させた。そこで彼は、ヘブロンを自分の所有としてもらいたいと願い出た。……彼の要求はすぐにかなえられた。この巨大な要塞の征服は、だれよりも彼にまかせるのが一番安全であった。……カレブの信仰は、今も、かつて斥候たちの悲観的な報告と反対のあかしをたてたときと全く同じであった。彼は神がご自分の民にカナンを占領させると言われた約束を信じていた。この点において彼は全く主に従ったのであった。彼は、民と共に荒野での長年の放浪に耐えて、失望と罪の重荷を共に味わった。それでも、彼はそのことについてなんの不平も言わずに、荒野で兄弟たちが滅ぼされたときにも彼を生き長らえさせてくださった神をあがめた。……この勇敢な老戦士は、神の栄えとなる模範を人々に示し、父祖たちが征服不可能と考えていた土地を征服するように部族を大いに激励しようと熱望していたのであった。

 カレブは、四十年間心にきめていた嗣業を手に入れた。そして神が共にいてくださることに信頼して、「アナクの子三人を追い払った」。……

 臆病者と反逆者は荒野で滅びた。しかし、正しい斥候たちはエスコルのぶどうを食べた。おのおのその信仰に従って与えられた。信じない者は、彼らの恐れていたことが実現するのを見た。神の約束にもかかわらず、彼らはカナンを継ぐことは不可能だと断言し、そしてその通りカナンを所有することができなかった。しかし、神に信頼した人々は、遭遇すべき困難を見ないで全能者の力を見、よい地にはいった。(人類のあけぼの下巻139-142)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鉄の戦車

「ヨセフの子孫はヨシュアに言った、『あなたはなぜ、わたしの嗣業として、ただ一つのくじ、一つの分だけを、くださったのですか』。」(ヨシュア17:14)

 

 土地の分配についてのもう一つの要求は、カレブの精神と全く異なった精神をあらわしていた。それはヨセフの子らであるエフライムの部族とマナセの半部族から持ち出されたものであった。この部族は人数が多いことから、二倍の地域を要求した。彼らのために指定された土地は最も肥えた土地で、シャロンの肥沃な平野を含んでいた。しかし、谷間の主要な町の多くは、まだカナン人が占領していたので、この部族は彼らの領地を征服するほねおりと危険にしりごみし、すでに平定された地域を余分につけ加えてほしいと希望した。エフライムの部族はイス ラエルの最も大きい部族の一つで、また、ヨシュア自身の属している部族であったので、彼らは当然特別な考慮をしてもらう資格があると考えた。「わたしは数の多い民となったのに、あなたはなぜ、わたしの嗣業として、ただ一つのくじ、一つの分だけを、くださったのですか」と彼らは言った(ヨシュア記17:14)。しかしこの妥協することを知らない指導者に、厳格な公正を曲げさせることはできなかった。

 彼は答えて言った。「もしあなたが数の多い民ならば、林に上っていって、そこで、ペリジびとやレパイムびとの地を自分で切り開くがよい。エフライムの山地が、あなたがたには狭いのだから」( 同17:15) 。

 彼らの答えは不平の真因を暴露していた。彼らはカナン人を追い払う信仰と勇気に欠けていたのである。「山地はわたしどもに十分ではありません。かつまた平地におるカナンびとは、 ・ ・ ・ ・ みな鉄の戦車を持っています」と彼らは言った(同17:16) 。

 イスラエルの神の力は民に対して保証されていたので、もし、エフライム人がカレブの勇気と信仰をもっていたら、どんな敵も彼らの前に立つことはできなかったであろう。困難と危険を避けようという彼らの明らかな願いに対して、ヨシュアはこう言って応じた。「あなたは数の多い民で、大きな力をもっています。 ・ ・ ・ ・ カナンびとは鉄の戦車があって、強くはあるが、あなたはそれを追い払うことができます」( 同17:17,18) 。こうして彼らの議論は自身たちに不利な結果をもたらした。彼らが主張するように、彼らは強大な民だから、兄弟たちと同じように、自分たちの道を十分に切り開いて行くことができたのである。神の助けによって、彼らは鉄の戦車を恐れるにはおよばなかったのである。(人類のあけぼの下巻142, 143)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしは…

「あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい。」(ヨシュア24:15)

 

 ヨシュアは、自分のからだが徐々に老衰していくのを感じ、まもなく務めを終えなければならないことを自覚して、彼の民の将来を非常に憂慮した。人々がもう一度この年老いた指導者のまわりに集まったとき、彼は父親以上の愛情をもって、彼らに語りかけたのである。……

 ヨシュアの指示に従って、契約の箱がシロから持って来られた。これは、非常に厳粛な時の一つであって、この神の臨在の象徴は、彼が人々に与えようとした印象を強固なものにした。彼は、イスラエルに対する神の恵みを示したあとで、主の名によって、彼らがだれに仕えるかを選べと人々に呼びかけた。偶像礼拝は、なお、ある程度まで、ひそかに行なわれていた。それでヨシュアは、彼らに決心を促して、イスラエルから、この罪を除こうとしたのである。……ヨシュアは、強制的でなくて、彼らが心から神に仕えるようになることを望んだ。……

 「わたしとわたしの家とは共に主に仕えます」とヨシュアは言った。指導者の心に燃えたのと同じ清い熱望が人々に伝わった。彼の訴えに全員は答えて言った。「主を捨てて、他の神々に仕えるなど、われわれは決していたしません」……

 ヨシュアは、聴衆がよく自分たちの言葉を熟考して、彼らがなしとげられないような誓いをしないように、彼らを導こうと努めた。彼らは、熱誠こめて宣言をくり返した。「いいえ、われわれは主に仕えます」。彼らは主を選んで、主に仕えることの証人と自らなることをおごそかに承認して、「われわれの神、主に、われわれは仕え、その声に聞きしたがいます」と、彼らの忠誠の誓約をもう一度くり返したのである。……

 イスラエルのためになすべきヨシュアの働きは終わった。彼は、「全く主に従った」そして彼は、神の書の中で「主のしもべ」と書かれている 。彼の労苦の恩恵をこうむった時代の人々の歴史は、公の指導者としての彼の品性の尊い証言である。「イスラエルはヨシュアの世にある日の間、また ・ ・ ・ ・ ヨシュアのあとに生き残った長老たちが世にある日の間、つねに主に仕えた」。(人類のあけぼの下巻153-158)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしがあなたを つかわすのではありませんか

「主はふり向いて彼に言われた、『……わたしがあなたをつかわすのではありませんか』。」(士師記6:14)

 

 ギデオンに、人々を救えという神の召しが与えられた。彼は、そのとき、麦を打っていた。彼は、隠してあったわずかばかりの麦を、一般の麦打ち場で打とうとしないで、酒ぶねの近くの場所に行った。まだ、ぶどうの熟するときはずっと先だったので、ぶどう畑のほうに注意をするものはいなかったからである。ギデオンは隠れて黙って働いていたが、イスラエルの状態を悲しく思い、どうしたなら人々から圧迫者のくびきを除くことができるだろうかと、思案していた。

 すると突然、「主の使」が現われて、彼に言った。「大勇士よ、主はあなたと共におられます」。彼は答えた。「ああ、君よ、主がわたしたちと共におられるならば、どうしてこれらの事がわたしたちに臨んだのでしょう。わたしたちの先祖が『主はわれわれをエジブトから導き上られたのではないか』といって、わたしたちに告げたそのすべての不思議なみわざはどこにありますか今、主はわたしたちを捨てて、ミデアンびとの手にわたされました」。

 天からの使者は答えた。「あなたはこのあなたの力をもって行って、ミデアンびとの手からイスラエルを救い出しなさい。わたしがあなたをつかわすのではありませんか」。(人類のあけぼの下巻192, 193)

 ギデオンは、目前にある大きな働きに対して自分自身の不十分さを深く感じた。 ……主は必ずしもみ業のために並はずれた才能の人々を選ぶとは限らない。しかし、主は最もよく用いることのできる人々を選ばれる。神によい奉仕をする者は、しばらくは無名のままでおかれ、主により注目されず、用いられもしないように見えるかもしれない。しかし、もし彼らがキリストのために喜んで働き犠牲を払う気持ちを抱きつつ、低い地位の義務を忠実に果たすならば、主はご自分でお定めになった時にもっと重い責任を任せるであろう。

 謙遜は栄誉に先立つ。主は、自分の無価値さと能力不足を最も感じている人々を用いることがおできになる。主は彼らに信仰の勇気を発揮するように教えられるであろう。主は彼らの弱さを主の力に結びつけて強くし、彼らの無知を主の知恵に結合して彼らを賢くなさるのである。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント] 2巻1003)

 

イスラエルにおける危機

「彼らはホレブで子牛を造り、鋳物の像を拝んだ。彼らは神の栄光を草を食う牛の像と取り替えた。」(詩篇106:19, 20)

 

モーセの不在中、司法権がアロンにゆだねられていたので、大群衆は彼の天幕に集まって、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。……あのモーセはどうなったのかわからないからです」と要求した。……これまで、彼らを導いた雲は山の上に永久に止まってしまい、もはや旅の指示をしなくなったと彼らは言った。……

 こうした危機には、確固とした決断と、なにものにもくじけない勇気の人が必要であった。それは、自分の人気や身の安全、自分の生命そのものよりも、神の栄光を重んじる人である。しかし、そのときのイスラエルの指導者は、そうした品性の人ではなかった。アロンは一応人々をいさめた。しかし、危機に臨んでためらい恐れる彼の態度は、ますます人々をかたくなにするだけであった。……神と結んだ契約を堅く保った者もいくらかあったが、大部分の人々は背信に加わった。……

 アロンは、自分の身の安全を気づかった。彼は、神の栄光のために勇敢に立つかわりに、群衆の要求を受け入れた。……アロンはそれを用いて、エジプトの神をまねた子牛を鋳造した。人々は言った。「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」 。こうしてアロンは卑劣にも、主がはずかしめられるのを許した。そればかりではなかった。アロンは、金の像が人々に歓迎されたのを見て、その前に祭壇を築き、「あすは主の祭である」と布告した。その布告は、ラッパによって組から組へと宿営全体に伝えられた。「そこで人々はあくる朝早く起きて燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。民は座して食い飲みし、立って戯れた」。「主の祭」をするという口実のもとに、彼らは飲食にふけり、みだらな騒ぎを演じた。

 今日でも快楽を愛する心が「信心深い様子」のかげに隠れていることがなんと多いことであろう。礼拝の儀式を守りながらなおかつ人々が利己心または、肉欲の満足にふけることを許す宗教は、イスラエルの時代と同様に今日でも、多くの人々に喜び迎えられている。そして、教会の権威ある地位の人が、清められていない人々の欲するところを受け入れて、彼らが罪を犯すのを助長する柔弱なアロンのような人々が、まだいるのである。(人類のあけぼの上巻370-372)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

兄弟を失望させる

「モーセはアロンに言った、『この民があなたに何をしたので、あなたは彼らに大いなる罪を犯させたのですか』。」(出エジプト32:21)

 

 アロンは、人々の要求が激しく、もし、彼らの願いに応じなければ、自分は殺されてしまったであろうと言って弁解しようとした。……

 アロンが一般の人々よりは、はるかに祝福と栄誉を与えられていたために、彼の罪はそれだけ憎むべきものであった。「主の聖者アロン」が偶像を造り、祭りを布告した(詩篇106:16 ) 。モーセの代弁者として選ばれ、神ご自身が「わたしは彼が言葉にすぐれているのを知っている」と言われた者が、偶像礼拝という神に対する反逆を止めることができなかった( 出エジプト記4:14)。アロンは、エジプト人と彼らの神々を罰するために神に用いられた人であった。そのアロンが、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」という布告を鋳物の子牛の前で聞いても平然としていた( 同32:4)。モーセと共 に山に行き、そこで主の栄光を見て、その栄光のあらわれは、何一つとして形に現わすことができないことを知ったアロンが、神の栄光を変えて、子牛の像を造ったのである。モーセの不在中、人々の支配を神からゆだねられた者が、人々の反逆を許したのであった。「主はまた、はなはだしくアロンを怒って、彼を滅ぼそうとされた」(申命記9:20)。しかし、モーセの熱烈な祈りによって、彼は救われた。彼は、自分の大きな罪を悔いて心を低くしたために、再び神の恵みに浴することが許された。

 もし、アロンが、どんなことになろうとも正しいことのために立つ勇気を持っていたならば、彼は背信を防ぐことができたことであろう。もし彼が神に対する忠誠を堅く保ち、シナイにおける危機について人々に語り、彼らが神の律法を守ることを厳粛に神に誓ったことを思い起こさせたならば、この罪悪は止められたことであろう。しかし、彼が人々の希望に同意して、平然と彼らの計画を進めていく姿を見て、彼らは勇気を増し、以前に計画していたことよりも、さらに大きな罪へと走っていった。……

 神が罰をお与えになるすべての罪のうちで、他の人に悪を奨励することほど、神がきらわれるものはない。(人類のあけぼの上巻376-379)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

顔と顔を合わせて

「人がその友と語るように、主はモーセと顔を合わせて語られた。」(出エジブト 33:11上句)

 

 金の子牛を作るというイスラエルの背信の後、モーセは再び民のために神に嘆願するため出かける。……彼は民に感化を及ぼすためには、まず神に力をいただかねばならないことを経験から学んでいた。主はしもべの誠実さと心からの無我の目的を読みとられ、人がその友と語るように、この弱々しい人間と顔と顔を合わせて交わるほどにご自分を低くされる。モーセは自分自身と自分の重荷をすべて完全に神に差し出し、率直にこのお方のみ前に自分の魂を注ぎ出す。主はご自分のしもべを叱らず、その哀願を聞こうとして身を乗り出される。…… 「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう」という答えがくる。しかしモーセは自分がここで止めることができると感じない。彼は多くのものを得てはいるが、もっと神に近づいて、神のご臨在のもっと強い保証を得たいと切望する。モーセはイスラエルという重荷を負ってきた。圧倒されるような責任の重さを担ってきた。民が罪を犯した時、彼は自分自身が罪を犯したかのように鋭い自責の念にかられた。そして今、神がイスラエルを心が強情で頑迷なままに放っておかれるその恐ろしい結果についての光景が彼の魂を圧迫するのである。……モーセは非常に熱心に熱意をこめて嘆願するので、「あなたはわたしの前に恵みを得、またわたしの名をもってあなたを知るから、あなたの言ったこの事をもするであろう」いう答えがくる。

