セブンスデーアドベンチスト 聖書研究シリーズ 聖書入門その3 -2ページ目

セブンスデーアドベンチスト 聖書研究シリーズ 聖書入門その3

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エレン・G(グールド)・ホワイト 聖書 キリスト
もう間もなく、再臨があります!

誰も日本語訳をつけないので私が伝えます
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最後の夜

「また、ソドムとゴモラの町々を灰に帰せしめて破滅に処し、不信仰に走ろうとする人々の見せしめとし、」(ペテロ第二2:6)

 

 平原の町々を焼き尽くした炎は、われわれの時代にまで警告の光を投げている。神は、罪人をあわれみ、長く忍ばれる。しかし、人間はある定められたところ以上に罪を犯し続けることはできないという恐ろしく厳粛な教訓が教えられた。その限界に達するときに、あわれみの招きは取り去られて、刑罰のわざが始まる。

 世の贖い主は、ソドム、ゴモラを滅ぼした罪よりもっと大きな罪があると言われた。罪人に悔い改めを促す福音の招待を聞きながら、それを心にとめないものは、シデムの谷間の住民以上に神の前に罪深いのである。そして、神を知り、その律法を守っていると公言しながら、その品性や日常生活において、キリストを拒む者の罪はさらに大きい。ソドムの運命は、……天からの光と特権を軽んじるすべての人々に対する厳粛な訓戒であると救い主は警告された。(人類のあけぼの上巻172,173)

 神の裁きが間もなく地上に注がれねばならない。「逃れて、自分の命を救いなさい」というのが神のみ使いたちからの警告である。別の声が「動揺するな。特に恐慌に陥るような原因はない」と言っている。罪を犯す者にすみやかな破滅が下ると、天が宣言している間に、シオンでくつろいでいる人々は「平和だ無事だ」と叫ぶ。青年や軽薄な者、また快楽を愛する者はこれらの警告を根拠のない作り話だと考え、冗談としてしりぞける。両親はこれらのことに対して自分たちの子供はおおむね正しいと思う傾向があり、みな安心して眠る。ソドムとゴモラが火で焼き尽くされた時、古い世界の滅亡にあたってはこのようであった。破滅の前夜、 この平原の町々は快楽に大騒ぎをしていた。ロトは彼の恐れと警告を発したためにあざけられた。しかし炎の中で滅びたのはあざ笑った人々であった。その夜、ソドムの邪悪で不注意な住民に、恵みの扉が永久に閉ざされた。(教会への証5巻233,234) ロトにソドムを去るようにと警告したその同じ声が、わたしたちに「彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ。……そして汚れたものに触れてはならない」と言われる(コリント第二6:17)。この警告に従う者は避難所を見出す。(セレクテッド・メッセージ2巻354)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

忘れてはならない

「ロトの妻のことを思い出しなさい。」(ルカ17:32)

 

 避難者のひとりが、ふり向いて滅びの町を見たために、神の刑罰の記念碑になった。もしロトが、ためらうことなく天使の警告に従い、嘆願や抗議をしないでけんめいに山地をさして逃げていたならば、彼の妻ものがれたことであろう。ロトは、彼自身の模範によって、彼女を罪と滅びから救うことができたのであった。しかし、彼のためらいと遅延が、彼女に神の警告を軽視させた。彼女のからだは平原に来ていたが、彼女の心はソドムに執着していて、それとともに滅びた。彼女は、持ち物や子供たちまでが神の刑罰にのまれてしまうので、神に反逆の精神をいだいた。彼女は罪悪の町から救い出されて大きな恵みをこうむったが、長年かかって蓄積した富を、そのまま残して灰にしなければならないことを、きびしい取り扱いだと感じた。彼女は、救いを感謝して受けるかわりに、神の警告を拒んだ人々の生活をしたって、あえて後ろを振り向いた。彼女の罪は、彼女が生きる価値を持っていないことを示した。彼女は、助けられていることになんの感謝もあらわさなかった。

 われわれは、神がわれわれを救うために、恵み深くもとられる方法を軽々しく扱わないように注意すべきである。「わたしの配偶者や子供がいっしょでなければ、わたしは救われたくない」というクリスチャンがある。彼らは、愛する者たちがいなければ、天国は、天国でないと感じる。しかし、神の大いなる恵みとあわれみを考えると、こういう感情の人は自分自身と神との関係について、正しい観念をもっているといえようか。彼らは、愛と誉れと忠誠という最も強いきずなによって、創造主とあがない主の奉仕に結ばれていることを忘れたのであろうか。あわれみの招きは、すべてに与えられた。そして、友人が救い主の愛の訴えを拒むからといって、われわれも顔をそむけるのであろうか。魂の贖罪は尊いことである。キリストは、われわれの救いのために無限の代価を払われた。そして、この大犠牲の価値、また魂の価値を認めるものは、他の人々があなどるからといって、神の恵みの申し出を軽んじないのである。(人類のあけぼの上巻171,172)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もっと良いふるさと

「しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(へブル11:16)

 

 ロトはソドムに移ったとき、自分を罪悪から守り、家族を自分に従わせる堅い決心であった。しかし、彼は、明らかに失敗した。……

 今日も同様のまちがいをくりかえす者が多い。‥…子供たちは誘惑にかこまれる。そして、彼らは敬虔の念を養い、正しい品性を形成するには不利な友人を持つ場合が多い。低い道徳観念、不信仰、宗教に関する無関心などの雰囲気は、親の感化を中和させる傾向がある。親や神の権威に対する反抗の実例は、常に青年たちの前にある。多くの者は、無神論者や未信者と親しくなり、神の敵と運命をともにする。

 神はわれわれが住宅を選ぶとき、自分たちと家族をとりまく、道徳的、宗教的感化を、まず考慮することを望まれる。希望する環境を持つことができない者が多いから、われわれは苦しい立場に立たされる。もし、われわれが、キリストの恵みにたより、目をさまして祈っているならば、どのような所に召されても、神は、われわれを汚れに染むことなく立たせてくださるのである。しかし、クリスチャン品性の形成に不利な環境に、わざわざ身をさらしてはならない。……

 子供たちの永遠の幸福を犠牲にして、世の富と名誉を彼らに与えようとする者は、ついに、これらの利益が恐ろしい損失であることに気づくのである。多くの者は、ロトのように、子供たちを失い、自分の魂を救うことがせいいっぱいであったことを知るであろう。彼らの生涯の事業は失われ、彼らの一生は悲しい失敗である。もしも彼らが真の知恵を働かせていたならば、世的財産は少なくても、永遠の嗣業の獲得権を確保したことであろう。

 神がその民に約束された嗣業は、この世のものではない。……

 われわれも「もっと良い、天にあるふるさと」を獲得しようと思うならば、この地上で旅人、また寄留者の生活をしなければならない。(人類のあけぼの上巻177-180)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

惜しいものはない

「信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。……彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。」(へブル11:17-19)

 

 神は、アブラハムを信仰の父として召されたのであるから、彼の生涯は後世の人々の信仰の模範となるべきであった。しかし、彼の信仰は完全ではなかった。彼はさきに、サラが妻であることを隠し、こんどはハガルと結婚して神への不信を示した。神は、彼が最高の標準に達するために、これまでまだだれも召されたことのないきびしい試練に彼を会わせられた。(人類のあけぼの上巻153) 主は彼に、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れて……彼を燔祭としてささげなさい」と言われた。老人の心は恐怖に黙して耐えた。病気で、こうした息子を失うことは、慈愛深い父親にとって胸のはりさける思いであろう。それは 彼の白髪を悲嘆にくれさせることであろう。しかし今、彼は自分の手で息子の尊い血を流すようにと命令されている。それは彼にとって恐ろしい、不可能なことに思えた。しかし神が語られたのであるからそのみ言葉に従わなければならなかった。アブラハムは年老いていたが、それを理由に義務を免れようとはしなかった。彼は信仰という杖を握りしめ、物も言えないほどの苦痛にさいなまれながら、若者特有のバラ色に輝く健康な自分の子供の手をとって、神のみ言葉に従うために出かけた。…… アブラハムは、もしイサクが殺されたなら、神のみ約束はどうやって成就されるのかという疑問を持とうとはしなかった。彼は自分の痛む心に思いを向けようとはしないで、ちょうど刃物が子供の震えている体に刺しこまれるその瞬間まで、神のご命令をその言葉通りに行った。そして「わらべに手をかけてはならない。」「あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を畏れる者であることをわたしは今知った」というみ言葉が与えられた。(教会への証4巻144,145) アブラハムの信仰によるこの行為はわ たしたちの益のために記録されている。それは神がわたしたちに要求されることは、たとえ自分にとって身を切られるほどのことであっても信頼して従うという大きな教訓を教える。そして子供たちには、両親と神への完全な服従を教えるのである。アブラハムの従順によって、わたしたちは神に捧げるのに借しいものは何一つないことを知る。(同上3巻368)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

妻を選ぶ

「あなたはわたしが今一緒に住んでいるカナンびとのうちから、娘をわたしの子の妻にめとってはならない。あなたはわたしの国へ行き、親族の所へ行って、わたしの子イサクのために妻をめとらなければならない。」(創世記24:3,4)

 

 アブラハムは、彼のむすこの周囲にある腐敗的感化の影響を恐れた。アブラハムの、いつもながらの神への信仰と神のみこころへの服従は、イサクの品性に反映されていた。しかし、イサクは愛情が強く、柔和で、人に譲歩する性質もあった。もし彼が神をおそれない人と結ばれるとすれば、一致を保つために原則を犠牲にするという危険があった。アブラハムにとって、むすこに妻をめとることは重大なことであった。アブラハムは、彼を神から引き離すことをしない人と結婚させたいと心から願っていた。‥‥

 アブラハムは、カインの時代から彼の時代までの、神を恐れる者と恐れない者との結婚がどんな結果に終わるかをよく知っていた。彼自身とハガルとの結婚の結果、また、イシマエルやロトの結婚関係の結果を、彼は目の前に見ていた。アブラハムとサラの信仰が欠けていたために、イシマエルが生まれ、義人の種族が神を敬わない者と混じった。父の子に及ぼす影響は、偶像礼拝者である母親の側の親族と、イシマエルがめとった異邦の妻たちによってその力をそがれた。 ……

 ロトの妻は利己的で、宗教心のない女であった。そして、彼女は、自分の夫をアブラハムから離れさせようとした。ロトは、彼女さえ望まなければ、賢明で神を恐れるアブラハムの勧告も聞けないソドムにとどまっていたくなかった。……

 神を恐れる者が、神を恐れない者と結合すれば必ず危険が伴う。「ふたりの者がもし同意しなかったなら、一緒に歩くだろうか」(アモス3:3英語訳)。結婚関係の幸福と繁栄は、ふたりの和合にかかっている。しかし、信者と未信者の間には、趣味、傾向、目的などに根本的相違がある。彼らは、ふたりの主人に仕えている。彼らの間に一致はあり得ない。どんなに純粋で正しい原則を持っているとしても、信者でない伴侶は、神から引き離す傾向を持っている。‥…

 「不信者と、つり合わないくびきを共にするな」と主は命じられる(コリント第二6:14,17,18)。(人類のあけぼの上巻181-186)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸せな結婚

「天の神、主はわたしを父の家、親族の地から導き出してわたしに語り、わたしに誓って、おまえの子孫にこの地を与えると言われた。主は、み使をあなたの前につかわされるであろう。あなたはあそこからわたしの子に妻をめとらねばならない。」(創世記24:7)

 

 イサクは、世界の祝福となる約束の相続人となり、神から大きな栄誉を受けた。しかし、彼が四十才のとき、経験豊かで神を恐れるしもべに命じて、彼の妻を選ばせるという父の判断に従った。聖書は、この結婚が愛に満ちた幸福な家庭を築いたことを美しく描いている。「イサクはリベカを天幕に連れて行き、リベカをめとって妻とし、彼女を愛した。こうしてイサクは母の死後、慰めを得た。」

 イサクの歩いた道と、現代の青年たち、またクリスチャンと自称する人々でさえ追い求めている道とは、なんと異なっていることであろう。青年たちは、だれを愛そうと、それは自分だけで決定すればよく、神や親たちからはなんの支配も受けることではないと考えやすい。‥‥こうして現世の幸福と永遠の生命の希望を破壊した人が多い。……

 親たちは、子供たちの将来の幸福について責任があることを忘れてはならない。イサクが父の判断を尊重したことは、彼が、服従の生活を愛するように訓育された結果であった。アブラハムは、子供たちに、親の権威を尊重するように教えたが、彼は日常生活において、その権威が利己的または独裁的支配ではなくて、愛に基づき、彼らの福利と幸福を考慮したものであることを示した。(人類のあけぼの上巻186,187)

 もし注意深く考慮し、年配の経験豊かな人々の勧告を求めるべき問題があるとすれば、それは結婚問題である。もし、聖書の勧告を必要とし、祈りのうちに神の指導を求めるべきときがあるとすれば、それは、一生を結合する段階にはいる前である。(同上187)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたの宗教を示しなさい

「それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、……彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

 

 アブラハムは、周囲の国々から、偉大な族長、賢明で力ある首長として尊敬された。彼は、隣人に自分の感化を及ぼさないようにはしなかった。彼の生活と品性は、偶像礼拝者たちと著しく異なっていて、真の信仰の非常によい感化を及ぼした。彼の神への忠誠は不動のものであるとともに、彼の親しみやすさと情深さは、人々の信頼と友情をかち得、彼の飾らない偉大さは、尊敬と栄誉を受けた。

 アブラハムは、宗教をひそかにしまっておいて、所有主がひとりで楽しむ秘宝のようなものだとは思わなかった。真の宗教は、そのようにしまっておけるものではない。そのような精神は福音の原則に反する。キリストが心のなかに住んでおられるなら、彼の臨在の光をかくすことも、あるいは、その光が暗くなることもあり得ない。

 かえって、魂にかかる自我と罪の霧が、義の太陽の明るい光に照らされて、日ごとに消されていくにつれて、ますます輝きを増すことであろう。

 神の民は、地上の神の代表者である。神は、この世界の道徳的暗黒のなかで、彼らが光になることを望まれる。彼らは、全国の都市や村々に散在した神の証人であって、神は、彼らを通して、神のみこころと神の驚くべき恵みの知識を不信の世界にお伝えになる。大いなる救いにあずかった者がすべて、主のための伝道者になるように神は計画された。クリスチャンの敬神深さを標準にして、世の人々は福音を評価する。忍耐強く試練に耐え、感謝して祝福を受け、柔和、親切、あわれみ、愛を習慣的にあらわすことなどが、世の人々の前で、品性から輝き出る光であって、生まれつきのままの心の利己心から出る暗黒との相違を示す。(人類のあけぼの上巻133,134)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

異なった双子

「さてその子らは成長し、エサウは巧みな狩猟者となり、野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた。」(創世記25:27)

 

 イサクのふたごのむすこ、ヤコブとエサウは、その性質も、生活ぶりも著しく異なっていた。……

 エサウは、自分を楽しませることを好み、ただ現在のことばかりに心を奪われて成長した。彼は、束縛に耐えられず、自由奔放な狩りを楽しみ、早くから猟師の生活を選んだ。しかし、彼は父親の気に入っていた。物静かで、平和を愛する牧羊者は、長子の勇気と活気に心をひかれた。エサウは、恐れることなく、山やさばくを歩き回って、父親に獲物を持って帰り、心おどる冒険談を話して聞かせるのであった。

 ヤコブは、思慮深く、忠実で用心深く、現在のことよりは将来のことを考えていたので、家にいて家畜の世話をしたり、土を耕したりして満足していた。母親は、彼の忍耐力、倹約の精神、先見の明などを高く評価した。ヤコブの愛情は深く強かった。そして、彼の物静かで根気強い思いやりの精神は、エサウの荒々しい、時おりの親切よりは、彼女により大きな幸福感を与えた。‥…

 ヤコブは、長子の特権が自分に与えられるという神の告示を母親から聞き、なんとかしてその特権を自分のものにしたいという言葉には表現できない願望に満たされた。彼が渇望したのは、父親の富を所有することではなかった。彼が願い求めたものは、霊的長子の特権であった。義人アブラハムのような神との交わりにはいり、家族のために犠牲をささげ、選民と約束の救い主の先祖となり、契約の祝福に含まれている永遠の嗣業にあずかることなどが、彼の熱心に求めてやまない特権であり、誉れであった。……

 しかし、ヤコブは、このように現世の祝福よりは永遠の祝福を尊重はしたが、まだ彼の敬う神について体験上の知識はなかった。彼の心は神の恵みによって新たにされていなかった。彼は、兄が長子の権利を保持するかぎり、自分に関する約束は実現し得ないと思った。そして、彼は、兄が軽視しても自分には非常に貴重なその祝福を確保しようと、絶えず策略をめぐらしていた。(人類のあけぼの上巻189―191)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よじれた価値

「そこでヤコブはパンとレンズ豆のあつものとをエサウに与えたので、彼は飲み食いして、立ち去った。このようにしてエサウは長子の特権を軽んじた。」(創世記 25:34)

 

 エサウは献身を好まず、宗教生活を送る気持ちがなかった。彼にとって、霊的な長子の特権に付随した要求は、好ましくないというよりはやっかいな制限とさえ思われた。アブラハムと神との契約の条件であった神の律法は、奴隷のくびきのようにエサウには思われた。彼は放縦を好み、ただ自分の欲するままにふるまう自由を望むだけであった。彼にとって、権力と富、飲食と宴楽が幸福なのであった。彼は、なんの束縛もない奔放な流浪の生活の自由を誇った。(人類のあけぼの上 巻190)

 エサウのような人々が非常にたくさんいる。エサウは、自分の手の届くところにある特別貴重な祝福、すなわち永遠の始業、宇宙の創造主である神の命と同じ不朽の命、計り知れない幸福と栄光の永遠の重みをもっていながらも、あまりに長い間、食欲、情欲、生来の傾向にふけってきたために、永遠の事柄についての価値を識別し、正しく理解する能力が弱くなってしまった人々を代表してい る。

エサウはある特定の食物に対して、特別な強い願望を持っていた。そして彼は長い間自分を喜ばせることをしてきたので誘惑に負けないようにしようとは思わず、その魅力的な食物をどうやってでも食べようと決心した。彼は、食欲のカが自分を支配してしまうまで、自分の食欲を抑えるために特別の努力をしようとは思わなかったので、もしその特定の食物を食べることができなければ、非常に不都合なことが起こり、さらに死ぬかもしれないと想像した。このように考えれば考えるほど、ますます欲望がつのり、神聖な長子の特権がその価値と神聖さを失ってしまったのであった。(教会への証2巻38)エサウはそれを知らないで、生涯の危機を通過した。彼がほとんど考えるに値しない間題と見なした事が、彼の品性の顕著な特徴を露呈した行為であった。それは彼の選択を示し、神聖な、そして厳粛な思いで大切にすべきであった事柄に対する、彼の真実な評価を示した。彼はせつな的願望を満たすため、些細な道楽のために自らの長子権を売った。そしてこれが、彼の生涯を決定した。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]1 巻1094,1095)

 エサウは、無限の値をもって買われた、自分たちのものである特典を味わうこともなく、若干の食欲の満足感、あるいは利得のために自らの長子権を売ってしまった人たちを代表している。(同上)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

交換された長子権

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ」(詩篇37:5)

 

 イサクは、ヤコブよりもエサウを愛した。そして、自分の死ぬのもまちがいと思ったイサクは、死ぬ前に祝福をあたえたいから、肉を料理して持ってくるようにとエサウにたのんだ。……イサクのことばをきいたリベカは、「兄は弟に仕える」と言われた神のみことばを思い出した。彼女はまた、エサウが家督権を軽んじてこれをヤコブに売ったことも知っていた。……

 リベカは、イサクがエサウを偏愛していることを知っていたので、理屈では彼の目的を変えることができないものと信じこんでいた。彼女は、すべての事件の処理者である神に信頼しないで、ヤコブに父親を欺くように説きすすめて信仰の足りなさを暴露した。……

 もしエサウが、長子にあたえられる祝福を父親から受けたとしても、彼に繁栄をあたえることができるのはただ神だけである。神はエサウの行為にしたがって、彼に祝福と繁栄をあたえることも、あるいは逆境をあたえることもおできになった。もし彼が、義人のアベルのように、神を愛し神を敬ったら、彼は神に受け入れられ祝福されたはずだった。もし悪人のカインのように、神を敬うことも、神の誡を守ることもしないで、自分の堕落した道を歩むのだったら、神から恵みを受けないで、カインのように神から捨てられるのだった。もしヤコブが正しい道を歩み、神を愛し、神を敬ったら、彼は一般に長子にあたえられる祝福と特権を手に入れなくても、神から祝福され、神の繁栄のみ手は彼とともにあっただろう。(生き残る人々107,108)

 ヤコブとリベカは、目的を達したものの、彼らの詐欺行為によって得たものは、苦悩と悲哀だけであった。神は、ヤコブが長子の特権を得るであろうと言われたのであるから、神が彼らのためにそうしてくださるのを信仰をもって待っておれば、神の言葉は、神ご自身がよいと思われるときに達成されたことであろう。しかし、今日神の子であると公言する多くの人々のように、彼らはこの事を主の手にゆだねようとしなかった。リベカは、自分がむすこにまちがったことを勧めたことを非常に後悔した。これが、ヤコブをリベカから引き離す原因になり彼女は、ふたたび彼の顔を見ることができなくなった。(人類のあけぼの上巻194)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

苦い代価

「彼はその後、‥‥涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。」(へブル12:17)

 

 ヤコブが父の天幕を去ると、すぐ、エサウがはいってきた。エサウは、長子の特権を売り渡し、その取り引きを厳粛な宣誓によって、確認はしたが、彼は、今弟がなんと言おうと祝福を獲得しようと決意した。長子の霊的特権には、物質的特権も含まれていて、家族の指導権と父の富の二人前が与えられることになっていた。彼が高く評価したのは、こうした祝福であった。……

 エサウは、祝福が自分の手元にあると思ったときには、それを軽々しく評価したが、永久に彼から離れ去ったとなると、手に入れたいと思った。彼の衝動的で激しやすい性質がそのままあらわれ、彼の悲しみと怒りは大きかった。彼は、激しく泣き叫んだ。「父よ、わたしを、わたしをも祝福してください」。……

 彼が軽率に手放した長子の特権は、ふたたび取りもどすことができなかった。「一杯の食」のため、すなわち、制することをしなかった食欲の瞬間的満足のために、エサウは長子の権利を売った。しかし、彼が自分の愚かなことを悟ったときには時すでにおそく、祝福を取りもどすことはできなかった。……

 エサウは悔い改めるならば、神の恵みを求める特権がなくなったわけではなかった。しかし、彼は長子の特権を回復する方法をみつけることはできなかった。彼の悲しみは、罪を認めたことからではなかった。彼は、神との和解を願わなかった。彼は、罪の結果を悲しんだが、罪そのものを悲しまなかった。(人類のあけぼの上巻195,196)

 悔い改めとは罪を悲しむことと罪を離れることを含む。人は罪の恐ろしさを知るまでは罪を捨てるものではない。心の中で全く罪から離れなければ、生活にほんとうの変化は起らないのである。

 悔い改めの意味のほんとうにわかっていない人が多くある。罪を犯したことを嘆き、外面 的には改める人もありますが、それはその悪事のために苦しみに会わねばならぬことを恐 れるからである。しかしこれは聖書に教えられた悔い改めではない。彼らは罪そのものよりは、むしろ罪からくる苦しみを悲しむのである。エサウが家督の権を永久に失ってしまったと気づいた時の悲しみがそうであった。(キリストへの道22,23)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

逃亡者に希望

「時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。」(創世記28:12)

 

 エサウの怒りに生命をおびやかされて、ヤコブは逃亡者となって父の家を出た。しかし、彼は、父の祝福をたずさえていった。イサクは、契約の約束をヤコブにもう一度くり返し、彼がその相続者であるから、メソポタミヤの母方の家族のなかから妻をめとるように命じた。しかしヤコブは、深く物思いに沈んでさびしい旅に出かけた。彼は、ただ一本のつえをたよりにして、荒々しい遊牧の民の住んでいる原野を何百キロも旅しなければならなかった。彼は後悔と恐怖に襲われ、怒った兄につけられないように人目を避けていた。彼は、神が彼に与えようとされた祝福を永遠に失ったのかと恐れた。そして、サタンは、そばで彼を試みるのであった。……

 絶望の暗黒が、彼の心におしかぶさり、祈ることすらできなかった。しかし、その極度の寂しさのなかで、これまでになかったほどに神の保護の必要を痛感した。彼は、涙を流して深く恥じ入り、罪を告白し、自分が全く見捨てられていないという確証を願い求めた。……

 神はヤコブを見捨てられなかった。神のあわれみは、なお、罪深い不信のしもべに注がれていた。主はヤコブをあわれみ、彼が最も必要としていた救い主を示されたのである。

 放浪者は旅に疲れ果てて、石をまくらにして地に横たわった。彼が寝ていると、一つの光り輝くはしごが地上に立ち、その頂が天に達しているのが見えた。このはしごの上を天使たちが上り下りしていた。その上のほうに栄光の主がおられ…た。 ……

 ヤコブが目をさますと、あたりはまだ夜の静けさに包まれていた。幻の輝かしい光景は消えていた。さびしい山々の輪郭の上に星空が輝いて見えるだけであった。しかし、彼は、神が自分と共におられるという厳粛な感に打たれた。見えない臨在が寂しい場所に満ちていた。「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった。……これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」と彼は言った。(人類のあけぼの上巻198-200)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神ご自身のものを神に返す

「またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます。」(創世記 28:22)

 

 重大な事件を記念するときの習慣に従って、ヤコブは神のあわれみの記念碑を立てた。それは、彼がこのあたりを通るときに、この神聖な場所にしばらく足をとめて主を礼拝するためであった。……彼は深い感謝の念をいだいて、神が彼と共におられるという約束をくりかえした。そして、彼は厳粛な誓いをたてた。「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。

 ヤコブはここで、神と取り引きをしようとしているのではなかった。主は、すでに彼に繁栄を約束しておられた。だからこの誓いは、神の愛とあわれみの保証に対する感謝として彼の心からあふれ出たものであった。ヤコブは神に感謝をいいあらわす必要を感じた。そして特別に神の恵みのしるしが与えられたならば、神に返礼すべきであると思った。それと同様に、われわれも、与えられるあらゆる祝福に対して、すべてのあわれみの源泉であられる神に感謝をあらわさなければならない。クリスチャンは、時おり自分の過去の生涯をふりかえってみて試練のときに支持が与えられ、暗黒と絶望のなかで道が開かれ、倒れるばかりのときに勇気づけられたことなど神から与えられた尊い救済の経験を思い出して感謝しなければならない。彼は、こうしたすべてのことを、天使の保護の証拠と認めるべきである。このような数えつくすことのできない祝福を思うとき、クリスチャンは、謙虚で、感謝の心をもって、「わたしに賜わったもろもろの恵みについて、どうして主に報いることができようか」と時おりたずねてみなければならない。

 われわれの時間、才能、財産などは、これらの祝福をわれわれに委託された神にささげるべきである。われわれが特別に危険から救出されるとか、または、新しい予期しない恵みにあずかる場合には、言葉で感謝を表現するだけでなくて、ヤコブのように神のわざのためにささげ物や献金をして、神の恵みに感謝しよう。われわれは絶えず神の恵みを受けているのであるから、絶えずささげるべきである。(人類のあけぼの上巻201,202)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

忠実な羊飼い

「ヤコブは彼に言った、『わたしがどのようにあなたに仕えたか、またどのようにあなたの家畜を飼ったかは、あなたがごぞんじです』。」(創世記30:29)

 

 ヤコブの働きは勤勉で忠実であった。…羊飼いは、昼も夜も群れを守っていなければならなかった。羊の群れは盗まれるおそれがあった。また、数多くのどうもうな野獣に襲われる危険もあり、よく見張っていないと群れが襲われ、大きな損害をこうむるのであった。ヤコブの下で多くの羊飼いが働いていて、ラバンの広範囲にわたる群れを養っていたが、彼自身がすべての責任を負っていた。一 年の中のある期間は、彼自身が群れといつもいて、乾燥期には群れがかわいて死なないように、また最も寒い数か月の間は、群れがひどい夜の霜にこごえないように守らなければならなかった。…

 キリストは、ご自分と民との関係を羊飼いにたとえられた。人間の堕落後、キリストはご自分の羊が、罪の暗い道で滅びる運命に陥ったのを見られた。彼は、これらのさまよう人々を救うために、天の父の家の誉れと栄光とを捨てられた。「わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし」「それゆえ、わたしはわが群れを助けて、再びかすめさせず」「地の獣も彼らを食うことはない」(エゼキエル書34:16, 22, 28) 。「昼は暑さをふせぐ陰となり、また暴風と雨を避けて隠れる所」である彼のおりに群れを導く彼の 声が聞こえる(イザヤ書4:6)。彼は根気強く群れを守られる。彼は弱いものを強め、苦しみを和らげ、腕に小羊をだき、ふところに入れてたずさえられる。羊は彼を愛する。「ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」(ヨハネ10:5)。キリストは言われる。「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている」(ヨハネ10:11-14) 。

 大牧者キリストは、彼の牧者たちに、彼の下で働く羊飼いとして群れの世話をすることをゆだねられた。そして、ご自分が持たれた同じ関心を彼らも持って、主からゆだねられた任務の清い責任を感じるように命じられる。…キリストは羊を救うために、ご自分の命を捨てられた。(人類のあけぼの上巻206-208)

 

箱舟建設

 「そこで神はノアに言われた、『わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中にへやを設け、アスファルトでそのうちそとを塗りなさい』。」(創世記6:13,14)

 

 神は、箱舟の正確な大きさと、その建造上の指示を明確にノアにお与えになった。人知では、こうしたがんじょうで耐久性のある建造物を考案することは不可能であった。

 神が設計家で、ノアが建築家であった。それは水に浮くように、船の形に造られてはいたが、ある面では家屋によく似ていた。……箱舟を建造するために用いられた材木はいとすぎの木で、それは、数百年たっても腐らないものであった。この巨大な建造物の工事は遅々として進まず、ほねのおれる仕事であった。(人類のあけぼの上巻90)

 そのころ生きていた人類は非常に体格が良くすばらしい力を持っていた。木々は、現在人間が見ることのできるものよりはるかに大きく、並はずれて美しく完全に均整がとれていた。これらの木の材木は非常に堅くて強い、すなわち石のように堅い物質でできていた。建設用の材木を整えるのは、この並はずれた体力の人類にとってすら、この堕落した時代に、現代人が持っている弱々しい体力で、今地上に生えている木々を整える以上の時間と労力を要した。(霊の賜物3巻61)

 材木の一本一本は綿密に組み立てられ、継ぎ目にはもれなく樹脂が塗られた。工事を完全なものにするためには、人間のなしうるかぎりのことがなされた。しかし結局は、神のみがその奇跡の能力によって、怒りさかまく波浪から舟を守ることがおできになるのである。

 メトセラと息子、孫たちは箱舟を建設する時に生きていた。彼らは他の人々と共にノアからの教えを受け入れ、箱舟建設を手伝った。(霊の賜物3巻59,60)

 ノアは、世に警告の使命を伝えるとともに、その行為によって、自分が真剣であることをあかしした。こうして彼の信仰は完成され、明白に示された。彼は、神が仰せになったことを、そのまま信じる模範を世に示した。彼は、全財産を箱舟につぎこんだ。……箱舟の槌音の一つ一つは、人々に対するあかしであった。(人類のあけぼの上巻92)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中は安全

