イスラエルも皆彼にならった
「レハベアムはその国が堅く立ち、強くなるに及んで、主のおきてを捨てた。イスラエルも皆彼にならった。」(歴代志下12:1)
ソロモンが背信した時の濫費は、人々に重税を課し、彼らから多くの労役を要求するに至らせた。……
もしレハベアムと未経験な彼の助言者たちが、イスラエルに関する神のみこころを理解したならば、彼らは国家の行政に決定的改革を求める国民の要求を聞き入れたことであろう。しかし、シケムの集会においてやってきた好機に際して、彼らは、原因から結果を推論することをしなかった。……
霊感の筆は、ソロモンの後継者が、主に忠誠をつくすために強力な影響を及ぼさなかったという悲しい記録をとどめている。彼は生まれながら強情で、自己を過信し、わがままで偶像礼拝を好んだのであったが、もし彼が神に心から信頼したならば、強い品性と堅い信仰と神の要求に服従する精神を啓発させることができたのであった。しかし、時が経過するにつれて、王は地位の権力と彼が建てた要害を頼りにするようになった。……
「イスラエルも皆彼にならった」という言葉は、なんと悲しく、なんと深い意義を持っていることだろう。周囲の国々に対する光として神が選ばれた民が、力の根源から離れて、周囲の国々と同じようになろうとしていた。ソロモンと同様に、レハベアムの悪影響も、多くの人々を神から離れさせた。悪にふける者は、今日においても、程度の差こそあれ、彼らと同じであって、悪行の影響は、それを行った者だけにとどまらない。だれひとりとして、自分だけで生きていないのである。また、だれひとりとして、その罪のなかでひとりで死なない。どの人の生涯も、他の人々の道を明るく楽しいものにする光となるか、それとも、失望と破滅をもたらす暗いみじめな影響力となるのである。われわれは、他の人々を幸福と永遠の生命に向上させるか、それとも、悲哀と永遠の死へと堕落させるかのどちらかである。そして、われわれが自分たちの行為によって、われわれのまわりにいる人々の悪の力を強めて、活動を起こさせるならば、われわれは、彼らの罪にあずかるのである。(国と指導者上巻62-68)
麻痺した手
「彼にむかって伸ばした手が枯れて、ひっ込めることができなかった。」(列王記上13:4)
ヤラベアムは、これを見て、神に対する反抗的精神に満たされ、彼に使命を伝えた者を止めようとした。彼は怒って、「祭壇から手を伸ばして、『彼を捕えよ』と言ったが」、彼の性急な行動は、直ちに譴責を受けた。主の使命者に向かって伸ばした手は、急に力がぬけて、枯れ、ひっ込めることができなくなった。
王は驚いて、彼のために神に祈ってほしいと、預言者に訴えた。「『あなたの神、主に願い、わたしのために祈って、わたしの手をもとに返らせてください』。神の人が主に願ったので、王の手はもとに返って、前のようにった」。
異教の神の祭壇を厳粛に奉献しようとしたヤラベアムの努力はむだに終わった。それを尊敬するということは、エルサレムにある主の神殿の礼拝を敬わないことになるのであった。イスラエルの王は、預言者の言葉を聞きいれて、神の礼拝から人々を引き離していた彼の邪悪な目的を悔い改めて捨て去るべきであった。しかし、彼は心をかたくなにして、自分勝手な道を歩こうと決意したのである。 ……
主は、滅ぼすことではなくて、救おうと努めておられる。主は罪人を救うことを喜ばれる。「わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない」 (エゼキエル33:11) 。彼は警告と嘆願とによって、心のかたくなな人々が、彼らの悪い行いを離れて神に帰り、生きるように呼びかけておられる。神は、お選びになった使命者に、聖なる大胆さをお与えになる。それは、聞く人々が恐れを抱いて、悔い改めに至るためである。神の人は、なんと厳然と王を譴責したことであろう。そして、この確固不動の態度は必要であった。これ以外に、当時の罪悪を譴責する方法 はなかった。主は、聞く者の心に忘れ得ない印象を与えるために、彼のしもべに大胆さをお与えなったのである。主の使命者は、人の顔を恐れずに、正義のために、ひるまず立たなければならない。彼らは、神に信頼しているかぎり、恐れる必要はない。なぜならば、任命を彼らにお与えになるかたは、また、彼の守護の確証をもお与えになるからである。(国と指導者上巻74-77)
アサは神により頼んだ
「時にアサはその神、主に向かって呼ばわって言った、『主よ、力のある者を助けることも、力のない者を助けることも、あなたにおいては異なることはありません。われわれの神、主よ、われわれをお助けください。われわれはあなたに寄り頼み、あなたの名によってこの大軍に当ります。主よ、あなたはわれわれの神です。どうぞ人をあなたに勝たせないでください』。」(歴代志下14:11)
「エチオピヤびとゼラが、百万の軍隊と三百の戦車を率いて」攻めて来たときに、アサの信仰ははげしく試みられた。アサは、こうした危機において、彼が建てた石垣とやぐらと門と貫の木のあるユダの「要害の町」や、訓練された彼の軍勢の「大勇士」たちにも頼らなかった。王は万軍の主によりたのんだ。……アサは、彼の軍隊を戦闘体勢にしておいて、神の助けを仰いだのである。