 今、わたしたちはいかにもこの預言者が嘆願を止めるだろうと思いがちであるがそうではなく、彼の成功によって励まされる。モーセはほとんどわたしたちの理解を越えた聖なる親しさをもって、あえてなお神に近づこうとする。彼は「どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください」と、人間が未だしたことのない懇願を今するのである。有限な、死を免れない人間から何という祈願がなされたことか。彼は拒否されるのだろうか。神はモーセをあつかましいとお叱りになるのだろうか。いいえ、わたしたちは「わたしはわたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ」という恵みのみ言葉を聞くのである。……

 モーセの忠実の中にわたしたちは、神との親しい交わりが人間にとってどれほど喜びにみちた特権であるかを見ることができる。(教会への証5巻531-533)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

異火

「さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、」(レビ記10:1)

 

 ナダブとアビウは、モーセとアロンに次いで、イスラエルのうちで高い地位にあった。彼らは、特に主からの栄誉を受け、七十人の長老たちと共に、山で主の栄光を見ることを許された者たちであった。しかし、それだからといって、彼らの罪の言い訳がなりたったり、それが軽く見すごされたりしてはならなかった。むしろ、このために彼らの罪はいっそう重くなった。人は、大きな光を受けたからとか、また、イスラエルの君たちのように山にのぼって神と交わり、神の栄光に浴する特権を得たからといって、自分はそのあとで罪を犯しても罰せられないと考えてはならない。また、このような栄誉を受けたのであるから、神は自分の罪をきびしく罰せられることはないと思ってはならない。そのように考えることは 致命的な誤りである。与えられる光と特権が大きければ、その光に応じた徳と聖潔がそこに要求される。神は、これ以下のものはお受けになることができない。大きな祝福や特権を得たからといって、もう安全であると思い、軽率にふるまってはならない。それらは、罪を黙認するものでもなければ、また、神が、その人々を厳格にあつかわれないと思ってよいものでもない。……

 ナダブとアビウは、少年時代に自制の訓練を受けなかった。……彼らはかってにふるまう習慣が長く続いたために、最も神聖な職務の責任を負わせられても、その習慣からぬけきれなかった。彼らは、父親の権威を尊ぶことを教えられていなかった。そして、彼らは神の要求に厳格に従う必要を認めなかった。アロンがあやまってむすこたちを甘やかしたために、ついに彼らは神の刑罰を受けなければならなくなった。

 神は、民らが崇敬と畏怖をもって神に近づき、しかも神の定められた方法に従わなければならないことを教えようとなさった。神は、なまはんかな従順をお受けになることができない。厳粛な礼拝のときにあたって、ほとんどすべてのことが神の指示どおりに行なわれるというだけでは不十分であった。……だれも自分を欺いて、神の戒めの一部は不必要であるとか、神はご自分の要求なさることの代わりのものでも、お受けになるとか考えてはならない。(人類のあけぼの上巻425, 426)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

注意を払うには酔いすぎていた

「酒は人をあざける者とし、濃い酒は人をあばれ者とする、これに迷わされる者は無知である。」(箴言20:1)

 

 もしもナダブとアビウが、初めから酒をほしいだけ飲んで半ば泥酔状態になっていなければ、この致命的な罪を犯すことはなかったであろう。彼らは神の臨在のあらわれる聖所にはいる前には、細心の注意を払って、厳粛に準備することが必要であることを承知していた。だが、彼らは不節制によって、清い職務にたずさわる資格を失ってしまった。彼らの心は混乱し、道徳的感覚は鈍り、神聖なものと世俗のものとの区別ができなくなってしまった。アロンとそのほかの子らはこう警告された。「……ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。……これはあなたがたが聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができる……ためである」。飲酒はからだを弱め、思想を混乱させ、道義を低下させる作用を持つ。それは、人に聖なるものの神聖さと、神の要求の拘束力を認めさせない。清い責任ある地位についた者はみな、きびしく節制を守って頭脳を明せきにして善悪を区別し、原則に堅く立ち、公正を行ない、あわれみの心を持つ知恵がなければならなかった。

 それと同じ義務が、キリストに従うひとりひとりに負わされている。……あらゆる時代のキリストの教会に、この厳粛で恐るべき警告が与えられている。すなわち、「もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」(コリント第一3:17)。(人類のあけぼの上巻427-429)

 アロンの息子たちの事件は神の民のための益になるようにと記録されており、キリストの再臨に向けて準備をしている者たちにとって特に教訓となるべきである。それは、堕落した食欲の放縦は魂の健全な感覚を破壊し、神が人に与えてくださっている理性の力に非常に影響するので、霊的なまた聖なる事柄がその神聖さを失う。不従順が非常に罪深いものと思えずむしろ魅力的に思える。(節制149)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まちがった愛

「主はそのしもべモーセと、そのお選びになったアロンとをつかわされた。」(詩篇105:26)

 

 アロンは、モーセと共に立ち、彼のために語るようにと、神が選ばれた愛想のよい気質の人であった。……神はアロンを指導者として選ぶこともおできになった。しかし心を知っておられ、品性を理解される神は、アロンが譲歩しやすく、どのような状況にあっても、結果を考えないで正義を守るために立つ道徳的勇気に欠けていることを知っておられた。人々によく思われたいと思うアロンの気持ちは、時々彼が大きな過ちを犯すよう導いた。……彼の家族の内にあった正義に対する断固とした態度の欠如が二人の息子の死という結果をもたらした。……ナダブとアビウは神のみ前に、薫香と共に香炉に神聖な火を捧げるようにという神の命令を敬うことに失敗した。……

 ここに節度のない規律の結果が見られる。このアロンの息子たちは父親の命令を尊重し敬うよう教育されていなかったので、また親の権威に注意を払わなかったので、彼らは神のご要求に明確に従う必要をはっきりと理解しなかった。 ……神のはっきりとした指導に反対して、彼らは神聖な火の代りに普通の火を捧げることにより、神を辱めた。神は彼らに憤りをあらわされ、み前から火が出て彼らを減ぼした。

 アロンは忍耐とへりくだった服従をもって厳しい苦悩に耐えた。悲しみと鋭く激しい苦痛が彼の魂を苦しめた。彼は義務の怠慢についての宣告を受けた。アロンは民の罪をあがなういと高き神の祭司であった。彼は自分の家族の祭司でもあったが、子供たちの愚行を見過ごしにしがちであった。子供たちを従順にし、自制をさせ、親の権威を尊重するよう訓練し教育するという義務を無視していた。放縦についてのまちがった考えを通して、アロンは永遠の事柄に対する崇高な尊敬の念をもって、子供たちの品性を形作ることに失敗した。アロンは、多くのクリスチャンの両親が今日、見ている以上のことを見てはいなかった。アロンのまちがった愛と、不正を犯した子供たちの放縦は確かに神のご不興をかう準備を彼らにさせていた。……親の抑制力をしっかりと働かせることのない、アロンの優しい忠告と息子たちに対する無分別な優しさはこの上ない残酷な行為であった。(教会への証3巻293-295)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

弱くなった魂

「しかし彼らはまもなくそのみわざを忘れ、その勧めを待たず、野でわがままな欲望を起し、荒野で神を試みた。主は彼らにその求めるものを与えられたが、彼らのうちに病気を送って、やせ衰えさせられた。」(詩篇106:13-15)

 

 彼らの食欲が制限されるたびに、イスラエル人は不満に思ってつぶやき、モーセとアロン、そして神に対して不平を言った。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]1巻1102)

 神は、人々があまりにもほしがるために、彼らのために、最善のものではなかったが、お与えになった。彼らは、自分たちのからだのためになるものでは満足しなかったのである。彼らの反逆的欲求は満たされたけれども彼らは、そのために苦しまなければならなかった。彼らは、食べたいだけ食べた。彼らの不節制は直ちに罰せられた。……多くの人々が熱病で倒れた。一方、彼らの中の最も罪深い人々は、彼らがほしがった食物を口にするやいなや、打たれた。(人類のあけぼの上巻457)

 神は、マナと同様に肉もたやすくお備えになることができたのであるが、それが与えられなかったことは、彼らのためを考えた上でのことであった。多くの者がエジプトで食べ慣れていた刺激性の食物よりも更によい食物を与えることが、神のみこころであった。ゆがめられた食欲を、もっと健康な状態にもどさなければならなかった。それは、神がエデンの園で、アダムとエバにお与えになった地の果実など、人間に最初に与えられた食物を楽しむことができるようになるためであった。イスラエルの人々に動物の肉がほとんど与えられなかったのは、こうした理由からであった。

 サタンは、こうした制限が不正で残酷なもののように人々に思わせた。サタンは、禁じられたものを、人々がほしがるようにしむけた。なんの制限もなく食欲をほしいままにすれば、肉欲にふけりやすくなるのをサタンは知っていた。こうして、人々はたやすく彼の手中に陥った。病気と不幸の創始者は、最も成功をおさめる場所で人々を攻撃する。サタンは、エバに禁断の実を食べるように誘惑してからこのかた、主として食欲への誘惑によって、人々を罪に陥れた。サタンがイスラエルの人々を神に対してつぶやかせたのも、この同じ方法によってであった。飲食の不節制は、人々を低い欲望にふけらせるもととなり、ひいては、人々にすべての道徳的義務を無視させる原因になる。彼らが誘惑に襲われるならば、なんの抵抗力ももたないのである。(同上450, 451)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二人が一人を

「なぜあなたがたはわたしのしもべモーセを恐れず非難するのか。」(民数記12:8)

 

 ミリアムは、モーセとアロンに次いで、人々から愛され、天の誉れを受けていた。しかし、天で初めに不和をもたらした同じ罪悪がミリアムの心に起こり、その不満にすぐ同情した者があった。……

 もし、アロンが正しいことのために堅く立ったならば、このような悪をとどめることができたことであろう。しかし、アロンは、ミリアムにその行動が罪深いものであることを示さずに、かえってミリアムに同情し、彼女のつぶやきの言葉を聞き、そのねたみに同意するようになってしまった。(人類のあけぼの上巻457-459)

 七十人の長老を任命することに関して、ミリアムとアロンは、なんの相談も受けなかった。そのために、彼らはモーセに対してねたみをいだいた。……ミリアムとアロンは、モーセがどんなに重い苦労と責任を背負っていたかを知らなかった。しかし、彼らは、自分たちがモーセを助けるように選ばれたために、自分たちも同じように指導の責任を分担したものと考え、それ以上の助け手を任命することはよけいなことであると考えたのである。……

 『主はただモーセによって語られるのか。われわれによっても語られるのでは ないのか』」(民数記12:2)。自分たちも同様に神の恵みを受けているとみなして、自分たちも同じ地位と権威が与えられているものと感じた。……

 神はモーセを選んで、神の霊を彼の上にお与えになったのである。そして、ミリアムとアロンは、つぶやいたことによって、定められた指導者に対してばかりでなく、神ご自身に対して、不忠誠の罪を犯したのである。……

 神の民の指導者と、教師としての重い責任を人々に負わせられた神は、人々がそのしもべたちをどのようにあつかうかの責任を問われる。われわれは、神が尊ばれた人々を尊ばなければならない。神が、神の働きの重荷を負わせられた人々をねたみ、つぶやくすべての者にとって、ミリアムに下った罰は、自分に対する譴責であると思わなければならない。(同上458-462)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最も悪魔的な性質

「憤りはむごく、怒りははげしい、しかしねたみの前には、だれが立ちえよう。」(箴言27:4)

 

 モーセは彼らの非難をつぶやかず、黙って耐えた。モーセが人々の不信とつぶやきを忍耐し、彼のゆるがぬ助け手であるべき人々の誇りとねたみに耐えることができたのは、ミデアンで苦労しながら待っていた年月の間の経験、すなわち、彼がそこで得たけんそんと忍耐の精神のおかげであった。モーセは、「その人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた」(民数記12:3)。そのため、モーセは、すべての人にまさって神の知恵と指導とが与えられていた。聖書に、「へりくだる者を公義に導き、へりくだる者にその道を教えられる」とある(詩篇 25:9) 。柔和な者は、すなおで、喜んで教えを受けるから、主に導かれるのである。 ……

 「主は雲の柱のうちにあって下り、幕屋の入口に立って、アロンとミリアムを呼ばれた」( 民数記12:5)。……「主は彼らにむかい怒りを発して去られた」。神の怒りのしるしとして、雲が幕屋から離れた。そして、ミリアムは打たれた。彼女は「らい病となり、その身は雪のように白くなった」。……こうして彼らの誇りは打ち砕かれて、アロンは自分たちの罪を告白し、ミリアムがこの恐ろしい罰を受けたまま滅びることがないように嘆願した。モーセの祈りにこたえて、ミリアムのらい病はいやされた。しかし、ミリアムは七日の間、宿営の外に閉じ込められた。……

 このように主の怒りがあらわされたのは、イスラエル全体に対する警告のためであって、不満と不服従の精神が強くなるのを防ぐためであった。もしも、ミリアムのねたみと不満とが著しく譴責されないままでいると、さらに大きな害毒を及ぼしたことであろう。ねたみは人の心の中の最も悪魔的性質の一つであって、最も恐ろしい結果を生じるものである。……初めに天で不和を起こしたのは、ねたみであった。そして、ねたみのゆえに人人の間で数えきれない害がもたらされた。「ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある」(ヤコブ3:16)。(人類のあけぼの上巻459-462)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