「主はノアに言われた、『あなたと家族とはみな箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代の人々の中で、わたしの前に正しい人であるとわたしは認めたからである』。」(創世記7:1)

 

 ノアは、神からの指示に忠実に従っていた。箱舟は、主のさしず通りにすべてのところが完成し、人間と動物の食糧が貯蔵された。そして、今、神のしもべは彼の最後の厳粛な訴えを人々にした。彼は、言葉では表現できない心の苦しさをもって、避難所があるうちに救いを求めるように訴えた。彼らは、またもや彼の言葉を退け、ののしりとあざけりの声をあげた。突然、あざける群衆は沈黙した。最もおとなしい動物も、最もどうもうな動物も、あらゆる種類の動物が一様に山や森から箱舟に向かって静かに進んでくるのが見えた。突風のような音が聞こえたので、見ると天を暗くするほどの多くの鳥類が四方から群がってきて、秩序正しく箱舟の中にはいった。人間は従わないのに、動物は神の命令に従った。(人類のあけぼの上巻95)

 動物が森から出てきて箱舟の扉のところに来て、ノアがそれらを中に入れるのを見た時、人々は神が自分たちに与えてこられたメッセージに対してあまりに長く抵抗し、拒否していたので、彼らの良心は麻痺してしまった。(手紙108,1896年)

 罪深い人類に対するあわれみの訴えはやんだ。野の獣と空の鳥は避難所に入った。ノアと彼の家族は、箱舟に入った。そして「主は彼のうしろの戸を閉ざされた」‥…うち側にいる者では閉じることのできない巨大な扉が、目に見えない手で静かに閉ざされた。ノアは、内側に入れられ、神のあわれみを退けたものは閉め出された。その扉の上には、神の印が押された。神がそれをお閉めになった。だからただ神だけがそれをあけることがおできになるのである。そのように、キリストが天の雲に乗ってこられる前に、罪深い人間のためのキリストのとりなしは終わり、恵みの扉は閉ざされる。そうすると、神の恵みは、これ以上悪者を抑制しなくなるので、サタンは、恵みを退けた人々を完全支配する。彼らは、神の民を滅ぼそうとする。しかし、ノアが箱舟のなかに閉じこめられたように、義人は、神の力に保護される。(人類のあけぼの上巻96)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

七日の後

「こうして七日の後、洪水が地に起った。」(創世記7:10)

 

 ノアとノアの家族が箱舟にはいってから七日の間、暴雨がやってくるしるしはあらわれなかった。この間、彼らの信仰は試みられた。それは、外部の世界にとっては、勝ち誇った時であった。いかにも遅れているので、人々は、ノアの使命が惑わしであって、洪水は起こらないという考を強くした。……厳粛な光景を目撃したにもかかわらず、彼らはなお、遊戯や宴会を続け、こうした著しい神のカ現われさえも物笑いの種にした。彼らは、箱舟のまわりに群がって、内部にいる人々をあざけり、これまでになかったほどの乱暴を働いた。(人類のあけぼの上巻96,97)

 七日目が終ろうとする時雲が出はじめた。これは新しい光景であった。というのも人々は雲を見たことがなかったからである。……まもなく雨が降り始めたが、これは別に警告などではないと、人々はまだ考えようとしていた。……しばらくの間地面は雨を吸い込んでいたが、まもなく水があふれはじめ、日毎に水かさが増していった。人々は雨が降り続くのを見て、憂鬱な気持ちで互いに見交わし、夜毎に「まだ降っている」という言葉を繰り返した。(サインズ·オブ·ザ·タイムズ1901 年4月10日) 人々はまず、自分たちの手のわざが破壊されるのを見た。豪華な建物や、彼らが偶像を安置した美しい庭園や林は、天からのいなずまによって破壊され、そのざんがいはここかしこに散らばっていた。……人間と動物の恐怖のさまは、表現することができなかった。暴風雨のとどろきを越えて、神の権威を軽視した人々の嘆きの声が聞こえた。……この恐怖のときに、彼らは神の律法に違反したことが自分たちの滅亡の原因であることを悟った。しかし、彼らは刑罰を恐れて罪を認めたとはいえ、真に悔い改め、悪をきらったのではなかった。もし、刑罰が取り除かれたならば、彼らは、またもや神に反逆したことであろう。同様に、この世界が火で滅ぼされる前に地に下る刑罰のときに、悔い改めない者は自分たちの罪の正体を知り、それが、神の清い律法を軽視した罪であることを知るのである。しかしながら、古代の罪人と同様に、彼らは真に悔い改めるのではないのである。(人類のあけぼの上巻97,98)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ノアの時にあったように

 「そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。」(ルカ17:26,27)

 

 神は、洪水前の人々が、飲み食いすることを非難されのではなかった。神は、彼らのからだの必要を満たすために、地の産物を豊富にお与えになったのである。彼らの罪は、与え主であられる神に感謝せずに、これらの賜物を受け、なんの抑制もなく食欲を満たして、堕落したことであった。彼らが結婚することは正当なことであった。結婚は、神が制定されたものである。これは、神が定められた最初の制度の一つであった。神は、この儀式に特別の指示を与え、それを 神聖で美しいものとされた。しかし、人々は、こうした指示を忘れ、結婚を悪用して情欲を満たすものにした。今日も同じ状態である。それ自身、正当なことが、過度に行なわれている。なんの制限もなく、食べたいだけ食べている。……情欲を制することが、自分たちの道徳的責任であることを感じない者が非常に多い。彼らは、情欲の奴隷になる。人々は感覚の快楽を求めて生き、この世界と現世 のためだけに生きる。……霊感が示す洪水前の世界の状態は、現代の社会が急速に近づきつつある状態をあまりにもよく描写している。……洪水前の人々は、 猶予の期間が終わろうとしていたとき、刺激的娯楽や祭りに熱中していた。勢力と権力をもった者は、人々の心を歓楽と快楽に夢中にさせておいて、最後の厳粛な警告にだれも心を動かすことがないようにしむけていた。(人類のあけぼの上巻101-103) 神は、洪水が来る前に、ノアをつかわして世界に警告を発し、人々を悔い改めさせて、切迫している破滅から彼らをのがれさせようとされた。キリスト再臨の時が近づくにつれて、主は、主のしもべたちを世界につかわして警告を発し、その大事件の準備をするように促される。群衆は、神の律法に逆らった生活をしてきた。そこで神は、彼らをあわれんで、清い戒めに従うように呼びかけられる。神に対して悔い改め、キリストを信じて、罪を捨てる者はみな許しが与えられる。(同上102)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神は見るために来られる

「彼らはまた言った、『さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう』。」(創世記11:4)

 

 ノアの子孫は、しばらくの間、箱舟が止まった山地に住んでいた。彼らの数が増加するにつれて、間もなく背信と分裂が生じた。創造主を忘れて、神の律法の制限から脱出しようと望んだ者らは、神を恐れる仲間の教えや模範を絶えずきらっていた。やがて、彼らは、神の礼拝者から分離することに決めた。そこで彼らは、ユフラテ河畔のシナルの平原に下った。……

 彼らは、ここに都市を建設し、世界の驚異となるような巨大な高塔を建てることにした。‥‥

 シナルの平原の住民は、この地上に再び洪水を起こさないという神の契約を信じなかった。彼らのなかには、神の存在を否定し、洪水は自然的原因によって起こったとするものが多かった。他の者は至高者を信じ、神が洪水前の世界を滅ぼしたことを信じていた。しかし、彼らの心は、カインと同様に神に反抗的であった。彼らが塔を建てた目的の一つは、もし、再び洪水が起こったならば、彼らの身の安全を確保するためであった。彼らは、その建造物を、水が達したところよりもはるかに高く築き上げて、どんな危険にも耐えられるようにしようと思った。そして、雲のある層にまで登れるから、洪水の原因をつきとめることもできるだろうと彼らは考えた。‥…

 現代にも塔の建設者がいる。無神論者はいわゆる科学的推論によって、彼らの学説を打ちたて、啓示された神の言葉を拒否する。……いわゆるキリスト教会の世界でも、多くの人々は聖書の明らかな教えから離れて、人間の推論や耳ざわりのよい作り話をもとにして教義をつくりあげている。そして、彼らは自分たちの塔が、天への道であると指さしている。‥‥

 神の審判の時が近づいている。いと高き神は、人の子らが何を建てているのかを見るために来られる。彼の統治権は、明らかにされ、人間の高ぶりのわざは打ちくだかれる。(人類のあけぼの上巻114-120)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

混乱と離散

 「これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。」(創世記11:9)

 

 シナルの平原の住民は、神の栄光のためではなく、自己賞揚のために自分たちの王国を設立した。もし彼らが成功していたなら、強い勢力が正義を払いのけて新しい宗教を開始し支配権を握ったことであろう。世界は混乱していたであろう。……しかし神はご自分のための証人が居ないままに世界を放っておかれることは決してない。この時代にも神のみ前に身を低くし神に呼び求める人々がいた。「ああ神よ、あなたのみわざと、人間の計画や方法の間に介入してください」と彼らは嘆願した。(教会への証8巻113,114) 塔の一部が完成したとき、そのある部分が塔の建設者の住居に当てられた。他に、りっぱな調度品を置いて、飾られた部屋は、彼らの偶像にささげられた。…… 突然、これまで順調に進んでいた工事が止められた。建設者たちの意図をくじくために、天使が送られた。塔はすでに高くそびえて、上で働いている者が、下にいるものと直接話をするこことはできなかった。それで、あちらこちらに人員が配置されて、必要な資材の注文や工事の指示などを下の者に取り次いだ。こうして、伝令が次々に伝わるうちに、言葉が乱れ、必要でない材料を注文したり、初めの指示とは全く反対の指示を伝えたりするようになった。混乱とろうばいが起こった。工事は全面的に停止した。 …… この時まで、すべての人々が同じ言葉を話していた。しかし、こうなっては、お互いに言葉を理解し合うものだけがまとまって、それぞれ別れていった。「主が彼らをそこから全地のおもてに散らされた」(創世記11:8)。この離散は、広く地に人間を住ませるための手段であって、主はこのようにして、人々がその成就を妨げようとして取った方法そのものを用いて、ご自身の目的を果たされたのである。(人類のあけぼの上巻116,117) 今日、主はご自分の民が地にあまねく分散していることを望んでおられる。彼らは集落化すべきではない。イエスは「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」と言われた(マルコ16:15)。(教会への証8巻215)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

絶対的服従

「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむっ た時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。」(へブル11:8)

 

 アブラハムは、迷信と異教のなかで成長したのであった。神の知識を保っていた彼の父の家族でさえ、回りの魅力的感化に負けて、主より「ほかの神々に仕えて」いた。……

 「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」と、神はアブラハムに言われた(創世記12:1)。神が、アブラハムを清いみことばの擁護者としての偉大な任務にふさわしい者とするためには、まず、アブラハムを、彼の青年時代の仲間から引き離さなければならなかった。…

 アブラハムの絶対服従は、全聖書を通じて見られる最も驚くべき信仰の例証の一つである。‥‥

 アブラハムに臨んだ試練は、決して軽いものではなく、彼に要求された犠牲は、小さくはなかった。アブラハムは、故郷、親族、家庭と、堅いきずなで結ばれていた。しかし、彼は、ためらうことなく召しに従った。彼は約束の地が肥沃であるか、健康的気候なのか、また、そこは快適な環境で、富を蓄積する機会があるかなどは聞かなかった。神がお語りになったのであるから、神のしもべは従わなければならなかった。彼にとって、この地上で最も幸福な場所は、神が彼にいるようにお望みになるところであった。……

 アブラハムのように、今日も、なお、多くの人々が試みを受ける。……

 富と栄誉を約束する職業を捨てて、気の合った有益な仲間を離れ、親族と別れ、克己と困難と犠牲だけを要求するように思われる道に進むように要求されるであろう。神は、彼らに仕事をさせようとしておられる。‥‥

 心に秘めた計画や親しい友との交わりを捨てて、神の摂理の召しに応じる者はだれであろうか。…

 新しい任務を引き受け、働きが始められていない地に行き、堅い決心のもとに喜んで神のみわざに従事するのはだれであろうか。このようにする人は、アブラハムと同じ信仰を持っている。そして、彼は、「永遠の重い栄光を、あふれるばかりに」彼とともに受ける。「今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」 (コリント第二4:17; ローマ8:18)。(人類のあけぼの上巻121-125)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

理由がある

「こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。」(ペテロ第一1:7)

 

 アブラハムは、南に旅を続けていった。そして、ふたたび、彼の信仰は試みられた。天から雨は降らず、谷間の小川の水は枯れ、平原の草はしぼんだ。家畜や羊の群れの牧草がなくなり、天幕全体の者が餓死しそうになった。さて、アブラハムは、神の摂理の導きを疑わなかっただろうか。豊かなカルデヤの平原に帰りたいと思わなかったであろうか。一同は、次々と苦難におそわれるアブラハムが、いったいどうするであろうかと、しきりに彼を見つめていた。人々は、アブラハムの確信がゆるぎさえしなければ、希望がもてると思った。‥‥

 アブラハムは、神の摂理の導きを説明することはできなかった。彼は自分が期待していることを現実のものとしてはいなかった。しかし、「あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」という約束を堅く信じた(創世記12:2)。彼は、周囲の環境によって神のみ言葉に対する信仰が動かされるのを許さず、熱心に祈って、自分の家族と家畜の生命をつなぐ方法を考えていた。アブラハムは、ききんを避けるためにエジプトに下った。彼は、カナンを見すてたのではなかった。また困苦の末、食物にはことかかない故郷のカルデヤの地にもどろうとしなかった。彼は、約束の地にできるだけ近い所にしばらくのがれて、神が定められた場所に、間もなく帰るつもりであった。

 主は、摂理のうちに、この試練を与えて、服従、忍耐、信仰などの教訓を教えようとなさった。‥‥

 神は、神の民が試練に会うのを許される。それは、彼らが神に誠実を尽くし、服従することによって、彼ら自身が霊的に豊かになるためである。さらに、彼らの模範によって、他の人々に奨励を与えるためである。「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするもの」である(エレミヤ29:11)。われわれの信仰を最もきびしく鍛え、神は、あたかもわれわれを見捨てられたのかと思わせるような試練そのものが、実は、われわれがすべての重荷を主のみもとにおろして、それに代えて彼がお与えになる平和を味わうことができるように、われわれをキリストのそば近くに導くべきである。(人類のあけぼの上巻126-128)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神はご自分のものを守られる

「主は人の彼らをしえたげるのをゆるさず、彼らのために王たちを懲らしめて、言われた、『わが油そそがれた者たちにさわってはならない、わが預言者たちに害を加えてはならない』と。」(詩篇105:14,15)

 

 神は、綿密なきびしい試練によって、そのしもべたちを訓練なさる。神は、ある人が神のみわざの進展のために役立つ能力を持っているのを見られて、そのような人々をためされる。神は、摂理のうちに、彼らの品性をためす地位に彼らをおいて、彼ら自身でも気づかなかった欠点や弱点をあらわされる。神は、彼らがこれらの欠点を直して、奉仕にふさわしいものになる機会をお与えになる。神は彼ら自身の弱さを示して、神に頼ることをお教えになる。なぜならば、神が彼らの唯一の援助者であり、保護者だからである。こうして、神の目的は達成される。彼らには、大目的達成のための教育、訓練、鍛練、準備などが与えられる。彼らの力は、そのために与えられたのである。……

 アブラハムは、エジプトに滞在していた間に、彼がまだ人間的に弱く、不完全であるという証拠をあらわした。彼は、サラが妻であることを隠して、神の守護に対する不信を示し、これまで彼の生涯において何度となくりっぱに示されたあの大いなる信仰と勇気を欠いたのである。……サラが、父の娘ではあったが、自分の母の娘ではなかったので、自分の妹だと言っても、うその罪にはならないと考えた。しかし、ふたりの間の真の関係をこうして隠したことは欺瞞であった。全く正直であることから少しでもそれることを神は許されない。アブラハムの信仰が欠けていたために、サラは大きな危険にさらされた。エジプトの王は、彼女の美しさを聞いて、宮廷に召し入れ、彼女を妻に迎えようとした。しかし、主は、王家に刑罰を下し、大きなあわれみをもってサラを守られた。……

 パ口に与えられた警告は、その後のアブラハムの異邦人との交際を保護するものとなった。…アブラハムが礼拝する神は、そのしもべを守り、彼に危害が加えられるならば、報復なさることが明らかにされた。天の王の子らのひとりに悪を行なうことは危険である。(人類のあけぼの上巻128-130)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平和を保つ

「『わたしたちは身内の者です。わたしとあなたの間にも、わたしの牧者たちとあなたの牧者たちの間にも争いがないようにしましょう。全地はあなたの前にあるではありませんか。どうかわたしと別れてください。あなたが左に行けばわたしは右に行きます。あなたが右に行けばわたしは左に行きましょう』。」(創世記13:8,9)

 

 アブラハムは、「家畜と金銀に非常に富んで」カナンに帰った。ロトも彼といっしょにいた。彼らは、ふたたびベテルに来て、以前に築いた祭壇のそばに天幕を張った。やがて彼らは、財産が増すにつれて悩みも増すことに気づいた。彼らは、困難と試練のただなかにあっては仲よくいっしょに住んだのであるが、繁栄すると彼らの間に争闘の危険があった。牧草は、両方の家畜と群れを養うには十分ではなかった。‥…彼らが別れなければならないことは明らかであった。アブラハムは、ロトよりも年長で、財産や地位においてもすぐれていた。それでも、アブラハムが最初に平和維持の案を提出した。全地は、神がアブラハムに与えられたものであった。しかし、彼は、穏やかにその権利を譲るのであった。……

 ここに、アブラハムの高潔、無我の精神があらわされた。これと同様の立場におかれたとき、なんと多くの人々が、自分の権利や優先権を主張してやまないことであろう。こうして、どれほど多くの家庭が破壊されたことであろう。どれほど多くの教会が分裂して、真理の働きが悪人たちの侮蔑と物笑いの種になったことであろう。「わたしとあなたの間にも……争いがないようにしましょう」。親族関係だけでなくて、真の神の礼拝者でもあるから、「わたしたちは身内の者です」とアブラハムは言った。全世界の神の子らは、一つの家族である。そして同じ愛と融和の精神が彼らを支配しなければならない。「兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい」とわれわれの救い主はお教えになった(ローマ12:10)。だれにでも礼儀正しくすることを身につけ、人々からしてほしいと思うことを、喜んで人々にするならば、人生の不幸の半分はなくなってしまうことであろう。自己誇張は、サタンの精神である。しかし、キリストの愛を心に持つものは、自分の利益を求めない愛をもつようになる。そうした人は、「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい」という勧告を心にとめるべきであろう (ピリピ2:4)。(人類のあけぼの上巻131,132)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ソドムに

「アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住み、天幕をソドムに移した。ソドムの人々はわるく、主に対して、はなはだしい罪びとであった。」(創世記13:12,13)

 

 パレスチナ全土のなかで、ヨルダンの谷は、最も地味が豊かな地域で、‥‥ そこには、また、豊かで美しい都会があって、そのにぎやかな市場では、商売が繁盛しそうに思われた。ロトは、世的利益の幻に目がくらみ、そこで当面する道徳的、霊的害悪を見落としていた。……「ロトはヨルダンの低地をことごとく選びとって」「天幕をソドムに移した」(創世記13:11,12)。ロトは、この利己的選択の恐ろしい結果については、なんの予測もしなかった。(人類のあけぼの上巻132,133)

 ロトは現世的な見地からそこに様々な利点が得られるのを見て、自分の住居としてソドムを選んだ。しかし彼が落ち着き、世俗的な富を得たのち、彼は自分の住居のある地域の道徳的環境が悪いことがわかり、選択を誤ったことを悟った。

 ソドムの住民は堕落していた。日毎に下劣な会話を耳にし、ロトの正しい心は、自分に防ぐ力のない暴力や犯罪に悩まされた。彼の子供たちは、自分たちの道徳心を正道からそらす悪い人々と交際したので、その人々のようになった。これらのことをすべて考えると、彼が得た世俗的な富は子供たちのために支払った値に比べて価値がないように思えた。彼の子供たちはソドムの住民と結婚したので、彼の親戚は広範囲にわたっていた。ついに主の怒りがこの邪悪な町の住民に対して燃えたち神の御使いはロトを連れ出すためにソドムを訪れた。彼は町が破壊する中で滅びるべきではなかったからである。(教会への証4巻110)

 もし、彼が、初期に、アブラハムから忠実に教え込まれていなかったならば、彼の妻の感化と罪悪の町の交友とによって、神から離れていたことであろう。ロトの結婚とソドムに住宅を選んだことは、その後、数世代にわたってこの世界に起こった一連の不幸なできごとの出発点となった。(人類のあけぼの上巻185, 186)

 男女を都市に魅きつけることがサタンの目的であり、自分の目標を達するために彼はあらゆる種類の目新しいものや娯楽、またあらゆる種類の刺激的なものを発明する。そして現代、地上にある都市は洪水前の町々のようになってきている。(セレクテッド・メッセージ2巻355)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神が祝福される家庭

「わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは主がかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである。」(創世記18:19)

 

 神の御目に人はその家族の中にいるとおりの人である。神の友、アブラハムの生活は主のみ言葉に対する絶対的な尊重がきわだっていた。彼は家庭における宗教を育成した。神を畏れることが家族全体に浸透しており、彼は家の祭司であった。彼は自分の家族を神聖な委任された者と見なした。彼の家族全体は千人以上おりアブラハムはその人々をみな両親も子供たちも神なる統治者へ導いた。彼は一方では親の圧迫を容認せず、またもう一方では子供の不服従も黙認しなかった。愛と正義の混じりあった感化によって、アブラハムは神を畏れつつ自分 の家族全体を治め、主は彼が忠実であることを証言された。(手紙144,1904 年)

 「彼は自分の家族……に命じる。」彼は自分の子供たちの悪い性癖を抑えることに対して罪深い怠慢を犯すことなく、弱々しかったり愚かでもなく、えこひいきもせず、誤った愛情のままに義務をおろそかにすることもなかった。アブラハムは正しい教えを与えるだけではなく、正義の権威と義の律法を権持しようとした。今日この模範に従う者がなんと少ないことであろう。あまりにも多くの親の側で、盲目的なまた利己的な感傷主義があり、子供たちを、自分の意志を抑制するのに未熟な判断力と抑えることをしない激情のままに放っている。これは青年にとって最も残酷なことであり、世界に対する大きな悪である。両親の怠慢は家族や社会における無秩序の原因となる。これにより、神のご要求に従うかわりに、生来の傾向のまま行動したいという望みが若い人々の心に強まる。(原稿 22,1904年) 親も子供も同様に神に属しており、治めていただくべきである。愛情と権威を結合させて、アブラハムは自分の家庭を治めた。神のみ言葉は私たちを導くための規則をわたしたちに与えている。これらの規則は、もしわたしたちが主の道を歩み続けたいのなら、それることのできない原則となる。神のみ旨が最高位を占めなければならない。わたしたちがなすべき質問は、「他の人は何をしたか。私の親戚どう思うか。」あるいは「わたしがこの方針を続けるなら、彼は何と言うだろうか」ではなく、「神は何と言われたか」でなければならない。親も子供も主の方法以外のどの方針でも真に成功することはできない。(教会への証5巻548)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

旅人をもてなす

「旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした。」(へブル13:2)

 

 神は、 アブラハムに大きな名誉をお与えになった。天使が友だち同志のように彼と歩き、語った。ソドムに神の刑罰が下されようとしたときも、その事実が彼にはかくされなかった。そして、彼は、罪人のために、神にとりなす者となった。彼と天使たちとの出会いは、美しいもてなしの模範である。(人類のあけぼの上巻140) わたしたちは、創世記の中に暑い夏の真昼にマムレの樫の木陰にある天幕の入口に座っている父祖を見る。三人の旅人が近づいてくる。彼らはもてなしを求めたり好意を請い求めないが、アブラハムは彼らが元気を回復しないまま道 を歩み続けることを許さない。アブラハムは年をとっており、威厳と富があって、高い栄誉を受けており、命令することになれているけれども、この旅人を見て「天幕の入りロから走って行って彼らを迎え、地に身をかがめ」た。長と思える人に向って「わが主よ、もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら、どうぞしもべを通り過さないでください」と言った(創世記18:2,3)。アブラハムは、彼らがちりによごれた足を洗うために自分で水をくんできた。自分で旅人の食事を選び彼らが涼しい木陰で休んでいる間に、彼の妻サラは彼らをもてなす用意をした。 そしてアブラハムは、客が食事をしている間、そのそばにかしこまって立っていた。彼はこの親切を、自分のところへ二度と来ないはずの通りすがりの単なる旅人に示した。しかしもてなしが終ったとき、この客の真の性格があらわされた。アブラハムは天のみ使いに仕えたばかりではなく、栄誉にみちた天使たちの司令官、自分の創造主であり贖い主である王に仕えたのであった。そしてアブラハムに対して天の意図が明かされ、彼は「神の友」と呼ばれたのである。…… アブラハムとロトに与えられた特権はわたしたちにも与えられている。わたしたちも神の子らに親切なもてなしをすることによって、自分たちの住居に神の天使を受け入れることができるのである。今日ですら、人間の姿をした天使が人々の家庭に入り、もてなしを受けている。そして神のみ顔の光のうちに生きるクリスチャンは、常に目には見えない天使に付き添われており、天使はわたしたちの家庭に祝福を残していくのである。(教会への証6巻341,342)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ソドムに対する秒読み

「アブラハムは近寄って言った、『まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。……正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。……全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか』。」(創世記18:23,25)

 

 アブラハムは、神を尊んだ。それで、主も彼を尊び、神の会議に彼を加えて、みこころを彼にあらわされた。「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか」と主は言われた。……

 信仰のあつい彼は、ソドムの住民のためにとりなした。彼は、剣によって彼らを救ったことがあるが今度は祈りによって彼らを救おうとした。‥‥彼は深い尊敬と謙虚な心で訴えた。……彼は、自分自身罪人であるが、罪人のために哀訴した。神に近づく人々は、すべてこのような精神をもたなければならない。アブラハムは、愛する父親に訴える子供のような確信をあらわした。彼は、天の使者のそばに近づいて熱心に訴えた。

 ロトは、ソドムの住民にはなったけれども、彼は、住民の罪に参加していなかった。アブラハムは、人口の多いこの町に、真の神の礼拝者がほかにもあるにちがいないと思った。‥‥アブラハムは一度だけでなく何度も願った。願いが聞かれるにつれて大胆になり、もし、十人の義人がソドムにいたならば、町は救われるという確証をついに得た。

 アブラハムは、滅亡にひんした魂への愛に動かされて祈った。彼は、腐敗したソドムの町の罪はきらったが、罪人が救われることを願った。アブラハムがソドムのために抱いた深い関心は、われわれが悔い改めていない人々に対して感じなければならない切実な思いを示している。われわれは、罪を憎まなければならないが、罪人には、あわれみと愛を持たなければならない。

 われわれの回りには、ソドムにのぞんだのと同じように、希望なく恐ろしい破滅に陥っている魂がある。毎日、だれかの恵みの期間が閉じている。毎時間、だれかが恵みのとどかないところへ移っていく。それなのに、恐ろしい運命をさけるように罪人に訴え、警告する声はどこにあるのだろうか。罪人を死から引き返すためにどこに救いの手がさしのべられているだろうか。けんそんに、しかも忍耐強い信仰をもって、罪人のためにとりなす人はどこにあるだろうか。(人類のあけぼの上巻141-143)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

安全でない街

「そのふたりのみ使は夕暮にソドムに着いた。そのときロトはソドムの門にすわっていた。ロトは彼らを見て、立って迎え、……言った、『わが主よ、どうぞしもべの家に立寄って足を洗い、お泊まりください』。」(創世記19:1,2)

 

 アブラハムの甥ロトはソドムに住居をかまえていたけれども親切ともてなしという父祖の精神を吹き込まれていた。夕暮れどきに二人の旅人が町の門にいるのを見、またこの邪悪な町では必ずこの二人に危険がつきまとうことを知っていたので、ロトは二人を自分の家に連れて行くと言って譲らなかった。彼は自分と自分の家族にふりかかるはずの危難については何も考えなかった。危険に陥っている人を守り、家のない人の世話をすることは、彼の生涯の仕事の一部であった。そして二人の見知らぬ旅人に親切にしたその行為は天使を自分の家に連れていったのである。ロトが守ろうと思っていたその人々が彼を守った。彼は夕暮れどきにこの二人を安全のために自分の家に連れて行き、明け方この二人はロトとその家族を、運命の決まった町の門から安全のために連れ出したのであった。(教会への証6巻342)

 ロトは、彼らがどのような人々であるかは知らなかったが、ていねいに人をもてなすことは彼の習慣であった。それは、彼がアブラハムの模範から学んだ教訓であって、彼の宗教の一部であった。もしも彼が、礼儀正しい精神を養っていなかったならば、彼はソドムの他の者たちとともに滅びてしまったことであろう。多くの家庭は、旅人に戸を閉ざして、祝福と希望と平和をもたらす神の使者をしめ出している。

 人生の行為は、それがどんなに小さいものであっても、みなよいことか、悪いことにかかわりがある。一見、最小と思われる義務を忠実に果たすか、怠るかによって、人生の最大の祝福か、最大の不幸かへの門を開くことになる。品性をためすのは、小事である。神が喜ばれるのは、快く進んで行なう日常のごく自然な自己否定の行為である。われわれは自己のためでなく、他の人々のために生きなければならない。自分を忘れ、人を助けるやさしい精神を心にいだいてこそはじめて、自分たちの人生を祝福とすることができる。ちょっとした心づかいや小さい飾りけのない思いやりの行為が、人生の幸福を構成する大きな部分を占めている。そして、これらをおろそかにすることが、人生を少なからず悲惨なものにしている。(人類のあけぼの上巻166,167)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

口の言葉によって

「アダムの生きた年は合わせて930歳であった。そして彼は死んだ。」(創世記 5:5)

 

 アダムの生涯は悲しみとへりくだり、そして絶えまない悔い改めの生涯であった。彼が子孫や孫に主を畏れるようにと教えると、子孫にこれほどの不幸を味わわせる結果となった罪について度々痛烈に非難された。彼は美しいエデンの園を出た時、自分が死ななければならないことを思って恐怖に震えた。彼は死を恐ろしい災難と見なしたのであった。……彼は自分の最初の大きな違反のために自分自身をこの上なく責めた。彼は約束された犠牲を通して神からの許しを懇願した。楽園で犯した自分の罪に対する神の怒りを彼は深く感じた。彼は、最終的に神 が地上の住民を洪水で滅ぼす原因となった全体的な堕落を目撃した。はじめに死の宣告を創造主がくだされた時は非常に恐ろしく思えたけれども、何百年も生きた後、みじめな生涯に終りをもたらしてくれることが、神の義にかなった憐れみであるように思えた。

 アダムがはじめて落ち葉や散る花にはっきりとした衰えのしるしを目撃した時、現代の人間が自分の死を悲しむ以上に深く悲しんだ。枯れていく花はそれほど深い悲しみの原因とはならない。なぜなら花は傷つきやすく繊細だからである。しかし高く真っ直ぐ立っている木が衰えて葉を散らすと、それは美しい自然の全体的な死を彼に呈示したが、その自然は人にとって特別の益となるために神が造ってくださったものであった。