今や、敵軍は眼前に迫ってきた。これは、主に仕える者にとって試練の時であった。すべての罪を告白したであろうか。ユダの人々は神の救いの力に全的に信頼したであろうか。指導者はこのような事を考えていたのでる。人間的考えからすれば、エジプトの大軍はその前にあるものをみな一掃するように思われたのである。しし、アサは、平和の時に、娯楽と快楽にふけっていなかった。彼は、どんな緊急事態にも対処できるように準備していたのである。彼は戦闘の準備のできた軍隊をもっていた。彼は国民に神との平和を結ばせるように努力したのであった。そして、今、彼の軍隊は、敵軍よりも数は少なかったが、彼が信頼した神に対する信仰は少しも衰えなかった。
王は、繁栄の時に主を求めていたのであるから、こうした逆境の時においても、主によりたのむことができた。彼の嘆願は、彼が、神の驚くべき力を知らない人でなかったことを示している。……
アサの祈りは、すべてのキリスト者が祈るにふさわしい祈りである。……われわれは、人生の戦いにおいて、正義に反抗する悪の勢力に立ち向かわなければならない。われわれの希望は人間ではなくて、生ける神にある。われわれは、神が、み名の栄光のために、神の全能の力を人間の器の努力に結びつけてくださることを、心から確信して期待することができる。われわれは、神の義の武具をまとって、すべての敵に勝利すことができるのである。(国と指導者上巻81, 82)
イゼベルの破壊的影響
「アハブのように主の目の前に悪を行うことに身をゆだねた者はなかった。その妻イゼベルが彼をそそのかしたのである。」(列王記上21:25)
アハブは、道徳的能力が弱かった。彼が、勝気で積極的性格の持ち主であった異邦の女と結婚したことは、彼自身と国家とに悲惨な結果をもたらした。主義をもたず、正しい行為に対する高い標準も持っていなかったので彼の性格は、イゼベルの決然とした気質にやすやすと動かされていった。……
イスラエルは、アハブの治世の破壊的影響の下にあって、生ける神から遠く離れ、神の前で悪を行った。彼は、長年の間、神を敬い恐れる心を失ってきていた。そして、今となっては、広く行きわたった神を汚す精神に公然と反対して立ち上がり、彼らの生活を大胆に暴露するものはひとりもいなくなったように見えた。背信の暗い影が全国をおおった。バアルとアシタロテの像は至るところにあった。人間の手のわざが礼拝された偶像礼拝の神殿と奉献された木立とは増し加えられた。空気は、偽りの神々に献げられる犠牲の煙で汚染された。日、月、星に犠 牲を献げた異教の祭司たちの酒に酔った叫びが、丘や谷にこだましていた。
イゼベルと彼女の邪悪な祭司たちの影響を受けて、人々は、神としてあがめられている偶像が、その神秘的な力によって、地、火、水などの宇宙の構成要素を支配していると教えられた。天のあらゆる境界、流れる小川わき出る泉の流れ、静かにくだる露、地をうるおし、田畑に豊かな実りをもたらす雨などは、みな、あらゆるい完全な賜物の与え主であられる神からのものではなくて、バアルとアシタロテの恵みによるものとされたのである。人々は、丘や谷、流れや泉などが、生ける神のみ手のうちにあること、また、神は、太陽、空の雲、その他すべての自然の力を支配しておられることを忘れた。……
彼らは愚かにも、神と神の礼拝を拒絶した。(国と指導者上巻85,86)
非献身的な女性の力を悟っている人はなんと少ないことであろう。……もしアハブが天の勧告のうちに歩んだならば、神はアハブと共におられたであろう。しかし、アハブはこれをしなかった。彼は偶像礼拝に身を捧げた女性と結婚した。イゼベルは、王に対しては神よりも威力があった。彼女は彼と民を偶像礼拝に導いた。(SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ホワイト・コメント]2巻1033)
荒野の声
「ギレアデのテシベに住むテシベびとエリヤはアハブに言った、『わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう』。」(列王記上17:1)
アハブの時代に、ヨルダン川の東のギレアデの山中に、信仰と祈りの人が住んでいて、彼の大胆な活動によって、急速に進んでいたイスラエルの背信は阻止されるのであった。テシベびとエリヤは、有名な都市から遠く離れて住み、高い地位を占めてはいなかったけれども、神が彼の前に道を備えて、豊かな成功をお与えになることを確信して、仕事に着手したのである。彼は信仰と力に満ちた言葉を語った。そして、彼はその全生涯を、改革の事業に献げていた。彼は、罪を譴責し、罪悪の潮流を押しとどめるために、荒野に呼ばわる者の声であった。彼は罪の譴責者として、人々のところに来たのではあったが、彼の言葉は、癒しを願うすべての悩める人々に、ギレアデの乳香を与えたのである。……
天からの刑罰の言葉をアハブに伝える任務が、エリヤに負わせられた。彼は主の使命者になることを求めたのではなかった。主の言葉が彼に臨んだのである。彼は神の働きの栄誉のために熱心だったので、従うことは悪の手にかかって、速やかに殺されることを招くようなものであったが、神の召しに従うことをためらわなかった。……