矛盾した報告

「そして彼らはその探った地のことを、イスラエルの人々に悪く言いふらして言った。」(民数記13:32)

 

 主はカナンの地を探るために人をつかわすようにとモーセに命じられた。その地は主がイスラエルの子らに与えようと思っておられる地であった。……彼らがカナンの地が肥沃であることについて、語った後、二人以外のすべての者は、この地を所有する可能性について非常に落胆させるように話した。……民はこの報告を聞いて、激しい非難と嘆き悲しみのうちに自分たちの失望を爆発させた。彼らは、自分たちをこれほど遠くまで連れてこられた神が、必ずこの地を自分たちに与えて下さるということをよく考えようとしなかった。……

 カレブは急いで前に出たので彼のはっきりとした響き渡る声は群衆の叫び声を圧して聞こえた。カレブは、全イスラエルの信仰と勇気を弱めてしまった斥候たちの臆病な見解に反対した。彼が人々の注意を引いたので、彼らはカレブの言うことを聞こうとして一瞬つぶやくのを止めた。……しかし彼が話しはじめた時、不忠実な斥候たちは「わたしたちはその民のところへ攻めのぼることはできません。彼らはわたしたちよりも強いからです」と言って、カレブの言葉をさえぎった。

 間違った道に進み始めたこの人々は、自分の心を神に対し、モーセとアロンに対して、そしてカレブとヨシュアに敵対させた。間違った方向に進んだ一歩一歩が、カナンの地を所有する一つ一つの試みを妨げようとするその計画をますます強固なものにした。彼らは自分たちの有害な目的を遂行するために真理を曲げた。彼らは気候が健康的ではないと言い、すべての人々が巨人であると言ったのである。 ……

 これはただ悪質な報告というだけではなくて、うそでもあり、矛盾したことであった。なぜなら、もしも土地が不健康であって、住民を滅ぼす地であるのなら、どうしてその人々はそれほどまでに巨人になったのであろうか。責任ある地位の人々が、自分の心を不信仰へ明け渡すなら、悪意をもって進むのを止めるものはない。……もし二人だけが悪意にみちた報告を持って帰り、他の十人が、主のみ名によってその地を所有するようにと民を励ましたとしても民はそのよこしまな不信仰のゆえに、十人の方ではなく二人の忠告を採用したことであろう。(教会への証4巻148-151)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜ待つのか

「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます。」(民数記13:30)

 

 カレブに勇気を与えたのは神を信じるその信仰であった。この信仰が……正義を守るために、カレブを勇敢にまたゆるぐことなく立たせることができたのである。天軍の力強い司令官であられるその同じ気高い源から、キリストの十字架を負う真の兵士はみな、しばしば克服できないように思える障害に打ち勝つ力と勇気を受けなければならない。……自分の義務を果したいと思う者は、神が自分に与えて下さるみ言葉を語る準備をたえずしていなければならない。そしてその言葉は疑いや失望、落胆させる言葉であってはならない。……

 疑っている者が不可能について語ったり、高い壁や強い巨人のことを思ってふるえている間に、「他の精神」を持っている忠実なカレブに前へ来させなさい。救いをもたらす神の真理は、不忠実な斥候がしたように牧師や信者であると自称する者が、真理の道を生け垣でふさがなければ、民のところへ出て行くのである。 ……

 人はこの働きに従事しなければならない。熱心さと活力が増さなければならない。怠惰によってさびついている夕ラントを奉仕へ活用させなければならない。「待ちなさい。あなたに負わされている重荷を負おうとしてはならない」と言う声は臆病な斥候の声である。わたしたちは今、先頭に立って押し進むカレブ、勇気ある言葉で、即、行動するよう、うながす力強い報告をするカレブを必要としている。背の高い巨人と近寄りがたい壁に恐れをなす、利己的で安逸を愛し、あわてふためいた人々が、引き返すことをやかましく要求する時に、カレブの声が聞こえるようにしなさい。たとえ臆病な者がその手に石を持ち、忠実な者をその忠実な証のゆえに打ち殺そうとかまえていても。(教会への証5巻378-383)

 忠実なカレブが召されるのは、不信仰な者が神のみ言葉に侮りを投げかける時である。その時こそ、忠実な者は誇示することなく、非難を恐れることなく自分の持ち場で義務に堅く立つ。不信仰な斥候たちは、カレブを殺す用意をして立っていた。カレブは偽りの報告をもたらした者たちの手に石があるのを見たが、それが彼を思いとどまらせはしなかった。カレブはメッセージを持っており、それを伝えたいと願った。同じ精神が、神に忠実な人々によって今日も表わされるであろう。(セレクテッド・メッセージ2巻369)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

陣営での反乱

「こういう人々は、大胆不敵なわがまま者であって、栄光ある者たちをそしってはばかるところがない。」(ペテロ第二2:10)

 

 神が自分たちを救うために用いられる器を拒否し、軽べつすることほど、神への大きな侮辱はあり得ない。……

 天においてサタンを反逆させたのと同じ精神が、小規模ではあったが、コラの反逆のなかに見られたのである。神の統治に対する不満をルシファーにいだかせ、天の秩序をくつがえそうとさせたのは、誇りと野心であった。サタンは堕落以来、この同じねたみと不満、地位や名誉に対する野心を人間の心に植えつけようとしてきた。こうして、彼は、コラ、ダタン、アビラムの心を動かし、自己高揚心を起こさせ、ねたみ、不信、反逆の精神をかきたてたのである。サタンは彼らに、神の任命された人々を拒ませて、彼らの指導者であられる神を拒否させたのである。彼らは、モーセとアロンに向かってつぶやき、神を冒涜していながらも、なお、自分たちは正しく、彼らの罪を忠実に譴責した人々をサタンに動かされているとみなすほどに欺かれていた。

 コラの滅亡の根底に横たわっていた同じ悪が、なお、存在しているのではなかろうか。誇りと野心は広く人の心を支配している。そして、この精神は、ねたみと、最高の地位を求める心を起こさせる。魂は神から離れ去って、無意識のうちにサタンの側に引かれるのである。多くの者、また、キリストの従者であると公言する者でさえ、自分を高めるために熱心に考え、計画し、努力している。そして、人々の共鳴と支持を得るためには、あえて事実をもまげ、主のしもべたちを偽って悪 く言い、自己の心のいやしい利己的動機を、彼らの動機であるかのように非難す るのである。十分の証拠があるにもかかわらず、虚偽をくりかえしているうちに、彼らはついにそれを事実であると思うようになる。神が任命された人々に対する民の信頼を失わせようとしていながら、自分たちは善事を行ない、真に神に奉仕していると思い込むのである。……

 人間は、罪にふけることによって、心の中にサタンがつけ込むすきを与える。そして、一つの悪から次の悪へと進んでいく。光の拒否によって思考は暗く、心は堅くなる。そして、容易に次の罪を犯し、さらに大きな光を拒み、ついには罪を犯すことが習慣になってしまうのである。罪は彼らにとって、悪いものとは思われなくなる。(人類のあけぼの上巻486-489)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼は忍耐を失った

「だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。」(ヤコブ1:4)

 

 モーセは地上に住む者のうちで最も柔和な人であったという事実にもかかわらず、一度神のご不興をこうむった。……自分の身にふりかかった民の不当な非難が、モーセに、彼らのつぶやきは自分に対してではなく、神に対してであることを一瞬忘れさせてしまったのである。そして神のみ霊が侮辱されたので深く悲しむかわりに、いらいらし、感情を害して、身勝手な我慢のない態度で、「そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」と言いながら、その岩を二度打ったのである。……

 モーセは民の前で大きな弱さをあらわした。明らかな自制心のなさ、すなわちつぶやく人々が持っているのと同じ精神を示したのである。彼は自分の側からこの誤った行為をすることによって、自分たちの失敗や不満、不当なつぶやきをすぐに言い訳する群衆の前で、寛容と忍耐の模範となることができなかった。最も大きい罪は僭越にも神の立場を取ったことにあった。モーセが今まで占めていた名誉ある地位は、彼の罪を減らすのではなく、むしろもっとその罪を大きいものにした。今までなんら欠点のなかったモーセが今つまずいたのである。同様の立場にある多くの人が、自分たちの罪は長年にわたる揺れ動くことのない忠誠のゆえに見過ごされるであろうと判断しがちである。しかしそうではない。神から栄誉を受けている者にとって激しい感情を表して品性の弱さを示すのは、その人がもっと責任の少ない立場を占めている時よりも、もっと深刻なことである。モーセはキリストを代表する者であったが、そのかたちが損なわれてしまったとはなんと悲しいことであろうか。モーセは罪を犯した。そして彼の過去の忠誠は現在の罪を贖うことはできなかった。……モーセとアロンはカナンに入らないで死ぬことによって、荒野で死ななければならなかった人々に降りかかったのと同じ罰を受けたのである。彼らは表現し難いほど心に悲しみを覚えたけれども服従してひざまずいた。そして神に対する彼らの愛と信頼は揺るがなかった。……しかしほとんどの者が罪の罪深さに気づいていない。……モーセとアロンの場合は……言葉においても、思いや行動においても罪を犯すのは安全ではないことを示している。(教会への証4巻369, 370)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

罪に言い訳はない

「彼らはまたメリバの水のほとりで主を怒らせたので、モーセは彼らのために災にあった。これは彼らが神の霊にそむいたとき、彼がそのくちびるで軽率なことを言ったからである。」(詩篇106:32, 33)

 

 もし、モーセとアロンが自尊心をいだいたり、神の警告と譴責に対して怒りをいだいたりしたならば、彼らの罪はさらに大きくなったことであろう。しかし、彼らは、故意、または、計画的な罪を犯したのではなかったから、その責めは受けなかった。彼らは、突然の誘惑に負けたのであって、それをすぐに心から悔い改めたのである。主は、彼らの悔い改めを受け入れられた。しかし、彼らの罪が民の間におよぼす害を考えられたときに、刑罰を免じることはおできにならなかった。……

 神は人々の大きな罪をお許しになったのであるが、指導者の罪は、指導されるものの罪と同一に扱うことはできなかった。神は、地上のいかなる人よりも、モーセを尊ばれた。……モーセが、大きな光と知識を与えられていたことが、彼の罪をさらに重いものにした。過去の忠誠も、一つの誤った行為の償いにならない。人に与えられた光と特権が大きければ大きいほど、その責任も大きくなり、その失敗がはなはだしければはなはだしいほど、刑罰も重くなるのである。

 モーセは、人々が考えるほどの重罪を犯したわけではなかった。……しかし、もし神が、ご自分の最も忠実で尊ばれたしもべの罪に対してこれほどきびしい処置を取られたのであれば、他の者の罪も許されないことであろう。……

 神を信じると公言する者は、すべて、どんなに腹だたしいことが起こっても、心を守り、自制するという神聖な責任が負わせられている。モーセに負わせられた重荷は非常に重かった。彼のようなきびしい試練を受ける人は、今後、またとないであろう。しかし、そうだからといって、これは彼の罪の許しの口実にはならなかった。神は、神の民のために十分の準備をしておられたのである。そして、もし彼らが神の力に信頼していたならば、彼らは環境にもてあそばれるようなことはなかったであろう。どんなに激しい誘惑であっても、罪の言いわけにはならない。どんな圧力が魂に加えられたにしても、犯罪は、われわれ自身の行為なのである。この世と陰府のいかなる力も、人間に悪を強制することはできない。サタンは、われわれの弱点を攻撃するが、われわれは負ける必要はない。攻撃がどんなに激しく、不意に襲ってきても、神はわれわれに助けを備えられた。われわれは、神の力によって勝利することができるのである。(人類のあけぼの下巻16-20)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

墓から栄光

「その時わたしは主に願って言った、『主なる神よ、あなたの大いなる事と、あなたの強い手とを、たった今、しもべに示し始められました。天にも地にも、あなたのようなわざをなし、あなたのような力あるわざのできる神が、ほかにありましょうか。どうぞ、わたしにヨルダンを渡って行かせ、その向こう側の良い地、あの良い山地、およびレバノンを見ることのできるようにしてください』。しかし主はあなたがたのゆえにわたしを怒り、わたしに聞かれなかった。そして主はわたしに言われた、『おまえはもはや足りている。この事については、重ねてわたしに言ってはならない。』(申命記3:23-26)

 

 キリストの犠牲によって実証されるまで、モーセをあつかわれた神の方法ほどに、著しく神の正義と愛をあらわしたものはほかになかった。神は、忘れてならない教訓、すなわち、神は厳密な従順をお求めになるということ、また、人は創造主に帰すべき栄光を自分に帰してはならないということを教えるために、モーセをカナンから締め出された。神は、イスラエルの嗣業にあずからせてほしいというモーセの祈りを、受け入れることがおできにならなかった。しかし彼は、ご自分のしもべを忘れたり、捨てたりなさらなかった。天の神は、モーセが耐えてきた苦悩を理解し、争闘と試練の長い年月を忠実に仕えてきた一つ一つの行為をご存じであった。神は、ピスガの頂上で、地上のカナンとは比較にならないほど輝かしい嗣業にモーセをお召しになったのであった。

 モーセは、天に移されたエリヤと共に変貌の山に現われた。彼らは、天父からみ子に光と栄光を伝えるためにっかわされた。こうして幾世紀も前にささげられたモーセの祈りがついに果たされた。彼は、神の民の嗣業の中にある「良い山地」に立った。……

 モーセはキリストの型であった。……イスラエルの群集を地上のカナンに導く準備をさせるために、神は、モーセを苦難と困窮の学校で訓練するのをよしとされた。天のカナンに向かう神のイスラエルには、天来の指導者としての務めを果たすのに、人間の教えを必要としない指揮官がおられる。だが、その彼も苦難を通して全うされ、こうして、「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである」(ヘブル2:18)。われわれの 贖い主は、一つとして人間的弱さや欠陥を表わされなかったが、われわれが約束の地にはいることができるために死なれた。