 自分の子供たち、またその子供たちと九代にわたって、アダムは故郷エデンの完全さを言葉で描写し、また自分の堕落とその恐ろしい結果を伝えた。…… 彼は、罪というものはどのような形で存在しても罰せられると彼らに断言し、もし彼らが神を愛し畏れるなら、憐れみ深く自分たちを取り扱ってくださる神に従うようにと強く勧めた。

 アダムは主を畏れるようにと子孫を教えるよう命じられて、へりくだった従順という模範によって、来たるべき救い主を予表している犠牲に高い敬意を払うよう、彼らを導いた。アダムは神が自分にあらわされたことを注意深く心に留め、子供やその子孫にそれを口の言葉によって伝えた。この方法によって神についての知識は保たれた。(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1879年2月6日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

再び家郷へ

「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。ただ、各自はそれぞれの順序に従わなければならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、」(コリント第一15:22,23)

 

 地がよろめき、いなずまがひらめき、雷がとどろく真っただ中で、神のみ子の声が、眠っている聖徒たちを呼び起こす。……死者はその声を聞き、聞く者は生きる。そして、全地に、あらゆる国民、部族、国語、民族からなる大群の足音が鳴り響く。……

 どの人もみな、墓に入った時と同じ身長で墓から現われる。よみがえった群衆の中に立っているアダムは、背が高く堂々たる容姿で、神のみ子より少し低いだけである。彼は後世の人々とは、著しい対照を示している。この点からでも、人類の大きな退化がわかる。しかし、どの人もみな、永遠の若さの新鮮さと活力にあふれてよみがえる。…………

 すべての傷や醜さは、墓の中に残される。贖われた者は、長い間失われていたエデンのいのちの木に再び近づくことを許され、最初の栄光に輝く人類の完全な背丈に「成長する」のである。

 贖われた人々が、神の都に迎え入れられるときに、喜ばしい賛美の叫びが空に響きわたる。今、二人のアダムが会おうとしているのである。神のみ子は、立って手を広げ、人類の祖先を抱こうとしておられる。神のみ子が、この人を創造された。その彼が創造主に罪を犯した。そして、彼の罪のために、救い主の体に十字架の傷が負わされたのである。アダムは、残酷な釘のあとを見て、主の胸にはよりかからず、恥じいって主の足もとにひれ伏し、「ほふられた小羊こそは…… さんびを受けるにふさわしい」と叫ぶのである。救い主は、やさしく彼を抱き起こして、彼が長い間追放されていたエデンの故郷をもう一度見るようにとお命じになる。……

  アダムが堕落したときに涙を流し、イエスが復活後、み名を信じるすべての者のために墓を開いて、天に昇られたときに喜んだ天使たちが、この再会を目撃する。今彼らは、贖罪の働きの完成を目撃し、賛美の歌に彼らの声を合わせるのである。(各時代の大争闘下巻423~430)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あなた次第

「信仰によって、アべルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。」(ヘブル11:4)

 

 アダムのむすこたちのカインとアベルは、性格が著しく異なっていた。アべルは、神に忠誠を尽くしていた。彼は、堕落した人類を扱われる神の処置に義と恵みを認め、感謝して贖罪の希望を受け入れた。しかし、カインは反逆の精神をいだき、アダムの罪のために、神が地と人類をのろわれたことに対してつぶやいた。彼は、サタンが堕落したのと同じ方向に自分の心がむかうままにして自己称揚にふけり、神の義と権威とを疑った。……

 ふたりの兄弟は、同じように祭壇を築き、それぞれの供え物を持ってきた。アベルは、主の命令に従って群れの中から犠牲をささげた。「主はアベルとその供え物とを顧みられた」(創世記4:4)。天から火が下って、犠牲を焼き尽くした。しかし、カインは、主の直接で明白な命令を無視して、地の産物だけをささげた。それを受け入れたことを示すしるしは、天からなかった。……

 アべルは、贖罪の大原則を理解した。彼は自分が罪人で、彼の魂と神との間の交わりを、罪とその刑罰である死とが妨げているのを知った。彼は、ほふられた犠牲、すなわち、犠牲にされた生命をたずさえてきて、彼が犯した律法の要求を認めた。彼は、流された血によって、来たるべき犠牲、カルバリーの十字架上のキリストの死を見た。そして、彼は、そこでなされる贖罪を信じて、自分が義とされ、供え物が受け入れられた証拠が与えられた。

 カインはアべルと同様に、こうした真理を学んで受け入れる機会があった。彼は、独断的決定の犠牲者ではなかった。兄弟のうちのひとりが受け入れられて、他のひとりが退けられるように神は定められたのではなかった。アべルは、信仰と従順を選び、カインは、不信と反逆を選んだ。万事はこの点にかかっていた。(人類のあけぼの上巻65~68)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

進むのに二つの道

「主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。」(創世記4:4,5)

 

 カインは約束の犠牲について、また犠牲の供え物の必要について、心中に不平と不信をいだきながら神の前に来た。彼の供え物は、罪の悔い改めの表明ではなかった。彼は、今日の多くの人々と同様に、神に指示された通りの計画に従い、約束の救い主の贖罪に全く自分の救いをゆだねることは弱さを承認することであると思った。彼は、自己信頼の道を選んだ。彼は自分の功績に頼った。彼は小羊を持ってきて、その血を供え物にまぜることをしないで、彼の実、彼の労働の産物をささげた。彼は自分から神にささげるものとして供え物をささげ、それによ って、神に喜ばれたいと思った。カインは、神に従って祭壇を築き、犠牲をたずさえてはきたが、彼は部分的に従っただけであった。彼は最も重大な部分、すなわち、救い主の必要を認めることを省略していた。……

 カインとアべルは、終末に至るまで世界に存在する二種類の人々を代表している。一方は罪のために定められた犠牲を受け入れるが、他方は、あえて自分の功績にたよろうとする。彼らの犠牲は、神の仲保のいさおしによらないものであって、神の恵みにあずかることはできない。われわれの罪は、ただイエスの功績だけによって許される。……

 人類は贖罪ではなく、文明の発達、すなわち、洗練と向上と更生とが必要であるという人もある。カインが、犠牲の血をぬきにした供え物によって、神の恵みを得ようとしたように、これらの人々も贖罪を度外視して、神の標準にまで人類を高めようとするのである。カインの生涯は、どのような結末に至るかを示している。また、キリストを離れた人がどうなるかを示している。人類は、自分を再生させる力を持ち合わせない。それは、神に向かって向上するのでなくて、サタンのほうへ堕落する傾向がある。キリストだけがわれわれの希望である。「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。(人類のあけぼの上巻66~69)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたの顔が物語っている

「そこで主はカインに言われた、『なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔を上げたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません』。」(創世記4:6,7)

 

 主はカインの激怒を見られた。彼の顔の表情が曇るのを見られた。こうして主がどれほど注意深くすべての行動、すべての意図と目的、怒っている顔の表情さえ気づかれるかが示されている。これは、人間が何も言わなくても、神の方法と御心を行なうことへの拒絶を表わしている。 (SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ホワイト・コメント]1巻1086)

 主のみ言葉に注意しなさい。……この言葉はカインのように神のご要求にまったく反対するサタンの扇動を行動にあらわすときに自分の激しい感情を表わしがちな若い男女すべてに語りかけている。(原稿77、 1897年)

 あなたが真理の聖なる規制する影響力を振り捨てる方を選ぶなら、サタンはあなたを彼の意志どおりに動くとりこにするであろう。あなたは食欲と情欲にはけ口を与え、肉欲に対し、また悪い嫌悪感をもよおす欲望に対する手綱をゆるめる危険性がある。試練と苦難のもとで落ちついた静穏を表情に浮かべ、忠実なエノクのように、理解を越えることにも希望と平安に輝く顔をしている代りに、あなたは自分の表情に、肉の思い、貪欲な欲望を刻み込む。あなたは神ではなくサタンのしるしを身におびる。(教会への勧告2巻92)

 子供や青年の多くは、顔にその性格が印されている。彼らの生涯の経歴を容貌に帯びている。・・・もしキリストが心に宿って心の原則となっていれば、その表情に、純潔、高雅、平和、愛を読みとることができる。そうでない他の顔には、悪い性格があらわれて、利己心、こうかつ、あざむき、いつわり、敵意、嫉妬があらわれる。このような性格の心や顔を持った人に、真理を印象づけるのは、なんとむずかしいことであろう。…

 キリストは、 すべての霊的教養をお備えになっている。もしイエスが心の中に住みたもうなら、心は聖霊のきよい徳でみたされ、それが顔にあらわれて表情を変える。もし、美しく、愛すべき品性を持ちたいと願うなら、神のおきてが心に書かれ、生活に実行されなければならない。(安息日学校への勧告127,128)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カインは「去った」

そして「カインは主の前を去っ」た。(創世記4:16)

 

 神はカインに罪を告白する機会をお与えになった。……彼は、自分の行為とそれを隠すために言ったうそが罪深いものであることを知った。しかし彼は、なおも反逆心を捨てなかった。それで宣告はこれ以上延ばすことはできなかった。 ……

 カインの犯罪は、死の宣告に値したが、あわれみ深い創造主は彼の生命を助け、悔改める機会をお与えになった。しかし、カインは心をかたくなにし、神の権威に対する反逆を扇動することに専念した生活を送り、大胆不敵で放縦な罪人たちの先祖になった。サタンに誘惑された背信者カインは、他の人びとを誘惑するものとなった。彼の生活とその感化は人びとを堕落させ、ついに地上は破滅にひんするまでに腐敗して悪に満ちた。……

 カインは神ののろいを受けて父の家から離れた。……彼は、エデンの回復の約束をなげうち、罪ののろいのもとにある地上で、財産や快楽を求めるために主の前を去って行った。こうして、彼は、この世の神を礼拝する多くの人々の先頭に立ったのである。彼の子孫は、世俗的、物質的発展の面だけでは、すぐれた力量をあらわした。しかし、彼らは神のことには無関心で、人類に対する神の計画にはそむいていた。(人類のあけぼの上巻72~76)

 神は、殺人者カインの生命を助けることによって、罪人を生かしてかって気ままな罪の生活を続けさせる結果がどうなるかという実例を、世界に示された。カインの教えと模範の影響によって、彼の子孫の大群衆は罪に誘われ、ついに 「人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかり」 になった。(各時代の大争闘下巻293)

 カインが住むところを求めて、神の前を去っていったように、また放蕩むすこが、 「遠い所」へさまよっていったように、罪人は、神を忘れてほかに幸福を求めるのである。(キリストの実物教訓181)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神と共に歩む

「エノクは65歳になって、メトセラを生んだ。エノクはメトセラを生んだ後、三百年、神とともに歩み、男子と女子を生んだ。」(創世記5:21,22)

 

 エノクは、彼が65歳になってむすこを生んだとしるされている。……エノクは、そうした初期の時代に、神を愛し、おそれ、神の戒めを守った。……。しかし、エノクは、彼の長男の誕生後、さらに高い経験に達し、神とさらに密接な関係にはいっていった。彼は神の子として、自分に与えられた義務と責任を、もっと深く自覚した。子供が父を愛し、父の保護に単純に信頼するのを見たとき、そして、長男に対して深い愛情を自分の心に感じたときに、彼は、そのみ子を人間に賜わった驚くべき神の愛と、神の子らが天の父に対して持たなければならない信頼に関して、尊い教訓を学んだのである。キリストによって示された測り知れない無限の神の愛は、彼の昼夜の瞑想の課題になった。彼は、自分の力の限りを尽くして、いっしょに住んでいる人々にその愛を示そうとした。

 エノクが神と共に歩んだのは、恍惚状態や幻を見るようなものではなくて、日常のすべての務めを果たすことにおいてであった。彼は、自分を世から全く遮断して、隠者にならなかった。というのは、彼は、この世で神のためにしなければならない仕事があったからである。彼は、家庭においても、人々との交際においても、夫、父、友人、市民として、常に堅く立ってゆるがない主のしもべであった。 ・・・

 この清い歩みは三百年続いた。もしクリスチャンが生命のはかなさを知り、または、キリストの再臨がまさに起ころうとしていることを知ったならば、ますます熱心になって献身しようとしないものはあるまい。しかし、エノクの信仰は、幾世紀の年月を経るにつれて強くなり、その愛はいっそう熱烈になっていった。(人類のあけぼの上巻80,81)

 彼(エノク)は神と思いが一つであった。…もしわたしたちが神と一つ思いであればわたしたちの意志は神の意志に飲み込まれ、神が導かれる道がどこであろうとそれに従うであろう。あどけない子供が父親の手に自分の手をあずけて、暗かろうと明るかろうと完全に信頼して共に歩むように、神の息子娘は喜びも悲しみもイエスと共にしながら歩むべきである。(レビュー・アンド・ヘラルド1889年12月3日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神が彼を取られた

「エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。」(創世記5:24)

 

 エノクは300年神と共に歩んだと記されている。それは神と深い交わりをするのに十分な年月であった。……エノクは神との親交に同意し……神との交流を愛したので神と深い交わりをした。(原稿16、1887年)

 エノクは際だった品性の持ち主であった。多くの人が彼の生涯を、有限な人間の大多数が到達できる以上のなにかとして見ている。しかしエノクの生涯と品性は、キリストが来られる時、彼らがエノクのように天に移される対象であるのなら、そのすべての者の生涯と品性がならねばならないものをあらわしているのである。彼の生涯は、個人個人の生涯が神と密接につながっているなら可能な生涯であった。地上の住民の堕落のゆえに、神が彼らを滅ぼすため、世界に洪水をもたらされたほど邪悪な感化に、エノクが囲まれていたことを、わたしたちは覚えていなければならない。(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1879年10月30日)

 わたしたちは邪悪な時代に生きている。終りの時代の危難がわたしたちの周りにたれこめてきている。不法が満ち多くの者の愛が冷えてきているからである。 ……

 エノクの実例がわたしたちの前にある。……彼は、道徳上の汚染が自分の周り一面にあふれている堕落した時代に生きていたが、自分の思いを献身へ、また純潔を愛するよう訓練した。彼の会話は天に関することであった。彼は自分の思いがこの水路を流れるよう教育し、神のしるしを身におびていた。彼の表情はイエスの顔に輝く光で明るくされていた。

 エノクはわたしたちと同じように誘惑にあい、わたしたちを取り囲んでいる社会同様、義に好意的ではない社会に囲まれていた。彼が呼吸をしていた環境は、現代と同じように罪と堕落で汚染されていたが、彼は聖潔な生涯を送った。彼は自分が生きていた時代に広く行き渡っていた罪に汚されなかったので、わたしたちも純潔にまた堕落しないままでいられるのである。彼は、終りの時代の危難と堕落のただ中に生きる聖徒たちの代表であった。なぜなら神に対する忠実な服従のゆえに彼は天へ移されたからである。そのように生きて残っている忠実な者 も天に移される。彼らは罪深い堕落した世界から、天の純潔な喜びへ移されるのである。(教会への証2巻121,122)

 わたしたちの現在の働きは世から出て、世と分離することである。これが、エノクがしたようにわたしたちが神と共に歩むことのできる唯一の方法である。(教会への証5巻535)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キリストを見つめて

「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(コリント第二3:18)

 

 エノクはその活動的な働きの生涯のまっただなかで神との親密な結びつきを堅く保ち続けた。働きがより大きく、より重くなるほど、彼の祈りはますます絶えまなく熱心になっていった。彼は一定期間すべての社会の交わりから身を引くという習慣を続けた。しばらくの間人々の中にとどまって、教えと模範によって彼らのためになる働きをした後、神だけが分け与えることのできる天来の知識を飢え渇くようにもとめて、人里離れた場所で一定期間を過ごすために引きこもった。神とのこのような親密な結びつきによって、エノクは神のかたちをますます反映するようになり、彼の顔は、イエスのみ顔に輝く光のような聖なる光に照らされた。彼がこの神との深い親交から出てくると、不信心な者ですら、エノクの表情に浮かぶ天のしるしを畏敬の念をもって見つめた。(福音宣伝者53)

 エノクは主をいつも彼の前に置いていた。……彼はキリストを自分の変わらぬ同伴者とした。彼は世にあって、世に対する自分の義務を果したが、彼はいつもイエスの影響力の下にいた。彼はキリストの品性を反映して、善、憐れみ、優しい同情、共感、寛容、柔和、謙遜、そして愛というキリストと同じ特質を表した。彼のキリストとの交際は、彼が非常に親密に結びついていたそのお方の持つみかたちへと、日毎に彼を変化させた。日毎に彼は、その思考と感情において、自分の道からキリストの道、天の道へと成長していった。(SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ ホワイト・コメント]1巻1097、1098)

 いつも、主を目の前にあおいで、主に感謝と賛美をささげているならば、わたしたちの信仰生活は常に新鮮さを保つことができる。わたしたちの祈りは、ちょうど友人と語るように、神との会話のかたちになり、神は、わたしたちに個人的に、神の神秘について語りかけてくださるのである。わたしたちは、しばしば、尊いイエスの臨在を身近に感じることがある。昔、神がエノクと語られたときのように、神がわたしたちに近づかれると、わたしたちの心中も燃えるのをおぼえる。こうしたことがほんとうに、クリスチャンの経験となるときに、そのクリスチャン生活には、純真、けんそん、柔和、心のひくさなどがいちじるしくなり、接するすべての人に、彼がイエスと共にあって、イエスから学んだ者であることを感じさせるのである。(キリストの実物教訓109)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

開かれている扉

「信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。」(ヘブル11:5)

 

 わたしたちが感情によってではなく信仰によって歩むことを学ぶ時、わたしたちが助けを必要とするちょうどその時に神から助けを受け、神の平安がわたしたちの心の中に入ってくる。エノクが生きたのは服従と信頼というこの単純な生涯であった。もしわたしたちがこの単純な信頼という教訓を学ぶなら、わたしたちの生涯はエノクが受け、彼が神を喜ばせた生涯を証するものとなるであろう。(今日のわたしの生涯14)

 品性建設のあらゆる面において、神を喜ばせなければならない。これはわたしたちにもできることである。エノクは、堕落した時代に生存しながら、神を喜ばせた。現代にも、エノクのような人びとがいる。(キリストの実物教訓306)

 300年の間エノクは心の純潔を求め続け、それによって天と調和することができた。彼は三世紀の間神と共に歩んだ。彼は日毎により密接なつながりを切望し続け、神が彼をご自分のもとに取られるまで、その親密な交わりはますます密になっていった。彼は永遠の世界の門口に立っており、彼と祝福された地との間はただ一歩であった。そして今門が開き、地上で久しく神と共に歩み続けていたのでそのまま歩みを続け、エノクは聖なる都の門をくぐって、そこに入る人々の初めの人になったのである。(福音宣伝者53)

 神のみ言葉である聖書さえ手にあれば、人はどんな境遇に陥っても、自分の好きな友をえらび得るのである。聖書のページを開いて、人類の最も高貴な最もすぐれた人々と語り、人類に話しかけられる永遠なる神のみ声に聞き入ることができる。……。この世の悩みと誘惑の中にある人々に希望の思いと聖潔をあこがれる思いをあたえることができる。……神と共に歩んだ古代の人と同じに、いよいよ永遠の世界の門口に近づき、そしてついには開かれた門を通ってそこにはいることができる。そこでは自分が見ず知らずの人間ではないことに気がつくであ ろう。自分にあいさつの言葉をかけてくれる声は、地上にあるとき、目には見えなかったけれども、友として交わった聖者たちの声であり、この世において聞きわけそして愛することをおぼえた声である。神のみ言葉を通して、天との交わりの中に暮らしていた者は、天における交際にも心やすさを感ずるであろう。 (教育136、 137)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神か、偶像か

「彼らの偶像はしろがねと、こがねで、人の手のわざである。・・・これを造る者と、これに信頼する者とはみな、これと等しい者になる。」(詩篇115:4, 8)

 

 ノアの時代、地はアダムの罪とカインの殺人の結果二重ののろいを受けていた。しかし、これは、自然の表面に大きな変化を与えなかった。・・・

 人類は、まだ初期の活力を多く保っていた。アダムが、生命を長らえさせる木に近づくことができたときからわずか数代しか経ていなかったので、人間の一生はなお、世紀を単位として数えられていた。非凡の能力をもって計画し、実行することができた長命のこうした人々が、もし、神の奉仕のために自分をささげていたならば、彼らは地上で創造主のみ名に誉れを帰していたことであろう。・・・しかし、彼らは、そうしなかった。・・・

 彼らは、神のことを考えようともしなかったので、いつのまにか神の存在を否定するようになった。彼らは、自然の神のかわりに、自然を拝んだ。・・・広大なときわ木の林は、偽りの神を礼拝するためにささげられた。・・・人々は神を全く忘れ、自分たちがかってにつくり上げたものを拝んでいた。その結果、彼らはますます堕落した。・・・

 厳密な意味において、当時の人々は、全部偶像礼拝者であったのではない。神を礼拝すると公言する者が多くいた。彼らの偶像は、神を代表するものであって、人間はそれによって、神に関する明確な観念をいだくことができると彼らは主張した。この種の人々が、率先してノアの説教を拒否した。神を物質的対象によって表わそうとすることによって、彼らの思いは暗くなり、神の威光と力とを見ることができなくなった。彼らは、神の品性の神聖さ、また、神の要求の神聖さも不変性も悟らなくなった。(人類のあけぼの上巻87~93)

 人間は、真理、純潔、聖潔に関して、自分が持っている観念以上に到達するものではない。もし、精神が、人間的水準以上に高められず、無限の知恵と愛を瞑想するために信仰によって高尚にされないならば、人間は常に低い方へ低い方へと沈んでいくのである。偽りの神の礼拝者は、その神々に人間の性質と情欲とを付与した。こうして、彼らの品性の標準は罪深い人間の形に下落した。(人類のあけぼの上巻89)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

地にいるネリピム

「そのころ地にネリピムがいた。」(創世記6:4)

 

 地上にいた初めの人々は、世界を創造された無限の方、神から教えを受けた。無限の知恵から直接知識を受けた人々は知識が不足していたわけではなかった。 ……

 現在、古代人が持たなかった多くの発明と改良、そして省力の機械がある。彼らはそれらのものを必要としていなかった。

 洪水前の人々は何百年も生きた。そして百歳になってもまだ青年と見なされた。これら長命の人々は健全な身体の内に健全な知性を宿していた。彼らは六十の年齢から百歳にかけて活動の場に出た。それは現在もっとも長生きする人々がそのはかなく短い人生に自分の役割を演じて、舞台を去る年月に匹敵している。(霊の賜物4巻一部)

 偉大な体格と体力を持ち、その知恵深いことで有名な巨人がたくさんいた。彼らは、実に巧妙に驚くべきものを作り出すことにたけていた。しかし、彼らは、その技量と能力に応じて、ほしいままに悪を行なう罪も大きかった。

 神は、これらの洪水前の人々に、多くの豊かな賜物をお与えになった。ところが彼らは、自分自身をあがめるためにそれを用い、それをお与えになったかたよりも、賜物そのものに愛着を持って、それらをのろいにかえた。彼らは、金、銀、宝石、最上の木材などを用いて自分たちの家を建築し、技術の限りを尽くして住居を飾りたて互いにしのぎを削った。彼らは、自分たちの高慢な心の欲望を満たすことだけを求め、快楽と罪悪に夢中になっていた。(人類のあけぼの上巻88)

 彼らは、彼らの計画と会議から神を除外したために、その思い図ることが腐敗した。彼らは神が一度も命じられなかったことをずる賢く行い、巧みに悪を行った。……彼らは、慈悲深く与えられた猶予期間を、ノアを嘲笑することに用いた。彼らはノアを風刺的に描いて批判した。彼らは、神が必ず実行すると言われた裁きについて、ノアが非常に熱心であることを嘲笑した。彼らは科学や自然を支配している法則を持ち出した。それからノアの言葉に騒ぎ立て、彼を気違い呼ばわりした。(SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ホワイト・コメント]1巻1090)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

タラントの悪用

「その弟の名はユバルといった。彼は琴や笛を執るすべての者の先祖となった。チラもまたトバルカインを産んだ。彼は青銅や鉄のすべての刃物を鍛える者となった。トバルカインの妹をナアマといった。」(創世記4:21、 22)

 

 洪水で、今日の世界が知っている以上の芸術と技能の発明が滅亡した。破滅された芸術は、今日の芸術が誇っているものよりもさらに優れていた。……

 神は世界を見下ろして、人間に与えていた知性が曲げられ、その心に思い図ることが常に悪い事であるのを見られた。神がこれらの人たちに知識を与えられた。神が彼らに貴重な観念を与えたのは、彼らが神の計画を実行するためであった。けれども主は、彼に造られた人たちが知恵と機転、判断力を所有すべきなのに、あらゆる知性の特質を自己賞揚のために用いているのをご覧になった。洪水によって、神は地球からこの長命の人種を拭い去り、彼らと一緒に、彼らが悪のためだけに用いてきた知識も滅んだ。地球に再び人間が増えたとき、主は、彼らが主の大いなる計画を遂行するために必要なものだけの能力を与え、人に神の知恵を委託することをもっと控えられた。(SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ホワイト・コメント]1巻1089)

 今日の世界は時代の進歩について語ることで非常に満足している。しかし神はこのことを喜んではおられない。現代の人々がたくさんの発明をすることによって、彼らは洪水前の人々と同じであると言える。ノアの洪水以前には多くの素晴らしい芸術と科学があった。神のみ手によって造られたアダムのこれらの子孫は、わたしたちが現在見ることができないほどの才能と能力を持っていた。(原稿16、1898年)

 洪水前に生きていた人々は、世界とその住民の創造主である神から、二、三歩離れているだけであった。この人々に与えられた長命と豊かな知力は神の奉仕に用いられるはずであったが、彼らの知的能力、その力強い能力は神の名誉を汚すよう悪用された。……

 人が神から離れる時、彼らは自分をサタンの支配下に置く。タラントは神の奉仕に用いるために人に与えられている。……どの人にとっても唯一安全な道があるが、それは「主はこう言われる」というみ言葉に服従する道である。(原稿319、1898年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

裕福な社会

「洪水の出る前、・・・人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。」(マタイ24:38,39)

 

 ノアの時代の世界の罪は不節制であった。そして今日飲食における不節制にみられる罪が非常にきわだっているので、神はいつまでもそれを許すことはなさらない。・・・人間は、それ自体は法にかなっていることを過度に行うので、主が制定された自然の法則を破る結果、全人格が苦しむのである。

 飲食における不節制が増えている。食卓には快楽主義者の食欲を満足させるあらゆる種類の食物が並べられる。このような行動をとれば、次に来るのは苦しみである。体の組織の活力は負わされた重荷のもとに耐えることができず、ついには衰えてしまう。

 神は・・・健康と生命の法則を故意に犯した結果を和らげるために奇跡を行ったりはされない。・・・人は自分のために支払われた値で自分自身を評価しなければならない。人がこの価値を自分自身に置くとき、知っていながら、自分の身体上のまた精神面の能力を悪用する事はない。自分自身をサタンの代理人の支配下に置き、また健康や敬神の念、霊性に破滅を招くことにふけり、夢中になってしまうことにより、自分の貴重な能力を悪用することは、天におられる神に対する侮辱である。(手紙73a1896年)

 世界の悪がこれほど大きくても、主は120年間という猶予の期間を人に与えられた。もしその間に人が望めば悔い改めることができるのであった。けれども寛大で憐れみ深い神の寛容にもかかわらず、人々は自分たちの機会を活用しな かった。しばらくの間彼らは畏敬の念に打たれ、自分たちがしていたのと同じ向こうみずな行動を続けるのを恐れたが、やがて邪悪な習慣が自制に打ち勝った。人々が説得に抵抗するのに比例して、彼らの識別力は曇ってきて、不信心な進路に従おうとする願いが強くなった。(原稿88,1897年)

 わたしたちが主に仕えるための体力を維持するために飲食をすることは必要である。しかし、天におられるみ父を喜ばせるという思いではなく、自分の嗜好を喜ばせるためだけに食事をし、大食をするなら、わたしたちはノアの時代の人々がしていたのとちょうど同じことをしているのである。(原稿16,1895年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

めとり、とつぎ

「洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は……めとり、とつぎなどしていた。」(マタイ24:38)

 

 ノアの時代は暴力が世界に広く勢力をもっていた。人々は脅迫という手段で他人を脅した。隣人を公正に扱うかわりに自分自身の法にかなわない願望を実行した。彼らは神の賢明な取り決めに反して多数の妻を持った。初めに神はアダムに1人の妻を与えることによって、地上に住むすべての者に、この点に関するご自分の秩序と律法を示された。アダムとエバの違反と堕落は人類に罪と惨めさをもたらし、人間は自分自身の肉欲に従って神の秩序を変えた。人々が妻の数を増していくに従い、邪悪と不幸が増えていった。人が複数の妻や、家畜、あるいは隣人の持物を何でも取ろうと決めたなら、公正であるか正しいかは考えず、行動し、自分の暴力行為を誇った。彼らは動物の生命を取ることを喜び、これを食物としたが、このようにして彼らの残忍さと暴力は強まり、人間の血を彼らが驚くほどの無関心さで見る原因となったのである。(霊の賜物3巻63,64)

 セツの子孫は神の子らと呼ばれ、カインの子孫は人の子らと呼ばれた。神の子らと人の子らがいりまじるようになったので、神の子らは堕落し、人の子らと結婚して、その妻たちの影響を受け、特殊なきよい品性を失い、カインの子たちと一緒になって偶像を礼拝するようになった。多くの者は、神をおそれる思いを捨て、神の戒めをふみつけた。しかし中には義を行い、創造主をおそれあがめる人々が、少数ながらあった。ノアとその家族は、その少数の義人の中にはいっていた。(生き残る人々77)

 一夫多妻は、ごく初期から行なわれていた。それは洪水前の世界に神の怒りを招いた罪のひとつであった。……サタンは、とりわけ結婚制度をゆがめ、その義務を弱め、その神聖さを減ずることに力を入れた。というのは、人間のうちにある神のかたちをそこない、悲惨と悪徳に戸を開くのに、これほど確実な方法はなかったからである。(人類のあけぼの上巻398)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日まで

「また、古い世界をそのままにしておかないで、その不信仰な世界に洪水をきたらせ、ただ、義の宣伝者ノアたち8人の者だけを保護された。」(第二ペテロ2:5)

 

 神は古い世界の住民に、地をその不純から清めるつもりであると警告された。しかし彼らはそれを迷信的な預言であると見なしてあざけり笑った。(原稿161,1897年)

 最初、多くの者は、警告を受け入れたように思われた。しかし、彼らは、真に悔い改めて神に立ち帰ったのではなかった。彼らは、罪を捨てようとはしなかったのである。洪水が来るまで、しばらくの間、彼らの信仰は試みられたが、彼らはその試練に耐えられなかった。彼らは、一般の不信仰に負け、ついに、以前の仲間といっしょになって、厳粛な使命を退けた。ある者は、深く感動して、警告の言葉に聞き従おうとした。しかし、あざけり笑う者が多いために、ついに彼らと同調して……やがてだれよりも大胆不敵にちょう笑する者になった。というのは、一度光を与えられながら、罪を示す神の霊に逆らった者ほど、無謀で、罪の深みに沈む者はないからである。(人類のあけぼの上巻92)