エリヤが彼の言葉を語ったのは、神のみことばの確実な力に対して強い信仰を働かせたからにほかならなかった。もし彼が自分が仕える神に絶対的信頼を持っていなかったならば、アハブの前に立つことはしなかったであろう。エリヤはサマリヤへ行く途中で、水のつきない流れや、緑におおわれた山々や、かんばつに襲われそうもない堂々とした森林を通過した。彼が見たものは、すべて、美におおわれていた。預言者は、どのようにして、流れの水が止まって干からび、山々や谷が、かんばつで焼けつくようになるだろうかと、怪しむこともできた。しかし、彼は、不信仰におちいらなかった。彼は、神が背信したイスラエルを卑しめて、刑罰によって彼らを悔い改めさせることを疑わずに信じていた。天の神の厳命が出されたのである。神の言葉に誤りはあり得なかった。エリヤは自分の生命の危険をもかえりみずに、恐れることなく、彼の任務を果たしたのである。(国と指導 者上巻87-90)
乏しい食物を分けあう
「エリヤは彼女に言った、『恐れるにはおよばない。行って、あなたが言ったとおりにしなさい。しかしまず、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。「主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない」とイスラエルの神、主が言われるからです』。」(列王記上17:13, 14)
この女はイスラエル人ではなかった。彼女は神の選民が享受した特権と祝福を受けたことはなかった。しかし、彼女は真の神を信じ、彼女の道を照らしたすべての光に従って歩いていた。そこで、イスラエルの地にエリヤが安心して住むところがなくなったときに、神はエリヤを彼女の家に送り、そこに避難させられた。 ……
飢饉はこの貧困にうちひしがれた家庭をきびしく傷めつけ、哀れにも乏しい食糧はなくなりかけていた。やもめ女が生きるための戦いをやめなければならないと思ったその時に、エリヤがやって来たことは、なくてならぬものを備えて下さるという、彼女の生ける神の力を信じる信仰に対する最大の試練であった。しかし、彼女は貧窮の極に達していても、彼女の最後の食事を分けてほしいと願う旅人の要求に応じて、彼女の信仰のあかしを立てたのである。……
これ以上に大きな信仰のテストを要求することはできなかった。やもめ女は、これまで、すべての旅人を親切に手厚くもてなしたのであった。今、彼女は、自分と子供が苦しみに会うことをも顧みず、イスラエルの神が彼女のすべての必要を満たしてくださることを信じて、「エリヤが言ったとおりに」行い、旅人をもてなすことについてのこの最高のテストに耐えたのである。……
ザレパテのやもめ女は、彼女の乏しい食物をエリヤに分け与えた。そして、その返礼として、彼女と彼女の息子の生命が保護されたのである。そして、試練と欠乏のときに、われわれよりさらに困窮状態にある人々に同情と援助を与えるすべての者に、神は大きな祝福を約束しておられる。(国と指導者上巻97-99)
飢餓の時にエリヤを養われた神は献身しているご自分の子らの一人を見捨てられることはない。その髪の毛までも数えておられるお方は、彼らを養われ、飢餓の時に彼らは満たされるのである。悪人たちが彼らの周りで、食物の欠乏のゆえに滅んでいく間、彼らのパンと水は保証される。(教会への証1巻173,174)
与える方が幸い
「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。」(ピリピ4:19)
ザレパテのやもめの女についての話を読みなさい。異邦の地に住むこの女の所に、神は食物を求めるようにと、ご自分の僕を飢きんの時に送られた。……このフェニキヤの女が神の預言者に示した親切なもてなしは素晴らしいものであった。そしてその信仰と物惜しみをしない行為は驚くほど報いられたのである。
神は変わってはおられない。そのみ力は今もエリヤの時代と同じである。…… キリストのみ言葉は、その初めの弟子たちへと同様、今日の忠実な僕にむかっても、「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをおつかわしになったかたを受け入れるのである」と仰せになる(マタイ10:40)。キリストのみ名のゆえに示された親切な行為は必ず覚えられ、報われる。そしてキリストは、神の家族のうちで最も弱々しく地位の低い者であっても、同じに優しく覚えてくださるのである。「わたしの弟子であるという名 のゆえに、この小さい者」、すなわちその信仰とキリストを知る知識が子供のようである者たち「の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」と仰せになる(同10:42)。
貧困が、わたしたちが親切な行為をすることを妨げる必要はない。わたしたちは持っているものを分け与えるべきである。 暮らしをたてるのに苦労している人々、またその必要を満たす収入を得るのが非常に困難な人々がいる。しかし、この人々は主の聖徒の中のイエスを愛して、信者にも未信者にも、彼らの訪問を有益なものにしようとして、親切な行為を示す準備ができている。家庭の食卓で、また家庭の祭壇で訪問客は歓迎される。祈りの時間は、もてなしを受け入れる人々に感銘を与える。そしてただ一度の訪問でも死から魂を救う機会になることができるのである。この働きのために主は、「わたしが報いる」と仰せになって、清算されるからである。……