 「さて、モーセは、……仕える者として、神の家の全体に対して忠実であったが、キリストは御子として、神の家を治めるのに忠実であられたのである。もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである」(同3:5, 6)(人類のあけぼの下巻97, 98)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

正しい選択

「信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、」( へブル11:24, 25)

 

 モーセはエジプトの学校で最高の文武の教育を受けた。モーセの立派な容貌や体格から受ける容姿の大きな魅力、教養をつんだ知性と貴公子然たる態度、武官としての盛名―そうしたことのために彼は、エジプト国民の誇りとなった。(教育59)

 パロの王位にすわるものは、みな、神官たちの階級に属さなければならなかった。モーセは、正式の後継者であったのでこの神秘的な国家宗教を伝授されるべきであった。……

 モーセは非常に勤勉でまじめな研究家ではあったが、彼を偶像礼拝に参加させることはできなかった。彼は、王位につけないかもしれないとおどかされた。また、あくまでもヘブルびとの信仰を離れずにいるならば、パロの王女から破門されるかもしれないと警告された。しかし、天地の創造主であるただひとりの神以外は何をも礼拝しないという彼の決意はゆるがなかった。……

 モーセは、地上の偉大な人物の中で傑出した者となり、地上の最も華麗な王国の宮殿の中でも一段と輝き、王国の権力を示す笏を持って支配するのにふさわしい者であった。彼の知的な偉大さは、各時代の偉人よりもはるかにすぐれていた。歴史家、詩人、哲学者、軍隊の指揮官、また、立法官として彼と並び得る者はなかった。しかし、彼は、こうした世界を前において、「罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び」、富、偉大さ、名誉などを得ることができる有望な将来を断固として拒む道徳的能力をもっていた。

 モーセは、神が謙虚で従順なしもべにお与えになる最後の報酬について教えられた。であるから、それに比較すれば、世的な利益などはまったく無価値なものになってしまうのであった。彼らは、パロの壮麗な宮殿や王座をさし示して、モーセの心を引きつけようとした。しかし神を度外視した罪の快楽が、その堂々たる宮廷にあることを彼は知っていた。彼は、華麗な宮殿や王冠のむこうの、罪に汚れていないみ国において、至高者の聖徒たちに与えられる大きな栄光を仰いでいた。彼は、信仰によって、天の王が勝利者の頭におかれる朽ちない冠をみていた(人類のあけぼの上巻279-281)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神の方法ではない

「モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、言葉にもわざにも、力があった。」(使徒行伝7:22)

 

 モーセは、エジプトの学問を身につけたことが、イスラエル人を奴隷から導き出す資格を自分に十分与えたと思った。軍隊の将軍に必要なことをすべて学んだではないか。地上にある最高の学校で最も優秀だったではないか。その通り。自分は彼らを解放することができるとモーセは思った。彼はまず自分の民の不正を正して、彼らの好意を得ようとすることから働きにとりかかった。彼は自分の同胞の一人を威圧していたエジプト人を殺した。こうすることにより、彼は初めから人殺しであった者の精神をあらして、憐れみと愛と優しさに満ちた神を代表する には不適格であることを自ら証明した。彼は初めての誘惑にみじめな失敗をしてしまった。他の多くの人のように、彼はその時すぐに神にあっての確信を失い、自分に任命された働きに背を向け、パロの怒りから逃れた。彼は自分の過ちのゆえに……神がご自分の民を残酷な奴隷状態から解放する働きにおいて、自分にはどのような役割を果たすこともお許しにならないだろうと結論した。しかし主はご自分に仕えるすべての働き人が持つ必要のある寛容、親切心、忍耐をモーセに教えることができるようにと、これらのことを許された。……

 人間的には非常にほまれ高い立場にいる時に、主は、モーセが人間の知恵の愚かさ、人間の力は弱いものであることをあらわすことを許された。それは彼が、自分が完全に無力であり、主イエスに支えられなければ無能な者であることを理解できるよう導かれるためであった。(クリスチャン教育の基礎342-344)

 モーセは、エジプト人を殺したとき、父祖たちがくりかえして犯したと同様に、神がご自身でなしとげると約束されたことがらを自分の手で実現しようとする同じあやまちを犯した。モーセが考えたように、戦争によって民族を解放しようとすることは、神のみこころではなかった。それは、神だけに栄光を帰すようになるために、神の大いなる力によって実現するはずであった。しかしこうした モーセの行動も、神の目的達成のために神が支配しておられたのである。モーセは、まだ、この大いなる仕事に当たる備えができていなかった。彼もまた、アブラハムやヤコブが学んだのと同じ信仰の教訓、すなわち神の約束の成就のためには、人間的な知恵や力にたよらず、神の力にたよることを学ぶ必要があった。(人類のあけぼの上巻282)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神の大学

「なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かなものだからである。『神は、知者たちをその悪知恵によって捕える』と書いてあり、」(コリント第一3:19)

 

 自分自身を神の共労者にふさわしい者とするために努力するにあたって、人は、主が自分に与えようとしておられる人格形成をするのに、まったく適さないような立場に、身を置く場合がたびたびある。このようにして彼らはモーセがしたように、神のかたちを身に帯びていないことがわかる。神の訓練に身を委ねることによって、モーセは主が彼を通して働くことのできる清められた通路となった。モーセは主の方法を取るために、それが不慣れなやり方、今まで試してみたことのない方法であっても、自分の方法を変えるのを躊躇しなかった。……

 モーセが自分のすべての敵に打ち勝つことができたのは、エジプトの学校教育ではなく、常に変わらぬ信仰、たじろがない信仰、最も苦しい状況のもとでもなくなってしまわなかった信仰のゆえであった。……モーセは目には見えないお方を見ているかのように行動した。

 神は完全な教育を受けた人を求めておられるわけではない。……主は人が神との共労者であることの特権を正しく認識すること、すなわち以前に繰り返し教え込まれた教理に関係なく、ご自分の要求に絶対服従することによってご自分をあがめる人々を望んでおられる。……

 一般の学校で教育を完成させることによって、神の高貴なみ働きのための能力を身につけようと思っている多くの人は、主が自分に教えたいと望んでおられるもっと重要な教訓を学ぶのに失敗していることに気づくであろう。聖霊の感化に屈服するのを拒むことにより、また神のご要求すべてに服従しない生活により、彼らの霊的能力は弱くなってしまっている。……キリストの学校を欠席することにより、彼らは教師キリストのみ声の響きを忘れてしまっているので、この方は彼らの進路を指図することができない。人は、人間の教師が分け与えることのできる知識はすべて得ることができる。しかし神が彼らに要求しておられるもっと偉大な知恵がある。モーセのように、彼らは柔和、心のへりくだり、自己に信頼しないことを学ばなければならない。人間のために試練を負ってくださっているわたしたちの救い主ご自身が、ご自身ではなにもできないことを認識しておられた。わたしたちも、人間だけでは力がないことを学ばなければならない。人は神の性質にあずかることによってのみ、有能な者になるのである。(クリスチャン教育の基礎345-347)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もっと価値がある

「キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。」(へブル11:26)

 

 モーセは生徒であった。彼はエジプト人の教育をすべて十分に受けていたが、彼が働くために必要であった唯一の資質はそれではなかった。神のみ摂理により、彼は忍耐を学び、激しい気性を抑制しなければならなかった。克己と苦難という学校で、彼は自分にとって最も大切なものとなる教育を受けなければならなかった。これらの試練は、彼が自分の助けを必要とするすべての人々に対して父親のように、注意を払う備えとなった。清算をしなければならない魂として、その人々を見守らねばならない人にとって、知識や学問、また雄弁は試練の時のこの経 験に代ることはできない。いやしい羊飼いという仕事をするなかで、自分にまかされている群れに己を忘れて関心を持つなかで、モーセは主の牧場にいる羊の羊飼いになるという、限りある人間に委ねられた最も尊い働きにふさわしい者となった。

 世にあって神を畏れる者はこのお方に結びついていなければならない。キリストは世が今までに知っている最も完全な教育者である。このお方から知恵と知識を受けるのは、モーセにとってエジブト人の全ての教育にまさって価値のあるものであった。……

 モーセの信仰は、彼が目には見えない永遠の事柄を見るよう導いた。彼は宮廷生活の華麗な魅力からそこに罪があるので離れ、滅びと破滅へ向けて喜ばせるだけの現在の良く見えるものをあきらめた。真の魅力、永遠が彼にとって価値あるものであった。モーセの払った犠牲は、本当は犠牲ではなかった。彼にとって、それは現在の表面上は喜ばせるような良い物をやり過ごして、確かで気高く不朽の良い物と取り換えることであった。

 モーセはキリストのゆえに受けるそしりを、エジブトのすべての宝にまさる富と考えて耐えた。彼は、神が仰せになったことを信じ、世からのどのようなそしりにも、自分の清廉からそれるような影響を受けることはなかった。彼は神の自由人として地上を歩み……目には見えないものを見、たじろぐことはなかった。彼を引きつけたのは報いへの望みであり、それはわたしたちにとっても同じである。モーセは神と親しかった。(教会への証4巻343-345)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目には見えない方を見る

「信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。」(へブル11:27)

 

 モーセには個人的な神のご臨在についての深い認識があった。彼は肉においてあらわれるキリストが来られる時代を見ていただけではなく、自分たちの旅の全行程の間イスラエルの子らに特別な方法で同行しておられるキリストを見た。彼にとって神は現実の方であり、彼の思いの中にいつも存在しておられた。誤解された時、危険に直面しキリストのために侮辱を受けるよう召された時、彼は仕返しをしないで耐え忍んだ。モーセは神を、自分が必要としているお方、自分が必要とするなら助けて下さるお方として信じた。神は彼にとって現在の助けであった。

 わたしたちが見る信仰の多くは名ばかりの信仰であって、現実の信頼する辛抱強い信仰はまれである。モーセは自分自身の経験の中で、神がご自分をたえず求める者に報いを与えるお方であるという約束に気づいた。彼はその報いを尊重した。ここに私たちが研究したいと願う信仰に関するもう一つの点がある。神は信仰と従順の人に報われる。もしこの信仰が人生経験に持ち込まれるなら、神を畏れ、愛するすべての者は試練に耐えることができるようになる。

 モーセは適切な信仰を持っていたので、神に完全に信頼していた。彼は助けを必要とし、それを求めて祈り、信仰によってそれをつかみ、神が自分を気にかけて下さっているという確信を自分の経験に織り込んだ。彼は神が自分の生涯を特別に支配しておられると信じた。彼は自分の生涯のあらゆるささいな事に神を見、神を認め、自分がすべてを見ておられる方、動機をはかり、心を試されるお方の目にさらされていると感じた。彼は神を見つめ、あらゆる形の誘惑を通して自分を朽ちない者にする力を持っておられる方として、この方を信頼した。…… 神のご臨在は、彼が、人間の置かれ得る最も試練にみちた状況を切り抜けていくのに十分であった。

 モーセは単に神のことを考えたのではなく、神を見た。神はたえず彼の目の前におられ、モーセはそのみ顔を決して見失うことはなかった。彼はイエスを自分の救い主として見、救い主の功積が自分に着せられることを信じた。この信仰はモーセにとって推測ではなく現実であった。これがわたしたちの必要とする信仰であり、試練に耐える信仰である。ああ、わたしたちはどれほど度々イエスに目を止めていないために誘惑に負けることであろうか。(教会への証5巻651, 652)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

知識を得ることと捨てること

「これは、主が知恵を与え、知識と悟りとは、み口から出るからである。」(箴言2:6)

 

 ミデアンの荒野にモーセは牧羊者として四十年の年月をすごした。表面は一生の任務から永遠に切り離されたかのように見えながら、実は、その任務の達成のために訓練を受けていたのであった。(教育60)

 モーセは、忘れなければならないものがたくさんあった。エジプトにおいて彼を囲んでいた環境、たとえば、養母の愛情、国王の孫という高い身分、いたるところに見られる浪費、教養の高さ、鋭敏な眼識、そして、偽りの宗教の神秘性、壮麗な偶像礼拝の儀式、荘重な建築や彫刻など、すべては成長中の彼の頭脳に深い印象を与え彼の習慣や品性の形成に相当の影響をおよぼした。これらの印象をとり去ることができるのは、時間と環境の変化と、そして、神との交わりであった。モーセにとっても誤謬を捨てて真理を受け入れることは必死の激しい戦いを要した。しかし、その戦いが人間の力では耐えられないほど激しくなるときには、神が助けをお与えになるのであった。……

 人間は、神の助けを受けるために、まず自分の弱さ、足りなさを自覚しなければならない。彼は、自分の中に大いなる変化が起こるように専心努力しなければならない。……多くの人は、当然得られる地位を得られないでいる。というのは、彼らが自分で実行するように神から力が与えられているのに、神が彼らのためにしてくださるのを待っているからである。……

 モーセは、山々の岩壁にかこまれ、ただひとりで神と交わった。もはや、エジプトの華麗な神殿が彼の心に迷信と虚偽を印象づけることはなかった。永遠の山々の壮大なながめに、モーセは至高者の威光を仰ぎ、それとは対照的にエジプトの神々がいかに力なく、むなしいものであるかを認めた。いたるところに創造主のみ名がしるされていた。モーセは、神のみ前に立っているかのように感じ、その偉大な力に圧倒された。ここで彼の高慢と自己満足とは一掃された。荒野のきびしい質素な生活の中では、エジプトの安易でぜいたくな生活の影響は影をひそめた。モーセは、忍耐力が強く、敬神深く、謙遜な人となり、「その人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた」(民数記12:3)。しかし、ヤコブの偉大な神を信じる信仰は強かった。(人類のあけぼの上巻283, 284)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神は彼を送られた

「さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう。」(出エジプト3:10)

 

 イスラエルの救済のときがきた。しかし、神のみこころは、人間の自尊心を傷つけるような方法でなされるべきであった。救済者は、手につえだけを持ち、卑しい羊飼いとして出て行くのであった。しかし、神はそのつえを神の力の象徴にしようとなさった。……