 彼らは、歓楽ときょう宴をつづけた。彼らは、食べ、飲み、植え、建てなどして、将来得ようと望んでいる有利な立場について思いを練っていた。そして、彼らは、ますます罪悪の深みに沈み、神の要求を大胆に無視して、無限の神をおそれていないことを示した。……

 もし、洪水前の人々が、警告を受け入れ、その悪行を悔い改めたならば、主は後にニネベになさったと同様に彼の怒りをとどめられたことであろう。しかし、その時代の人々は、良心のとがめと神の預言者の警告にがん強に逆らって、彼らの罪のますめを満たし、滅亡の期は熟した。(人類のあけぼの上巻94,95)

 主はご自分の使者を通じて、万物の終りが近いことを宣言する警告のメッセージをわたしたちに送ってこられた。ある者はこの警告に聞き従うが大多数の者はこれに注意を払わない。

 キリストが来られるときもこのようであろう。農夫、商人、弁護士、貿易商などはみな自分の仕事に夢中になっているであろう。そして主の日は彼らにとってわなのように来るであろう。(原稿161、1897年)

 

励ましを受けるために

「これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである。」(口―マ15:4)

 

 聖書に記録されている生涯は実在の個人個人についての本当の歴史である。アダムから使徒の時代までの連綿と続く各世代を通じて、実際に起ったこと、また実在する人物の真の経験についてはっきりとした消えてしまわない記述がわたしたちにはある。霊感を受けた歴史が、良い人々の生涯で彼らの品性を汚す事実を述べているということは多くの人にとって不思議に思える。……霊感を受けた筆者は人間のもろさや失敗を記録することによって、曇らされている聖なる歴史の各ページに先手を打つために偽りを証言したりはしなかった。……

 真理がないがしろにされたり、その主要な特質に対する罪が隠されたりしないというのは、聖書が真正なものであるという最高の証拠の一つである。……その日常生活や教会関係で、汚点のない純潔の模範として輝く過失のないクリスチャンについてどれほど多くの伝記が書かれていることか。しかし霊感の筆が彼らの生涯を書いたなら、どれほどの違いがあらわれてくることであろうか。そこには人間の弱さ、利己心や頑迷、自信、隠れた罪との苦闘が、また霊と肉との絶え間ない戦いがあらわにされている。……

 もしもわたしたちの聖書を霊感を受けない人々が書いていたなら、聖書は非常に違った様相を呈し、誤ちを犯す有限な者、生来のもろさやずる賢い敵の誘惑に苦労している人間にとって失望する研究となっていたであろう。しかし実情は、わたしたちには聖書の歴史の中で記されている人物の宗教経験について正しい記録がある。神の恵みを受けた人々、神が大きな責任を委ねた人々は時々誘惑に負け、罪を犯した。現代わたしたちが戦い、動揺し、たびたび過ちに陥るのと同じである。しかし神の恵みによって彼らが自分の悪い性質を克服するために新し い活力を得ることができたということを知るのは意気消沈している心を勇気づける。このことを覚えてわたしたちは自分自身との戦いを新たにする用意ができるのである。(教会への証4巻9~11)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

希望がある

「これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。」(コリント第一10:11)

 

 古代イスラエルのつぶやきや反抗的な不平、また同様に彼らのためになされた力強い奇跡や彼らの偶像礼拝や忘恩に対する罰が記されているのはわたしたちの益のためである。古代イスラエルの例が、神の民に対する警告として与えられている。それは不信を避け、神の憤りをのがれることができるためである。もしヘブル人たちの罪が神聖な記録から除外され、彼らの美徳だけが列挙されていたなら、彼らの歴史はわたしたちに教えるはずの教訓を与えることはできなかったであろう。……

 もしも神の民が自分たちに対する神の取り扱いを認め、この方の教えを受け入れるなら、自分たちの足のための真直ぐな道と、暗闇と失望を通して自分たちを導く光を見つけるであろうに。ダビデは自分に対する神の取り扱いから知恵を学び、へりくだって至高者の懲らしめを受けた。預言者ナタンによって自分の真の状態を忠実に描写されたことは、ダビデが自分自身の罪を知り、それを捨てる助けとを示している。彼らは永遠の命を受け継ぐために、ただ神の勧告に従い、そのみ旨を行わなければならない。神は過ちを犯す民のために彼らの罪を示されるが、それは天来の真理の光のもとでその罪がすべて大罪であることを見ることができるためである。それからその罪を永遠に放棄することが彼らの義務である。

 神は、父祖の時代やダビデ、預言者、使徒の時代と同様、今日においても罪から救うのに力強い方であられる。聖史の中で神がご自分の民を彼ら自身の罪から救い出された数多くの実例により、現代のクリスチャンは真剣に神の指示を受け、審判の厳密な調査に耐えるような品性を完成するために熱心になるべきである。(教会への証4巻11~15)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

群れの中の場所

「正しい者のくちびるは多くの人を養い、愚かな者は知恵がなくて死ぬ。」(箴言10:21)

 

 罪悪がはびこってはいたが、神との交わりによって、高められ、気高くされ、天の交わりのような生活を送った聖徒の群れが常にあった。彼らは著しい知能と、すぐれた学識の持ち主であった。彼らには、正しい品性を築き、信心について、その時代の人々だけでなくて、後世の人々にも教えるという偉大で清い使命があった。聖書には、最も著名な人々のなかのごくわずかな人しか記録されていない。しかし、神は、各時代を通じて、忠実な証人、誠実な礼拝者をもっておられた。(人類のあけぼの上巻80)

 自分自身はどんなに無力でも、神のみ言葉に信頼するときに全世界の勢力に対抗し得た例は少なくない。純潔な心の持ち主で、聖なる一生を送ったエノクは、信仰を堅く保って、腐敗とあざけりに満ちた世代に対して義の勝利を納めた。ノアとその家族は当時の人々-最も偉大な知力と体力を持ちまた道徳的に最も堕落した人々に対抗した。紅海に臨んだイスラエルの民は、おびえた無力な奴隷の群れであったが、地球上で最大の国家の軍勢に対抗した。神から王位を約束されていた羊飼いの少年ダビデは、国王としての権力をかたく握って離さないサウルに対抗した。燃える火の中のシャデラクとその仲間は、王座のネブカデネザルに、ししの群れの中のダニエルは王国の高い地位にある敵どもに、十字架上のイエスは、ローマの総督にさえ自分たちの意志を強行させようとするユダヤの祭司や役人たちに、鎖につながれて罪人として処刑されたパウロは世界帝国の暴君ネロに、それぞれ対抗したのであった。

 このような例は、聖書だけに見られるとはかぎらない。人類の進歩の歴史にはどこにでもこのような例がたくさんある。ワルデンセスやユグノー教徒、ウィクリフやフス、ジェロームやルーテル、チンダルやノックス、チンツェンドルフやウェスレーその他多くの人々が悪を支持する人間の権力や政治に対して神のみ言葉の力を立証したのである。こういう人々こそ世の真の貴族である。彼らこそ世の王統である。今日の青少年たちは、この王統の一族となるように召されているのである。(教育300、302)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実とは何か

「不義を耕し、害悪をまく者は、それを刈り取っている。」(ヨブ4:8)

 

 聖書の中で、教育上最も価値のある部分はその伝記である。これらの伝記は、絶対にありのままの生活を描いてある点において他の伝記と類を異にしている。有限な人間の頭脳では、他人の行為を、何から何まで、正しく解釈することはできない。人の心を読み、動機と行為のかくれた源を見分けられる神よりほかには、だれも絶対にまちがいなく品性を描くことも、人生のありのままの姿を伝えることもできない。このような描写はただ神のみ言葉である聖書の中にだけみられる。聖書に、行為は人格のあらわれであると教えられているが、これほどはっきりし た真理はない。人生の経験の大部分は、われわれ白身の思想や行為が実を結んだものである。

 「いわれのないのろいは……止まらない。」(蔵言26:2)「正しい人に言え、彼らはさいわいであると。……悪しき者はわざわいだ、彼は災をうける。その手のなした事が彼に報いられるからである。」(イザヤ3:10,11)「地よ、聞け。見よ、わたしはこの民に災をくだす。それは彼らのたくらみの実である。」(エレミヤ 6:19)

 これは恐るべき真理で、深く心に刻みこまれなければならない。どんな行為もかならずそれをなした本人自身の上に帰って来る。自分の一生に災いを及ぼしている悪は、自らまいた種が身を結んだものであることを、人は認めないわけにはいかない。しかしそうであっても、望みがないわけではない。

 ヤコブは詐欺行為をしたために兄の憎しみという収穫を刈りとった。かれ自身は、二十年の間異郷の地にあって、虐待され、欺かれた。……しかし神は「わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいや」すと仰せになる(イザヤ57:18)。ヤコブは、苦難の中にあってくじけなかった。彼は悔い改め、兄への罪を償うために努力した。そして、エサウの怒りのために殺される危険を感じたときに、神に助けをもとめた。……「彼は天の使と争って勝ち、泣いてこれにあわれみを求めた。」(ホセア12:4)。「その所で彼を祝福した」(創世記32:29)。……彼自身の中にある悪の力はうち破られ、彼の品性は一変した。……神は、ご自身の法律を取り消すようなことはなさらない。神は律法に反して行動するようなことはなさらない。神は罪の働きを白紙にかえすようなことはなさらないが、しかしそれを一変させたもうのである。神の恩恵によって、災いは福となるのである。(教育164~166)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神のかたちに

「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」(創世記1:27)

 

 地球が数多くの動物と植物で満たされてから、創造主のみわざの冠であり、この美しい地球に住むのにふさわしい人間が活動の舞台にのぼってきた。人間は見渡すかぎりのものを統治する支配権が与えられた。……

 神はここに人類の起源を明瞭に述べられた。聖書の記録は、誤った結論を出す余地がないほど明白である。神はご自分のかたちに人間を創造された。そこにはあいまいさが全然ない。動物や植物などの下等な生命形態から、次第に発達の段階をたどって、人間は進化したのだと想像する余地は全くない。こうした考え方は、創造主の偉大なわざを、人間的な狭い、地上的な考え方のレベルに引き下げる。人間は、宇宙の王座から神を追い出そうと努める結果、人間自身の品位を低め、人間の崇高な起源を見失っている。星空を高くすえ、野の花を巧みに飾り、み力の奇跡によって驚くべきものを天地の間に満たされたおかたは、その輝かしいみわざの最後を飾るにあたって、人間をこの美しい世界の統治者としておたてになったが、それは生命の賦与者のわざに恥ないものであった。霊感によって与えられた人類の系図は、その起源を、細菌、軟体動物、四足獣などの進化の跡をたどるのでなくて、偉大な創造主に帰着させる。アダムは、土のちりで造られたが、「神の子」であった。……

 彼の性質は、神のみ旨と調和していた。人間の知力は、神の事物を理解することができた。彼の愛情は清く、食欲や情欲は理性の支配のもとにあった。彼は、神のかたちをしていて、神のみ旨に完全に服従していたので、清く、幸福であった。(人類のあけぼの上巻18~20)

 アダムの背たけは今日の地上の人間の二倍もあり、よくつりあいがとれて、容姿は申し分なく美しかった。……エバは、アダムほどには背が高くなかった。エバの顔がアダムの肩からすこし出る位の高さだった。エバもまたりっぱで申し分がなく、均斉がとれて非常に美しかった。罪というものを全く知らないこのふたりは、手で作った衣を身にまとっていなかった。彼らは、天使たちと同じように、光と栄光をもって身体をおおわれていた。(生き残る人々32)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エデン

「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。」(創世記2:15)

 

 神のおつくりになったものは、すべてが申し分なく美しかった。神がおつくりになったこの地上には、アダムとエバを幸福にするために、何一つとして欠けたものはないようにみえた。しかしそれでもなお神は、彼らに対する大いなる愛のあらわれとして、特に彼らのために園を設けたもうた。彼らは園の手入れに楽しく働いたり、天使たちの来訪をうけて、その教えをきいて楽しく瞑想したりなどして時間を送るのだった。彼らの労働は疲労するようなものではなく、楽しくて生気づけられるようなものだった。この美しい園が、アダムとエバの住居になることになった。この園の中に、神は、有用で美しいいろいろな種類の木をお植えになった。そこには、聖なるふたりの食物として神のおつくりになった、かおりの高いおいしい味の、見た目にも美しいりっぱな果実をいっぱいにつけた木々があった。そこにはまっすぐに伸びた美しいつる状の木があって、人類の堕落後にみられるものとはちがった果実を枝もたわわにつけていた。その果実は大きくて、黒みがかった色、紫色、赤色、薄赤色、薄緑色など、いろいろな色をしていた。このつる状の木の枝になる美しいりっぱな果実は、ぶどうと呼ばれた。ぶどうの木は、棚でささえられてはいなかったが、地面にはうこともなく、ただ果実の重さで枝がたれていた。ぶどうの枝で美しいあずまやをつくったり、かぐわしい果実をつけ た自然の美しい生きた木々や枝葉を仕立てて住居をつくったりすることは、アダムとエバにとって楽しい働きだった。(生き残る人々32,33)

 人が神の造られたもののめんどうを見る仕事の中に幸福を見いだすこと、彼の必要が園の木の果実で満たされることが神のご計画であった。……

 何もしないことに幸福があるならば、人は清らかな状態のない、罪のまま何の仕事も与えられなかったであろう。だが人を創造されたおかたは、彼の幸福のためには何がよいかを知っておられ、彼を造られるとさっそく定まった仕事をお与えになった。将来の栄光の約束と、人は日々のパンのためにほねおって働かなければならないというご命令とは、どちらも同じみくらから出たものであった。(アドべンチスト・ホーム17,18)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

選ぶ機会

「しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。」(創世記2:17)

 

 われわれの祖先は、罪なく清いものに造られたが、罪を犯す可能性がなかったのではない。……彼らは、神と聖天使たちとの交わりを楽しむことになっていた。しかし、彼らが永久的に確実なものとされる前に、彼らの忠誠が試みられなければならなかった。人間の存在の当初から、サタンを堕落させた致命的欲望、すなわち、放縦に対する欲望に一つの制限がおかれた。園の中央にあるいのちの木の近くに善悪を知る木があって、われわれの祖先の服従と信仰と愛を試験するものとなっていた。彼らは、ほかのどの木の実も自由に食べることを許されていたが、これは食べることを禁じられていて、その罰は死であった。彼らは、また、サタンの誘惑に会わなければならなかった。しかし、もしその試練に耐えるならば、彼らは、ついに、サタンの力の圏外に置かれ、神の永遠の恵みにあずかることができるのであった。……

 神は、神の律法を犯す力のないものとして人間を造ることもおできになった。また、アダムの手が禁果にふれないように、彼の手をおさえることもおできになった。しかし、それでは、人間は道徳的自由意志の持ち主ではなくて、単なる 機械人形になってしまう。選択の自由がないと、彼の服従は自発的なものではなくて、強制されたものとなる。品性が啓発されることもあり得なかったであろう。 ……人間は知的存在者としての価値を失い、神の支配は専制的だというサタンの非難が正当化されたことであろう。

 神は、人間を正しいものに造られた。神は、人間に悪の傾向のない気高い品性をお与えになった。神は、彼に高い知的能力を与え、神に対して忠誠を尽くさせるために、最も強力な示唆をお与えになった。完全で永続的な服従が、永遠の幸福の条件であった。人間は、こうした条件のもとにあって、いのちの木に近づくことができた。……

 彼らが神の律法に忠誠をつくしているかぎり、知って理解を深め愛する彼らの能力は、絶えず啓発されるのであった。彼らは、常に新しい知識の宝庫を手に入れ、新しい幸福の泉を発見し、神のはかり知れない不滅の愛について、ますます、明瞭な観念をいだくようになるのであった。(人類のあけぼの上巻24~27)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

分かちあうための人

「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう。」(創世記2:18)

 

 アダムが創造されたあとで、彼に名をつけてもらうために、すべての生物が、彼の前につれてこられた。彼はどの動物も対になっているのを見た。しかし、それらの中には、彼に「ふさわしい助け手が見つからなかった」。神が、地上で創造なさったすべての生き物の中には、人間にふさわしいものはいなかった。また神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」(創世記2:20,18)。人間は孤独な生活をするように造られたのではない。彼は、社交的な存在でなければならなかった。もし伴侶がなければ、エデ ンの美しい光景も、愉快な労働も、完全な幸福を与えることはできなかったことであろう。天使たちとの交わりでさえ、同情と伴侶を求める彼の願望を満足させることはできなかった。愛し愛される同じ性質のものがいなかったのである。

 神ご自身が、アダムに伴侶をお与えになった。神は、「彼にふさわしい助け手」すなわち、彼にちょうど合った助け手、彼の伴侶となるにふさわしく、彼と一つになって、愛し、同情することができる者をお与えになった。エバは、アダムのわきから取られたあばら骨によって創造された。このことは、彼女がかしらになって彼を支配するのでもなければ、彼よりは劣った者として彼の足の下に踏みつけられるものでもなく、同等のものとして、彼のかたわらに立ち、彼に愛され、守られるものであることを示している。男の一部分、彼の骨の骨、彼の肉の肉として、彼女はアダムの第二の自分であった。そしてこの関係には、密接な結合と深い愛情がなければならないことを示された。「自分白身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、……おのれを育て養うのが常である。」「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである」(エペソ5:29、創世 記2:24)。

 神は、最初の結婚をとり結ばれた。だから、結婚式の制定者は、宇宙の創造主である。「結婚を重んずべきである」(ヘブル13:4)。それは、神が人間にお与えになった最初の賜物の一つであった。また、それは、堕落後、アダムが楽園の門から持って出た二つの制度のなかの一つである。婚姻関係に関する神の原則をわきまえ、それに従うときに、結婚は祝福である。それは、人類の純潔と幸福を守り、人間の社会的必要を満たし、肉体的、知的、道徳的性質を高める。(人類のあけぼの上巻20、 21)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

欺かれた

「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか。」(創世記3:1)

 

 創造の最高のわざである人間に、神はご自分の要求を認めて、その律法の義と慈愛と、そして人間に対する律法の神聖な要求を理解する能力をお与えになった。人間にはゆるがない服従が要求されているのである。

 天使と同様に、エデンの住人には試験期間が与えられていた。彼らの幸福な地位は、創造主の律法に忠実に従うという条件だけによって保つことができた。彼らは、服従して生きるか、それとも服従しないで滅びるかのどちらかであった。 ……

 園の中で毎日の仕事をするときに、夫のところから離れないようにと、天使はエバに注意した。彼女が夫といっしょにいるときは、ひとりでいるときより誘惑に陥る危険が少なかった。しかし、エバは楽しい仕事に夢中になって知らず知らずのうちに夫のそばから離れていった。……彼女は……まもなく、好奇心と賛嘆のまじった思いで禁じられた木をながめていた。その実は、非常に美しかった。彼女は、なぜ神がこれを禁じられたのかと疑問を抱いた。それが、誘惑者の待っていた機会であった。彼は、彼女の心の動きを読み取ることができるかのように、 彼女にいった。「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」 ……

 「神の警告は、実際にその通りに成就するものではなくて、ただの威嚇にすぎないのだ」と彼はほのめかした。……

 こうした方法で、アダムの時代から現在にいたるまでサタンは働き続け、大成功を収めている。彼は、人を誘惑して、神の愛に頼らず、神の知恵を疑わせるのである。彼は、不信心な好奇心を刺激し、神の知恵や力の秘密を探ろうとする際限のないせんさく心をかきたてようと常に努力している。多くの者は、神がみこころのうちに隠されたものを捜し出そうと努めて、神が、啓示された真理で、救いに欠くことのできないものを見落としている。……

 エバは、サタンの言葉をほんとうに信じた。しかし、エバがそう信じたからと言って、罪の刑罰をまぬかれることはできなかった。エバは、神のみことばを信じなかった。そして、それが、彼女を堕落させたのである。人間は、審判のときに、偽りを本気で信じたからではなくて、真理を信じないで、真理を学ぶ機会をのがしたために罪に定められる。(人類のあけぼの上巻38~42)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サタンに用いられる

女は「その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので彼も食べた。」(創世記3:6)

 

 罪を犯したエバは、サタンにかわって夫を破滅させるために働く者になった。エバは、なんとも言えない異常な興奮状態に陥り、禁じられた木の実を両手に持って、夫をさがし、起こったことのすべてを話した。悲しい表情がアダムの顔にあらわれた。彼は、驚きおびえたように見えた。エバの話を聞いて、これはわれわれが警告を受けていた敵にちがいないと彼は答えた。また彼は、エバは神の宣告によって死ななければならないと言った。彼女はそれに答えて、死ぬことはないと言ったへびの言葉をくりかえして、彼に食べるようすすめた。エバはそれをほんとうだと思った。というのは、自分は神の怒りのしるしを何も感じないし、むし ろ、気分を爽快にして、引き立たせ、からだ中が新しい命におどるように思われ、天使も、このように力づけられているのかとエバは想像したからである。アダムは、エバが神の命令にそむき、彼らの忠誠と愛の試練として課せられたただ一つの禁令を犯したことを知った。彼の心に恐ろしい苦闘が起こった。彼は、エバを、自分のそばからさまよい出るままにしておいたことを悲しんだ。しかし、それはもう取りかえしがつかなかった。彼は、交わりを楽しんでいた彼女から別れなければならなかった。どうして、それに耐えることができよう。

 アダムは、神と天使たちとの交わりを楽しんでいた。彼は、創造主の栄光を見たのであった。もし、人類が神に忠実であったならば、彼らにはどのような輝かしい運命が開かれるかを彼は知っていた。しかし、彼は、他のあらゆるもの以上に尊いものと思っていた賜物を失うことを恐れて、こうしたすべての祝福について考える余裕がなかった。創造主への愛、感謝、忠誠心などのすべては、エバに対する愛の大きさには比べることができなかった。彼女は、彼自身の一部で、別れるなどとは考えてみることもできなかった。……彼は、彼女と運命を共にする決心をした。彼女が死ななければならないならば、彼もいっしょに死のうと思った。結局、賢いへびの言葉がほんとうではなかろうかと彼は考えた。エバは、不従順の行為の以前と同様に美しく、見たところなんの罪もないかのように、彼の前に立っていた。彼女は、前よりは大きな愛を彼にあらわした。死の徴候は、彼女にあらわれていなかった。そこで、彼は、成り行きにまかせる決心をした。彼は、実を取ってすばやく食べた。(人類のあけぼの上巻42~45)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

知らない方が良い時

「わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕えるようなものであると悟った。」(伝道の書1:17)

 

 アダムとエバは共に果物を食べ、そしてある知識を得た。それは神に従っていれば、決して持たなかったであろう知識である。それは、神への不従順と不忠実の経験、自分たちは裸であるという知識であった。無垢の衣、彼らを包んだ神からの覆いは取り去られた。そして彼らは腰を覆うためイチジクの葉を縫い合わせることによって天の衣の代用とした。

 これは、神の律法の違反者たちがアダムとエバの不従順の日から使っている覆いである。……

 しかし罪人の裸は覆われない。……

 アダムとエバが創造主に背かなかったならば、もし彼らが完全な公正の道に留まっていたならば、彼らは創造主を知り、理解することができたであろう。しかし、彼らが誘惑者の声を聞いて、神に対して罪を犯したとき、天の無垢の衣の光は彼らを離れた。そして無垢の衣を手放して、彼らは神に対する無知の衣をまとった。今まで彼らを囲んでいた明確な、そして完全な光は、彼らの周囲をすべて明るくしていた。しかし、その天の光を奪われているアダムの子孫は、もはや神の造られた御業に表された神の品性をたどることができなくなった。(SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ホワイト・コメント][E・G・ホワイト・コメント]1巻1084)

 もしアダムとエバが禁じられた木に触れていなかったなら、主は彼らに知識-罪の呪いに基づいていない知識、彼らに永遠の喜びをもたらしたであろう知識-を与えたであろう。

 各時代を通じて、人々は好奇心をもって善悪を知る木を探し求めてきた。そして、しばしば彼らはソロモンのように、最高に価値のある木の実を手に入れたと考える。ところが、神の都の門を開く神聖な真の科学と比較すれば、それが全く無駄であると悟るのである。人間の野心は、栄光と自己賞揚と支配権を彼らにもたらすような知識を探求してきた。こうしてアダムとエバは、サタンにあやつられた。(SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ホワイト・コメント][E・G・ホワイト・コメント]1巻1083)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

のろわれた!

「女に言われた、『わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。……それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう』。更に人に言われた、 ……地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。」(創世記3:16,17)

 

 エバは、これから会わなければならない悲しみと苦痛を知らされた。……神は創造のときに、彼女をアダムと等しいものに造られた。もし彼らが神に従って、その偉大な戒めに調和していたならば、彼らは、互いに調和しあってきたはずであった。しかし、罪が調和を破った。だから、一方が他方に従属することによって彼らの一致と調和が保たれるようになった。エバは最初に罪を犯した。彼女は、神の命令に反して、夫のそばを離れたために、誘惑に陥った。また、アダムは、彼女のすすめによって罪を犯した。そこで、彼女は、夫に従う立場におかれた。 ……

 エバは、エデンの家庭で、夫のそばにいて、完全な幸福を味わっていた。しかし、落ちつきを失った現代のエバたちと同様に、彼女は、神がお定めになったところより、もっと高い身分になりたいと望むようにそそのかされた。彼女は、初めに置かれた地位より高く昇ろうとして、それよりはるか下に落ちた。神のご計画に従って、実生活の義務を快く果たそうとしない者は、みな同様になる。神がお与えにならなかった地位を得ようと努めて彼らが祝福となることのできる場所をあける者が多い。……

 神は人間を創造なさったときに、彼を地とすべての生き物の統治者にされた。アダムが、天の神に忠誠をつくしていたかぎり、自然全体は彼に従っていた。ところが、彼が神の律法にそむいたとき、下等の被造物は、彼の統治にそむいた。こうして、主は、その大きな慈悲をもって、神の律法の神聖さを人間に示し、彼ら自身の体験によって、ささいなことにおいても、律法の無視がどんなに危険であるかを悟るようにされた。

 このとき以来、艱難辛苦の生活が人間の運命になったが、これは愛のゆえに定められたものであった。これは罪の結果、人間に必要となった訓練であって、食欲と情欲の放縦を防ぎ、克己の習慣を発達させるためであった。これは、罪の滅びと堕落から人間を回復する神の大計画の一部であった。(人類のあけぼの上巻47~49)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自然の教え

「しかし獣に問うてみよ、それはあなたに教える。空の鳥に問うてみよ、それはあなたに告げる。あるいは地の草や木に問うてみよ、彼らはあなたに教える。海の魚もまたあなたに示す。これらすべてのもののうち、いずれか主の手がこれをなしたことを知らぬ者があろうか。」(ヨブ12:7~9)

 

 地は罪ののろいにそこなわれたとはいうものの、自然はなお人類の教科書となるべきであった。自然はもう恩恵だけを表わすことはできなくなった。いたるところに悪が存在し、地も海も空気もそのけがれた手にふれて毒されている。……

 しぼむ花に、散る木の葉に、アダムと妻は、衰えというもののきざしを初めてまのあたりに見た。すべての生物はやがて死ななければならないというきびしい事実が、彼らの心にはっきり迫ってきた。彼らの生命をささえている空気にさえ、死の種がひそんでいた。

 彼らはまた自分たちの失った支配権をたえず心に思い出した。人間よりも下級な被造物の中にあって、アダムは王としての立場にあった。彼が神に忠誠心を保っていた間は、自然界の万物は、彼の統治に従っていた。しかし彼が神の戒めにそむいたときに、この統治権は失われた。アダム自身によってこの世界にもたらされた反抗心は、動物界にまでひろがった。……

 しかし人は自ら選んだ罪の結果の中に捨てられたままでおかれなかった。サタンに対する宣告の中には、救済の暗示が含まれていた。……この宣言は、アダムとエバにも聞こえるように告げられ、それは、彼らへの約束となった。彼らは、自分たちが経験しなければならないいばらやあざみのことや、労苦や悲哀のことや、土に帰らなければならないことなどを聞く前に、希望を与えずにはおかない約束の言葉をきかされた。サタンに屈服したために失われたすべてのものは、キリストによって再びとりもどされることができるようになった。(教育17,18)

 アダムの違反の後に、神はすべての開きつつあるつぼみと咲きつつある花を、あるいは自分たちの嗅覚を楽しませる香りを破壊することができた。呪いによって焦がされ、そこなわれた地上にあって、いばらやあざみ、とげや毒麦のうちに、我々は罪の宣告の法則を読みとることができるが、花の精密な色と香りのうちに、神がなお我々を愛され、神の慈悲は地球から完全に取り去られてはいないことを学ぶことができる。(SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ホワイト・コメント]1巻1085)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神と人の間に

「そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。」(ヘブル7:25)

 

 主は、忠実で真実を尽くしていたアダムに置いていた信頼を、堕落して不従順なアダムには置かれなかった。……天の報いは違反者には与えられなかった。

 アダムとエバの目は本当に開かれたが、何に対してであろうか。自分自身の恥と破滅を見るために、また彼らの保護をしていた天来の光の衣が、もうこれ以上保護手段として自分たちの身の周りにはないことに気づくためであった。裸は罪を犯した実であることを知るために彼らの目は開かれた。園で神のみ声を聞いた時、彼らは神から身を隠した。それは、彼らが堕落するまで知らなかったこと、すなわち神の非難を予想したからであった。……

 人の唯一安全な手段は神のみ言葉に完全に従うことであると神は宣言しておられた。わたしたちは悪い行動を取って、その結果もすべて経験すべきではない。こうすると不従順を通じて弱くなる。神のご計画は人にその働きすべてに対するはっきりとした視力を与えることであった。……

 人と神との間に協力がなければならなかったが、この計画はアダムが罪を犯すことによって大いに妨げられた。サタンはアダムが罪を犯すよう導いた。そして主はアダムが罪を犯した後は、罪を犯す前のようには彼と伝達されないのであった。

 アダムが堕落した後キリストはアダムの指導者となられた。キリストは人類を即刻の死から救うために、人類に対して神の代理として行動し、仲保の働きを引き受けられた。アダムとエバは自分たちの忠誠を再び回復するために猶予期間が与えられた。そして彼らの子孫はみなこの計画の中に含まれるのであった。(手紙 91、1900年)

 神の御子の贖いがなければ、神から人へ祝福や救いが伝わるのは不可能であった。神はご自分の律法をねたむほどに尊ばれた。この律法に対する違反は神と人の間を恐ろしいまでに引き離す原因となったのである。純潔なときはアダムに自分の造り主との直接で自由な、また幸福な交わりが与えられていた。しかし、罪を犯した後は、神はキリストと天使を通してのみ人間に伝達されるようになった。(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1879年1月30日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高くついた一つの過ち

「神は人を正しい者に造られたけれども、人は多くの計略を考え出した。」(伝道の書7:29)

 

 創世記は社会生活や個人の生涯について非常にはっきりとした報告をしているが盲目や耳が聞こえない、また身体障害や奇形、精神薄弱の子供が生まれたという記録はない。幼児や少年期また成人になったばかりの人々が自然死をしたという記録は一例もなく、病気で死んでいく男女の報告もない。創世記にある死亡記事は次のように記されている。 「アダムの生きた年は合わせて930歳であった。そして彼は死んだ。」 「セツの年は合わせて912歳であった。そして彼は死んだ。」 ……