「人はパンだけで生きるものではな」い。だからわたしたちはこの世の食物を 他の人々に分け与えるように、希望と勇気とキリストのような愛を分け与えるべきである。……そう すれば「神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ちたらせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである」との保証はわたしたちのものである(コリント第二9:8)。(教会への証6巻345-348)
アハブの前に立つエリヤ
「彼は答えた、『わたしがイスラエルを悩ますのではありません。あなたと、あなたの父の家が悩ましたのです。あなたがたが主の命令を捨て、バアルに従ったためです』。」(列王記上18:18)
長年のかんばつと飢饉の間、エリヤは、イスラエルの人々が偶像礼拝を離れて神に忠誠をつくすように、熱心に祈っていた。主のみ手が、災禍に苦しむ地上に置かれていた間、預言者エリヤは忍耐強く待っていた。……
ついに、「多くの日を経て」、「行って、あなたの身をアハブに示しなさい。わたしは雨を地に降らせる」という主の言葉がエリヤに臨んだ。……
王と預言者はたがいに面と向かい合って立っている。アハブは激しい憎しみを抱いているにもかかわらず、エリヤの前では、女々しく、力がぬけたように思われる。彼は、まず、どもりながら「、イスラエルを悩ます者よ、あなたはここにいるのですか」と言い、無意識のうちに、彼の心の奥にひそむ感情をあらわすのである。アハブは、天が青銅のようになったのは、神の言葉によるものであったことを知ってはいたが、それでもなお、彼は、地に下った厳しい刑罰の責任を預言者に負わせようとしていたのである。……
エリヤは自分の潔白なことを意識して、アハブの前に立ち、自分を弁解しようとも、また、王にへつらおうともしないのである。また、かんばつは、ほとんど終わったというよい知らせによって、王の怒りを避けようともしないのである。彼は何の謝罪もしないのである。彼はいきどおりと神のみ栄えのための熱意に燃えて、アハブの告発を彼に帰して、この恐ろしい災害をイスラエルにもたらしたのは、彼の罪であり、彼の先祖の罪であると、恐れることなく王に宣言するのである。……
今日、断固とした譴責の声が必要である。なぜならば、悲しむべき罪が、人々を神から引き離したからである。……よく聞く耳ざわりのよい説教は、心に永続的印象を与えない。ラッパは音をはっきり出さない。人々は、神の言葉の明白で鋭い真理によって、心が切り裂かれない。……
神は、エリヤ、ナタン、バプテスマのヨハネのような人々、すなわち、結果がどうなろうとも、忠実に神の言葉を伝える人々を召しておられる。また、所有するすべてのものを犠牲にすることを要求されても、勇敢に真理を語る人々を、神は召しておられるのである。(国と指導者上巻100-111)
神の勇士たち
「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい。」(列王記上18:21)
全体的な背教のただ中で、エリヤは自分が天におられる神に仕えているという事実を隠そうとしなかった。バアルの預言者は450人を数え、祭司は400人、そしてその礼拝者は何千人もいた。しかしエリヤは、自分が人気のある側にいるように見せようとはしなかった。彼はただ一人で威厳をもって立った。……はっきりとした、トランペットのような声で、エリヤはおびただしい群衆に向かって、「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか」と話しかけるのであ る。……今日のエリヤはどこにいるのであろうか。(教会への証5巻526,527)
神は人々の前で至高者としてのご自分の栄誉が高められ、また神の勧告が確認されるのを望まれる。カルメル山での預言者エリヤの証は、地上において、神と神の働きのために毅然と立った人の模範となっている。……「イスラエルでは、あなたが神であること、わたしがあなたのしもべであって、あなたの言葉に従ってこのすべての事を行ったことを今日知らせて下さい。主よわたしに答えて下さい。わたしに答えてください。」と彼は祈り嘆願する。……
神の栄光のためという彼の熱意とイスラエルの家のための深い愛は、今日地上における神の働きの代表者として立つすべての人々のために教訓を与えている。(SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ホワイト・コメント]2巻1034)