 神の命令がモーセに与えられたとき、彼は、自信がなく、口が重く、おくびょうであった。彼は、イスラエルびとに対する神の代弁者としての、自分の不適任さを思って圧倒された。しかし、ひとたびその任務を受け入れるや、主にまったく信頼を寄せ、全心をこめて働きを始めた。……神は、モーセのこのような従順 な態度を祝福されたので、彼は雄弁になり、希望に満ち、落ちつきを取りもどして、人間にゆだねられた最大の働きにふさわしい人物となった。これこそ神にまったく信頼し、主のご命令に完全に従う者の品性を神が強化されるよい実例である。

 人間は、神がお与えになる責任を受け入れ、全力を尽くして正しく遂行しようと願うときに、力と能力とを受けるものである。たとえ、その地位がどんなに低く、その能力にかぎりがあったとしても、神の力に信頼し、その働きを忠実に果たそうとするものは、真に偉大なものになるのである。……

 モーセは、ミデアンからの途中で、神が怒っておられるという驚嘆すべき恐ろしい警告を受けた。ひとりの天使が、モーセをおどすような態度で現われ、あたかも、彼をただちに滅ぼすかのように思われた。それにはなんの説明もなかった。しかし、モーセは、神のご要求の一つを軽視したことを思い出した。彼は、妻の言うままになって、末の子に割礼の儀式を行なうことをなおざりにしていた。…… モーセは、パロに対する任務を帯びて、非常に危険な立場におかれることになった。彼の生命は、聖なる天使たちに守護されていたからこそ安全であった。しかし、当然果たすべき義務を怠っていては安全ではなかった。なぜなら、彼は、神の天使たちに保護されることができないからであった。

 キリスト再臨直前の悩みの時にも、義人たちは天のみ使いたちの奉仕によって守られるのである。しかし、神の律法を犯すものは安全ではない。天使たちは、神の戒めの一つでも無視する者を保護することはできないのである。(人類のあけぼの上巻285-292)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主とは一体何者か

「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。」(ガラテヤ6:7)

 

 パロは強情という種をまき、強情という実を刈り取った。彼は自分でこの種を土にまいたのである。とうもろこしの成長に干渉する必要がないのと同様、もはや神には何か新しい力をもってその成長に干渉する必要がなかった。ただ、要求されるのは、種が芽を出して、ふさわしい実をならせるに任せることである。収穫物はどんな種がまかれたかを教えてくれるのである。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]1巻1100)

 パロは神の御霊の大いなる御業を見た。神の僕によって主が行われた奇跡を見たが、神の命令に従うことを拒んだ。反抗的な王は誇らしげにこう言った、「主とは一体何者か。わたしがその声に聞き従わなければならないのか。わたしがその声に聞き従ってイスラエルを去らせなければならないのか」(出エジプト5:2)。神の裁きがますます重くのしかかると、彼は頑強に抵抗した。天からの光を拒む事によって彼はかたくなになり、無感覚になっていった。神のみ摂理がその力を現していた。そして、認められることのなかったこれらの啓示が、更に大きな光に対してパロの心をかたくなにしていった。明確に述べられた神の意思よりも自らの思想を高める者たちは、パロのように、「主とは一体何者か……」と言っている のである。光を拒むすべての行為は心をかたくなにし、理解力を暗くする。こうして人々は、正誤の識別がますます困難になり、ますます大胆に神の意思に抵抗するのである。(同上1099, 1100)

 一度、試みに負けた者は、二度目にはさらにたやすく屈服する。罪をくり返すたびに抵抗する力は弱まり、目は暗くなり、確信は消え去る。まかれた放縦の種はみな実を結ぶ。神は、その収穫を妨げるために奇跡を行なうようなことはなさらない。……神の真理に対して神を恐れぬ不敵さと、愚かな無関心を示すものは、彼自身がまいたものの収穫を刈り取っているのである。こうして、多くの者は、かつて彼らの魂をゆり動かした真理を、冷たい無関心な態度で聞くようになるのである。彼らは、真理に対して怠慢と反抗の種をまき、そのような収穫を刈り取る のである。(人類のあけぼの上巻307)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

心をかたくなにする

「しかし、主がパロの心をかたくなにされたので、彼はイスラエルの人々を去らせなかった。」(出エジプト10:20)

 

 主はどのようにして人の心をかたくなにされるのだろうか。パロの心がかたくなになったのと同じ方法である。神はこの王に警告と憐れみのメッセージを送られたが、王は天の神を認めることを拒み、神のご命令に服従しようとはしなかった。彼は「わたしがその声に聞き従わなければならない主とはいったい何者か」と言った。

 主は王の前でしるしと不思議を行って、ご自分の力について証拠を示された。「わたしはある」という偉大なお方がパロに、ご自分が天と地の支配者であることを示しつつその力ある業を知らされたが、王は天の神を無視する方を選んだ。王は、自分が光を受ける可能性のあった諸王の王であられるお方のみ前ですら、自分の誇りにみちた頑固な心を砕くことに同意しようとはしなかった。なぜなら彼は自分自身の道を行き、反抗しようと決めていたからである。彼は自分の意志を貫くことを選び,神のご命令を無視してエホバが、諸国のすべての神々にまさった方であり、すべての賢者、魔術師にまさった方であることを示されたその証拠そのものが、彼の思いを盲目にし、その心をかたくなにした。

 パロが最初の災いで与えられた神の力の証拠を受け入れていれば、続いて起った災いはすべて与えられなかったであろう。しかし彼の固く決心した頑固さが、さらに大きな神の力のあらわれを招き、ついには彼自身の初子と同族の初子の死に顔を見るようにと言われるまで、災いにつぐ災いに見舞われたのである。そしてその間王が奴隷だと見なしていたイスラエルの子らは、災いにも害を受けず、滅びの天使が触れることもなかった。神はご自分の恩寵が誰にあるか、ご自分の民が誰であるかを明らかにされた。(手紙31,1891年)

 エジプトの君主は、神の力の更なる証拠に抵抗するたびに、さらに頑強に神に刃向かっていくようになっていた。……これは、聖霊に対する罪についてのはっきりした実例である。「人は自分がまくものを、刈り取ることになる。」徐々に主は御霊を取り去られた。その抑制力を取り除いて、主は王を最悪の君主である自我に任せられた。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]1巻1100)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ついに自由

「こうして主はその民を導いて喜びつつ出て行かせ、その選ばれた民を導いて歌いつつ出て行かせられた。」(詩篇105:43)

 

 イスラエル人は、腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って黙々と畏敬の念をいだいて立ち、王からの出発の命令を今か今かと待っていた。彼らは、夜が明ける前に出発した。……

 数百年前にアブラハムが幻によって啓示された歴史の期間が、この日に終わりを告げた。「あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。しかし、わたしは彼らが仕えたその国民をさばきます。その後かれらは多くの財産を携えて出て来るでしょう」(創世 記15:13, 14)。(人類のあけぼの上巻323, 324)

 主は、イスラエルをエジプトから導き出して、再び主の力とあわれみをお示しになった。どれいの境遇からイスラエルの人々を解放するという驚くべきみわざと、彼らを荒野の旅路の間お導きになったこととはただ単に彼らのためばかりではなかった。それはまた周囲の諸国に対して実物教訓となるためであった。主は人間のあらゆる権威と偉大さをしのぐおかたとしてご自分をあらわされた。神の民のために神がおこなわれたしるしと不思議とは自然を超越した神の力を示し、いかに偉大な自然崇拝者をも越えた神の力を示した。神は終わりの時代に地上をお通りになるのであるが、それと同じように、高慢なエジプトの地を過ぎゆかれた。この偉大な「わたしは有る」というおかたは、火とあらしと地震と死のうちに神の民をあがなわれた。神は彼らをどれいの地から連れ出された。神は「あの大きな恐ろしい荒野、すなわち火のへびや、さそりがいて、水のない、かわいた地」の旅を導かれた (申命記8:15)。神は「堅い岩」から水を出し、「天の穀物」で彼らを養われた (詩篇78:24)。「主の分はその民であって、ヤコブはその定められた嗣業である。主はこれを荒野の地で見いだし、獣のほえる荒れ地で会い、これを巡り囲んでいたわり、目のひとみのように守られた。わしがその巣のひなを呼び起し、その子の上に舞いかけり、その羽をひろげて彼らをのせ、そのつばさの上にこれを負うように、主はただひとりで彼を導かれて、ほかの神々はあずからなかった」とモーセは言った(申命記32:9-12)。こうして神は、いと高き者の陰に宿らせるために、彼らをみもとにひき寄せられたのである。(キリストの実物教訓265)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雲と火

「主は雲をひろげておおいとし、夜は火をもって照された。」(詩篇105:39)

 

 主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、……目に見えない指導者の旗じるしが、いつも彼らのそばにあった。昼は、雲が彼らの旅路を導き、また、イスラエルの軍勢の頭上に天蓋のようにひろがっていた。それは、焼けるような熱から保護する役目を果たし、その涼気と湿度は、かわききって干からびたさばくの中で、生気を回復させるものとしてまことにありがたいものであった。夜になるとそれは火の柱になって、彼らの天幕を照らし、たえず主のご臨在をあかししていた。

 イザヤの最も美しく、慰めに満ちた預言の言葉のなかで、この雲と火の柱は、悪の勢力との最後の大争闘において、神が、神の民を守られることの象徴として用いられている。「その時、主はシオンの山のすべての場所と、そのもろもろの集会との上に、昼は雲をつくり、夜は煙と燃える火の輝きとをつくられる。これはすべての栄光の上にある天蓋であり、あずまやであって、昼は暑さをふせぐ陰となり、また暴風と雨を避けて隠れる所となる」(イザヤ4:5, 6)。(人類のあけぼの上巻 325)

 わたしたちの前にある試練の時、保護についての神の堅い約束が、このお方の忍耐の言葉を守っている人々の上に置かれる。キリストは忠実な者に向かって「さあ、わが民よ、あなたのへやにはいり、あなたのうしろの戸を閉じて、憤りの過ぎ去るまで、しばらく隠れよ」と言われる(イザヤ26:20)。その恵みを拒む者にはまことに恐ろしいユダのししも従順な者、忠実な者には神の小羊である。神の律法に違反する者には怒りと恐怖を示す雲の柱も、このお方の戒めを守っている者には光と憐れみと救出を語る。逆らう者を打ちすえる力強い腕は、忠実な者を解放するのに力強いのである。忠実な者はみな確かに集められる。「また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう」(マタイ24:31)。(教会への証6巻404)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

安全な道

「主はモーセに言われた、『あなたは、なぜわたしにむかって叫ぶのか。イスラエルの人々に語って彼らを進み行かせなさい』。」(出エジプト14:15)

 

 神は、み摂理のうちにヘブル人を海に面した山の中に導かれたが、それは、神が彼らを救う力を示し、彼らを圧迫するものの誇りをあからさまにくじくためであった。神は別の方法を用いて彼らを救うこともできたが、彼らの信仰を試み、神に対する彼らの信頼を強めるために、この方法をお選びになった。人々は疲労し、恐怖に満たされていた。しかし、モーセが前進せよと命じたときもし彼らがためらっていたならば、神は彼らのために道を開くことをなさらなかったであろう。「信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡った」(ヘブル 11:29) 。彼らは、水の中を進んで行くことによって、モーセを通してお語りになった神の言葉を信じていることを示した。彼らが力のかぎりを尽くしたときに、イスラエルの力ある神が海を分けて、彼らの歩む道をお作りになった。

 ここに教えられている驚くべき教訓は、いつの時代にもあてはまるのである。クリスチャンの生涯は、しばしば危険にさらされ、義務を果たすことが困難に思われる。われわれは、前方には滅び、後方には束縛や死が迫っているように考える。それにもかかわらず、神のみ声は明らかに「前進せよ」と語っている。われわれの目が、暗黒を貫いて見ることができなくても、また、冷たい波を足もとに感じても、われわれはこの命令に従わなくてはならない。われわれの前進を妨げる障害物は、ためらったり疑ったりしていては取り去られることはない。すべての不安のかげが消えうせ、失敗や敗北の危険が全くなくなるまで服従をのばすものは、絶対に服従することはない。「障害物が取り除かれて、われわれの道が明らかに見えるようになるまで待とう」と不信はささやく。しかし、信仰はすべてを望み、すべてを信じておおしく前進することを勧める。

 エジプト人にとって、暗黒の壁であった雲は、ヘブル人には全陣営を照らし、彼らの行く手に光を投げかける大いなる照明の光であった。そのように摂理のうちになされることは、信じない者には暗黒と絶望をもたらすが、信じ、よりたのむ魂には輝く光明であり、平和である。神がお導きになる道は、荒野や海を通っているかも知れないが、安全な道なのである。(人類のあけぼの上巻333, 334)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

モーセと小羊の歌

「主はわたしの力また歌、わたしの救となられた、彼こそわたしの神、わたしは彼をたたえる、彼はわたしの父の神、わたしは彼をあがめる。」(出エジプト15:2)

 

 一夜のうちに彼らは最も恐ろしい危機から完全に救われたのであった。彼らは、戦いに不慣れな奴隷の無力な大群衆で、女子、子供、家畜などをかかえ、前方は海に面し、後方からは強力なエジプトの軍勢の追跡を受けた。しかし、彼らは水を分けて開かれた進路を見、彼らの敵が勝利を目前にしていながら、波にのまれてしまったのを見た。主だけが彼らを救われたのである。彼らは感謝と信仰にみたされて、主に心を向けた。彼らは、心の喜びを歌と賛美であらわした。神の霊が、モーセに臨んだので、彼は人々を指揮して勝利を感謝する賛美の歌をうたわせた。この賛美は最も古く、われわれが知っている賛美の歌の中では、最も荘厳なものの一つである。……

 この歌は、ユダヤ民族だけのものではない。それは義の敵がすべて滅び、神のイスラエルが最後に勝利をおさめる未来をさし示している。パトモスの預言者は、白い衣をまとった多くの人々が敵に「うち勝」ち「神の立琴を手にして」、「火のまじったガラスの海」のそばに立っているのを見た。「彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とを歌っ」た(黙示録15:2, 3)。……