 神は人に非常に卓越した活力を与えられたので堕落した習慣の結果人類にふりかかった数えきれないほどの病気によく耐え、六千年間続いてきた。六千年間続いているという事実は、神が創造の時に人に与えられた力と電気エネルギーがどれほどのものであるかを証拠だてるのに十分である。……もしもアダムが創造の時に、現在の人間が持っている活力の20倍の活力を与えられていなかった なら、自然の法則を犯し続けている現代の生活習慣では、人類は死に絶えていたであろう。……

 神は人類を現代のような弱々しい状態に創造されたのではなかった。この状態はみ摂理による働きではなく、人間のわざであって、間違った習慣や悪習によって、また神が人間の生活状況を支配するために作られた法則を犯すことによってもたらされているのである。(教会への証3巻138,139)

 神はご自身の栄光のために人間をお造りになった。テストと試練の後、人類家族は天の家族とひとつになるはずであった。もし彼らが神のすべての言葉に自らが従順であることを示すなら、人類を天国に住まわせるのが神の目的であった。(SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ホワイト・コメント]1巻1082)

 神の言葉にそむいて、禁じられた木の実を食べ、夫をも誘って律法を犯させることは、エバにとって、ささいなことのように思われた。ところが、彼らの罪は、不幸が潮流のようにこの世界に流れ込む門を開いたのである。誘惑のときの、誤った一歩がどんな恐ろしい結果をもたらすかをだれが知ることができよう。(人類のあけぼの上巻50)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長くはない

「さあ、わが民よ、あなたのへやにはいり、あなたのうしろの戸を閉じて、憤りの過ぎ去るまで、しばらく隠れよ。」(イザヤ26:20)

 

 嵐がひとまとめに、罪に眠っている世界を急に襲うときはそう遠くない。…地球が酔った人のようによろめき、天が震え、主の大いなる日が来る時、だれが立ち得ようか。彼らは恐れおののいて御前から逃れようとむなしい努力をしながら、あるものを見る。「見よ、彼は、雲に乗って来られる。すべての人の目が…彼を仰ぎ見るであろう」(黙示録1:7)。救われなかった者は、ロのきけないもの、すなわち自分たちの神に向って、激しい呪いの言葉を言う。「そして、山と岩とに向かって言った、『さあ、われわれをおおって、御座にいます方のみ顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ』」と(黙示録6:16)

 被造物は、その神に忠実であり、血迷った呼びかけに耳を貸すことはない。報いられなかった愛はいま憤りに変った。自分の罪をイエスに取り除いてもらおうとしなかった罪人は、隠れ場を求めてあちらこちらに走り、刈入れの時は過ぎ、夏はもはや終わった、しかし、われわれの魂はまだ救われないと叫ぶ。‥‥

 主の恵みをあざける者には小羊の憤りは非常に恐ろしいが、すべての主を受け入れた者には恵みと義と愛と祝福である。エジプト人にとっては、恐ろしい復讐的怒りをもった暗黒であった雲の柱は、神の民にとっては輝かしい火の柱であった。このことは、最後の時代の主の民にとっても同じなのである。主の十戒を守る者たちにとっての神の光と栄光は、信じない者たちにとっては暗黒である。彼らは生ける神の手に落ちることは恐ろしいことであると考える。ご自分に来る者を救う為に長く伸ばされた強いみ腕は、命をいただくために、主に来ない者すべて にとって主の判決を遂行するのに強いみ腕となる。恵みがまだ去りかねている間、招きの声がまだ聞かれる間、神は主に帰ることを許される。すべての魂を保護し、主の戒めを守る者を憤りの過ぎ去るまでかばうために確かな備えがなされている。(手紙137, 1890年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしたちが持つことのできる 最上の設計書

「祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。」(テトス2:13)

 

 わたしたちは再臨信徒である。わたしたちの主である救い主イエス・キリストの出現を待っており、それについて考えることが好きである。わたしたちは自分が信じてきた方を知っており、かの日のためにわたしたちの魂を主に委ねることを恐れない。わたしたちは再臨信徒であることを公言するのをまったく恥ずかしいとは思わない。

 わたしたちは、第四条の戒めである安息日を信じる。なぜならそう明確に記されているからである。そしてこれがわたしの宗教的な信仰の土台である。人間の会議による権威を受け入れない。むしろ、もっと以前の天の会議にまでさかのぼる。「主よ、あなたのみ言葉は天においてとこしえに堅く定まり」とある(詩篇119:89)。わたしたちは「主はこう言われる」という言葉を取る。これがわたしたちの立場である。「主はこう言われる」という言葉を持たない教理は、全世界の人に受け入れられるかもしれないが、そのことがその教理を真理とするわけではない。…もしわたしたちが天国への道を知りたいと望むならば、人間の作った学説や、仮説ではなく、聖書を学ばなければならない。……わたしたちは、わたしたちの信仰、セブンスデー・アドベンチスト主義を決して恥じたりはしない。なぜならば、これこそわたしたちが持つことのできる最上の設計書だからである。わたしたちは、わたしたちの主なる救い主、イエス・キリストの再臨を待っている。人々が、わたしたちの信仰を嘲り、ひやかしても、このことが、わたしたちを憤慨させたり、驚かすようであってはならない。こういったすべての示威行動は真理を誤りにすることもないし、誤りを真理にすることもないのである。わたしたちは神のみ言葉という土台の上に堅く、動かされることなく自分の立場を置くのである。 ……

 永遠の事実が心の目の前に据えられなければならない。世の魅力はそのあるがまま、すなわち全く益のないものと映るようになる。…わたしたちは、祝福された望みであるわたしたちの主なる救い主イエス・キリストの栄光の出現を待ち、望み、祈っている旅人であり、寄留者である。もしわたしたちがこのことを信じ、実際生活の中にあらわすなら、何という力強い活動がこの信仰と希望に吹き込まれ、互いに対する燃えるような愛が吹き込まれることだろう。‥…神の栄光のためにどれ程注意深い清い生活を送るようになり、……わたしたちと世の間に引か れる境界線をはっきりしたものにすることだろう。(原稿39,1893年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

絶えず続く準備

「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(マタイ24:44)

 

 わたしたちは、将来を見ることができないので、しばしば、そのことが不安と不幸との原因になる。しかし、わたしたちが神の慈愛を持っているという最も大きな証拠の一つは、主 が、明日の出来事を隠しておられるということである。わたしたちが明日を知らないということが、わたしたちを今日もっと用心深い者にし、また熱心な者とする。わたしたちは自分の前に何があるかを知らない。わたしたちが最善を尽して作った計画も、時に愚かで欠陥があるように思える。わたしたちは、「将来を知ることさえできたなら」と考える。しかし、神はご自分の子らがご自分を信頼し、神が導かれる所に行く用意をしていることを望んでおられる。わたしたちは主が天の雲に乗って、現われる正確な時を知らない。しかし主は、わたしたちにただ一つの安全は、絶えず準備していること、すなわち目を覚まし待っていることであると告げておられる。わたしたちの前に、1年あるいは5年、10年あろうとも、今日わたしたちは委ねられたものに忠実であるべきである。わたしたちは日毎の義務をその日こそ、最期の日であるかのように忠実に果すべきである。 わたしたちが怠けて待っているなら、神のみ心を行なっているとはいえない。神はすべての者に働きをお与えになった。そして主は各自が忠実に自分の分をなすことを期待しておられる。…かつてなかったほど罪、すなわち暗黒の力に対して抵抗しなければならない。時は、現代の真理を信じる者達が精力的に決定的にその分を果たすことを要求している。彼らは真理を言葉と行いによって示さなければならない。 救い主の再臨を長く待たねばならないように思えるならば、また悩みに打ちひしがれ、骨折りに疲れたならば、また終りの任務に耐えられないと感じ、戦いから放免されたいと思うならば、次のことを思い出しなさい。そして、次のことを覚えてすべてのつぶやきを抑制しなければならない。つまり、神はわたしたちを地上で嵐や争闘に遭遇し、クリスチャン品性を完成し、わたしたちの父なる神とわたしたちの兄であるキリストをもっとよく知り、そして、キリストに多くの魂を勝ち取ることによって、主のために働きをなすためにわたしたちを地上に残しておられるのである。そしてわたしたちは「よくやった、よい忠実な僕よ、あなたの主の喜びに入りなさい」 (マタイ25:23参照)という言葉を、喜びをもって聞くことができる。(レビュー・アンド・ヘラルド1881年10月26日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最終の決定の日

「また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。」(黙示録20:12)

 

 聖書は、「神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れたことを善悪ともにさばかれるからである」と宣言している(伝道12:14)。この事に関して、疑いの余地はない。…罪は父や母また妻や子供、そして友人には秘密にされ、否定され、覆い隠されるかもしれない。罪を犯した本人以外は誰もその悪事に対し、少しも疑いを心に抱かなくても、天の知的存在者たちの前にはあらわにされる。この上なく暗い夜の暗さも人を欺くあらゆる巧妙な秘密も、永遠なるお方の知識からその一つをも隠すことはできない。……

 主は、アダムとエバが禁断の木の実を取った時、それをご覧になった。罪を犯して彼らは御前から逃れ「自分たちを隠した」。しかし、神は彼らを御覧になった。彼らは主の目から自分の恥をおおい隠すことができなかった。カインが弟を殺した時、彼は自分の行為を否認することによって自分の犯罪を隠そうとした。しかし、主は「あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます」と言われた( 創世記4:10)。

 悔い改めず告白していないすべての罪は、記録の書に残っている。それは消し去られることがない。イエスの贖いの血による取り消しが裁きに先立って行われることはない。個人個人の徐々に蓄積された罪は完全な正確さをもって記される。そして神の律法の刺し通す光はすべての暗黒の秘密を裁く。彼らに対して神が要求される光と機会と知識に比例して、神の恵みの拒絶者たちに有罪の宣告がなされる。

 最終決定の日がわたしたちの前に迫っている。聖書は、生活と品性を形づくる完全な標準として神の律法を提示している。この戒めに対する従順の唯一で完全な模範は、神の御子、すなわち失われた人類の救い主の中に見られる。主には一点の不義もない。そしてわたしたちは主のみ足の跡に従うように命じられている。(レビュー・アンド・ヘラルド1888年3月27日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

恐れるな、神の子よ

「わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、『恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている』。」(黙示録1:17, 18)

 

 パトモス島に流されたヨハネは、「わたしはアルパであり、オメガである。初めであり、終りである」という声を聞いた(黙示録1:18英訳)。その声を聞いた時、ヨハネは驚いて死人のように倒れた。彼は神の栄光の光景に耐えることができなかった。しかし、一つの手がヨハネを起こした。そして、彼が覚えていた主の声を聞いた。彼は強くされ、主イエスと話すことに耐えることができた。散らされている神の民、すなわちある者は山の砦に、ある者は追放され、ある者は追跡され、ある者は迫害を受ける。神の残りの民も同様である。神の声が聞こえ、栄光の輝きが現れる時、悩みの時が去り、不純物が取り去られる時、彼らは、自分たちが自らの血潮で贖って下さった方のみ前にいることを知る。ちょうど流刑のヨハネに対してキリストがなされたように、主は、信仰とイエス・キリストのあかしのために、迫害の手を感じている主の民に対して、同様になさる。…… 彼らは迫害の嵐がうずまく大嵐によって岩の裂け目に追いやられたが、千歳の岩に隠れていた。そして山の砦や他の洞穴や隠れ場にいても、救い主はご自身の臨在と栄光をあらわされる。それはもうしばらくの間であって、主は必ず来られ、遅れることはない。主の目は、燃える炎のように、堅く閉ざされた地下牢の中をも見通し、隠れた者を捜し出される。彼らの名前が小羊の命の書に書かれてい るからである。救い主の目は、わたしたちの上にあり、わたしたちのまわりにあって、すべての困難に注意を払い、あらゆる危険を見分けられる。主の目が届かない所はない。キリストの同情が届かない主の民の悲しみや苦しみはない。

 神の子はイエス・キリストの至高の主権者としてのみ姿を初めて見るとき、恐れおののくであろう。彼は、主の聖なる御前に生きることはできないと思う。しかし、ヨハネに「恐れるな」という言葉が与えられたように彼にもみ言葉が与えられる。イエスはご自分の右手をヨハネにおかれた。主は彼の地上に倒れた体を起こされた。主はご自分の忠実な、またご自分を信頼する者に対してもそのようになさるのである。(原稿56, 1886年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主の完全さを着る

「そこで、子たちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、彼が現れる時に、確信を持ち、その来臨に際して、みまえに恥じいることがないためである。」(ヨハネ第一2:28)

 

イエスは罪のうちにではなく、罪から罪人を救い、そして真理を通して彼らを清めるためにこの世界に来られた。主がわたしたちにとって完全な救い主となられるために、わたしたちは信仰の個人的な行為によって、主との一致に入らなければならない。キリストは、わたしたちを選び、わたしたちは主を選んだ。この選びによってわたしたちは主と結合する。そしてこれからは、自分のために生きるのではなく、わたしたちのために死なれた主のために生きるようになる。この結合は、絶え間ない注意によってのみ維持できる。さもなければ、誘惑に陥り、誤った選択をする。なぜなら、わたしたちは自分が望めばいつでも別の主人を選択することができるからである。キリストとの結合はすべての行為と思いにおいて主を必ず選ぶことを意味する。… わたしたちは自分をキリストの家族の一員であると考えるべきである。そしてわたしたちは愛されている子供として主に従うべきである。神の家に養子になったならば、天父とわたしたちの親族をあがめないでおられようか。‥… わたしたちは自分の魂と敵の間に断固たる敵意を確立しなければならない。しかし、わたしたちは、聖霊の力と影響には、わたしたちの心を開かなければならない。わたしたちは、サタンの暗黒は閉め出し、天の光は流れ込むようにと望む。イエスのほんのかすかなささやきでもわたしたちの心を動かすほどに聖なる影響に敏感な者となりたい。…その時、わたしたちは神のみ旨を行なうことを喜び、キリストは天父と聖天使の前でわたしたちをご自分の内に宿る者として所有することがおできになる。 しかし、わたしたちは、自分の聖なることを誇らない。わたしたちがキリストのしみのない無限の純潔をもっとはっきりと見るとき、ダニエルが、主の栄光を見て「わが顔の輝きは恐ろしく変わった」と言ったようにわたしたちも感じるであろう(ダニエル10:8)。わたしたちはこのみじめな体が変化し、主の輝かしいからだに造られるまで、わたしには罪がない」と言うことはできない。しかし、イエスに従おうと絶えず望むならば、しみもしわも、そのたぐいのものがいっさいなくキリストにあって完全となり、主の義と完全を着て神の御座の前に立つという祝福された望みはわたしたちのものになる。(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1888年3月23日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

永遠の門口

「この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。『死は勝利にのまれてしまった』。」(コリント第一15:54, 55上句)

 

 この世界で愛する者を失っていく人々にとって、将来の不死の命を彼らの前に明らかにする神の約束を信じる信仰と希望は、なんと尊いものであろう。彼らの望みは、世界の目には見えていない将来の現実を確信する。キリストは初穂として死からよみがえられた。希望と信仰は、復活の朝、不死の命を着て出てくるという完全な信仰によって墓の暗い影を通るために魂を力づける。神のパラダイス、 そこは祝福された者の家郷である。そこでは、すべての顔から涙が全く拭い取られるのである。キリストが二度目に来られる時「信じる者たちの間で驚嘆される であろう」(テサロニケ第二1:10)。死は勝利にのまれ、もはや病気も悲しみも死もない。豊かな約束がわたしたちに与えられている。「命の木にあずかる特権を与えられ、また門を通って都に入るために、神の戒めを守る者たちは、幸いである」 (黙示録22:14英訳)。神を愛する者たちにとってこの約束は豊かで、慰めに満ちたものではないであろうか。(レビュー・アンド・ヘラルド1887年10月11日) イエスの復活は、主にあって眠っているすべての者の最後の復活の実例であった。救い主の復活されたお体、主のふるまい、主の話し方は主に従う者にとってはすべて見慣れたものであった。イエスにあって眠る者もそれに似た方法で再びよみがえる。わたしたちは弟子たちがイエスを知っていたように友を知る。この人の世では不具になり、病を負い、醜くかったかもしれないが、復活し、栄化されたからだにおいても彼らの各個人の独自性は正確に保たれる。イエスのみ顔から出る光によって揮いている顔の中に、わたしたちが愛する人の顔だちを認めるであろう。(SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ホワイト・コメント]6巻1092) 命の賦与者は、第一の復活において、ご自身が買い取られた所有物を集められる。そして、最後のラッパが響くその勝利の時まで、膨大な大軍が永遠の勝利へと現われるまで、すべての眠っている聖徒は安全に保たれ、神は一人一人の名前を覚えて大切な宝石のように守られる。(同上4巻1143)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたのための永遠の場所

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネ14:1-3)

 

 キリストが墓に横たわっておられた時、主の弟子たちはこれらの言葉を思い出した。彼らはこの言葉を何度も思い返しては泣いた。充分理解できなかったからである。信仰も希望も悲嘆にくれた弟子たちを慰めることがなかった。彼らはただ「またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう」というみ言葉を繰り返すことができるだけであった。… 聖なる律法に自分を従順に従わせるすべての者のために天の住居が用意される。人類家族がサタンの誘惑による言い訳をしないようにキリストは人間と一つになられた。神と一つであられた唯一のお方が人間とし て律法に生き、普通の労働者の慎ましい生活にまで下りてこられ、主のこの世の両親と共に、大工の仕事場で骨折りの仕事をされた。主の子供であると主張するすべての者に主が求められる生活を主は送られた。そして神は、ご自身ではなさろうとしない自己否定と服従を人間に要求されたというサタンの強力な議論を 断ち切られた。… イエスは、ご自分のみ足の跡に従う以上のことを人間にお求めにならない。主は天の主権者、栄光の王であられたが、わたしたちのために貧しくなられた。それは主の欠乏によって、わたしたちが富む者となるためであった。わたしたちに対する主の最後の言葉ともいうべきものは「あなたがたは、心を騒 がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」という言葉である。悲しみや心を騒がす代りに喜ぶべきである。わたしはあなたのために、この世に来た。今やここにおけるわたしの時は成就する。今からわたしは天に行く。あなたのためにわたしは、この世で熱心に働いた。将来においてはあなたのために更に重要な仕事においてもっと熱心に働くのである。わたしはあなたを救うためにこの世に来たのだ。わたしはわたしの父のみ国にあなたのための永遠の住まいを備えにいく。(手紙121,1897年) これらの言葉はわたしたちにとってなんという慰めであろう。キリストがいま天でしておられる働き、すなわちご自分の子供たちのために住まいを準備しておられることを考えなさい。主は、わたしたちがこの住居に住む準備をするように望んでおられる。(原稿28, 1901年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

み顔を仰ぎ見る

「御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。」(黙示録22:4)

 

 わたしたちは今、神の栄光を見ることはできない。しかし、ここで主を受け入れることによってのみ、だんだんと、主と顔と顔を合わせて見ることができるようになるのである。神はわたしたちが目をご自分に向け続けることを望んでおられる。そうすれば、わたしたちは、この世のことを見なくなるからである。わたしたちには誰ひとりとして神のみ顔を仰ぐことができるように準備することを遅らせるような時間はないのである。…… 神の小羊であるイエスを仰ぎ、主のみ足の跡に従うことによってのみ、あなたは神に会う備えをすることができる。主に従いなさい。そうすれば、いつの日かあなたは神の都の黄金の道を歩むであろう。あなたは王の服と冠をわきへ置いて、ご自身を人性でおおわれ、この世に来て罪を負われた主を見るであろう。これはわたしたちを高め、ご自分の栄光と主権者の権威の啓示をわたしたちに与えるためであった。もし、わたしたちが主によって型どられ、形成され、神のみ国にふさわしい者として用意するために自分を任せるならば、顔と顔を合わせて主を仰ぎ見るであろう。 神の奉仕に自分の生涯をささげる者は永遠にわたって神と共に生きるであろう。「神自ら人と共にいまして、彼らの神となられる」(黙示録21:3英文訳)のである。‥‥ 彼らは心をこの世で神にささげた。彼らは、心と知性をもって神に仕えた。それで今、神はご自分の名を彼らの額に押すことがおできになる。そして「夜は、もはやない。…主なる神が彼らを照らし、そして、彼らは世々限りなく支配する」(黙示録22:5)。彼らは、その場所に居場所を乞うて入るのではない。なぜならば、キリストは「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めから、あなたがたのために用意されているみ国を受け継ぎなさい」と彼らに言われるからである(マタイ25:34)。主は彼らを子供として受け入れられて「あなたの主人の喜びに入りなさい」と言われる。不死の冠が勝利者の額に被せられる。彼らは自分の冠を取り、イエスの足元に投げ出す。そして彼らの金の立琴をとって、小羊を賛美する歌の豊かな音楽で全天を満たす。その時「彼らは御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている」。(ユース・インストラクター1896年8月20日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さらに表されるべき奥義

「更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである。」(エペソ3:9)

 

 多くの人がパウロがここで述べている奥義を定義しようと努めた。しかし、それは多くのことを含んでおり、そして、わたしたちの神の愛と善またあわれみに関する観念は、いかにも限られている。霊的な事柄に関するわたしたちの知識は非常に委縮し、弱くなってしまっているので、わたしたちは光からより大きな光へと前進してこなかった。主はわたしたちの理解力を開いて多くの尊い事柄をお示しになることができなかった。わたしたちがこの世のことと、世俗のことを続けたことによって損失したものを考えて、謙遜にならなければならない。…… エデンで約束が与えられて以来、神はご自分の預言者を通して神の奥義を示して来られた。しかし、多くの奥義がまだあらわされないままになっている。人が真理だと認めていることすらが、またどれ程神秘であり、説明できていないことであろうか。神のみ摂理は、いかに理解されていないことであろうか。神の道徳的支配を信じる絶対的な信仰と信頼がどれほど必要なことか。「そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」(ローマ11:33)。

 わたしは今、神の奥義を理解するために、十分な霊的標準に達していない。しかし、わたしたちが天の家族の一員となるとき、これらの奥義は明らかにされる。 ‥…

 わたしたちが、永遠の奥義について知らされてきたことを取り入れもせず感謝もしないために、神が今は沈黙しておられる多くの事柄の説明がその時に明らかにされるであろう。摂理の方法がはっきりとし、キリストによる恵みの奥義が明らかにされる。人の心が今は掴むことのできず、理解するのが困難な事柄が説明される。わたしたちは解釈できないと思われた事柄に秩序を見出し、差し止められていたすべての事柄に知恵を見出し、分け与えられたすべての事柄に徳と恵みあふれるあわれみを見るであろう。真理は人の心に明らかにされ、暖味でなくなり、一貫して調和し、その輝きは継続する。心は喜びの歌を歌う。大争闘は永久に終わり、そしてすべての困難が解決される。(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1897年3月25日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神の愛の勝利

「主は王となられた。地は楽しみ、海に沿った多くの国々は喜べ。雲と暗やみとはそのまわりにあり、義と正とはそのみくらの基である。」(詩篇97:1,2)

 

 愛の律法は神の統治の土台である。天に受け入れられる唯一の奉仕は愛の奉仕である。神は、すべての人に意志の自由を許され、主のご品性を正しく知る能力とそれによって主を愛し、主の奉仕を選ぶ能力を人間に与えられた。被造物である者が神を礼拝する限り、彼らは全宇宙において調和を保っていた。神への愛が至上である間は、他に対する愛も豊かであった。神のご品性の写しである律法に対する罪がなかった時には、不協和音が天上の調和を破ることがなかった。 しかし、主の働きは、すべて神がご存知であり、永遠の昔から恵みの契約すなわち功なくして得た恩恵は神のみ心に存在していた。それは永遠の契約と呼ばれている。なぜなら救いの計画は人間の堕落の後に考え出されたのではなく、「長き世々にわたって、隠されていたが、今やあらわされ…もろもろの国人に告げ知らされた」ものであったからである(ローマ16:25, 26) 天で統治しておられる神の前には過去と未来の奥義は同じ様に広がっている。神は、罪がもたらした悲しみと暗黒と破壊のむこうにご自分の目的である愛と祝福の完成をご覧になる。雲と暗黒は主のまわりを取り囲んでいても、義と正義とは主のみ座の土台である。 …… 救いの計画を通して、人間の救いと地の贖い以上のより大きな目的が、成就されるのである。キリストにおいて神のご品性があらわれることによって、聖なる統治の恩恵が、全宇宙に表わされ、サタンの非難の不当が明らかにされ、罪の性質と結果が明らかになり、律法の永遠性が完全に証明される。(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1893年2月13日)

 そのとき、罪の根絶は、神のみこころを行うことをよころび、心に律法をしるされている人々の宇宙の前で、神の愛を立証し、神の栄を確立するのである。(各時代の希望下巻292)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神のご目的の成就

「それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。」(エペソ3:10, 11)

 

 キリストが地上に来られたのは、人間の贖いを成就するためばかりではなかったことをわたしたちは考えるべきである。神の律法が本来受けるべき尊敬を、この小さな世界の住民が神の律法を認めるだけではなく、神の律法が不変であり、罪の支払う報酬は死であるということを、全世界に実証するためであった。 この主題には、わたしたちが理解しているよりも大きなことがある。すべての者が聖書を注意深く勉強することの大切さを知ることができたら!多くの人は、この世界と、天の住まいとが、神の宇宙を構成しているという考えを持っているようであるが、そうではない。贖われた群は、世界から世界へと及ぶのである。そして、彼らの時間の多くは、贖いの奥義の研究に当てられる。そして、永遠の広がりを通して、この主題は絶えず彼らの心に明らかにされていく。小羊の血によって勝利する者の特権と彼らのあかしの言葉は、理解を越えたものである。 わたしたちは、一人一人、堕落した敵と戦わねばならない。…自己に勝利を得ることにより直ちに戦いを始めなさい。悪魔に場所を与えてはならない。‥‥あなたの影響力をキリストの側におきなさい。カルバリーの十字架を見るとき、あなたは神の愛 と神の救おうとするみ心を疑うことはできない。主は、主に天の誉れを与える諸世界につぐ諸世界を持っておられる。そして、天と全宇宙には、主がこの世界を滅びるまま放っておかれたとしても、なお、喜びはあったかもしれないが、しかし、この堕落した人類に対する神の愛は非常に大きいものであったので、神は彼らが永遠の死から救われるために、ご自身の愛される御子を与えられたのであった。わたしたちは神がわたしたちを大切にし、愛しておられるのを見るとき、それに応えよう。主の戦いを雄々しく戦って、わたしたちの存在がもつ力をすべてイエスに与えよう。わたしたちは自分の魂を失うことはできない。わたしたちは神に対抗して罪を犯すことはできない。命、栄光の王国における永遠の命は、あらゆるものよりも価値がある。(レビュー・アンド・ヘラルド1886年3月6日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼の前に置かれている喜び

「彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」(へブル12:2)

 

 地上におけるキリストの働きは失われた者を捜し、救うことであった。血のバプテスマが最初に受け入れられねばならず、世の罪の重みが主の純潔な魂の上に積み上げられなければならず、言い表わせない苦悩の影がいつも主をおおってはいたが、主は目の前に常にご自分の使命の結果を御覧になった。ご自分の前に置かれている喜びのゆえに主は十字架を忍び、辱めに耐えられた。主はすべての罪人が救われ、高められ、高貴にされて主のみ座の前に主と共にいることができるようにこれらのすべてに耐えられた。キリストは天の真理の創始者である。 主は死ぬべき人間でははかり知ることのできない神の愛の思いの高さと深さ、また長さと広さ、そして完全を知っておられた。主は、罪人が天の光を拒絶する時、彼らは祝福を拒んでいるのであって、天の真理を拒む魂の上には恐怖がおとずれるのを知っておられた。……キリストのみが神に反逆する者が、受け入れるのを拒む栄光の非常な重みが何を意味するかを知っておられた。…… 人は罪で汚されているので、彼らが心に抱いている悪の憎むべき性質を充分に認めることができない。罪のゆえに天の主権者であられる方が打たれ、神にたたかれ、苦しめられた。わたしたちが滅びないで、永遠の命を得るために、わたしたちの聖なる身代わりであられる方は自ら進んで、ご自分の魂を正義の剣の前に出された。キリストは「命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである」(ヨハネ10:17, 18)と言われた。……地上の誰も、また天のみ使も罪の刑罰を払うことはできなかった。イエスは反逆した人間を救うことのできる唯一のお方であった。(レビュー・アンド・ヘラルド1892年12月20日) イエスの前におかれた喜びは、ご自分の栄光と誉れ、また富とご自身の命を犠牲にすることにより、贖われた魂をご覧になることであった。人間の救いが主の喜びであった。贖われた者がすべて神のみ国に集められる時、主は、ご自分の魂の労苦の結果を見て満足される。(教会への証2巻686)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キリストの労苦の結果

「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。」(イザヤ53:11)

 

 骨折りと犠牲のご生涯の間、神の御子を支えたものは何であったか。キリストはご自分の魂の労苦の結果をご覧になって満足された。キリストは永遠をご覧になり、ご自身の屈辱を通してゆるしと永遠のいのちを受けた人々の幸福をご覧になった。キリストの耳はあがなわれた者たちの歓喜の叫びを聞き取られた。主はあがなわれた人々がモーセと小羊の歌をうたっているのをお聞きになった。(患難から栄光へ下巻310) 「神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。この世でのキリストの生活の一瞬一瞬に、神はご自分の賜物を繰り返しお与えになった。罪のない方であるキリストは罪人のために無限の犠牲を払っておられた。それは罪人が救われる為であった。主は悲しみの人で、病いを知っている人として来られた。そして主が救う為に来られた者たちは「、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだ」と思った。主があたかも罪人であるかのように苦しみの杯が主の手におかれた。そして、主はそれを一滴も残さず飲み尽された。主は最後まで世の罪を負われた。…だれもカルバリーの十字架で表わされた愛の深さを理 解することも、測ることもできない。… 忍ばれた苦しみの激しい痛み一つ一つに、わたしたちは父の愛の苦闘を見る。父ご自身が罪に滅びつつある世のために、ご自身の全能の愛の偉大さのうちに苦しい働きをなされた。払われた犠牲によって永遠の命という賜物はアダムのすべてのむすこ、娘の手が届くところにおかれた。(手紙100,1911年) キリストに贖われた者は主の宝石であり、主の尊い、特別 な宝である。「彼らは冠の玉のよう」であり、「聖徒たちが継ぐべき、栄光の富」である(ゼカリヤ9:16, エペソ1:18)。彼らを見て「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。」キリストはご自分の民が純潔で完全であるのを御覧になる。それはキリストの苦しみ、謙遜、そして愛とその栄光の補足の報いであって、キリストが偉大なる中心であり、すべての栄光が輝き出ている方なのである。(レビュー・アンド・ヘラルド1908年10月22日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしたちの前にある永遠

「彼らは力から力に進み、シオンにおいて神々の神にまみえるでしょう。」(詩篇84:7)

 

 全天は強い関心を持って、神の戒めを守る民であると主張する人々を見つめている。ここに、神の豊かなみ約束をすべて要求できるようになっていなければならない人々、栄光から栄光へと、力から力へと進んで行くべき人々、彼らのなす働きの中で神の栄光を反映する立場にあるべき人々がいる。‥‥‥

 わたしたちは神の豊かな祝福を受けてきた。しかし、わたしたちはここで止まってはならない。わたしたちは天からの光の聖なる光線をもっともっととらえるべきである。わたしたちは光を受けて、その栄光の中で、他の人の道にその光を反映できるところにだけ立つべきである。……