わたしたちが神の戒めを守る民であるということが知られるのを恐れたり、臆病であることによっては何も得られない。自分の信仰が恥ずかしいものであるかのように、わたしたちの光を隠すなら、結果として不幸が生じるだけである。神は、わたしたちが弱いままにしておかれる。主がわたしたちを召されるどのような場所においても、自分の光を輝かせるのをわたしたちが拒むことのないよう、主が助けて下さるようにと祈る。もしわたしたちが自分自身の考えや計画に従って、あえて自分自身を前に押し出し、イエスを後に残そうとするなら、堅忍や勇気、また 霊的活力を得ようと期待しても無駄である。神は道徳上の勇士、すなわち神の 特別の民であることを恥としない人々を持っておられたし、今も持っておられる。彼らの意志と計画はすべて神の律法に従ったものである。イエスの愛は彼らに自分の生命を大事なものと考えないよう導いてきた。彼らの働きは神のみ言葉からの光を捕え、世にはっきりとした変わらない光線を輝き出させるようにしてきた。「神への忠誠」が彼らのモットーである。(教会への証5巻527,528)
過去と現在の偶像礼拝
「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」(出エジプト 20:3)
形こそ違うが、偶像崇拝は、今日のキリスト教界にも、古代イスラエルのエリヤの時代にあったのと同じように存在している。自ら賢人と称する多くの人々、哲学者、詩人、政治家、ジャーナリストたちの神、洗練された上流社会、多くの大学、はては幾つかの神学校などの神も、フェニキヤの太陽神バアルとほとんど変わるところがない。
キリスト教界で受け入れられている誤謬ほど、天の神の権威に大胆に打撃を与えるものはなく、また、神の律法はもはや人間を拘束しないという、急速に力を増しつつある近代的教理ほど、結果の有害なものはない。……
聖書はどんな人の手にも入るが、それを真に人生の道しるべとして受け入れる人は少ない。不信仰は単に世の中ばかりでなく、教会内にも驚くほど広くゆきわたっている。多くの人は、キリスト教信仰の支柱そのものになっている教理を否定するようにさえなっている。霊感を受けた記者たちによって書かれている、創造の偉大な事実、人類の堕落、贖い、神の律法の永遠性などの大真理が、自称キリスト教界の大部分の人たちによって、全体的に、あるいは部分的に受け入れられなくなっている。知恵と自主性を誇る幾千もの人々が、聖書に絶対的信頼を置くことを弱さの証拠と考え、聖書の揚げ足を取ったり、最も重要な真理を抽象化したり言い抜けたりすることを、優れた才能や学識の証拠だと思っている。神の律法が変更されたとか廃されたとかいうことを、信者たちに教えている牧師や、学生たちに教えている教授、教師が多い。そして、律法の要求がなお有効であり、字義通りに従わなければならないものであるとみなす人々は、嘲笑と侮べつにしか値しないと思われている。……
真理と誤謬の最後の大争闘は、長い間続いてきた神の律法に関する論争の最後の戦いにほかならない。われわれは今や、この戦い、……に入っているのである。(各時代の大争闘下巻345,344)
神を待ち望む
「エリヤはアハブに言った、『大雨の音がするから、上って行って、食い飲みしなさい』。」(列王記上18:41)
エリヤがこのような確信をもってアハブに雨の準備をするように命じたのは、雨が降りそうな外面的証拠が何かあったためではなかった。エリヤは空に雲を見なかった。雷の音も聞かなかった。彼はただ彼自身の強い信仰に答えて、主の霊が彼を動かして語らせられた言葉を語ったに過ぎなかった。……彼は力のなし得る限りのことをなし終えた。そこで彼は、天の神が預言された祝福を豊かにお与えになることを知っていた。かんばつをお与えになった同じ神が、正しい行為の報いとして豊かな雨を約束されたのである。そしてエリヤは今、約束された雨が注がれるのを待った。彼は「顔をひざの間に入れ」て謙遜な態度をとり、悔い改めたイスラエルのために、神にとりなしの祈りを捧げた。 ……
しもべは、青銅のような空には雨の降るしるしは何もないと言って6回も帰ってきた。エリヤは臆することなく、もう1度彼を送り出した。するとしもべは、今度は帰ってきて「海から人の手ほどの小さな雲が起っています」と言った。
これで十分であった。エリヤは空が暗くなるまで待たなかった。彼は信仰によって、その小さな雲のなかにあふるるばかりの雨を見た。そして彼は、その信仰に従って行動した。……
彼は祈り、信仰の手をのばして天の神の約束をつかんだ、そして彼は祈りが聞かれるまで祈りつづけた。彼は神が祈りをお聞きになったという十分な証拠が与えられるまで待たず神の恵みのほんのわずかなしるしにすべてをかけるのであった。しかし彼が神の助けによってなし得たことは、すべての者がそれぞれの神の奉仕における範囲内においてなし得ることなのである。……
このような信仰、すなわち、神のみ言葉の約束をつかんで、天の神がお聞きになるまで、どんなことがあっても手を離さない信仰が、今日世界に必要である。 ……
われわれはヤコブの不撓不屈の信仰、エリヤのたゆまぬ忍耐力とをもって、われわれの願いを天の父に申し上げ、彼が約束されたすべてのことを自分のものとすればよいのである。神はそのみ座の名誉にかけて、ご自分のみ言葉を成就してくださるのである。……(国と指導者上巻123-125)
自己を明け渡す
「エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈をささげたところ、三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた。」(ヤコブ5:17,18)