 神は、われわれの魂を罪の束縛から解放することによって、紅海でへブル人にお与えになったものよりはるかに大いなる解放をもたらしてくださるのである。われわれも、へブルの軍勢のように、真心から主を賛美し、「人の子らになされたくすしきみわざ」に対して、声をあげなければならない。神の大いなるあわれみを深く思い、神から与えられるさまざまのほかの小さな賜物をもたいせつにする者は、喜びの帯をつけ、その心のうちに主に対する音楽をかなでるのである。われわれが神のみ手から受ける日ごとの祝福と、なにものにもましてわれわれに幸福と、天国とを得られるようにしてくださったイエスの死は、われわれの絶えまない感謝の主題でなければならない。……

 天の全住民は一つになって神を賛美している。われわれが彼らの輝く列につらなるときにそれを歌えるように、今、天使の歌を学ぼう。(人類のあけぼの上巻329-333)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

再びつぶやく

「その荒野でイスラエルの人々の全会衆は、モーセとアロンにつぶやいた。」(出エジプト16:2)

 

 イスラエル人の経験をふりかえってみて、彼らの不信とつぶやきに驚き、自分たちであったら、あんなに忘恩的にはならなかっただろうと思う人たちが多い。しかし、彼らの信仰がちょっとした試みによってためされてさえ、彼らは古代イスラエルと同じように信仰も忍耐も発揮しないのである。(人類のあけぼの上巻338)

 神は、彼らの神となって、彼らをご自分の民とし、彼らをもっと広く、もっとよい国へ導くと約束されたのに彼らは、その国へ行く途中、妨害に出会うたびにすぐ失望した。……

 彼らはエジプトでの苦しい仕事を忘れた。奴隷の境遇から救済されたときに彼らのために神の恵みと力があらわされたことを彼らは忘れた。死の天使がエジプトの長子を全部殺したときに、イスラエルの子らは生かされたことを彼らは忘れた。彼らが開かれた道を安全に渡ったときに、追跡してきた敵の軍勢が海の水にのまれて滅びたことを、彼らは忘れた。彼らは、目前の不便と試練だけを目にとめてそれを感じた。そして、「神はわれわれのために大いなることをしてくださった。われわれは奴隷であったのに、神はわれわれを大いなる国民にしてくださるのだ」と言わないで、彼らは、途中の困難について語り、このたいくつな放浪はいつ終わるのだろうと思った。

 イスラエルの荒野生活の歴史は、世の終わりの神のイスラエル人の益のために記録された。荒野の放浪者たちがあちらこちらへさまよって、飢え、かわき、疲れたときに、彼らの救済のために神の力がいちじるしくあらわれたことなどの神の行為の記録は、すべて各時代の神の民に対する警告と教えに満ちている。へブル人のいろいろな経験は、彼らがカナンの約束の地へはいるための準備の学校であった。神は、今日の神の民が、古代イスラエル人の経験した試練を、へりくだった心と教えを受ける精神をもってふりかえり、天のカナンにはいる準備に役立て るように望んでおられる。(同上337, 338)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天に向かって手を

「男は、怒ったり争ったりしないで、どんな場所でも、きよい手をあげて祈ってほしい。」(テモテ第一2:8)

 

 イスラエルの不従順と神からの離反のゆえに、彼らは狭い場所に連れていかれ、災難に苦しむままにされた。彼らの敵は彼らと戦い、彼らを卑しめ、困難と失望の中で彼らが神を求めるよう導くことを許された。

 イスラエルがアマレク人に襲撃された時、モーセはヨシュアに敵と戦うよう指示した。(教会への証2巻106-108)

 モーセとアロンとホルは、戦場を見おろす丘の上に場所を占めた。モーセは、右手に神のつえを持って、両手を天にさし出し、イスラエル軍の成功を祈った。戦闘が進むにつれて、モーセの両手が上のほうへさし上げられている間は、イスラエルが勝ったが、彼の手が下がると敵が勝つことがわかった。モーセは、疲れたので、アロンとホルが太陽の沈むころまでその手をささえて、敵を敗走させた。

 アロンとホルは、モーセの手をささえて、モーセが、神から人々に語る言葉を受けている間に、人々は彼の困難な働きをささえなければならないことを彼らに示していた。モーセの行為もまた意味深いもので、神が、人々の運命をそのみ手ににぎっておられることを示した。すなわち、人々が神に信頼するときに、神は彼らのために戦って敵を征服されるが、人々が神にたよらないで自分自身の力にたよるときに、彼らは、神を知らない人たちよりも弱くなり、敵は彼らを打ち負かすのであった。

 モーセが、手を天に向かってさしのべ、民のためにとりなしているときにヘブル人が勝利したように、神のイスラエルは、信仰によって、偉大なる助け手の力にたよるときに勝利するのである。しかし、神の力は人間の力と結合しなければならない。モーセは、イスラエルが活動しなければ、神は、敵を打ち負かしてくださらないと思った。大指導者モーセが主に訴えている間、ヨシュアとその勇敢な部下たちは、イスラエルと神の敵を撃退するために全力を尽くしていた。(人類のあけぼの上巻346, 347)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神のための二つの手

「わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。」(コリント第二6:1)

 

 主は山上で幕屋の建設に関してモーセに指示を与えられた時、すべての時代におけるご自分の民に対して重要な教訓を与えられた。その働きの中で主は細部にわたってすべてにおいて完全を要求された。 モーセはエジプト人の学識すべてに熟達していた。彼は神についての知識があり、神のご目的が幻のうちに彼に示された。しかし彼はどのように刻み、刺繍するかは知らなかった。

 イスラエル人はずっとエジプトの奴隷として過ごしていたので、彼らのうちには器用な者がいたけれども、幕屋の建設に召されるほどの細密な技術を教えられてはいなかった。彼らはレンガを造ることは知っていたが、金や銀をどのように扱うか分らなかった。その働きはどのようになされるべきであろうか。……

 そこで神ご自身が、その仕事をどのように成し遂げねばならないかを説明された。神はある特定の仕事をさせようと思っておられるその人物の名を知らされた。ベザレルが製作者になるのであった。この人はユダ部族、すなわち神が栄誉を与えておられる部族に属していた。……

 主はモーセに言われた、「見よ、わたしはユダの部族に属するホルの子なるウリの子べザレルを名ざして召し、これに神の霊を満たして、知恵と悟りと知識と諸種の工作に長ぜしめ、工夫を凝らして金、銀、青銅の細工をさせ、また宝石を切りはめ、木を彫刻するなど、諸種の工作をさせるであろう。見よ、わたしはまたダンの部族に属するアヒサマクの子アホリアブを彼と共ならせ、そしてすべて賢い者の心に知恵を授け、わたしがあなたに命じたものを、ことごとく彼らに造らせるであろう」(出エジプト31:2-6)。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]1巻 1108)

 群衆の中には、このような仕事の監督を務めたことがあり、それがどのようになされるべきかを完全に理解していたエジプト人がいた。けれども働きは、彼らに依存しなかった。主は、人間という器と結合なさり、巧みに働く知恵を彼らに与えられた。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]1巻1108)

 一般的な芸術における技術は神からの賜物である。神は賜物としてその賜物を正しく使う知恵の両方を備えられる。(手紙60, 1907年)

 地上の幕屋は天の幕屋を象徴することができるために、どの部分もすべて完全でなければならず、最も細部に至るまで天の型通りでなければならない。天の目に最終的に受け入れられる人々の品性もそうである。(両親、教師、生徒への勧告60)

 今日、神の務めにおいて働きを完壁にこなすことのできるよう、働き人に、知恵と鋭い洞察力を神に祈り求めさせなさい。((SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コ メント]1巻1108)

 

短い7年間

「こうして、ヤコブは七年の間ラケルのために働いたが、彼女を愛したので、ただ数日のように思われた。」(創世記29:20)

 

 彼〔ヤコブ〕の到着は、約百年前に、アブラハムのしもべが到着したときとは、状態がなんと異なっていたことであろう。しもべは、らくだに乗った多くの召使をつれ、金銭とりっぱな贈り物を持って来た。ところがむすこは、旅につかれた旅人として、つえのほか何の持ち物もなく、たったひとりでやってきた。ヤコブも、アブラハムのしもべのように、井戸のかたわらで休んだ。そして、彼が、ラバンの妹娘のラケルに会ったのはここであった。井戸から石を取りのけ、家畜に水を飲 ませる手伝いをしたのは、今度はヤコブであった。ヤコブは、自分が彼らの親類であることを話して、ラバンの家庭に歓迎されることになった。彼は、持ち物も、供の者も連れずにやってきたが、わずか数週間で彼の熱心さと熟練さとが認められて、長く滞在するように勧められた。こうしてヤコブは、ラケルを妻にめとるためにラバンのために七年間働くことになった。

 昔、結婚の契約が正式に認められるに先だって、花婿はその身分に応じて、いくらかの金銭またはそれに相当する物品を、妻の父に手渡す習慣であった。これは、結婚関係の安全を保つものと考えられていた。……それでも、妻のために支払うものを何も持っていない者を試みる方法が設けられていた。彼らは、納入すべき結納金の額に応じて、きめられた期間、愛する娘の父親のために働くことが許された。求婚者が忠実に任務を果たし、他の点でもりっぱであることを証明すれば娘を妻にすることができた。そして、一般には結納金として父が受け取ったものは、結婚のときに娘に与えられた。……

 古代の習慣は、時おり、ラバンのように悪用するものはあっても、よい結果をもたらした。求婚者が妻を得るために働かなければならなかったことは、早婚を防ぎ、家族をささえる能力とともに、その愛情の深さをもためすよい機会であった。今日はこれと全く反対なので、多くの悪い結果が生じている。結婚に先だって、お互いの習慣や性質などについて知る機会はほとんどない場合が多い。そして、日常生活については全く他人同然で式をあげてしまう。彼らが互いに適合していないことを発見したときは時すでにおそく、その結婚が一生悲惨な結果に終わるものが多い。(人類のあけぼの上巻202-205)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生死にかかわる事柄

「その人は言った『、夜が明けるからわたしを去らせてください』。ヤコブは答えた、『わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません』。」(創世記32:26)

 

 ヤコブは、その生涯の大きな危機に当面した時に、ひとり離れて祈った。彼は品性を変えていただきたいという切なる願いを心にいだいていた。(祝福の山179)

 そこはものさびしい山地で、野獣がひそみ、盗賊や人殺しが出没するところであった。ヤコブは、ただひとりでなんの防備もなく、深い悲しみに沈んで地にひれ伏した。……彼は、真剣な叫びと涙をもって神に祈った。すると突然、力強い手が彼の上におかれた。彼は、敵が彼の命をねらっているのだと思い、敵の手からのがれようと全力を尽くした。暗黒のなかで、両者は必死に争った。ヤコブは一言も言わなかったが、全力を尽くして一瞬でも力をゆるめようとしなかった。こうして、必死の戦いをしながらも、彼は罪の意識に心が重かった。彼の罪が彼の前に立ちはだかって、彼を神から引き離すのであった。しかし、この恐るべき窮地にあって、彼は神の約束を思い起こした。そして、彼は真心から、神のあわ れみを哀願した。格闘は夜明け近くまで続いた。見知らぬ相手の指がヤコブの 腰に触れるや、彼はたちどころに不具者になってしまた。ヤコブは、この敵が だれであるかがわかった。彼は天使と戦っていたことを知った。彼のほとんど超人的力でも勝てなかったのはそのためであった。このかたは、「契約の天使」キリストで、ご自分をヤコブに現わされた。不具となり、激しい痛みに苦しみながらも、ヤコブは、彼を放そうとしなかった。……

 天使は、……「夜が明けるからわたしを去らせてください」と言ったが、ヤコブは答えて、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」と言った (創世記32:26)。もしこれが、ヤコブの高慢無礼で自己過信から出たものであれば、彼は、直ちに滅ぼされたことであろう。しかし、それは、自己の無価値を告白するとともに、神が忠実に約束を果たされることを信頼する者の確信であった。(人類のあけぼの上巻214, 215)

 ヤコブは自分の力で懸命に得ようとして得られなかったものを、自己放棄と確固たる信仰によって得たのであった。(祝福の山180)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヤコブの悩みの時

「悲しいかな、その日は大いなる日であって、それに比べるべき日はない。それはヤコブの悩みの時である。しかし彼はそれから救い出される。」(エレミヤ30:7)

 

 キリストが、人間のための仲保者の働きを終了されるとき、この悩みの時が始まる。そのときに、すべての人の運命が決定され、罪を清める贖いの血はもうないのである。……すると、神の霊の制御力が地から取り除かれる。ちょうど、ヤコブが、怒った兄エサウに殺されそうになったのと同様に、神の民も彼らを滅 ぼそうとする悪者に生命を脅かされる。そして、ヤコブがエサウの手から救い出されることを一晩中祈ったように、義者は彼らの周囲の敵からの救済を日夜祈り求める。……

 この苦悩のときに、ヤコブは天使を捕えて涙ながらに訴えたのである。すると、天使は、彼の信仰を試みるために、彼の罪を思い出させて、彼からのがれようとした。しかし、ヤコブは天使を行かせなかった。彼は、神があわれみ深いことを知っていたので、神のあわれみによりすがった。彼は、自分がすでに罪を悔い改めたことをさし示して、切に救いを願い求めた。ヤコブは、その生涯をふりかえってみると絶望するばかりであった。しかし彼は、天使を捕えてはなさず、苦悩の叫びをあげて真剣に願い求め、ついに聞かれたのである。