 わたしたちは命の泉をもっともっと深く、飲む必要がある。……あなたは「主がわたしの魂のためになされたことを聞け」という生きたあかしを伝えることができる。主はもっと大きな祝福を与えようとしておられる。主はご自分の恵みがすべてモーセの前を通ることを許された。主はご自身の品性を、あわれみに満ちた神として、すなわち怒ることおそく、恵みあり、悪ととがと罪をゆるす神として宣言された。モーセはイスラエルの民にこのご品性を示すのであった。そして、わたしたちも同じ様にするべきである。わたしたちは人々の前に、神の恵み深いことを知らせ、主の本当のご品性を人々に告げるために出て行くべきである。わたしたちは主の栄光を反映すべきである。…モーセが霊と生活両方においてイスラエルに示したように、人々に神のご品性を明言すべきである。わたしたちは同情と愛にあふれた主のみ顔の光をとらえ、それを、滅びつつある魂に反映しなければならない。 わたしは、あなたがたに、神を追い求め、生ける水の泉から飲みつづけるように懇願する。あなたがたは、水のほとりに植えられて、決して葉が枯れることのない木のようになるであろう。あなたがたは充分な水分を貯えて他を生き返らせ、彼らに恵みと慰めを与えることができるようになるであろう。わたしは今、イエスを愛している。わたしは、さらに、さらに主を知りたいと願っている。わたしは主を知り始めたばかりである。しかし、わたしたちの前には、永遠という時があり、その長きにわたって主の栄光は現われようとしている。そしてわたしたちは、わたしたちの天の主をますます知るようになるのである。(レビュー・アンド・ヘラルド1889年2月26日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ついに、ふるさとに

「父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。」(ヨハネ17:24上句)

 

 神の愛は測ることも、比較することもできない。それは無限である。‥…わたしたちがキリストの尊厳と栄光を瞑想するとき、わたしたちは失われた世界を贖うためにカルバリーの十字架の上であのような犠牲を払わせた愛がどれほど偉大なものであったかを知る。この主題は永遠にわたって聖徒を感嘆と驚きで満たすであろう。それなのに、なぜ、わたしたちはこの世界でそれを瞑想しないのであろうか。…… 神が肉において現れた。なんという信心の奥義であろう。わたしたちが理解しようとすればするほどこの奥義は増大する。それは理解を越えている。 死ぬべき人間がイエスとその比類のない愛を理解することは不可能である。‥… わたしたちは、どうしてこの世のささいなことにひたれるだろうか。この光景、すなわち神のひとり子の死に表されている愛であるカルバリーの十字架に心を打たれずにおられようか。‥… この謙遜と苦悩は、さまよい、罪を犯し、感謝しないすべての者をみ父の家に連れかえるために忍ばれたものである。祝福された者のふるさと―わたしは、それを絶対に失うことはできない。神のみ国に救われたなら、わたしは、救いの計画の新しい深さを絶えず理解するようになるであろう。贖わ れた聖徒は、皆天父と御子の愛を今までにないほど知り、感謝して、不死の唇から、賛美の歌がほとばしり出るであろう。主はわたしたちを愛し、わたしたちのためにご自分の命を与えて下さった。栄化された体と、増大した能力、また清くされた心と清められた唇をもって、贖われた愛の豊かさを賛美する。天では苦しむ者はなく、永遠の事柄の現実を確信させるためにわたしたちが苦労しなければならない懐疑論者もいない。根絶しなければならない偏見もない。すべての者は理解を越えた愛に対して感じやすい者となる。神に感謝することには、安息、神 の民のための安息がある。そこでは、イエスが贖われた者を緑の牧場に導かれ、神の都に喜びをもたらす生ける水の流れのほとりで神の民は休む。その時、天父に対するイエスの「あなたがわたしに賜った人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい」という祈りは答えられるのである。(手紙27, 1890年)

 

カルバリーのお方を高める

「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、『「わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである」とわたしが言ったのは、この人のことである』。」(ヨハネ1:14,15)

 

 わたしはあなたにカルバリーの十字架を示す。わたしはあなたに、イエス・キリストを信じる信仰によって、あなたが滅びないで永遠の命を得るようにと捧げられた無限の犠牲を考えるように願う。……わたしはあなたにイエスを指し示す。あなたは、あなたの心の奥底で働いでくださる主にゆだねる時安全である。主イエスは、無限の値をもってあなたを買い取られた。あなたは、あなたの魂をイエスにゆだねて守っていただくことができる。あなたは、主をあなたの勧告者として寄り頼むことができる。……絶えず神に近づきなさい。主はあなたを助けられる。

 すべての光の源であるお方からあなたの光を受けるようにしなさい。主は、天の宇宙の偉大なる中心的な光であり、また、世の偉大なる光である。主は、この世に生まれたすべての者に光を注がれる。安易な低い標準に留まってはならない。キリストの柔和を養いなさい。最高の到達点に達しなさい。そしてイエス・キリストから霊感を受けなさい。主はあなたの友である。あなたはいつも、主に寄り頼み、主が忠実であり、真実であることを知ることができる。あなたが、この上ない困難なことに傷つき、いためつけられて主の同情を必要とする時、主は、あなたのかたわらを通り過ぎることはない。あなたは子供のように単純に主のところに来ることができる。あなたは喜びと楽しみをもって主に来ることができる。あなたは希望どおりのもの、また、主にある働きに伴ったすべての成功をもって主を見上げ、すべての誉れを主の足元に置きなさい。すべてのことはあなたの心の謙遜な歩みにかかっている。イエスの名をあなたの旗に書き、あなたの軍旗の名誉を汚してはいけない。

 キリスト・イエスのうちに、全天がわたしたちに与えられた。……主に心にある最上のものと最も聖なる奉仕を捧げることによってイエスをあがめなさい。主は、ご自分の命をあなたのために与えてくださった。これをなされた主とはだれであろうか。神のひとり子であり、世の初めから父と共におられた方がその方である。

 あなたの旗を立て、もっと高く掲げなさい。決して旗を地のほこりの中に引きずってはならない。イエスを高めなさい。主をあがめ、カルバリーの人を高く、さらに高く掲げなさい。(手紙147,1896年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

光を放つ時は今

「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。」(イザヤ60:1)

 

 わたしたちは今こそ立って光を放つ必要がある。なぜならわたしたちの光が臨み、主の栄光がわたしたちの上にのぼったからである。わたしたちは自分のことを話す時間はなく、さわられると縮んでしまうようなオジギソウのようになる時でもない。イエス・キリストの中にわたしたちの力がある。わたしたちは信仰を語るだろうか。すべての魂のために用意されている栄光の望みと、イエス・キリストの、完全で豊かな義について語るだろうか。……

 神の戒めを守る忠実な人々を、全天が関心を持って眺め、彼らのために神の愛が行使されている。わたしたちが寄り頼まなければならない方は神である。……神は世界をそのみ手に持っておられる。神は、わたしたちの側におられる。全天は、わたしたちの協力を待ちこがれている。主は最高のお方である。それではなぜわたしたちは恐れることがあろうか。主は全能であられる。わたしたちはなぜおののくことがあろうか。過去に神はご自分の民を導き出された。もしわたしたちが神の力によって立ち上がり、前進するなら、主はわたしたちの助け手となられる。

 聖書、そして聖書のみがわたしたちの砦であるべきである。神はみ言葉の中におられる。「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する」。この言葉は、わたしたちにとって十分である。「義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う」(イザヤ53:11)。もし、救われた魂のうちに神が果たされた使命の結果を、神の偉大で、愛にあふれたみ心が喜ばれるなら、わたしたちも喜ぼうではないか。わたしたちは今までになく働こう。自我はわきへおいて、信仰によってイエス・キリストをつかもう。主を万人のかしらであり、本当に麗しい方として世にあらわそうではないか。

 「その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、大声で叫んで言った、『救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる』」(黙示録7:9,10)。(手紙138, 1897年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

暗黒の中にある世のための光

「見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る。」(イザヤ 60:2, 3)

 

 暗黒が地をおおい、濃い暗黒が人々を覆っている。そしてわたしたちは、真理と義の道にわたしたちを導かれる天の教師の出現をどれほど熱心に待ち望むべきであろう。神はすでにいろいろな時に、さまざまの場所で、違った方法で人間に語ってこられた。しかし世の無知は増大している。わたしたちは神の知識を人々に伝えるために真理に関してもっとはっきりとした言葉で語らなければならない。クリスチャンと世的な人々の相違が、ますます明確にされなければならない。聖書はわたしたちの間でもっと特別な本にならなければならず、労を惜しまない努 力により、注意深く勤勉な研究者は隠された宝を探しださねばならない。人間の格言や誤った教理は、神の言葉の解釈者であると公言する者が勧めても捨てなければならない。なぜなら、それらは真理を覆い隠そうとするからである。……

 預言者が来るべきメシヤとして預言していた主イエスにユダヤ人は背いた。彼らは廃止された型の本体を見ることができなかった。神の律法を無効にし、真理を嫌って離れることにより、クリスチャン世界はキリストに背き、これまで天に起源をもつ真理を見つめることが習慣になっていなかったことを明らかにしたのである。暗黒は葬式の棺おおいのようになり、全地を覆っている。今は信仰が弱ったり、病弱になったりするような時ではない。世が神の教会を転向させるようなことがあってはならない。光を持っている者は、今こそ起きて、光を放ちなさい。 ……

 わたしたちの主であり、救い主であられるイエス・キリストの出現を待ち望んでいる者は、神よりも快楽を愛する者、またゲームや放縦なパーティーのうちに娯楽を求める者と交わることはできない。忠実な見張り人として、彼らは「朝がきます、夜もまたきます」と警告を発しなければならない(イザヤ21:12)。(手紙 84, 1895年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

聖なる力のみ約束

「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう。」(使徒行伝1:8)

 

 ぺンテコステの日に、無限なるお方は教会にご自身の力をあらわされた。主は聖霊によって、弟子達の集まっていた部屋に力強い突風のように天の高みから下ってこられた。悔い改めの言葉と罪の告白が、罪の許しに対する賛美の歌に交じった。感謝と預言の言葉が聞かれた。全天は低く身を屈めて、比類のない知恵と理解を越えた愛を見つめ、あがめた。

 使徒たちや弟子たちは驚きにわれを忘れて「ここに愛がある」と叫んだ。彼らは与えられた賜物をつかんだのである。彼らは、慈悲心で一杯になり、非常に深く、また及びもつかないほどに満たされて、そのために地の果てにまであかしをするために出て行かないではおれなかった。神は、わたしたちの主イエス·キリストの十字架の他には何も誇ってはならないと言われる。彼らは救われるべき人々が教会に加わるのを強く望む気持ちで満たされた。御霊の力に満たされて弟子たちが福音を宣べ伝えるために出ていったように、今日の神の民も出て行くべきである。わたしたちの周りはすべて、色づいて刈り入れを待っている畑である。これらの畑を刈り入れなければならない。誤謬と不信の暗黒の中で待っている者に恵みのメッセージを与えるという無我の願いに満たされて、わたしたちはこの働きにつくべきである。神は遠くかなたの地域にまでご自身の働きを進めて行くように信じる者の心を動かされ主なる神は、真理への服従によって清められる者すべてに、力と恵みを与えるという永遠の約束をしておられる。天と地においてすべての権威が与えられているイエス・キリストは、ご自分の器、すなわち「天から下ってき」た生けるパンを日毎に食する熱心な魂に同情をもって結びついておられる(ヨハネ6:33)。天上の教会に結ばれた地上の教会はすべてのことを達成することができる。(原稿62, 1902年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

危機の時にキリストを表す

「神はその聖所で恐るべく、イスラエルの神はその民に力と勢いとを与えられる。神はほむべきかな。」(詩篇68:35)

 

 今わたしたちは上からの力をいただくべき時である。サタンとその悪の連合は、すべて善に反対するためにたゆまない働きをしている。キリストの教訓と教えを無効にし、聖書の霊感に関して不信の種をまくために結ばれた連合がこれほど強いことはかつてなかった。… サタンは人間が光に反対し、また神の言葉に反対して、悪の同盟と連合を組む気持ちを起させようとして下から、力強く働いている。不信心や法王制、また、準法王制が、公言するキリスト教と、密接で強力な関係をもつようになる。霊感に関する低い見解や人からは賢いといわれる考えを高めることは、人間のタラントを天の知恵と方法の上に置くようになり、いわゆる科学を生き生きとした信心の力にまさるものだと考えるようになるのである。 これらは終末時代のしるしである。イエス・キリストを信じる者はだれでも、······イエスを誉めたたえ、また神のみ言葉を称賛し、あがめ、たたえるあかしをすることに声という自分のタラントを用いなさい。み言葉を信じ、聞き、行なう者の一貫した聖なる清い生活の中で福音はその力を明らかにする。あなたがたは決してキリストに見るべき姿がなく、威厳もなく、また、あなたの慕うべき美しさもないかのような印象を世に与えてはならない。キリストが「ことごとく麗しく」また「万人にぬきんで」ておられる方として、ありのままの姿を表わしなさい(雅歌 5:16, 10)。なんと主の栄光は、主に従うと告白する者によって、曇らされていることであろう。彼らは世のことに心を奪われ、不従順で、感謝もせず、そして、清くないからである。主イエスが後ろに押しやられていることはなんという恥ずべきことであろう。主の慈悲と寛容、また忍耐、比類のない愛はおおい隠され、そして主の誉れは、主に従うと公言する者の、強情さによって曇らされている。イエスを掲げなさい。イエスの愛を語り、主の力を人々に告げなさい。そして主のご品性という栄光と、カルバリーの十字架の偉大な力の背後に自己をなくしてしまいなさい。(手紙110,1893年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

魂の武具

「最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。」(エペソ 6:10)

 

 この言葉は、いつでも各時代において地上の神の民にあてはまるものであった。しかし、この終末時代の休みなく続く、最も強力で巧みな闇の力の働きに直面しなければならない残りの教会にはどれほどよく当てはまることだろうか。使徒の言葉は、今日まで鳴り響いている。「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、天上にいる悪の霊に対する戦いである」と(エペソ6:11, 12)。 神の霊感を受けたこれらの言葉は、わたしたちのためなのである。それらは、この世で光として輝き、曲がった強情な人々の間で神の戒めを守ろうと全力を尽くしている人々に特別な意味においてあてはまる。この時代は、偉大なる光を受けてきたわたしたちの青年にとって、なんと厳粛な、なんと恐ろしいほど厳粛な時代であろう。彼らの言葉と精神、そして品性が、彼らと交わる者たちを誤り導かせてはならない。…… 「神の武具を身につけなさい」 (エペソ6:13)。この言葉をあなたの指針としなさい。それを「身につけなさい」。聖書の中で、あなたに与えられているすべての武具は、あなたが身につけるために準備されたのである。「それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。す なわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当てを胸につけ」なさい(エペソ6:13, 14)。 小説やもっともらしい偽りの聖書解釈、また伝説などが、あらゆるところで、あなたが受け入れるようにと準備されている。しかし、帯が真理という金の鎖であるためには、すぐれた識別力が必要である。「正義の胸当てを胸につけ」-これはあなた自身のものではなく、キリストの義である。これが魂の武具である。わたしたちは、わたしたちの前に進むキリストの義によって、道徳的暗闇に立ち向かい、サタンの軍勢の策略を見抜くことができるのである。(手紙 60, 1893年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いよいよ明るさを増し

「正しい者の道は、夜明けの光のようだ、いよいよ輝きを増して真昼となる。」( 箴言4:18)

 

  各時代の教会の大きな誤りは、聖書の真理の理解にある程度到達するとそこで停止してしまうということである。彼らはそこに錨を降ろしてしまった。彼らは、「わたしたちには十分な光がある。これ以上は必要ない」と言って「前進すること」を止めてしまった。

 主は、主の民を愛されるので、真理の旗の下に彼らを、一歩一歩第三天使の使命まで導いて来られた。…この終末時代にわたしたちは、過去の時代の知識と経験という恩恵にあずかっている。神の人や聖徒、また殉教者は彼らの信仰を告白してきた。そして、彼らの経験と神に対する燃えるような熱心さに対する知識は、生きた権威のある言葉となって世界に伝えられている。…この受け継がれた委託物は、忠実な証人によって神の知識に輝かしい光を照らし、終りの時代に生きている者たちにその真理を明らかにする為に集められたのである。そして彼らがこの光を感謝しているあいだはより大きな光へと進んで行くのである。 …… すべての光の源であられるお方は、その光線に来てそれを吸収するようにとわたしたちをまだ招いておられる。光は、キリストに従う者が、その恩恵を受けることのできないようなところには置かれていない。光が世から取り除かれて、もはや存在しないということはなく、与えられた光を増進させるすべての人々の上に、もっと明るく、さらに豊かに輝く光が増し加わるのである。この終末時代の神の民は、光よりも、暗黒を選ぶようなことがあってはならない。彼らは光を求め、光を望むべきである。…光はますます、明るく、さらに明るい光線で輝き続け、イエスにあるそのままの真理をますますはっきりとあらわす。人の心と品性は、 それによって向上し、道徳的暗黒すなわちサタンが神の民の上にもたらそうとしているものは追い払われる。……わたしたちは、時の終末に近いので、もっと深い、もっとはっきりした識別力や神のみ言葉に対するもっと堅固な知識、また生きた経験と神の奉仕にささげられるべき心と生活の聖さが必要とされている。(原稿37, 1890年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主は再び来られる

「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。」(黙示録22:12)

 

 キリストは、この言葉を述べられた時、偽りの預言者であられただろうか。ヨハネが、この偉大な真理を聞いてから1800年以上が経過しており、そして主はまだ統治するためにおいでになっていない。しかし、わたしたちは、主の出現を待ち望むのをあきらめるべきであろうか。わたしたちは、「わたしの主は来るのが遅い」と言うのだろうか。(レビュー・アンド・ヘラルド1898年7月31日)「アダムから七代目にあたるエノクも彼らについて預言していった、『見よ、主は無数の聖徒達を率いて来られた』」(ユダ14)。……キリスト再臨の教理は、神と常に交わって歩いたこのごく初期の人物の時代にすでに知らされていた。この預言者の神に似た品性は、天に移されるのを待ち望んでいる神の民が、到達しなければならない聖なる状態を表わしている。

 わたしたちは、キリストの再臨が近いという教理に関して欺かれたと言えるのであろうか。わたしたちの主の再臨に人々を備えさせる働きがむだになったと言うべきであろうか。決してそんなことはない。……「わたしたちの信仰の告白を、動くことなくしっかりととらえていよう。…そして疑いや不信仰、また背教とを励むように互いに努め」るべきであろうか。否である。むしろ「愛と善行とを励むように互いに努め、…集会を止めることはしないで互いに励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか」である(ヘブル10:24, 25)。 聖書の知識を持たねばならない。そうすればわたしたちは、預言の言葉をたどっていくことができ、……そしてその日が近いことを知って熱心と努力を増し加え、わたしたちは互いに忠実になるように励ましあうことができる。わたしたちの信仰を捨てるのか、わたしたちの確信を失うのか、忍耐しないのか、否、否、このようなことを考えてはいけない。……預言が詳細にわたるまでいかに成就され、そして、今も成就しつつあるかを考えなさい。わたしたちの頭を上げて喜ぼう。救いが近いからである。この救いはわたしたちが初めに信じた時より近づいている。わたしたちは勇気と信仰に満たされて、忍耐して待つべきではなかろうか。最後の裁きの日に立つことができるように、人々を準備させないでおれようか。(レビュー・アンド・ヘラルド1898年7月31日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主はなぜ遅くしておられるのか

「愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」(ペテロ第二3:8, 9)

 

 1843年および、1844年以来働いてきたが、わたしたちの町々に警告するために必要であった伝道の働きをもっと充分に行う時間を与えて下さっていることをわたしは非常に感謝している。賢明なるわたしたちの天の父は、ご自分のひとり子を無限の犠牲とされた。この恵み深い賜物を通して、世がみ言葉、すなわち聖書の真理を受け入れ、主の再臨という偉大な出来事に備えることができるように神はわたしたちの世界にみ子をお与えになった。主の再臨を待って大失望した時、信じる教会を非常に悲しませる原因となったことが、遅延を感謝する理由と なっている。神のみ使たちは、今、真理がすべての国民に達するように道を備えているのである。町々に、小道に、また大通りに、警告の使命を聞くべき何千もの人々がいる。わたしたちは、目を覚ましているだろうか。警告を受けるべき世界のあることをわたしたちは理解しているだろうか。町々はどこも、勤勉に働きがなされるべきである。わたしたちは立ち上がって、偉大な働きをしなければならない。滅びつつある世界に対する最後の警告の使命を聞くべき多くの人々がいる。わたしたちは、時を遅らせてはならない。なぜならサタンは、魂を滅ぼそうと彼の全力をつくしているからである。わたしは、今、神のあわれみ深く怒ることのおそい忍耐のゆえに神を賛美する。メッセージが多くの国々に伝えられた。それは、世界的なメッセージである。わたしたちの町々に警告を与える熟心な働きがなされるべきである。わたしたちは、数多くの人々に光を送る機会を得てきた。彼らは真理を喜び、アメリカのあらゆるところで、衛生病院や、教会を建てるために時間と財産をささげた。学校が設立され、新しい地が開け、多くの人々が新しい国々に行った。ある場合、働きはゆっくりと進む。多くのところで、警告の最後のメッセージが伝えられていないのは聖霊が欠乏しているからである。…… 天使は、改心した男女が、この働きのために心と精神と魂を捧げる時、この働き をするために彼らをふさわししい者にしようと待っている。わたしたちには、むだにすごす時間はない。(原稿62,1896年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

品性があらわされる時

「彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。」(マタイ25:10)

 

 だれも、愚かな乙女の例にならってはならない。また、最後の時に立つことのできる品性を準備せずに、その危機が来るまで、待っていても大丈夫だと考えてはならない。客の名前が呼ばれ、そして調査される時になってから、キリストの義を求めても遅すぎる。キリストの義、すなわち小羊の婚宴の席に入るのにふさわしい礼服を着るべき時は、今である。たとえ話では、愚かなおとめは油を求めたが、彼らが求めたときにはそれを受けることができなかった者として表わされている。これは、危機の時に立つことのできる品性を発達させることによって準備をしてこなかった人々を象徴している。それはあたかも隣人のところに行って、あなたの品性をわたしに下さい、さもなければわたしは滅びますというようなものである。賢いおとめたちは消えかかった愚かなおとめのランプに油を分け与えることはできなかった。品性を譲ることはできない。売ったり買ったりできるものではない。品性は身につけるべきものである。主は、すべての人々にそれぞれ正しい品性を得る機会を与えておられる。……しかし、主は一人の人間が、自分で成長させた品性を他人に分け与えることができるような方法を用意してはおられない。 わたしたちの品性のあらゆる面が特別の誘惑によってあらわにされるその日は、近づいており、わたしたちの近くまで迫ってきている。原則に忠実で最後まで信仰を働かせる者は、彼らの恵みの時の終わる前に試みと試練のもとで、忠実であることをあらわし、キリストに似た品性を形成する者となる者たちである。主の知恵と恵みによって主の聖なる品性にあずかる者は、キリストをもっと密接に知るようになった者たちである。しかし、だれも他人に献身した心や高貴な精神を与え、他人の欠点を道徳的力で埋めたりすることはできない。(ユース・インストラク ター1896年1月16日) 「花婿を迎えに出なさい」と呼ばれたとき、愚かなおとめたちのように、自分のランプの器に油がないことに気がつくことのないように、誰も準備の日を延期してはならない。(同上1896年1月30日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目を覚ましなさい!

「だから、目をさましていなさい。いつ、家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないからである。あるいは急に帰ってきて、あなたがたの眠っているところを見つけるかも知れない。目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人々に言うのである。」(マルコ13:33-37)

 

 今は、わたしたちが霊的な目を一瞬の間もキリスト・イエスから離すことのできない時である。主は「よくよくあなたに言っておく、目を覚ましていなさい」とわたしたちに警告される。クリスチャンであると公言する者で、警告を必要としない者、また心の目を覚まし続ける必要のない者が一人でもいるであろうか。心はあらゆる努力によって、絶えず目を覚ましていなければならない。…… しのびよる敵に注意しなさい。自分でも気がつかないうちに現われる古い習慣や、生まれながらの性質に対して目を覚まして注意していなさい。この習慣や性質を強引に (後ろに)退け、見張って必要ならば何百回でも後ろに追いやりなさい。思いに注意し、計画に注意し、それらが利己的で自己中心的にならないようにしなさい。 誘惑に陥らないように目を覚まして祈りなさい。キリストがご自身の血で買い取られた魂を見守りなさい。彼らに善をなす機会を見逃さないようにしなさい。マリヤのように、決してわたしたちから取り去られることのない良い方を選んで主から学ぶためにイエスの足元に座る必要がある。わたしたちはマルタのように主の働きに満たされる必要がある。より高いクリスチャンの到達点は、心からの祈りのた めにひざまずくことによってのみ到達でき…利己主義という根のひげ根が一本でも魂のうちにあれば、予期しないときに芽を出してきて多くの人がそれによって損なわれるであろう。(手紙36, 1894年) わたしたちは、敵地にいる。天から追い出された者が大きな力をもって下ってきた。考えられるすべての策略と巧みをもって彼は魂をとりこにしようとしている。絶えず注意していないならば、わたしたちはたやすく彼の数知れない欺瞞の餌食になってしまう。わたしたちは留守をする主に主の家財と主の利益を託された家令である。主はご自分の財産である者 たちに奉仕をするためにこの世界に来られたのである。主は、管理をわたしたちに託して天に帰られた。そして主は、わたしたちが目を覚まして主の帰ってこられるのを待ち、準備するのを期待しておられる。主が突然帰られてわたしたちが眠っているのをご覧にならないように、わたしたちに委託されたことに忠実でいよう。(手紙5,1903年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

危機の日にしっかり立つこと

「万物の終りが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい。」(ペテロ第一4:7)

 

 時のしるしは万物の終わりが近いことを、わたしたちに告げている。成就された預言は、歴史上の事実となってきており、そしてわたしたちの立場をはっきりと示している。わたしたちは永遠の世界のすぐ手前に立っている。…わたしたちの主はご自分の民に不法が終りの時代にははびこること、真の信心を麻痺させる影響が及ぶことをあらかじめ警告された。わたしたちのまわりのあらゆるところでは悪が見られ、聞かれ、感じられる。それは、大気そのものにしみわたり、神の民であると告白する人々の信仰と愛に影響を及ぼすように思われる。しっかりとしたクリスチャンの高潔さを保つことが難しい。今日公然とまかり通っていることは、キリスト教はその存在そのものを迫害のなさに負っているという事実である。火のような試練のテストがくる時、信仰を告白している大部分の者は、彼らの宗教がうわべだけの形式主義であったということを示すであろう。 わたしたちが生きている時代は、危険な時代である。不注意や気まぐれ、また快楽に対する愛や利己的満足がクリスチャンと自称する本当に多くの人々の生活の中に見られる。今はセブンスデー・アドベンチストが信仰を失い、冷たくなり、形式主義になる時であろうか。神は、それを許されない。わたしたちが原則を堅く守ることによって、神がもっとも栄光をお受けになるという時に裏切り者になってよいものであろうか。わたしたちが、向こう岸に栄光を見ようかという今になって、天の引きつける力から離れるのであろうか。わたしたちは、地上歴史の最も重要な時に住んでいる。神に対する忠誠を保つことによって、わたしたちは、キリストと、真理に対するもっとも高貴なあかしをすることができる。 真のクリスチャンは、かつてない程しっかりと神のみ約束にすがりつく。彼の心は、自分が宝をたくわえてきた所、すなわち天にある。正しい原則が軽蔑され、捨てられる時、その時こそ、忠実さと忠誠さは彼らのこの上なくあつい熱心と深い愛を示すであろう。そしてまた彼らは真理に、それが人気のないものであってもこの上なく堅く立つであろう。……

 主は来ようとしておられる。わたしたちは終始変わらず確固としていよう。わたしたちの働きを、信仰の告白と調和するものとしよう。(レビュー・アンド・ヘラルド1881年11月29日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天の市民の資格

「命の木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都に入るために、彼の戒めを守るものたちは、幸いである。」(黙示録22:14英語訳)

 

 「人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」(ガラテヤ6:7)。わたしは今と永遠のために種をまきたい。わたしの心は義に飢えかわいている。わたしは自分の命をキリスト・イエスの内に隠したい。そうすれば、わたしのまいた種は正しい収穫をもたらすからである。わたしは自分自身に関して深く心を動かされる。なぜなら、毎日、わたしは自分の言葉と行動において、毒麦か麦のいずれかをまいているからである。わたしは現世かあるいは永遠のために種をまきたいと思っているのか。わたしは自分に割り当てられた時間の終り近くまで生きてきた。収 穫はどんなものであろうか。わたしは、いと高き方に穏やかにして、揺るぐことなく信頼していたい。わたしが義務の道に従っていた時、すばらしい方法で主が(愛情深く) 守ってくださることを経験してきた。わたしは充分に熟したとうもろこしの束のように墓に下っていきたい。わたしは心のうちにどんなつぶやきも抱きたくはない。ただ感謝の気持ちがあればよい。神の恵みと慈しみは忘れないで、非常に貴重なものとして心にとどめられるべきである。主の権威の証人としてわたしたちは主の聖なるみ名を高め、賛美する。わたしたちは聖なる山で主と共にいる。 時の一瞬一瞬が尊く、永遠の結果を伴っており貴重でまた重要である。わたしたちはソドムのリンゴのように嘲り、惑わす状況の世界にいる。主は、わたしたちの世界にある二心と二枚舌とをどのようにご覧になるだろうか。もし、わたしたちが天を見上げて厚い雲のかなたに義の太陽の輝く光線を見ることができないならば、わたしたちはがっかりしてしまうかもしれない。しかし、イエスは生きておられる。……

 キリストの学校の訓練は、教会をその愛する方の腕にすがらせる。主に贖われた者に、ついに、勝利を得て歌と永遠の喜びをたたえてシオンに来るであろう。天使の群は歌いながら、彼らのために喜ぶであろう。しかしわたしたちが市民である資格は何であろうか。「命の木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都に入るために、彼の戒めを守る者たちは、幸いである」。(原稿74, 1896年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

各時代の危機

「悲しいかな、その日は大いなる日であって、それに比べるべき日はない。それはヤコブの悩みの時である。しかし彼はそれから救い出される。」(エレミヤ30:7)

 

 時のしるしの成就は、主の日が近いという証拠を示している。…危機が徐々にわたしたちに忍び寄ってきている。太陽は天に輝き、いつものように巡っている。諸々の天はまだ神の栄光をあらわしている。人はまだ食べ、飲み、植え、建て、めとり、嫁ぎなどしている。商人はまだ売り買いなどしている。……快楽を愛する者はなお、劇場に競馬場にとばく場に群がっている。最高の興奮がみなぎっているが、恵みの期間はすみやかに閉じようとしている。そしてすべてのことが永遠に決定されようとしている。サタンは自分の時の短いのを知っている。彼は自分の手下をすべて働きに動員しているので恵みの時が終り、あわれみの扉が永遠に閉ざされるまで人は欺かれ、惑わされ、捕えられ、我を忘れる可能性がある。