エリヤの経験の中で、重要な教訓がわたしたちに与えられている。カルメル山上で彼が雨のために祈りをささげた時、彼の信仰は試されたが、神に彼の要求を訴えて頑張り通した。……彼が六回で落胆してあきらめたならば、彼の祈は答えられなかったであろう。しかし、彼は答えが来るまで忍耐強くやり通した。わたしたちには、わたしたちの嘆願に耳を閉じられることのない神がおられる。だからもしわたしたちが「神のみ言葉を証明するならば、神はわたしたちの信仰に光栄を与えられるであろう。神はわたしたちがすべての関心を神の心と織り合せることを望まれる。なぜなら、祝福がわたしたちのものとなる時、わたしたちは自分の栄誉としないで、神にあらゆる賞賛を帰すようになるからである。神は、いつもわたしたちの祈りに最初から答えられるとは限らない。なぜなら、もしそうなったら、わたしたちは神がお与えになったあらゆる祝福と恩恵を受ける権利を当然の事と思うからである。自分が何かの悪をもてあそんだり、罪にふけっていないかどうかを吟味するためにじっくり考えることをしないで、わたしたちは不注意になって、神に信頼することと神の助けの必要性を真に理解しなくなるのである。
エリヤは、自分に栄誉を帰すことがないという状態まで、自分自身を謙虚にした。これが、主が祈りを聞かれる状態である。なぜなら、その時わたしたちは主をほめたたえるからである。人間に賞賛を捧げる慣習は、大きな害悪という結果を産む。一方が他者を賞賛する。このようにして人々は、栄光と名誉が彼らに属すると感じるようになる。あなたが人を高めるとき、まさにサタンがあなたにするように、あなたは彼の魂に罠を仕掛けるのである。……神だけが賞賛されるにふさわしい方である。(SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ホワイト・コメント]2巻1034,1035)
彼(エリヤ)が自分の心を探ったとき、自分自身の評価と神の御前の両方において、ますます自分が小さく思えた。彼にとって自分は無であり、神がすべてであると思えた。そして、彼が自己放棄の点に達し、また自分の唯一の力と義として救い主にすがりついたときに応答がきた。(同上1035)
落胆に圧倒される
「[彼は]自分の死を求めて言った、『主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません』。」(列王記上 19:4)
あのように不屈の勇気を示し、国王や祭司たちや国民に対してあのように完全な勝利を収めたエリヤは、その後落胆したり、おじ気づいたりすることはあり得ないかのように思われる。しかし、このように多くの神の愛の保護の証拠を与えられた彼も、人間的弱さに勝つことができず、この暗黒の時に信仰と勇気を失ってしまった。……
彼がその場にとどまり、神を彼の避け所、また力として真理のために固く立ったならば、彼は危害を受けることなく守られたことであろう。主はイゼベルに刑罰をお与えになって、もう一つの著しい勝利をお与えになったことであろう。……
だれでも時には、激しい失望と絶望に陥る時があって、心は悲しみに満たされ、神が今でも地上の子供たちの慈悲深い保護者であられることを信じ難い日々があるものである。心は悩みにさいなまれて生きているよりは死んだほうがましだと思われる時がある。そうした時に多くの者は、神に対する信頼を失って、疑いと不信の奴隷になるのである。そのような時に、もしわれわれが霊的洞察力をもって、神の摂理の意味を悟ることができたならば、天使たちがわれわれを助けて、われわれの足を永遠の山よりも堅い基礎の上に置こうと努めているのを見ることができるであろう。そして、新しい信仰と新しい生命がわき上がることであろう。……
気落ちしている者に対して、信頼できる救済策がある。それは信仰と祈りと行いである。……一見絶望的で、最悪の事態にあっても恐れてはならない。神を信じよう。神はあなたの必要を知っておられる。神はすべての力を持っておられる。神の無限の愛と憐れみは、消耗することがない。……そして神は、忠実なしもべたちが必要とするだけの能力をお与えになる。……
神はエリヤを、試練の時にお捨てになったであろうか。いや、そうではない。神はエリヤの祈りに答えて、天から火を降らせて山の頂を照らされた時と同様に、彼が神と人に捨てられたと感じた時にも、彼を愛しておられた。(国と指導者上巻127-135)
あなたはここでなにをしているのか
「その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、『エリヤよ、あなたはここで何をしているのか』。」(列王記上19:9)
エリヤがホレブ山に隠れたことは、人間にはわからなかったが、神は知っておられた。そして疲労し、絶望に陥った預言者はそこにただ一人残されて、押し寄せる悪の勢力と戦うのではなかった。……
神は疲れたしもべに、「あなたはここで何をしているのか」とおたずねになった。私はあなたをケリテ川に送り、その次にはザレパテのやもめのところに送った。私はあなたにイスラエルに帰って、カルメル山上で偶像礼拝の祭司たちの前に立つことを命じた。そして、王の車をエズレルの門まで導く力をあなたに与えた。しかしこんなにあわててあなたを荒野に逃亡させたのは、いったいだれなのか、あなたはここで何の用があるのか。……