 神の民も、悪の勢力との最後の戦いにおいて、これと同じ経験をするのである。神は、神の救出力に対する彼らの信仰、忍耐、確信を試みられる。サタンは、彼らの絶望的であること、そして、彼らの罪は大きすぎて、許しを受けることはできないと思わせ、彼らを恐怖に陥れようとする。彼らは、自分の欠点を十分知っていて、その生涯をふりかえってみれば、絶望である。しかし、彼らは、神の大きなあわれみと自分たちの真心からの悔い改めを思い出す。そして、無力な罪人が悔い改めるときにキリストによって与えられる神の約束を懇願する。彼らの祈りが直ちに聞かれなくても、彼らの信仰はくじけない。彼らは、ヤコブが天使を捕えたように、神の力をしっかり握って、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」と心から言うのである。(人類のあけぼの上巻218-220)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

保証された勝利

「あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです。」(創世記32:28)

 

 もし、ヤコブが欺瞞によって長子の特権を獲得した罪を、前もって悔い改めていなかったならば、神は彼の祈りを聞き、彼の命をあわれみのうちに保護なさることはできなかった。それと同様に、悩みの時においても、神の民が恐怖と苦悩にさいなまれるときに、告白していない罪が彼らの前に現われてくるならば、彼らは圧倒されてしまうであろう。絶望が彼らの信仰を切り離し、神に救済を求める確信を持てなくする。しかし彼らは自己の無価値なことを深く認めるけれども、告白すべき悪を隠していない。彼らの罪は、キリストの贖罪の血によってぬぐい去られていて、彼らはそれを思い出すことができないのである。……

 罪の弁解をして隠そうとするもの、そして罪を告白せず許されないまま、天の記録に罪を残しておく者は、みな、サタンに打ち負かされる。彼らがりっぱなことを言い、栄誉ある地位にあればあるほど、彼らの行為は、神の前にいまわしく、大いなる敵は確実に勝利を収める。

 しかし、ヤコブの生涯は、罪に陥っても真に悔い改めて神にたち帰る者を、神は見捨てられないことを証明している。ヤコブが、自分の力をふるって獲得できなかったものを得たのは、自己降伏と堅い信仰によってであった。こうして、神は、彼の熱望した祝福を与え得るものは神の能力と恵みだけであることを教えられた。最後の時代においてもこれと同様である。彼らは危険に当面し、絶望に陥るとき、ただ、贖罪の功績だけに頼らなければならない。……

 ……そうする限り、だれ一人滅びることはない。……

 ヤコブは、不撓不屈の精神を持っていたから祈りが聞かれた。……今こそわれわれは、神に聞かれる祈りと不動の信仰についての教訓を学ばなければならない。キリストの教会にとって、また、個人個人のクリスチャンにとって最大の勝利は、才能や教育、あるいは富、または人間の援助によって得られるものではない。その勝利とは、神との交わりの部屋で熱心に苦闘する魂が、信仰によって力強いみ腕をつかむときに得られる。(人類のあけぼの上巻220, 221)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

再会

「互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。」(エペソ4:32)

 

 ヤコブが天使と格闘している間に、もうひとりの天使がエサウのところに送られた。エサウは夢のなかで、父の家から二十年の間離れて暮らした弟を見た。また、彼が母親の死を知って、どんなに悲しむかを見た。そして彼が、神の軍勢に囲まれているのを見た。エサウは、この夢を兵卒たちに語った。そして、彼の父の神がヤコブと共におられるから、彼に害を加えないように命じた。

 ついに、戦士をひきつれたさばくの族長の一隊と、妻子や羊飼いたち、侍女たち、それに多くの家畜や羊の群れを従えたヤコブの一団とが、両方から接近した。ヤコブはつえによりすがりながら、戦士の一団に近づいた。彼は前夜の格闘のために、顔は青ざめ、からだの自由を失い、痛みに耐えながら、休み休み足を運んだ。しかし彼の顔は喜びと平和に輝いていた。

 からだの自由を失った彼を見て、「エサウは走ってきて迎え、彼を抱き、そのくびをかかえて口づけし、共に泣いた」 (同33:4)。エサウの荒武者たちの心も、この光景に強く心を打たれた。エサウが彼らに夢の話をしてはいたものの、彼らは首領の心の変化を理解することができなかった。彼らは、ヤコブの弱々しい姿を見た。しかし、この彼の弱さが、彼の力の原因であったことを知ることはできなかった。

 ヤコブは、破滅が目前に迫って、ヤボク川のほとりで苦闘した夜、人間の助けのむなしさと、人間の力に頼ることの不安定さとを教えられた。彼は、唯一の援助は神から来るべきであることを悟った。しかも彼は、その神に対して恐ろしい罪を犯したのであった。彼は、自分の無力と無価値とを認めて、罪を悔い改める者に神が約束されたあわれみを願い求めた。彼が神に許され、受け入れられたことを保証するものはこの約束であった。天地は過ぎ去っても、この言葉は必ず成就する。あの恐ろしい格闘のときに彼をささえたのはこれであった。(人類のあけぼの上巻216-218)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

別々の道

「御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである。」(ヨハネ3:36)

 

 ヤコブとエサウは、父の臨終の床で出会った。かつて兄は、このときをふくしゅうの機会にしようとしていたのであったが、その後、彼の気持ちは大きく変わった。そして、ヤコブは、長子の特権の霊的祝福に満足して、父の富の継承を兄に譲った。エサウが求め尊んだ遺産もこれだけであった。……

 エサウとヤコブは、同じように神の知識を授けられた。そして、ふたりは自由に神の戒めの道を歩いて、神の恵みにあずかることができたのである。しかし、彼らは、ふたりともそうはしなかった。ふたりの兄弟は、異なった道を歩き、彼らの道はさらに広く大きく別れていくのであった。

 神が独断的選択を行ない、エサウを救いの祝福から閉め出されたというようなことはない。神の恵みの賜物はキリストによって、すべての者に分け隔てなく与えられている。人間が滅びるのは、自分自身の選択によるのであ…る。……

 おそれおののいて自分の救いを達成しようとする者はみな選ばれている。武具をまとって、信仰のよき戦いをする者は選ばれている。目をさまして祈り、み言葉を研究し、誘惑からのがれる者は選ばれている。常に信仰を持ち、神のみ口から出るすべてのことばに従おうとする者は選ばれている。贖罪に必要なことがらはすべての者に無代で与えられている。贖罪の成果は、条件に応じる者に与えられる。

 エサウは契約の祝福を軽べつした。彼は霊的利益よりは、物質的利益を高く評価した。そして、彼は望んでいたものが与えられた。彼が神の民から離されたのは、彼自身が故意にそう選んだのであった。ヤコブは、信仰の遺産を選んだ。彼は、策略と欺きと偽りによってそれを手にしたが、神は、彼の罪が矯正されていくことをお許しになった。……

 彼の品性の卑しい性質は、炉の火で焼かれ、真の金が精練されて、アブラハムとイサクの信仰が、なんのかげりもなくヤコブのうちに見られるようになった。(人類のあけぼの上巻226-228)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もめ事のある家庭

「兄弟たちは父がどの兄弟よりも彼を愛するのを見て、彼を憎み、穏やかに彼に語ることができなかった。」(創世記37:4)

 

 ヤコブの罪とその罪への一連のできごとは、悪影響を及ぼさないわけにはいかなかった。それは、彼のむすこたちの性質とその生涯に苦い実となってあらわれるにいたった。このむすこたちが成人したころ、彼らの性質に重大な欠点があらわれた。一夫多妻の結果が家庭内に明らかに見られた。この恐ろしい悪は、愛の源泉そのものを枯らし、その影響は最も神聖なきずなを弱める。数人の母のねたみは、家庭の関係をみじめなものにした。子供たちは争い合い、他からのさしずを受けるのをきらって成長した。そして、父親の生涯は心労と悲しみにおおわれ、暗くなった。

 しかし、ラケルの長男ヨセフは、著しく異なった性質の持ち主であった。彼のまれに見る容貌の美は、彼の精神と心の内面的美の反映であった。ヨセフは純粋で、活動的で、歓喜にあふれていた。そして、道徳的にも真剣で堅固な性質をあらわしていた。彼は、父親の教えに耳を傾け、神に従うことを愛した。…… 母親がなくなっていたために、彼は、父親に強い愛着をおぼえた。そして、ヤコブの心は、年をとってから生まれたこの子と堅く結ばれていた。彼は「他のどの子よりも」ヨセフを愛した。

 しかし、この愛情さえ、悩みと悲しみの原因になった。不覚にも、ヤコブはヨセフに対する偏愛を表面にあらわして、他のむすこたちのねたみを起こさせた。 ……

 ……高価な上衣を、ヤコブが無分別にもヨセフに与えたことは、さらに父親の偏愛を示すものと思われて、年上の兄弟たちをさしおいて、ラケルのむすこに長子の特権を授けるのではないかという疑念をさえ起こさせるのであった。ある日、少年が、彼の見た夢を彼らに語ったために、彼らはますますヨセフを憎んだ。 ……

 ヨセフが兄弟たちの前に立ったとき、彼のりっぱな顔は、聖霊の啓示の光に輝いていたので、彼らは称賛せずにはおれなかった。しかし、彼らは、自分たちの悪行を捨てようとはせず、自分たちの罪を責める彼の純潔さを憎んだ。カインの心を動かしたのと同じ精神が彼らの心に燃え上がった。(人類のあけぼの上巻228-230)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

霊感を受けた決意

「ヨセフは実を結ぶ若木、泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は、かきねを越えるであろう。」(創世記49:22)

 

 ヨセフは自分がエジプトに売られていくことを、わが身に起こりうる最大の災難としてとらえた。しかし父親の保護のもとにあるときは考えもしなかったほどの信頼を神に置く必要性を悟った。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]1巻1096)

 隊商がカナンの国境に向かって南下したとき、ヨセフは遠方に父の天幕が張ってある山を見ることができた。彼は愛する父親のさびしさと苦しさを察して激しく泣いた。ふたたびドタンで起こったことを思い出した。彼は兄弟たちの怒りを見、彼らの恐ろしい目つきを身に感じた。泣き叫んで訴える彼に浴びせられた鋭いぶべつの言葉が彼の耳に鳴っていた。彼は将来のことを考えて恐れおののいた。たいせつに扱われたむすこから、いやしい無力な奴隷になるとはなんという変わりようであろう。……

 しかし、神の摂理のうちに、このような経験さえも祝福になるのであった。ヨセフはわずかの時間のうちに、数年かかっても得られない教訓を学んだ。彼の父は、強くやさしい愛の人であったが、彼を特別に愛してあまやかしたことは彼のためにならなかった。この愚かな偏愛は兄弟たちを怒らせ、彼らに残虐行為を行なわせ、ヨセフを家庭から引き離す原因になった。その影響は、彼自身の性格にもあらわれていた。彼は、これまでに助長された欠点を改める必要があった。 ……

 ……彼は、父の神のことを考えた。彼は幼いときから、神を愛し恐れることを教えられていた。彼は父の天幕の中で、ヤコブが逃亡者となって家を脱出したときに見た幻の話をよく聞いたものであった。……

 彼はどのような環境のもとにあっても、天の王の臣民らしく行動し、神に忠誠を尽くそうと決心して大きな感動をおぼえた。彼は、専心、主に仕えようと思った。彼は勇敢に試練に当面し、忠実に義務を果たそうとした。この一日の経験が、ヨセフの生涯の分岐点になった。その恐ろしい不幸が、あまやかされた少年から、思慮深く、勇敢で沈着なおとなに彼を変えたのである。(人類のあけぼの上巻234, 235)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

祝福された協力

「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、……その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た。」(創世記39:2, 3)

 

 エジプトに到着したヨセフは、パロの侍衛長ポテパルに売られてそこで十年間仕えた。ここで彼は非常に大きな誘惑に会った。彼は、偶像礼拝のただ中にいた。偽りの神の礼拝は、王宮のあらゆる栄華に取り巻かれ、当時最高の文明国の富と教養にささえられていた。しかし、ヨセフは彼の純真さと神への忠誠を保った。彼の周囲には、至るところに罪悪の光景や物音があったが、彼はそれを見ようとも聞こうともしないのであった。彼は、禁じられた問題を考えないのであった。彼はエジプト人の好感を得ようと望んで原則を隠すことをしなかった。もし、彼がそうしたならば、試練に負けたことであろう。しかし彼は、父祖の信仰を恥と思わず、自分が主の礼拝者であることを少しも隠そうとしなかった。

 ……ポテパルのヨセフに対する信任は日ごとに増し、彼はついにポテパルの家令に任じられ、財産を全部ゆだねられた。

 ヨセフにゆだねられたものが、すべて驚くべき繁栄をもたらしたことは、直接奇跡が行なわれたためではなかった。それは彼の勤勉と管理と活動に対して、天からの祝福が加えられたのである。ヨセフは、この成功を神の恵みに帰し、偶像礼拝者の主人もそれがこれまでにない繁栄の秘訣であることを認めた。ところが、目的に向かってたゆまず努力をするのでなければ、成功を収めることはできない。神は、神のしもべが忠実であることによって栄光を受けられた。神を信じる者の純潔と高潔とが、偶像礼拝者とは著しく対照的にあらわされることを神は望まれた。こうして、異教の暗黒のただ中にあって、天の恵みの光が輝かされるのであった。

 ヨセフの温順と忠誠は、侍衛長の心を捕え、ヨセフを奴隷というよりもむすこであると思うようになった。ヨセフは、地位の高い人や学者と接し、科学、語学、社会情勢などの知識を得た。これは、彼が将来エジプトの総理大臣となるのに必要な教育であった。(人類のあけぼの上巻235-237)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうしてそんなことができましょう

「この家にはわたしよりも大いなる者はありません。また御主人はあなたを除いては、何をもわたしに禁じられませんでした。あなたが御主人の妻であるからです。どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう。」(創世記39:9)

 