 「かつてなかったほどの悩みの時」(ダニエル12:1)は、間もなくわたしたちの上に臨もうとしている。そして、一つの経験、すなわち多くの者が怠けて得ようとしない経験が必要とされるのである。今、わたしたちの大祭司がわたしたちのために贖罪の働きをしておられる間に、わたしたちはキリストにあって完全になるよう求めるべきである。わたしたちの救い主は一つの思いといえども、誘惑の力に屈することはなかった。サタンは自分が足場にすることのできる何らかの点を人間の心の中に見つける。ある罪深い欲望が大事にされている。それによって彼の誘惑はその力を発揮する。しかし、キリストは「この世の君が来る…。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない」と自ら宣言された(ヨハネ14:30)。サタンは、彼が勝利できるものを何も神の子の中に見つけることができなかった。主は天父の戒めを守られた。そして、サタンが利用できる罪が主にはなかった。これは悩みの時に立つ人々が到達しているはずの状態である。「われわれの神は来て、もだされない。…神はその民を裁くために、上なる天および地に呼ばわれる、『いけにえをもってわたしと契約を結んだわが聖徒をわたしのもとに集めよ』と」(詩篇 50:3-5)。(レビュー・アンド・ヘラルド1912年3月14日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

安全な隠れ家

「忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。」(黙示録3:10)

 

 神は、諸国民を裁かれる。…今日、今まで以上に神に対する侮辱が表わされている。人間は、彼らの罪の杯がほとんど一杯になっていることを示す、無礼と不従順の限界点に達している。…神の御霊は、地球から引き上げられつつある。あわれみの天使が、その翼をたたんで立ち去る時、サタンは長く待ち望んでいた邪悪な行為を実行するのである。嵐と暴風雨また戦争と流血-これらのことをサタンは喜び、このようにすることによって彼は自分の計画を完成するのである。そして人間は完全に彼に欺かれるので、これらの災害は週の第一日を冒涜した結果であると宣言するようになる。一般の教会の講壇から、日曜日が尊ばれねばならないほどに尊ばれていないので、この世界は罰を受けているのだという声明が出されるであろう。…… サタンは、真理を愛さないすべての者の心にかなう気持の良い作り話を持ち込む。怒りのこもった熱心さで彼は戒めを守る者を 訴える。……サタンは世界を自分のものだと主張する。しかし、彼のたくらみに抵抗し、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために熱心に戦う小さな群がある。サタンは戒めを守る人々を滅ぼそうと努める。しかし、神は彼らを守るやぐらである。神は敵に対抗して彼らのために旗を高く掲げられる。神は彼らにとって「風を避ける所」そして「疲れた地にある大きな岩の陰のよう」になられる (イザヤ32:2)。主は彼らに言われる、「さあ、わが民よ、あなたのヘやにはいり、あなたの後ろの戸を閉じて、憤りの過ぎ去るまで、しばらく隠れよ。見よ、主はそのおられる所を出て、地に住すむ者の不義を罰せられる。地はその上に流された血をあらわして、殺された者を、もはやおおうことがない」(イザヤ26:20, 21)。「主に贖われた者は帰ってきて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。彼らは楽しみと喜びとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る」(イザヤ35:10)。(レビュー・アンド・ヘラルド1901年9月17日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

報いの来る日

「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。」(マタイ25:29)

 

 もしタラントがうまく利用されるならば、その結果としてタラントは増大する。「持っている人は与えられる」。もし天が与えた賜物が、神のゆだねられた資本として評価されず利用されないならば、すなわち世的なことと、利己的なことに没頭するならばこれらの人を祝福できる力は減少する。そして天の神は、これらの尊い賜物すべての源として求められず、あがめられもしないので、神は辱められる。そして神は賜物の供給を絶たれるのである。わたしたちの主であり、救い主であられるイエス・キリストの知識を増し、成長するために、人間側の努力としてわたしたちは肉体的、知的力を使わなければならない。(レビュー・アンド・ヘラルド1887 年4月12日)

 自分のタラントを貯えてさびさせ、利用せず改善もしない者は、どんな方法にしてもそのような行動によって責任を逃れられると考えてはならない。なぜなら神は、わたしたちがキリストと共にくびきを負い、主の重荷を担い、日々主の柔和と謙遜を学んでいればなしうる善行に対して責任を負わせておられるからである。利息が埋もれたタラントの上にたまり続けるなら、その責任は減少するどころか、タラントの埋蔵が責任を増大させ、強める。

 報いの来る日はまさにわ目前にあるという厳粛な事実を考えなさい。わたしたちは日々、永遠の運命がどうなるかを決定しているのである。主人であられる方は、ご自分がゆだねたタラントを個人的に扱った一人一人を検査される。ああ、報いの来る厳粛な日、その日多くの者の顔は青ざめるであろう。その日「あなたがはかりで量られて、その量の足りないことがあらわれた」という言葉が多くの者に語られるであろう。会計簿がその大いなる日に開かれた時、「不足」していることがわかるということは、恐ろしいことである。……その日になされる決定によって、すべての魂の将来、永遠の事柄が定まる。わたしたちは、言い尽くせない喜びか、いいようのない苦痛と悲しみを持つかである。……イエスは、すべての真の働き人に報いようとしておられる。忠実になされたすべての義務は、主の祝福を受ける。そして主は、「よくやった」という祝福を仰せになる。(原稿13, 1895年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしたちの賜物を働きに

「しかし、ひとりびとり神からそれぞれの賜物をいただいていて、ある人はこうしており、他の人はそうしている。」(コリント第一7:7)

 

 神はご自分の家令には、金銭以上のものを与えられる。あなたに与えられているタラントは、賜物である。あなたは、神の賜物をどのように言葉や、やさしい同情で、伝えているだろうか。……真理の知識もタラントである。あなたの真実で忠実な言葉によって知識の光を与えられるはずの多くの魂が暗黒の中にいる。神から離れたために同情に飢えている人々がいる。あなたの同情は彼らを助けることができる。主はご自分の聖霊に導かれたあなたの言葉を必要とされている。……

 すべてのクリスチャンがなすべき最初の仕事はこの上なく熱心な祈りをもって聖書を調べることである。そうすれば彼らは、愛によって働く信仰を持ち、利己主義という縄目から魂を清める信仰を持つことができる。真理が心に受け入れられるなら、すべての力が、神の意志に従うようになって、よいパン種のように働く。そうする時、あなたは、太陽のように輝くことができる。……

 すべての生まれながらの賜物は、尊い天賦の才能として潔められるべきである。それらは神にささげられなければならない。そうすればそれらは主のために奉仕することができる。すべての社会的な利点もタラントである。……それらは、自己快楽や、あるいは、自己満足のために使われるべきではない。正しい模範という賜物は、偉大な事柄である。しかし多くの魂は、マラリヤのような雰囲気を周りにもたらす。……

 話すことや知識、また同情や愛という賜物は、キリストの知識を伝達する。これらの賜物はすべて神にささげられるべきである。主はそれらを必要とされ、それらを要求しておられる。すべての人は、自分のタラントを神に新たに捧げるために、自分自身の魂と他の人の魂を備えるための役割を果たすべきである。すべての魂と、すべての賜物は、神に捧げるものでなければならない。すべての者は、魂を救う働きにおい神と協力すべきである。あなたが持っているタラントは、あなたがキリストの有用な共労者となるために神からあなたに与えられたものである。同情に飢え渇き、神が、助けを彼らに与えるようにとあなたに与えて下さった助けと援助を求めて、弱り果てている心がある。(レビュー・アンド・ヘラルド補遺1898 年6月21日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

義の武器

「また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。」(ローマ6:13)

 

 主はあなたが使うためにタラントを与えて下さった。主が望まれるようにタラントを使うことによって、才能も知恵も、そして主の働きを理解するためのはっきりした霊的視力も増大する。あなたの心と目を覚ましていなければならない。あなたの耳は、主の最も細いささやきの声を聞くために開かれていなければならない。主が造られたあなたの膝は、祈りの時にひざまずくために用いられる。主はあなたの力である。信仰によって見えないお方をつかみなさい。主の戒めの道に従順に歩むために、福音の備えをしてあなたの足に靴を履きなさい。あなたの舌と声は、主のご生涯と教訓、また死と復活、そして昇天を伝えるために神から与えられたタラントである。あなたの肉体の力は「そう書かれている」という武器をもって敵に勝利するために、戦場で信仰の良い戦いを戦って、主に捧げられるべきである。あなたの同情心や活動力は神に属している。それらを用いて、あなたの救い主に栄光を帰しなさい。……

 あなたは一人ではないという思いを、養いなさい。あなたの歩みはすべて、主が見ておられる。あなたは夜も眠ることのない天使に取り囲まれている。……天使は、ヤコブに仕えたように、主の謙遜で悔い改めた者すべてに確かに仕えて下さる。……

 高く、より高く手を伸ばして、信仰の糸を次々とつかみなさい。神とあわれなしいたげられた者を愛して歩き、また働きなさい。そうすれば主は、あなたの助けとなられる。「また言われた、『よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう』。」(ヨハネ1:51)。尊い救い主であり神の御子であられるイエスは、天と地とを結びつけるはしごである。主の神性は、神のみ座をつかみ、主の人性は地に達している。主の人性のみ腕は、全人類を囲んでいる。イエス・キリストによって愛と慰め、また譴責と光における天使の奉仕はわたしたちに達している。主に感謝しよう。主は恵み深く、そのあわれみはとこしえに絶えることはない。(手紙152, 1896 年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主のご用のために

「大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり、そして、あるものは尊いことに用いられ、あるものは卑しいことに用いられる。 もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。」(テモテ第二2:20, 21)

 

 主はすべての人に、なすべき仕事を与えておられる。主は人の能力に応じて与えておられるので、委託されたものは人の才能に比例している。……

 だれも主のために用いるタラントが少ないと嘆いてはならない。……他の人が 何をしていようと関係なく、ゆるぎない忍耐力を持って働き、あなたの最善を尽くしなさい。「だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである」(ローマ14:12)。決して、あなたは「ああ、わたしの仕事は何という大きな仕事だ。この仕事やあの仕事だったら良かったのに」と思っても、言ってもいけない。あなたのいるところで、あなたの義務を行いなさい。あなたの働きが神のみ前に最も価値のあるその場所であなたに委ねられた賜物を用いて、最善を尽くしなさい。……他人のタラントを妬んではならない。なぜならば、妬んだからといって善を行い大きな働きをするためにあなたの能力が増すわけではないからである。あなたの賜物を柔和に謙遜に、より頼む信仰を持って用い、報いを受ける日まで続けなさい。そうすれば、悲しみや、恥を受けないですむであろう。……

 今日の義務を忠実に行わず、何か他の大きな奉仕をしようと熱望してはならない。平凡な責任を果たし、神があなたに与えて下さった力と思いをすべて正しく用いるためにあなたの責任が厳粛なものであることを考えて、慎ましいタラントを用いなさい。神は、最も高められた者にも、最も低い者にも同じように求められる。一人一人は、キリストの賜物のものさしにしたがって快くてきぱきと定められた働きをしなければならない。……神の教会は違った才能の人々から出来上がっている。色々な大きさの器のように、わたしたちは、主の家に置かれる。しかし、小 さな器には大きな器に入る量を求められることはない。すべての器は、その能力に従って満たされるだけのものを求められる。あなたの道にある義務を忠実に果たすならば、あなたは、受け入れられる僕であり、尊重される器となる。(レビュー・アンド・ヘラルド1888年5月1日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたがいるところで働きなさい

「そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。そこで、彼らは出かけて行った。」(マタイ20:4, 5)

 

 収穫の畑に入ろうとしている人々、そしてこの世の報いを求めない働き人になる人々がいるに違いない。次の世において彼らは豊かな報いを受けるであろう。自分たちのタラントを使わないでさびつかせている男女がいる。……彼らは、最も尊い仕事をすることができ、彼らがその丁度いるところで、その仕事を受け入れ、最善を尽くして働くために恵みに富み、能力を成長させることができる人たちなのである。彼らは、個人個人すなわち彼らの隣人たちを選び出して彼らに個人的な働きをすることができる。……

 主はわたしたちに委ねられたタラントをわたしたちがどのように使ったかを調べられる。主は、すべての魂が神と共に働く共労者として、心からの奉仕ができるように、主ご自身の血と、自己否定、また犠牲と苦難を払われたのである。すべての人が、委ねられたタラントを賜物として賢く用いることが、神に対する責任であると感じさえしたなら、なんという収穫がイエス・キリストを通して神にもたらされることであろう。一つのタラントは用いることによって、増大されるのである。最も低い賜物や最もつつましい奉仕と思えるものも、大きなタラントを持つ者には触れることのできない精神にふれ、そして心に感化を与えることができる。

 働くために最も良い時は、今、今、今である。個人訪問には大きな価値がある。イエス・キリストに対する愛と人間の魂に対する愛によって、真理がすべての家庭に伝えられ、あなたが入れてもらえる家庭の暖炉のそばでその真理が語られなければならない。……聖霊が働き人であることを考えなさい。神のために働く人間代理者は一人で働いているのではない。……

 忍耐と優しさ、また同情と、祈りそして愛を持って働く働きは説教以上のことをするであろう。罪の呪いから世を救うためにご自身の命を与えられた主イエスは、わたしたちの目がまだ見たこともないような偉大なことを計画されている。聖霊は、通路として働く者を持っておられる。……サタンはいつも勝利するわけではない。器が神の御霊を受ける準備が出来さえすれば、すぐ神の御霊は教会に注がれるであろう。(手紙171, 1897年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「小事に忠実」

「小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。」(ルカ16:10)

 

 神への活動的な奉仕は、人生の平凡な務めに、それがどれほど些細な仕事であっても、つながっている。わたしたちは神が置かれるその場所で神に仕えるべきである。わたしたちをそれぞれ異なった場所に配置するのは神であって、わたしたち自身ではない。恐らく家庭生活における奉仕は、しばらくの間のことかもしれない。わたしたちが主のために最善の奉仕をすることができる準備を、その時受けるのである。

 主は、品性建設に従事しているわたしたちの素質や特質がどのようなものであるかを知るために試し、また練っておられる。もしわたしたちが日ごとの細かい義務に無頓着で無関心であり、投げやりで不注意であるならば、わたしたちは決して神のために他のどのような奉仕にも適した者には、ならないであろう。…… 小事に不忠実な人はもっと高い地位で義務を担い、もっと大きい責任を与えられる時、必ずこの不忠実を繰り返すであろう。神への奉仕はでたらめな方法でなされるに違いない。……

 小さなことの重要さは、それが小さいために過小評価されている。しかし、良きにつけ悪しきにつけ小さなことの影響は大きいのである。それらのものは、すべての人の生活を実際的によく訓練するのである。それらのものは神のために用いるようにゆだねられたわたしたちのすべての才能の潔めにおいて魂の訓練の一部分となる。義務をなす時の小事に対する忠実は、神の奉仕に携わる働き人をよりいっそうキリストに似た者とする。

 わたしたちの救い主は、全人格を完成させる救い主である。主はその人格の一部分だけの神ではない。キリストの恵みは、人の全人格を訓練するために働く。主は、すべてをお造りになった。そして、すべてを贖われた。主は神のご性質にあずかるものである魂と同様に、精神と力と身体をお造りになった。そして、それらのすべては主が買い取られた主の財産である。精神と心、また魂と力すべてをもって、主に仕えなければならない。その時主は、その聖徒たちのなすどんなありふれた、一時的な事柄であっても、それによってあがめられるのである。彼らの上に「主に聖なる者」という名が記されるのである。(ユース・インストラクター1898 年4月14日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

怠け者に場所はない

「主の使は言った、『メロズをのろえ、激しくその民をのろえ、彼らはきて主を助けず、主を助けて勇士を攻めなかったからである』。」(士師記5:23)

 

 神に連なっているすべての者が、前に出て自分の旗を示す時は今ではなかろうか。助けが必要とされている時、男女は尻ごみし、関心も、熱心な努力も示さないでよいものだろうか。車が、泥にはまって動けなくなった時こそ皆が自動車に肩を当て、押すべきである。後に立って命令だけしていたり、車を押そうとしている者を責めたてたり、自分の方法や、自分の考えに従っていないからといって、彼らのしていることを批判するべきではない。……だれでも、全力を尽くして、重荷を動かすのに、自分にできる最善を尽くしなさい。

 もし、クリスチャンであると主張するある人たちが互いにしているように、主が、わたしたちを扱われるならば、わたしたちは、苦しい、困難な経験をするであろう。人々が、他人を見、そして、お互い同志でしあっているように、主が、利己的な者、過ちを犯した者、ねじけた者をご覧になられたならば、どんなことが、わたしたちに起こることだろうか。しかし、主が、人間であられないことをわたしは喜ぶ。主は、わたしたちのねじけた道、利己心、主からの分離、品性の欠点を我慢してくださり、主のみ前でわたしたちが正しい立場に立てるようにと、憐れみと励まし、また警告と譴責、そして、矯正のメッセージを次々と送って、わたしたちに知らせようとして下さる。こうしてわたしたちは、主の愛と主の保護、またわたしたちの上に留まる主の祝福をいただくことができるためである。……

 わたしたちは、各々主のためになすべき働きがある。わたしたちは、この働きをしようとしているであろうか。主のご目的を掲げ、主の働きを前進させるために無私で、献身的な関心を持って、働こうとしているだろうか。わたしは、主のみ心をなし、足なえが道からそれないように、また自分の足のために道を真っ直ぐにする決心をしている。かたわで、足なえの者がいる。……神の働きの知識や経験を持っていた者が、誰でも自らかたわになり、運ばれるようになることを神は禁じておられる。役立つ者となりなさい。天のみ心を行うことによって霊的に強くなりなさい。そうすればその時、かたわで、足なえの者を助けることができる。 ……

 わたしたちは祝福され、また、他人を祝福するために、決心と積極性を持って、聡明に、また真心から働こうではないか。(手紙30,1888年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

心から主に仕えなさい

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。 あなたがたが知っているとおり、あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなたがたは、主キリストに仕えているのである。」(コロサ イ3:23, 24)

 

 主は肉体的な強さを要求される。そしてあなたは、自分の肉体の力を正しく用いて、なされるべきその働きをすることによって主にあなたの愛を表すことができる。これほどに神に重んじられることはない。……

 最も些細な種類の働きにも科学がある。もしすべての者が、そのように考えるならば、彼らは骨折り仕事の中に尊いものを見ることであろう。心と魂がどのような種類の働きにも注がれるべきである。そのとき喜びと能率が生じる。農業や技術関係の職業において、人々は知的、肉体的な力を通して神の賜物を感謝していることをあかしすることができる。教育を受けた能力は働きの方法の各種の改善を工夫することに用いなさい。これこそ主が望んでおられることである。本当になされなければならない働きであるならば、どのようなものであってもそこには誉がある。……

 「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マルコ12:30)。神は、心の奉仕、魂の奉仕、肉体的力の奉仕に表される愛を求めておられる。わたしたちは、神に対するどのような種類の奉仕にあっても小人となってはならない。神がわたしたちに貸し与えられたものは何であろうと、神のために聡明に用いるべきである。……農業や建築、あるいは、他のいかなる分野であれ、最善の方法を考案するために、知的で、教育を受けた能力が必要である。それによって働き人は無駄に働かなくてもよくなる。……

 自分が引き受けて行う事柄に自分の力を与えるだけではなく、自分の心と知性を与えることは、すべての働き人の義務である。……あなたは、自分を訓練し、改善しようとしないために、誤った行為を繰り返し、型にはまった者になることを選ぶこともできるし、反対に最善の奉仕をするために、あなたの力を育成することもできる。そしてそうなれば、あなたはどこでも、またあらゆる所で自分が、人々から求められる者であることを知るであろう。あなたは、それだけの値打ちがあると、認められるであろう。「すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくしてなせ」(伝道9:10)。「熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え」なさい(ローマ12:11)。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイトコメント]5巻1112)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

互いに重荷を負い合いなさい

「ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、あなたがたのうち、だれかが、『安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい』と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。」(ヤコブ2:15, 16)

 

 助けを必要としている者や、苦しんでいる者に対する義務を怠る者は、主の聖徒の一人としてキリストに対する義務を怠っている。すべての人の審判が神の前で吟味される時、彼らが何を公言したかという質問はなされることは決してない。むしろ、彼らは何をしたかということが問われる。彼らは、み言葉を行うものであっただろうか。彼らは自分のために生活してきただろうか。あるいは、慈悲の心を持った働きや親切な行為、また自分よりも他人を愛する心で他人を祝福するために自分自身を否定することを実行してきたであろうか。もし、記録が、これが彼らの生活であったことを示すなら、彼らの品性には、やさしく、自己否定的で、情け深いことがあらわされており、彼らは、「よくやった」と、キリストから尊い祝福の言葉を受けるであろう。……

 わたしたちの霊的な力と祝福は、わたしたちがする愛の働きと善行に比例する。使徒は「互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう」と訓戒している(ガラテヤ6:2)。神の律法を守るということは、善行と自己否定、また自己犠牲と他人の善のために献身することをわたしたちに求める。わたしたちの善行だけが、わたしたちを救うのではない。けれども、善行なしには、救われないのである。わたしたちがなし得るすべてのことをなした後で、わたしたちはなすべき自分の義務を果たしただけで神の行為を受ける価値もない、ふつつかな僕です、と言うべきなのである。……キリストがわたしたちの義でなければならない。……

 わたしたちの周りにいるすべての者は、飢えた魂を持ち、言葉と行いに表される愛を切望している者たちである。親切な同情や他人に対する本当のやさしい思いやりの気持ちは、わたしたちが、今まで経験したこともない祝福をわたしたちに及ぼす。そして、わたしたちを救い主との親密な関係に導く。救い主がこの世においでになったのは、よい行いをなされるためであった。その方の生涯をわたしたちの手本とすべきである。わたしたちは、キリストのために何をしているであろうか。(レビュー・アンド・ヘラルド1886年7月13日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天国の美しい音楽

「すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。」(マタイ25:40)

 

 キリストは、あがなわれた人々に向かって、「『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』」と言われる(マタイ25:34-36)。……

 祈りや訓戒、また会話などは、しばしば低俗な実を結ぶ。しかし、助けを必要としている人、父のない子、やもめの世話をするなどのよい働きのうちに表す実は、真実の実であって、自然によい木に育っていく。……重荷を負い、失望したり、悲しんでいる人に同情し、助けを必要としている人に分け与え、裸の人に着せ、見知らぬ人をあなたの家の暖炉のそばに招き、心からもてなす時に、み使いたちは、あなたのそばに近寄り、天においては、その行為に報いる調べが奏でられる。正しい、あわれみのある、親切なすべての行為と行動は、天に美しい音楽を響かせる。ご自分のみ座から御父は、ご自分の最も尊い宝として彼らを見つめ、数えられる「。万軍の主は言われる、彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる」(マラキ3:17)。……

 わたしたちの天の父は、わたしたちの道に覆い隠した祝福を置かれる。そしてある者は自分の快楽が減ることを恐れてそれに触れようとしないであろう。天使たちは、わたしたちが自分の手の届く範囲にある良い行為をする機会をつかむのを見たいと―もしわたしたちが他の人に祝福を与えるなら天使たちはそれを見てわたしたちを祝福したいと待っている。主ご自身がわたしたちを異なった状態-ある者は貧しく、ある者は富み、ある者は悩みーにおかれたが、すべての者に品性を成長させる機会がある。貧しい者は、このようになるよう神によって目的をも って許されているのであって、わたしたちが自分の心の中にある者を試み、試し、育てることができるためである。(レビュー・アンド・ヘラルド1886年4月29日)

 助けを必要としている人や苦しむ人になされるすべてのあわれみ深い行為は、イエスご自身に対してされたように見なされる。あなたが貧しい人を助け、苦しんでいる人や虐げられている人に同情し、みなしごの友となる時、あなたは自分自身をイエスとより緊密な関係に置くのである。(同上)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

光と祝福の水路

「人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者であることを認め」(使徒行伝4:13)

 

 この世は、神の真理の美や魅力、また善良や神聖などを知ることができない。だから、人々がそれを理解することができるために、この世にそれを示すための水路となるものがなければならない。救い主は教会をその水路と定められた。 ……わたしたちが他の人々に主をあらわすことができるように、キリストはご自身をわたしたちにあらわされた。……

 もしクリスチャンであると主張する人々が、キリストのみ言葉に心を留めるなら彼らと接触するすべての人は、彼らがイエスと共にいて、この方から学んでいることを認めるであろう。……

 あがないの血に対する信仰は、わたしの魂を救うことができる。そしてヨハネと共に、わたしは、世の罪を取り除く神の小羊に対してすべての者の関心を呼び起こさなければならない。イエスは、わたしが何にもささげなかったにもかかわらず、わたしを救って下さった。わたしはただ「わたしの手には価値のあるものは何もありません。ただあなたの十字架におすがりするだけです」ということはできる。罪びとは全心で救い主を探求しなかったが、救い主が彼を見出してくださったのである。

 わたしたちは「わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い」(イザヤ44:22)。あなたの「多くの罪はゆるされている」(ルカ7:47)。ああ、神の愛という日光は何と尊く、生き返ったような気持ちにさせるのだろう。罪びとは自分の罪に汚れた人生を見て言う。「だれが、わたしたちを罪に定めるのか」それは死なれたキリストである(ローマ8:34)「律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」(ローマ5:20)。キリストは、魂に命の新しい原則を植えつける回復者であり、その 木は大きく育って、実を結ぶのである。キリストの恵みは許しと同時に清め、人々を聖なる天国にふさわしい者にする。わたしたちはキリストにある男女としての完全な背丈に達するまで、わたしたちの主イエス・キリストの恵みと知識のうちに成長すべきである。ああ、わたしたちすべては、神がわたしたちの前に置かれた高い標準に到達することができ、これ以上信仰生活において小人のままにとどまらずにいるならば!もしわたしたちが神の期待されるような光を伝える者となるなら、そのよい働きによって、この世に向かってどれほどの光がもたらされることであろう。(レビュー・アンド・ヘラルド1891年7月14日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キリストの招きをくりかえして言う

「御霊も花嫁も共に言った、『きたりませ』。また、聞く者も『きたりませ』と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。」(黙示録22:17)

 

 イエスは、……また聞く者も『来たりませ』と言いなさい……」と言われる。

 悔い改めた心を持つ人々は天からのメッセージを受け入れ、天使の言葉を語るであろう。これは神の招きを聞いたすべての者の仕事である。イエスはサマリヤ の女に対して仰せになったが、それはわたしたちすべての者に言われたのである。「『もしあなたが神の賜物のことを知り、また、「水を飲ませてくれ」と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう』。……しかし、……わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4:10-14)。

 イエス・キリストによって語られたこの言葉は、これを信じる人々によって繰り返されるべきである。真の信仰を持つ人々は、暗黒の中に住む人々に対して働くことによって、そのことを明らかにする。……彼らは警告や懇願の言葉を語り、この世の谷間の低い流れから渇きをいやされたいと求める人々に、レバノンの雪解け水を指し示すのである。神は働きを始めるために主の血染めの軍旗のもとに兵士として立つ人々を召しておられる。彼らが滅びゆく人々のところへ行くことができるように、主は、ご自分の使命者たちに、聖なる力をお与えになるであろう。(手紙84, 1895年)

 キリストは罪深い、苦しんでいる世界のために一つの泉を出された。そして「渇いている魂は、だれでもきて、飲みなさい」という、清い恵みのみ声が聞こえてくるのである。あなたは自由に命の水を飲むことができる。聞く者も「来たりませ」と言いなさい。そして求める者は、だれでも来させなさい。すべての魂が、男と同様に女もこのメッセージを広めなさい。その時、この働きは地上の不毛の地にまで届くのである。その日には主は谷間に泉を出し、「砂漠に川を流れさせ」そして「あなたがたは喜びをもって、救いの井戸から水をくむ」というみことばは成就するのである(イザヤ41:18参照, 43:19, 12:3)。(教会への証6巻86)

 一連の生きたあかしが、この世に神の招きを伝えるべきである。あなたはこの大いなる働きの中のあなたの分を果たしているだろうか?(文書伝道者18)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

無尽蔵の宝庫

「神の奥義なるキリストを知るに至るためである。キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。」(コロサイ2:2, 3)

 

 キリストは言われた「父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである」「わたしと父とは一つである」(ヨハネ16:15; 10:30)。「わたしもそれをあなたがたにゆだね」る(ルカ22:29)。主イエスは、神性の冠を頭にかぶられ、支配し統治するもののすべての安らぎと保証を手にされ、神の永遠のみ座に手をかけておられる。主は神の右に座し、神としての最高の栄誉をお受けになり、この世においでになる前に持っておられた栄光に包まれておられる。主はご自身の賜物を信仰によって求めるすべての人にお分けになる。……

 わたしたちは、わたしたちの救いの神のうちに、愛の大海、無尽蔵の宝庫を持っている、神はキリストのみ手にすべての天の財宝をゆだねられ、そして「これらのすべては人間のためであり、わたしの愛する罪を悔いる罪人のためである。 ……そして彼の幸福のためにわたしは働きつづけるであろう」と仰せになる。人間の幸福は、神と、そして神がおつかわしになった、イエス・キリストを知ることである。み言葉が肉体を取り、わたしたちの内に住まわれたのは、良きことに役立つすべてのものを入れる非常に大きい宝の家を作るためであった。主はご自分の血によってすべての賜物を注ぎかけてくださった。……イエスをわたしたちの世界へ送るというこの賜物は、神ご自身がなされる最高の恵みの提示である。…… しかし、一つのことが神にとって不可能である。それは、堕落した人間のために神の愛をあらわすご自分の愛の偉大な賜物を隠すことができないことである。

 もし父なる神が、わたしたちの世界へおいでになり、自らへりくだってわたしたちの間にお住みになり、ご自分の栄光をおおうことによって、人間が彼を見ることができたとしても、わたしたちの持っているキリストの生涯の歴史は変わらなかったであろう。……イエスのすべての行為に、彼の教えのあらゆる教訓に、わたしたちは神を見、聞き、認めるべきである。見えるものも、聞こえてくるものも、実際のところそれは天父のみ声であり行動である。

 しかし、言葉は、それを表現するのに本当に弱々しく思える。わたしは慎んでヨハネと共に「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか」と叫ぶ(ヨハネ第一3:1)。(手紙83, 1895年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キリストがわたしたちの伝えるべき使命

「なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」(コリント第一2:2)

 

 わたしたちの使命の重荷は、イエス・キリストのご生涯とその働きであるべきである。キリストの屈辱や自制、また柔和や謙遜を深く考えよう。そうすれば高慢で利己的な心は模範であられる方と自分たちの間の相違を知り、謙遜になることができるからである。……

 もし人間の言葉で表現することができるならば、神の子の屈辱を描写しなさい。主がみ父と共に持っておられた光と栄光の王座を、人類のために後にされた主を見る時、あなたはすべてを理解したなどと考えてはいけない。なぜなら主は天から地へ下ってこられ、地上におられる間、堕落した人類の保証人として神の呪いをお受けになった。彼には、このことをなさる義務はなかった。彼は人間が招いた神の怒りを負うことを選ばれた。……彼は残酷なあざけりや愚弄、またむち打ち、そして、十字架に耐えることをお選びになった。……「(キリストは) ……死に至るまで従順であられた」が、しかもその死が十字架の死であったために、その死の方法までが宇宙にとって驚きであった。