真実で忠実な人々のたゆまぬ活動に負うところが多いのである。そのためにサタンは、服従する人々によって行われる神のみこころを、なんとかして妨げようと努力するのである。サタンはある者に、彼らの崇高で聖なる任務を見失わせて、この世の快楽に満足を味わわせようとする。……また他の人々を、反対や迫害のゆえに失望させて、義務を行うことを回避させる。……魂の敵によってその声を沈黙させられたすべての神の子に対して、「あなたはここで何をしているのか」という質問が投げかけられている。わたしはあなたに、全世界に出て行って福音を 宣べ伝え、人々に神の日のための備えをさせるように任命したのである。あなたは、なぜここにいるのか。……
個人と同様に家族に対しても、「あなたはここで何をしているのか」という質問がなされている。多くの教会の中には、神のみ言葉の真理についてよく教えられた家族がある。そのような人々は、彼らのできる奉仕を必要としている場所へ移っていって、彼らの影響力の範囲を広げるとよいのである。神はキリスト者の家族が、地上の暗黒の場所へ出ていって、霊的暗黒に閉ざされている人々のために、賢く忍耐強く働くように招いておられる。……世俗的利益のためや科学的知識獲得のために、人々は喜んで伝染病の多い地域へ入って行って、苦難と欠乏とに耐えるのである。救い主のことを他の人々に伝えるために喜んでそれと同じことをする人々がどこにいるのであろうか。(国と指導者上巻136-141)
今日必要とされるエリヤ
「また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である。」(列王記上19:18)
エリヤはイスラエルの中で、自分だけが真の神の礼拝者であると考えていた。しかしすべての人々の心を読まれる神は、長くつづいた背信のなかにあって神に忠誠を保った者が多くいたことをエリヤに示された。……
一見、失望と敗北と思われる時におけるエリヤの経験から多くの教訓を学ぶことができる。すなわち、人々が一般に正義から離反している、現代の神のしもべたちに非常に貴重な教訓を教えている。今日広く行きわたっている背信は、預言者の時代にイスラエルに広がった背信とよく似ている。今日多くの人々は神よりも人間を高め人気ある指導者を称賛し、富を礼拝し、啓示の真理よりも科学を尊重してバアルに従っている。疑惑と不信は人々の心に悪影響を及ぼし、多くの者は人間の理論を神の言葉の代わりにしている。彼らは、人間の理性が神の言葉の教え以上に高められるべき時が来たと、公然と教えている。義の標準である神の律法は、もうその効力を失ったと言われている。すべての真理の敵は欺瞞的な力をもって働きかけ、神の占めるべき位置に人間の制度を設け、人類の幸福と救いのために定められたものを彼らに忘れさせようとしている。
しかしこの背信は、広がっているとは言っても、普遍的なものではない。世界中のすべての人が不法で罪深いのではない。すべての者が敵の側に加担したのではない。神は、……イエスが速やかに来られて、罪と死の支配を終わらせてくださることを切望している者を多く持っておられる。……
このような人々は、神を知り、神のみ言葉の力を知った人々の個人的な援助を必要としている。……聖書の真理を知っている者が、光を熱望する男女をたずね求める時に、神の天使は彼らに伴っていく。……多くの人々が偶像礼拝から生きた神の礼拝に立ち返るのである。多くの人々は人間が作った制度を崇敬することをやめて、恐れることなく神と神の律法の側に立つのである。(国と指導者上巻139,140)
弱いその時
「彼は言った、『わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者たちを殺したからです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています』。」(列王記上19:14)
もし霊的力に満ちた人が、困難な状況のもとで極度の苦しみに遭い、失望落胆して生きがいを全く見失ってしまったとしても、これは不思議でも新しいことでもないのである。そうした人々はみな、最大の預言者の一人が、激怒する女の怒りを避けて命からがら逃げ出したことを思い出すとよい。……
自分たちの生命のエネルギーを自己犠牲的働きのために使い尽くしながらも、落胆と疑惑に打ちひしがれそうになる者は、エリヤの経験から勇気を得るとよい。 ……
サタンが最も激烈な攻撃をしてくるのは、魂が最も弱っている時である。……かんばつと飢饉の年月の間主に信頼しつづけ、恐れることなくアハブの前に立ち、カルメル山上におけるあの試練の日に、イスラエル全国民の前に真の神のただ一人の証人として立った彼が、疲れ果てた時には死の恐怖に襲われて、彼の神に対する信仰を失ってしまった。……
……われわれも疑惑に襲われ、窮地に陥り、貧苦に悩むとき、サタンはわれわれの主に対する確信を動揺させようとするのである。……