 青年が家庭の感化と賢い勧告から離れ、新しい環境と苦しい試練に入る時、その人生は常に一番危険な時期となる。しかしもし彼が自発的に自分自身をこのように危険な立場に置かず、親の抑制から離れようとしなければ、また、自分の意志や選びではないのに危険な立場に置かれた時、力を求めて神に頼るなら、すなわち自分の心に神の愛を大切に抱きつつ信頼するなら、彼は、その試練の場に自分を置かれた神のみ力によって、誘惑に身をまかせることから守られる。神は、彼が激しい誘惑で堕落してしまうのを防いでくださる。神はヨセフの新しい住居で彼と共におられた。ヨセフは悪に苦しみつつも悪を行わないで義務の道を歩んだ。彼は着手することにはなんでも自分の宗教の原則をつらぬいたので、神の愛と守りとを得た。(手紙3, 1897年)

 ところがヨセフの信仰と誠実とが、火のような試練に会うことになった。主人の妻が神の律法を犯すように彼を誘惑した。彼はこれまで、異教国にみなぎっていた腐敗に染まずにいた。しかし、突然、強く、魅惑的に迫ったこの誘惑に、彼はどうしたらよいであろうか。ヨセフは拒絶すればどういう結果になるかをよく知っていた。応じればそれは秘密にされて、寵愛と報賞を受ける。反対にそれを拒めば、汚名を着せられて投獄され、殺されるかも知れなかった。彼の将来の人生のすべてがこの一瞬の決断にかかっていた。原則が勝利するであろうか。ヨセフはそれでもなお神に忠誠を尽くすであろうか。天使たちは、言葉にあらわせない不安をいだいて、この光景をながめた。

 ヨセフの答えは、宗教的原則の力を示した。彼は、地上の主人の信頼を裏切ろうとしなかった。そして、結果がどうなろうと、彼は天の主人に忠実であろうと 願った。多くの人々は、神と聖天使たちの目が見守っているなかで、同胞の前ではしないようなかってなふるまいをする。しかし、ヨセフはまず第一に神のことを考えた。「どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう」と彼は言った。

 もし、神がわれわれのなすこと、言うことのすべてを見聞きして、その言行動作をそのまま記録しておられること、そして、われわれはいつかそのすべてに当面すべきであることを常に念頭においていれば、罪を犯すことを恐れるであろう。(人類のあけぼの上巻237)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

牢獄での見習い期間

「彼の足は足かせをもって痛められ、彼の首は鉄の首輪にはめられ、彼の言葉の成る時まで、主のみ言葉が彼を試みた。」(詩篇105:18, 19)

 

 ヨセフの信仰深い高潔さが、彼の評判と自由を失わせることになった。これは徳が高く神を畏れる者たちが受ける、最も厳しい試練である。つまり美徳が踏みにじられる一方、悪徳が栄えるように見えるのである。……ヨセフの宗教は彼の感情を穏やかに保ち、あらゆる試練にもかかわらず、彼の人々への思いやりは常に暖かく強いものであった。……獄屋生活に入るや否や、彼は自らのキリスト教的原則を実行して輝かせる。自らを他の人たちの役に立つようにし始める。 ……彼はクリスチャン紳士なので、快活である。この懲罰の下に、神は大きな責任、尊敬と有用性を担う状況のために彼を準備しておられた。彼は学ぶことをいとわなかった。彼は主が教えようとしておられる授業を喜んで受けた。彼はその青年期に、重圧に耐えることを学んだ。彼はまず、服従を学ぶことによって、自らを治めることを学んだ。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]1巻 1097)

 ヨセフの真の品性は、この暗い獄屋の中でも輝いていた。彼は、信仰と忍耐とを堅く守り通した。彼の長年の忠実な奉仕は、ここで不当な報いを受けることになったが、彼は気分を害したり、信頼を失ったりはしなかった。ヨセフは自己の無実を自覚していたから、心は平静であった。そして、神に自分のことをゆだねていた。……

 彼は、獄屋のなかでもなすべき働きを見いだした。神は、この苦難という学校のなかで、さらに偉大なことに役立つ準備を与えようとされたが、ヨセフは必要な訓練を受けることを拒まなかった。彼は獄屋のなかで、圧迫と専制の結果、また、犯罪の結果を目撃し、正義、同情、慈悲の教訓を学んだ。これが、知恵と同情をもって権威を行使するための準備を彼に与えたのである。

 彼の日常生活にあらわれた誠実さ、また、悩み苦しむ人々に対する同情など、彼が獄屋のなかで行なったことがヨセフの将来の繁栄と名誉への道を開いた。われわれが他人に輝かす光は、すべて、また自分たちに反映する。悲しむ者に語るすべての親切で同情に満ちた言葉、しいたげられている者を救うすべての行為、貧しい人々へのすべての贈り物などは、それらが正しい動機から出たものであるならば、必ず祝福となってそれを与えたものにもどってくる。(人類のあけぼの上巻238, 239)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いつでも同じ

「あなたはそのわざに巧みな人を見るか、そのような人は王の前に立つが、卑しい人々の前には立たない。」(箴言22:29)

 

 ヨセフは獄屋からエジプト全国のつかさにと高められた。それは、高い名誉ある地位ではあるが困難と危険とが伴うものであった。人間は、高い頂に立てば必ず危険に会うものである。嵐は谷間の低いところに咲く花をそこなうことはないとしても、山頂にある大木を根こぎにすることがある。同様に、平凡な生活のときには廉潔を保って来た人も、世的成功と名誉に伴って誘惑に敗れて深い穴に落ちこむことがある。しかし、ヨセフの品性は、繁栄のときと逆境のときの両方の試練に耐えた。牢獄の中においてあらわされた神への忠誠は、パロの王宮に立ったときにもあらわされた。彼はこのときでさえも異教の地の他国人であり、真の神を礼拝する親族から遠く離れていた。しかし、彼は神のみ手が自分の歩む道を指示したことを心から信じ、神に常に信頼しつつ忠実に与えられた義務を果たしたのである。ヨセフを通して、王やエジプトの高官たちの注目は、真の神に向けられた。彼らは偶像礼拝を続けてはいたものの、主なる神の礼拝者の生活と品性にあらわれた原則を尊敬するようになった。

 ヨセフはどのようにして堅固な品性を持ち、正しく知恵ある者としての記録を残すことができたのであろうか。彼は幼少の時代から、自分の好みよりも義務を第一にしていた。青年時代の廉潔、単純な信頼、高尚な性質が成人したのちの行動となって実を結んだ。純潔で素朴な生活が、肉体的、知的能力の両方が力強く発達するのに有益であった。神のみわざを通して神と交わり、信仰の継承者たちに伝えられた偉大な真理の数々を瞑想することにより、ヨセフの霊的な性質は高められ、気高くされ、他のどんな研究も及ばないほどに、彼の心を広げて強くした。最も低いところから、最も高いところにいたるまで、あらゆる場所にあって忠実に義務を果たしたことはすべての能力を最高の奉仕のために発揮する訓練となった。創造主のみこころに従って生きる者は、最も真実で最も高尚な品性を発達させることができる。(人類のあけぼの上巻244, 245)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すべては神のご計画

「そして人に言われた、『見よ、主を恐れることは知恵である、悪を離れることは悟りである』と。」(ヨブ28:28)

 

 ヨセフの波乱万丈の人生は偶然ではなく、み摂理によりなされたものであった。しかし彼はどのようにして堅固な品性を持ち、正しく知恵ある者としての記録を残すことができたのであろうか。それは彼の幼年時代における注意深い訓練の結果であった。彼は自分の生来の好みよりも助言を受けた義務を第一にしていた。 そして少年の純潔で、単純な信頼が成人したのちの行動となって実を結んだのである。きわめて立派な才能もそれを活用しなければ価値はない。勤勉という習慣や品性の力は養うことによって得られるのである。道徳上の美点もすぐれた知的素質も決して偶然の結果ではない。神は機会をお与えになる。成功はその活用いかんにかかっている。み摂理のはじまりをすばやく識別し、熱心にその機会を捕えねばならない。(教会への証5巻321)

 エジプト国民にだけではなく、この強国とかかわりのあるすべての国民に対して、神はヨセフを通してご自身を表された。神はヨセフを、すべての人々に光をもたらすものにしたいと望み、天来の光が遠くにまた近くに及ぶようにと、彼を世界最大の帝国のつかさとされた。(同上6巻219)

 人生における小さなことが、品性の発展にどんな影響をおよぼすかを悟っている人は非常に少ない。われわれのなすべきことで、ほんとうに小さいというものは一つとしてない。われわれが日ごとに直面する環境は、われわれの忠実さをためし、さらに大きな信頼を受ける資格がある者かどうかをためすために意図されている。平常の生活での事務や取り引きにおいて原則を保ち続けることによって、心は快楽や好みよりも義務の要求を第一に考えるように習慣づけられる。このようにして訓練された心は、風にそよぐ葦のように善と悪との間にゆらぐことはない。 彼らは誠実と真実の習慣をつけてきたために義務に対して忠実である。彼らは小さなことに忠実であることによって、大きなことにおいても忠実である力を得るのである。

 正しい品性は、オフルの純金よりもさらに大いなる価値がある。それがなければ、だれひとり栄誉ある名声を博すことはできない。しかし、品性は遺伝しない。それは買うこともできない。道徳上の美点も、すぐれた知的素質も決して偶然の結果ではない。最も尊い賜物も、活用しなければなんの価値もない。(人類のあけぼの上巻245, 246)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼はキリストのようであった

「射る者は彼を激しく攻め、彼を射、彼をいたく悩ました。しかし彼の弓はなお強く」(創世記49:23, 24)

 

 ヨセフの生涯はキリストの生涯を代表している。兄弟たちがヨセフを奴隷に売ったのはねたみからであった。彼らは、ヨセフが自分たちより偉大なものになるのを止めようと思った。彼がエジプトに連れてゆかれたとき、自分たちはこれ以上、彼の夢に悩まされることはない、これで実現の可能性は完全になくなったと得意がった。しかし、彼らの行動はすべて神の支配のもとにおかれて、彼らが妨げようとしたできごとそのものを成就することになった。同じようにユダヤびとの祭司や長老たちは、人々の評判が次第にキリストのほうに傾くことを恐れてキリストをねたんだ。彼らは、キリストが王になることを妨げようとして彼を殺したが、かえって彼ら自身がキリストを王位につける結果をもたらしたのである。

 ヨセフは、エジプトの奴隷になることによって、父の家族の救済者となった。しかし、このことは兄弟たちの罪を軽くするものではなかった。同じようにキリストは敵のために十字架につけられ、人類の贖い主、堕落した人類の救い主、全世界の支配者となられた。しかし、神がご自分の栄光と人類の幸福のために、摂理のみ手によって諸事件を支配されなかった場合と同様に、キリストを殺した人々の罪は、重かったのである。

 ヨセフが兄弟たちによって異邦人に売られたのと同じく、キリストもまた、ご自身の弟子のひとりによって、最も憎むべき敵に売り渡された。ヨセフは、節操を守ったために、偽証によって牢獄に投げ込まれた。キリストも同じように、彼の自己否定の生涯が周囲の人々の罪に対する譴責となり、正しかったためにあざけられ、捨てられたのである。なんのとがも犯さないのに、偽証人の言葉によって罪に定められた。ヨセフが、不正と圧迫を受けても忍耐し、柔和であって、また無情な兄弟たちに対しても許しと高貴な寛大の精神をあらわしたことは、悪人たちのちょう笑と悪意の中にあってもつぶやくことなく忍耐し、彼を殺害した者ばかりでなく、彼のもとに来て罪を告白し、許しを求めるすべてのものを許す救い主を象徴している。(人類のあけぼの上巻271, 272)

 生きた信仰によってキリストを受けいれる者は、神との生きたつながりを持っている。……彼には神の恵み、すなわち世が買うことのできない宝である天国の雰囲気を伴う。神との生きたつながりに浴する者は、身分が低いかもしれない。しかし、彼の道徳的価値は、……ヨセフと同様に貴重なものであった。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]1巻1097, 1098)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

奴隷であった母親

「子をその行くべき道に従って教えよ、そうすれば年老いても、それを離れることがない。」(箴言22:6)

 

 ヨケベデは奴隷の女であった。彼女の身分は卑しく、その重荷は大きかった。しかし世はヨケベデを通して与えられたほどの大きな祝福を、ナザレのマリヤを除いては、他のどんな女からも受けたことはない。彼女は、子供がまもなく自分の手を離れて、神を知らない人々の手で育てられなければならないことを知って、ますます熱心に、その子の魂を天に結びつけようと努力した。(教育59)

 彼女は、彼の心に神を恐れ、真理と正義とを愛するように教えこむことに力を入れ、あらゆる腐敗した影響から彼が守られることをひたすら祈り求めた。彼女は偶像礼拝の罪とむなしさを彼に示した。そして、彼が小さいときから彼の祈りを聞き、どんな危急の場合にも助けてくださるただひとりの生きた神を拝し、祈るように教えた。

 母親は、できるだけ少年を自分の手もとにおいたが、彼が十二才になると手放さなければならなかった。彼はそまつな小屋からパロの娘の宮殿に連れてゆかれ、「そして彼はその子となった」(出エジプト2:10)。彼は、ここにきても幼少時代に受けた教訓を忘れなかった。彼は母親のそばで学んだ教訓を忘れることができなかった。それらの教訓は、高慢と無神論、また、華麗な宮殿の中に暗躍する罪悪を防ぐ盾となった。

 この異郷の奴隷であったヘブルの一女性の感化は、なんと偉大な結果をもたらしたことであろう。モーセのその後の全生涯、イスラエルの指導者として果たした大事業は、クリスチャンの母親の働きの重要性を証明している。これに匹敵する仕事はほかにない。母親は、子供の運命の大部分を自分の手のうちに握っている。彼女は成長中の頭脳と品性をあつかい、現世だけではなく、永遠のために働いているのである。彼女はやがて、芽を出し善悪いずれかの実を結ぶ種をまいているのである。母親は、カンバスの上に美しい姿をかいたり、大理石を彫刻しているのではなく、神のみかたちを人間の魂におしているのである。……

 すべての母親は、自分に与えられている時間の尊さを知らなければならない。母親の働きは、厳粛な審判の日にためされる。(人類のあけぼの上巻277, 278)