しかし神は理解し、なお憐れみ、愛されるのである。神は心の動機と目的とをお読みになる。万事が暗澹としている時に、忍耐強く待ち信頼することは、神の働きの指導者たちが学ばなければならない教訓である。神は逆境の中にある彼らをお見捨てにならない。自分の無価値なことを知って全く神に寄り頼む魂ほど、一見無力に見えるが、真にこれほどに打ち勝つことができないものはほかにないのである。
試練の時に神に信頼することを改めて学ぶというエリヤの経験の教訓は、大きな責任の地位にある人々のためだけではない。エリヤの力であられたお方は、どんなに弱い者であっても、苦闘する神のすべての子供を支える力を持っておられる。神はすべての者に忠誠をお求めになり、すべての者に必要な力をお授けになるのである。(国と指導者上巻141-143)
戦いは神のもの
「われわれの神よ、あなたは彼らをさばかれないのですか。われわれはこのように攻めて来る大軍に当る力がなく、またいかになすべきかを知りません。ただ、あなたを仰ぎ望むのみです。」(歴代志下20:12)
ヨシャパテの治世の晩年においてユダ王国は敵軍の侵略を受け、地の住民はそれを前にして震えおののいた。……
ヨシャパテは勇猛果敢な人であった。彼は永年にわたって、軍隊と要害の町々を強化してきた。彼はどんな敵にも対応する準備が整っていた。しかし彼はこの危機において、肉の腕に頼らなかった。彼は訓練された軍隊や城壁をめぐらした町々ではなくて、イスラエルの神に対する生きた信仰によって諸国民の前で、ユダを辱めようとして力を誇示するこれらの異教徒に勝とうと望んだのである。
「そこでヨシャパテは恐れ、主に顔を向けて助けを求め、ユダ全国に断食をふれさせた。それでユダはこぞって集まり、主の助けを求めた。すなわちユダのすべての町から人々が来て主を求めた」。
ヨシャパテは人々の前で、神殿の庭に立って心を注ぎ出して祈り、イスラエルの無力さを告白して神の約束を願い求めた。
ヨシャパテは確信をもって、「ただあなたを仰ぎ望むのみです」と言うことができた。彼はむかし神の選民を全滅から救うために度々介入された神に信頼するように、永年にわたって人々を教えてきた。そして今、王国が危機にひんしたときに、ヨシャパテはただひとりで立ったのではなかった。「ユダの人々はその幼な子、その妻、および子供たちと共に皆主の前に立っていた」(歴代志下20:13)。彼らは一つになって断食して祈った。彼らは一つになって、主が彼らの敵を混乱させ、主のみ名があがめられるように願い求めたのである。 ……
神はこの危機においてユダの避け所であられたが、今日も神の民の避け所であられる。われわれはもろもろの君たちに頼ったり、人間を神の位置に立てたりしてはならないのである。われわれは、人間は倒れ、誤りを犯すものであることと、全能の神がわれわれの力強い防御のとりでであることを忘れてはならない。あらゆる危機において、戦いは神のものであると思わなければならない。神の資源は無限である。そしていかにも不可能と思われる事態は、それだけ勝利を大いなるものにするのである。(国と指導者上巻164-169)
戦いの歌
「彼はまた民と相談して人々を任命し、主に対する聖潔の美を賛美させ、軍勢の前に進ませ、主に向かって歌をうたい、かつさんびさせ、『主に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない』と言わせた。」(歴代志下20:21英語訳)
歌を歌って主を賛美し、イスラエルの神をあがめながら敵軍に向かっていくというのは、奇妙な方法であった。これは彼らの戦いの歌であった。彼らは聖なる飾りを身に着けていた。もしわれわれが、今もっと神を賛美するならば、希望と勇気と信仰が増しつづけることであろう。そしてこれは、今日真理を擁護して立っている勇敢な兵士たちを奮起させるのではなかろうか。(国と指導者上巻168)
彼らは勝利を求めて神を賛美した。そして四日後に敵の分捕り品を積み上げ、勝利のゆえに賛美の歌を歌いつつ、軍勢はエルサレムに戻ってきた。(神の息子、娘たち7月11日)
わたしたちが神の憐れみと慈愛について、より深い感謝の心を持つ時、つぶやく代りにこのお方を讃美していることであろう。主の愛に満ちた見守りについて、良い羊飼いである方の優しいあわれみについて語ることであろう。心から出る言葉は利己的なつぶやきや愚痴ではなくなる。透き通った流れのような讃美が、真に神を信じる者たちから出てくるのである。
人生の旅路において霊的歌声をあげようではないか。……わたしたちは神のみ言葉を研究し、瞑想と祈りをする必要がある。そうすればわたしたちは天にある宮の奥殿をはっきり と見る霊的視力を持ち、み座の周りにいる天の聖歌隊によって歌われる感謝のしらべを捕えるのである。シオンが起きて光を放つとき、その光は最もよく輝きわたり、讃美と感謝の歌が聖徒たちの集会の中で聞こえる。ささいな失望や困難は忘れ去られるのである。
主はわたしたちの助け手であられる。……神に信頼して徒労に終った者はいない。このお方は、ご自分に寄り頼む者たちを決して失望させられない。主がわたしたちに望んでおられる働きを、イエスの足跡をたどりつつ行いさえすれば、わたしたちの心は聖なる立琴となり、そのすべての弦は世の罪を取り除くために神が送られたお方に向かって讃美と感謝を発するのである。(同上7月10日)