 キリストは、不名誉や恥に対して無感覚でおられたわけではなかった。彼はすべてのことを最も厳しく感じられた。ご自分がそのために苦しんだ罪深い人類の誰よりもキリストのご性質は純潔で、清く、高められていたので、わたしたちが苦しく感じるよりも、もっと深く、もっと鋭敏に不名誉や恥を感じられた。キリストは、天の王であられ、天父と同等であって、天の万軍の指揮官であられたにもかかわらず、人間のために死なれたのである。その上、その死は不名誉と恥辱を着せられたものであった。ああ、人々の傲慢な心がこのことを悟れたなら!彼らがあがないの意味を理解し、イエスの柔和と謙遜を学ぼうと願うようになったなら!……

 天と地におけるすべての力を持っておられる方の賜物は、神の子らのために貯えられている。賜物は非常に尊いので、贖い主の血という高価な犠牲を通してわたしたちのところへ来る。その賜物は、心の最も深いところにある願いを満たし、永遠に永続する賜物であって小さい子供のように神のみもとへ来るすべての人によって受け取られ、楽しまれる。(レビュー・アンド・ヘラルド1888年9月11日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

満ちみちている神の徳

「またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、『御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように』。」(黙示録 5:13)

 

 パトモスの島でヨハネは、彼を通して人々に与えるよう神が望んでおられる事柄を見せられた。ここにわたしたちが瞑想する価値のあるテーマがある。ここに天の万軍が今日伝えたいと願っている広範で、内に多くのものを含む教訓がある。無限の知恵と無限の愛、そして無限の正義と無限のあわれみ―その深さと高さ、また長さと広さ!数えきれないほどのペンがキリストのご生涯とご品性、またとりなしの働きを述べるために用いられてきた。そして聖霊が働かれるすべての思いを通してなお、これらのテーマはこの人々の心と精神に丁度調和して、その一人 一人に生き生きと、また新しく提示されている。主が送って下さる聖霊は主のみ言葉を受け入れる準備のできた者の心に、このみ言葉を思い起こさせて下さると主イエスは約束して下さった。復活の後、主は彼らがみ言葉を理解することができるように、彼らに理解力をお与えになった。その時まで、ラビの教えのつまらない考えが弟子たちの目から真理を隠していたので、彼らはみ言葉を理解することができなかった。

 真理は、もし受け入れるならば、絶え間ない発展と新しい進展を可能にする。真理はわたしたちが見る時に輝きを増し、それを得たいと望む時にその高さと深さが増大する。このように真理はわたしたちを完全の標準にまで高め、わたしたちの前におかれている働きのための力として、わたしたちに神に対する信仰と信頼を与える。わたしたちはイエスが必要とされたように、真理を必要としている。 ……主の代理者また証人として、わたしたちは経験に基づく知識によって知らなければならない救いの真理を完全に理解する必要がある。

 「わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである」(コロサイ1:14)。これは魂に明記されなければならない大いなる実際の真理である。真理を受け入れる人々に、真理の力と偉大さをすべて理解させることが最も重要なことである。「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿って」いる(コロサイ2:9)。(原稿153, 1898年)

 

世の楽しみを避けなさい

「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。」(ヨハネ第一2:15)

 

 真のクリスチャンはどのような娯楽場にも入りたいとは思わない。また、神の祝福を求めることのできないような気晴らしにかかわろうなどと望みはしない。彼は映画館や玉突き場、ボーリング場にはいない。彼は陽気にワルツを踊る人と一 緒にいたり、キリストを心から追い出し、人をとりこにするようないかなる娯楽にも浸ったりはしない。

 このような娯楽を弁護する者にわたしたちは、ナザレのイエスの名によって、そういうことにふけることはできないと答える。……ゲッセマネに思いを馳せ、キリストがわたしたちのために耐え忍ばれた苦悩を見なさい。計り知れない苦しみの内に、ご自身の魂に全世界の罪を負って格闘された世の救い主を見なさい。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈られた主の祈りを、自分にあてはめて聞きなさい(マタイ26:39)。暗黒の時がき て、キリストは十字架の影に入られた。彼はお一人で苦い杯を飲まなければなら ない。主が祝福と慰めを与えられた地上の子らのうち一人として、この恐ろしい暗黒に主を慰める者はいない。主は人殺しの暴徒の手に渡されるのである。疲れ、弱られた主は、裁判所から他所へと引き回される。・・・・・罪の汚れを知らなかった主は、カルバリーで犯罪人として主の命を注ぎだされる。この現実はすべての魂をその底から揺り動かすべきである。神の御子が悲しみの人となり、悩みを知る人となられたのは、わたしたちを救うためであった。……無限の犠牲がわ たしたちの贖いのためになされたことをあなたが覚えているなら、舞踏会もその魅力を失うであろう。

 キリストはわたしたちの犠牲として死なれただけでなく、わたしたちの模範として生きられた。主は人性において、全く、完全で、汚れなく立っておられる。クリスチャンであることはキリストのようになることである。わたしたちの全存在すなわち、魂、体、精神が主のみ姿を反映し、主の模範に似るまで、純潔にされ、高貴になり、清くならねばならない。……この働きに役立つ事柄や楽しみについては、それを追求することを恐れる必要はない。しかし、わたしたちの注意をそらし、熱心を奪うような事柄はなんであっても避けるのがわたしたちの義務である。(レビュー・アンド・ヘラルド1882年2月28日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

決して朽ちることのない飾り

「あなたがたは、髪を編み、金の飾りをつけ、服装をととのえるような外面の飾りではなく、かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである。」(ペテロ第一3:3, 4)

 

 外見上の魅力は浅薄で、変わりやすい。それに頼ることはできない。キリストがご自分に従う者に命じられる飾りは決してあせることのないものである。……

 もし、青年が外面を飾るのに費やす時間の半分でも魂の教養、内面の飾りに費やすならば、彼らの態度や言葉、また行動になんという相違がみられることであろう。心からキリストに従おうとする者は自分の着る衣服について良心の呵責を覚えるであろう。彼らは主から非常にはっきりと与えられた……要求に従おうと奮闘するであろう。(ユース・インストラクター1896年11月5日)

 多くの人は注目を得ようと世と同じような服装をしている。彼らはみじめな、死ぬべき体を飾るために流行をあれこれと学んで無為に過ごすより悪いことに時間を費やしている。しかし彼らはここで、悲しい、致命的な間違いを犯している。もし彼らが救いとなる影響力を保ち、真理を支持していることを示す生活をしようとするなら、謙遜な模範であられる方に倣わなければならない。正しい行いによって、自分の信仰を示し、自分と世の間に大きな隔たりがあることを表しなさい。言葉や服装、また行動が神をあかしすべきである。そうすれば聖なる影響力がすべての者に降り注がれ、すべての者は、彼らがイエスと共にいる者であることを知るであろう。未信者は、キリスト再臨の信仰が品性に影響することを知るであろう。……

 外観は心を示すものである。心が真理によって影響を受ける時、心は世に対して死んだものとなり、世に対して死んだ者は、未信者のあざけり、また侮辱によって動かされることはない。彼らは世から離れて、主のようになろうと心から願う。彼らは世の流行や習慣にならおうとはしない。神に栄光を帰し、不滅の遺産を受け継ぐという高貴な目的が、いつも彼らの前に置かれている。それに比べて世的な性質を帯びたことはすべて、影が薄くなってしまう。(レビュー・アンド・ヘラルド1884年9月9日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日毎の自己否定

「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」(ローマ12:1)

 

 なぜ青年は、アダムの例から教訓を学ばないのであろうか。神の小さなテストにも耐えられなかった彼の失敗は、恐ろしい報いを招いた。そして今でも、サタンは、人の心を惑わす力を持っているので、わたしたちの前に警告のともしびがありながら、多くの人は特別なこととはしないのである。……

 わたしたちが天父にささげることのできるものは、最善であったとしても非常に小さな捧げ物にすぎない。神に対するわたしたちの責任という点を考えると、わたしたちはみな食欲や感情を理性的な意志の支配の下に置くというこの上なく強い義務がある。好き嫌いが理解を誤らせ、他の何にも増して霊的感覚を曇らせてきた。サタンは、食欲の放縦を通して多くの人の知性を無感覚にし、そして、服従と聖化の道から遠く離すために、これらの無節制な者を誘惑の特別な対象物とする。有用なタラントを託されている人々が、もし、日毎の自己否定の必要性を知り勝利者となることが何を意味するのかを知らないならば、永遠の命を失うであろう。……

 多くの人は、当然持つはずの活力を半分も持っていない。彼らは、食欲の放縦と品位を下げる習慣を通してもたらされた慢性の病気になっているからである。もし青年が、ダニエルや、三人の友達のように、健康の法則を厳密に固く守るならば、知覚力がどれほど鮮明になることであろう。苦痛から解放され、どんなにたやすく義務を遂行できることであろう。彼らの霊的熱心さは、どんなに大きなものとなったことであろう。言葉と模範によって彼らはどんなに他人の祝福となることであろう。……

 神はあなたに対して豊かな恵みを与えることがおできになる。わたしたちが、主の言葉にあらわされた条件に従うまでは神の約束を求める権利はない。「彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければわたしはあなたがたを受け入れよう」(コリント第二6:17)。あなたはそうするであろうか。(原稿6巻1878年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

不節制との戦い

「酒は人をあざける者とし、濃い酒は人をあばれる者とする、これに迷わされる者は無知である。」(箴言20:1)

 

 わたしたちはクリスチャンとして、厳格に節制を守るべきである。神を恐れる聖書的な青年ほど物事をたやすく完成させ、効果的に行うことができる人々はいない。今日の都市の青年たちは、あらゆる種類の利己主義や、健康を破壊するような放縦に対して、堅く抵抗するために、堅固でしっかりした聖なる軍隊と結合すべきである。善のために彼らはなんと力になれることであろう。青年を誘惑するために音楽や、あらゆる興味を引くもので設備された娯楽場や施設に出かけることによって道徳を退廃させることから、彼らはどれほど多くの者を救うことであろうか。不節制と放蕩、そして冒涜は姉妹的関係にある。神を恐れる青年たちに、よろいやかぶとをつけて、前進させなさい。あなたの名前をすべての契約書に書きなさい。……節制の契約書にあなたの名前を書くのを拒むために、つまらない口実を設けてはならない。……

 アダムとエバは、不節制な食欲のゆえにエデンを失った。わたしたちが神の楽園を得るためには、万事において節制をしなければならない。だれか酒の杯や、コップに泡立つビールを拒むのに、恥ずかしさで顔を赤らめるのだろうか。これは不名誉なことであるどころか、食欲にふけることを拒み、誘惑に抵抗することによって、彼らは神に奉仕をしているのである。天使は誘惑する者と誘惑される者の両者を見つめている。罪は女々しく、また食欲の放縦は弱く臆病で卑しいことである。その一方で、食欲の自制は、尊ばれるのである。天にいる最高の知 的存在者たちは、誘惑する者と誘惑される者の間で行われている戦いを見守っている。そして誘惑されている者が誘惑に背を向け、イエスの力によって勝利者となるならば、天使たちは喜ぶ。そしてサタンは戦いに負けたのである。……誘惑に会われた荒野でのキリストの大きな戦いが食欲の点にあったことを理解する者は皆、不節制を招くようなことはわずかであっても避けるであろう。

 イエスはわたしたちのために苦しい断食に耐えられた。そして、あらゆる試みにおいてサタンに勝利された。それは、主が身代わり、また保証人として得られたこの大きな勝利によって、人が自分にもたらされた力を通して自分のために自分で勝利できるようにするためであった。(レビュー・アンド・ヘラルド1887年4月19 日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クリスチャンの競技

「あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者は一人だけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。しかし、すべて競技する者は、何事にも節制する。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのである。」(コリント第一9:24, 25)

 

 ここでパウロは、自分の利己的な放縦を擁護し、自己否定と厳格な節制の習慣によって勝利する立場に自分をおくことを否定する自称クリスチャンの弱々しい努力を辱めるために鋭い対照を描いている。誰でも公の競技に参加する者は、勝利した時に受ける受賞の希望によって元気づけられ、また興奮する。そのようにクリスチャンの前にも、競技の終わりまで忠実であった者に対する報いとしての賞が置かれている。……みな競技場で走りはするが、賞を得る者は一人だけである。朽ちる月桂樹の冠のために競技した他の者は、どんなに徹底的な準備をし、 彼らの努力が熱心で断固としたものであっても、失敗に終わる運命であった。しかし、クリスチャンの競技においてはそうではない。……最も強い聖徒と同様に最も弱い聖徒も、キリストのために困難と損失を甘受し、心より熱心であるならば、不死の冠を得ることができる。……

 もし、わたしたちが、不自然な食欲を起こし、食欲を欲しいままにするならば、自然の法則を破るのであり、その結果、肉体的にも精神的にもそして道徳的にも健康状態は弱まる。その時、わたしたちは、もし、わたしたちが自然の法則に忠実であったならばすることができたはずのたゆまない精力的で希望に満ちた努力をするには不適格なものになっているのである。もしわたしたちが、体の一器官でも損なうならば、わたしたちは、主にお返しすべき奉仕を神から盗んだことになる。(レビュー・アンド・ヘラルド1881年10月18日)

 使徒は、古代競技で勝利を確かなものにするために要求された注意深さと勤勉さにわたしたちの注意を向けさせる。彼は、クリスチャン競技のスタートに立ったすべての者に、競技の終わりまで忠実な者には、義の審判者が報いとして義の冠を与えてくださることを述べて彼らを励まし、勝利を確実にするために勤勉であるように勧めている。この冠は、すぐ枯れてしまう花輪ではなく、主の再臨を待ち望んで、クリスチャン競技をなし終えた者に与えられる永遠の命という栄光の冠である。(同上)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

信者の模範

「すべての人を救う神の恵みが現れた。そして、わたしたちを導き、不信心ととこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し」(テトス2:11,12)

 

 もしわたしたちが、永遠の命を受け継ごうと思うならば、わたしたちがしなければならない大きな仕事がある。わたしたちは神に似ていないことや世的欲望を退け、義の生活を送るべきである。……イエス以外に、わたしたちのための救いはない。なぜならば、神の子となる力を受けるのは、イエスを信じる信仰によってだからである。しかし、それは、単なる一時的な信仰ではなく、キリストのわざを行う信仰である。……生きた信仰は、神のみ事業に対する犠牲と献身の精神を示すことによって、おのずと表れる。信仰を持った者は、インマヌエルの君の旗の下に立ち暗黒の力と戦って勝利する。その司令官が命じられることはなんでも行う用意ができている。一人一人が、「言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範」になるように勧められている(テモテ第一4:12)。なぜなら、わたしたちはキリストの品性をあらわし、その精神をはっきり示しつつ、この現代の悪の世界において「慎み深く、正しく、信心深く」生きなければならないからである。……

 イエスにつながっている者は、万物を造られ、支えておられる方と一致している。彼らは、世が与えることも、取り去ることもできない力を持っている。しかし、偉大で気高い特権が、彼らに与えられていても彼らは、その祝福を単純に喜んでばかりいるべきではない。神の多種多様な恵みの家令として彼らは、他人に対して祝福となるべきである。彼らは、「多く与えられたものからは多く求められ」るのである(ルカ12:48)。現代の真理を受けたすべての者に、重い責任がかかっている。彼らは、他の人を神のみ言葉の光に引き寄せられるように影響を及ぼすべきである。……わたしたちは兄弟の番人である。……

 もしわたしたちが、イエスの真の信者であるならば、わたしたちは、栄光から光線を集め、わたしたちのまわりにいる人々の暗い道に光を放つであろう。わたしたちは、救い主の恵み深いご品性をあらわし、多くの人が、わたしたちの影響によって、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」に引き寄せられるであろう(ヨハネ1:29)。(レビュー・アンド・ヘラルド1888年3月6日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神の特別な民

「このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものと して聖別するためにほかならない。」(テトス2:14)

 

 神の民を普通の宗教団体からはっきり区別するものは、その告白ではなく、 彼らの模範的な品性と無我の愛の原則である。心に及ぼす神の御霊の力強い、 清めの感化力は、言葉や行状に表れて、彼らを世から分離し、彼らを神の特別 な民としてはっきりと示す。キリストに従う者の品性と性質は、その主人のように なる。主は、手本であり、クリスチャンがまねるために与えられた聖にして完全な 模範である。……

 義人に求められる自己否定や謙遜、そして節制は、……この堕落した時代に 住む人々の度を越えた健康を破壊する習慣と対照をなしている。健康改革は、手 が体に結合しているように第三天使のメッセージに密接につながっていることを 神は示してこられた。そして、この重要な事柄をなおざりにすることほど、肉体的、 道徳的堕落となる大きな原因は他にない。……衣食に関する道徳上の義務を犯 すものは、だれでも永遠の事柄に関する神のご要求を犯す道を備えている。わ たしたちのからだはわたしたちのものではない。神は、わたしたちに与えられた住 まいを良く管理するように求めておられる。それは、わたしたちのからだを生ける 供え物、聖であって受け入れられるものとして、神に差し出すことができるためで ある。わたしたちのからだは、それを造られた主のものである。主がわたしたち に与えられた住まいを朽ちさせないように保つ最上の方法に関して知的になる義 務を課されている。もしわたしたちが世と同調するために、自己満足や食欲の放 縦によって、また健康を害する流行にならって衣服を着けることによって、からだを弱くするならば、わたしたちは神の敵となる。……

 神は、わたしたちに与えられた恵みに従って、わたしたちに要求なさる。…… わたしたちが責任を果たすためには、聖なるきよい真理の秩序と進歩によってわたしたちのために備えられた高い地に立たなければならない。(レビュー・アンド・ヘラルド1886年5月18日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思い切って違う者となりなさい

「それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

 

すべての者はキリストのために、また自分の魂のために世とその習慣や虚栄や、また流行に順応することを避けなさい。神の聖なる戒めを曖昧にするような人間の戒めに気をつけなさい。快楽を愛する者は、満足することがなく、いつも社交ダンスの場や劇場や快楽の集まりでの興奮を求める。永遠に備えるために神がわたしたちに与えてくださった時間を、何千もの人が小説を読みふけることによって過ごしている。神の与えられた知性は悪用され、神のみ言葉はおろそかにされ、心と魂は、欠点や過ちまた習慣や行為と戦うために必要な道徳的力を奪われてしまい、こうしてキリストの来臨を喜ぶのにふさわしくないものとなる。

 まじめに、そして真剣な気持ちで下記の質問をしなさい。「わたしの魂はどうであろうか。わたしは習慣と行為によって救い主に敵対して働いてはいないだろうか。わたしはキリストに栄光を帰しているであろうか。わたしはイエスのために非難を喜んで受けることを、不従順で曲がったこの時代の人々に示しているであろうか。」と問いなさい。……キリストに従う者であると告白する者は目標を高くし、神聖さの標準に到達するであろうか。通俗で安っぽい自称クリスチャンよりは、世俗の人のほうがましである。思い切って世の中から出て分離しなさい。あなたはだれよりもキリストを愛しており、世の富のために不従順であるよりは、迫害があっても義を愛し、それだけを追い求めなさい。主イエス・キリストにより頼んで神聖で完全に服従することは、しっかりとした信仰と福音の望みを持つように魂を力づける。

 イエスは「わたしから離れてはあなたがたは何一つできないからである」と言われる(ヨハネ15:5)。キリストとの結合が罪に勝利する唯一の方法である。キリストにあって生き、キリストから離れず、キリストに支えられ、キリストから栄養を得ているなら、わたしたちはキリストの姿にならって、実を結ぶ。わたしたちは主にあって生き、そして動く。わたしたちは主と一つ、父と一つである。キリストのみ名は、神を信じる子にあって栄光を帰せられる。これが聖書の宗教である。(手紙82, 1895年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

限りない特権

「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。」(詩編1:1)

 

 主の祝福を持つ者は、非常に恵まれる。……だから神を恐れない者をあなたの友として選ばないように注意しなさい。なぜなら彼らはあなたが神を不快にし、主の祝福をあなたから奪うようなことをあなたがするように影響を与えるからである。……

 なんらかの方法で悪いことをするように勧める者に、自分の心と思いを打ち明ける者は、神を敬わない者の勧告に従って歩んでいるのである。……彼らは罪人の道に立っている。……そして次の一歩で彼らは自分が無頓着であざける者の座に座っているのに気付くのである。……憐れみと愛と平安のメッセージはあざけられる。このような人たちと交わる者は、彼らと同じように神の憐れみを軽蔑する者になる。神を敬わない一人の青年の影響がどれほど遠くまで及ぶのを知るならば驚くであろう。彼はサタンの手にあってどれほどの悪のための力となるか、ま たどれほど彼の勧告が心にとめられ、どれほど多くの悲哀と悲しみ、また悩みのもとをもたらすことか。……

 神の子供たちに授けられた特権には限りがない。すなわち天と堕落していない世界の宇宙の隅から隅まで、すべてのものに崇拝されまた唇で讃美されているイエス・キリストと連なり、また神の子供となり神の名を持ち、王の家族の一員 となり、インマヌエルの君、王の王、主の主の旗のもとに立つことがそれである。主の言葉は、最高の知性を持つ者たちによって守られる。……

 イエスのためになされる最も低い奉仕も人間が喜ぶことのできる最大の誉れである。清く聖なる天使も主の言葉に従う。わたしたちは欺かれ、誘われてサタンに仕える者になってよいだろうか。主のご要求に対し、服従を拒んでよいだろうか。「このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える」という言葉は、わたしたち一人一人について言われているのではないか。(ユース・インストラクター1886年10月20日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イエスの幸福な歩み

「エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。」(創世記5:24)

 

 エノクは道徳の力が非常に弱くなった堕落した時代に生きた。汚れが彼のまわりに満ちていた。けれど、彼は神と共に歩いた。彼は、自分の心を献身するように、すなわち純潔で清いことを考えるように教育した。彼は、信心深く神聖な事柄について話した。彼は、神の友となった。彼は神と共に歩み、神の勧告を受けいれた。彼は、わたしたちと同じように誘惑と戦わなければならなかった。彼のまわりの社会は、今日のわたしたちのまわりの社会同様に義に対しては好意的ではなかった。彼が、呼吸していた大気は、わたしたちの時代と同じように罪と堕落で汚れていた。けれども彼は、彼が生きた時代に行き渡っていた罪に汚されなかった。だからわたしたちも忠実なエノクがそうであったように、清く汚されないでいることができる。(レビュー・アンド・ヘラルド1881年8月23日)

 わたしたちは、悪が広く行き渡っている時代に住んでいる。最後の時代の危険が、わたしたちのまわりにたちこめている。そして、罪が充満しているので人々の愛は冷ややかになっている。……時の短いことが、わたしたちに義を求め、キリストを友とする動機として強調されている。しかし、これは、主な動機であってはならない。利己主義のにおいがする。わたしたちを恐れから正しい行動をさせるためにわたしたちの前に神の日の恐怖をさし示す必要があるだろうか。そうあるべきではない。イエスは引き付ける方である。彼は、愛と憐れみと同情に満ちている。主は、わたしたちの友となって人生の悪路をわたしたちと共に歩もうといってくださる。主はあなたに言われる。わたしは主、あなたの神である。わたしと共に歩みなさい。そうすればわたしはあなたの道に光を満たす。天の王イエスは、自分の重荷や弱さ、また心労をもって、ご自分のところに来るものをご自身との交わりにまで高めようと言われる。主は彼らをご自分の愛しい子供とされる。そして、ついには地上の王国よりも、もっと価値のある嗣業、また最もほめそやされた地上の君主の額を飾った冠よりもっと立派な栄光の冠を彼らに与えられる。……

 わたしたちが生きている限り、日々、イエスと共に静かで緊密な、また幸福な歩みをするのはわたしたちの特権である。(同上8月2日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今、損益を考える

「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。 人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」(マルコ8:35-37)

 

 主イエスは、人間の心を夢中にする魔力を破るために声を上げ、次のような重大な質問をされる。「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、何の得になろうか」。……

 病気と死がこの世に存在している。そして、わたしたちは、自分の個人的な恵みの時がいつ終わるかをいかに知らないことだろう。……もし今、会計簿の提出を求められたなら、神が与えてくださった恵みの時を自分のことのためにばかり使ったために、なんと多くの人が悲しみと後悔と良心の呵責をもってそれを提出することであろう。魂の永遠に対する関心は、重要でもないことのために恐ろしいほどおろそかにされてきた。心は、丁度サタンが計画したように、利己的な関心と何の重要性もない事柄で忙しく、全く天国のためになんの準備もすることなく 時間は永久に過ぎてしまう。

 人の魂が失われることを何に比較できるだろうか。永遠の命という宝を得るか、あるいは、神と神の義を自分の第一のまた唯一の関心とすることを怠ってすべてのものを失うかということはすべての魂が自分のために決定しなければならない事柄である。世の救い主であられるイエスは、主にではなく自分自身に仕えながら、クリスチャンであると公言している多くの人々を、悲しみをもってご覧になっている。彼らは二心のない完全な愛をもって主に仕える忠実な者を待ち受けている豊かな報いに対して、主が注意を呼び掛けておられるにもかかわらず、永遠の現実について、ほとんど考えない。主は、永遠の現実を、人の見える範囲のうちに置かれる。主は、今、忠実で従順にキリストに従う者になるということが損か得か事前に考えてみるように彼らに命じられる。そして「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」と言われる(マタイ6:24)。

 主は、個人個人に、この世で自分の貴重な時間を使って、善い行いにおいて実り多い日々となるように、自分の責任に気づくことを望んでおられる。神が与えてくださった能力を永遠の結果を心にとめて用いるというこのことが、やがて死ぬべき人間の唯一の価値のある目的である。(原稿45, 1890年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

偶像をすべて捨てなさい

「するとイエスは彼に言われた、『サタンよ、退け。「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」と書いてある』。」(マタイ4:10)

 

 「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」(出エジプト20:3)。……この第一条の戒めが破られるのは、神の存在を否定することや、木や石の偶像に頭を下げることだけによるのではない。キリストに従っていると告白する多くの者によって、この原則が犯されている。そして、天の主は、心の中で、神のみが占めるべきである場所をふさぐいかなるものをも抱き続けている者をご自分の子供とは、お認めにならない。多くの者は食欲を満足させることに支配されている。また他の者は、衣服や世への愛着が、心の中で第一の場所を占めている。……

 神は、この人生において愛情を注ぐ対象をたくさん与えてくださった。しかし、それ自体は律法にかなったものでも、度を越して愛情を注ぐならば、偶像礼拝者となる。……わたしたちの愛情を神から引き離したり、永遠の事柄についてわたしたちの関心をそらすものは何でも偶像である。神によって彼らに与えられたこの大切な時間、すなわち無限の価をもって買い取られた時間を自分の家を見せびらかすために飾ったり、世の中の流行や、しきたりに従うために費やす者は、自分の魂から霊的食物を奪い取っているだけでなく、神に支払われるべきものを神に返していないのである。このように利己的な欲望の満足のために費やされた時間は、神のみ言葉の知識を得るために、またわたしたちの創造主に対する知的な奉仕をすることのできる才能を培うために使われたはずのものである。……神は、二心の者には何もお与えにならない。わたしたちの注意が世のことに奪われ てしまうなら、神は最高の支配権を持つことがおできにならない。もしこれによって神に対するわたしたちの献身が減じるなら、主の御目には偶像なのである。 ……

 「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネ4:24)。わたしたちの心が、詩や讃美や、霊的な歌だけではなく、生活においてもわたしたちの造り主をたたえるようになるならば、天との交わりの中で生活しているのである。……その時、心の中でも、また家庭においても、個人的にも公の礼拝と同様に、感謝が生じるであろう。これが、神に対する真の礼拝を形づくるのである。(ユース・インストラクター1896年12月31日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人間という織物の糸

「それはちょうど、旅に立つ人が家を出るに当り、その僕たちに、それぞれ仕事を割り当てて責任をもたせ、門番には目をさましておれと、命じるようなものである。」(マルコ13:34)

 

 神が荒野に幕屋を建てるように命令されたとき、各人に各々の働きが割り当てられた。……幕屋を建てたり、たたんだり、また、荒野で場所から場所へと移ったりする時に、各人がなすべき立場がはっきり示された。

 キリストは、百万を越える人々の目には見えない将軍であられた。そこには偶像や無秩序な動きはなかった。義務の立場において秩序と迅速、また的確さが要求された。これは、神の大いなる働きにおいて役割を果たすために神が選ばれた教会と人々にとって、重要な教訓である。誰も他の人の働きをすることを要求されてはいない。各々が、自分に割り当てられた仕事を正確にかつ完全に行うべきである。荒野の旅路におけるあの大いなる教会の運営は、地上の歴史の終わりまで、わたしたちが天のカナンの地に入るまでの教会の在り方を象徴している。……

 主はあらゆる種類の熟練した働き人を必要としておられる。「そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ」た(エペソ4:11,12)。……主のぶどう園においてさまざまな働きに携わっている一人一人の働き人は、働きの一部である自分にゆだねられた部分だけでなく、全体と関連させて物事を見ることができるために真理を通して清められた頭脳と心を持たねばならない。働き人が神に献身する時、彼らは目に見えない聖なる偉大な働き人であられる方のもとで働いている彼らの兄弟たちに神の愛をあらわすであろう。「わたしたちは神の同労者である」(コリント第一3:9)。……

 わたしたちは人間という大きな織物の各部分である。織物の模様を織り出し、完全な全体を作り出す縦糸、横糸である。……神の計画通りに作り上げる神の糸でありなさい。あなたは、決して思いのままにしてはならない。(手紙86a, 1893年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神の賜物の利用

「すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。」(マタイ25:15)

 

 タラントの譬えは、……判断力のあるすべての男女子供に、個人的にあてはまるものである。あなたの義務と責任は、神があなたに与えられたタラントに比例 する。……

 家の主人がその僕を呼んだ時、彼はすべての者にその人のなすべき仕事を与えた。神の全家族は、自分たちの主の財産を用いる責任を与えられている。最も低い者、取るに足りない者から、最も偉大で、最も高い地位を持っているどの個人も彼は能力を与えられた道徳的代理人であり、神に対して責任がある。霊的、知的、肉体的能力、影響力、社会的地位、財産、愛情、同情、これらすべては、自分の主人であられる方のために用いられるべき大切なタラントである。……実業家は自分の誠実さをもって、自分の主人であられる方に栄光を帰す方法で仕事をしなさい。自分がするすべての事柄に自分の宗教を持ち込み、キリストの精神を人々にあらわしなさい。技術者はユダヤの町々で人生の謙遜な歩みのうちにこつこつと働かれた主を代表して勤勉で忠実な者となりなさい。キリストの名を名乗る者は、自分の善行を見た人々が、自分の創造主であり救い主である方をあがめるように働きなさい。……

 すぐれたタラントで祝福されている者は、彼らほどタラントを与えられていない人々の奉仕の価値を軽視すべきではない。最も小さい信頼でもそれは神からの信頼である。神の祝福を受けて勤勉に用いられる一タラントは二倍にされ、キリストの奉仕に使われた二タラントは、四タラントに増加する。このようにして最も慎ましい器も有力で有用な者に成長する。まじめな目的と無私の努力は、天の神にすべて認められ、評価して受け入れられる。……神だけが彼らの奉仕の価値を評価することができ、造り主の栄光のために働く者が広い範囲に及ぼす影響力をご覧になることができる。(レビュー・アンド・ヘラルド1888年5月1日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小事の宗教

「主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。」(マタイ25:23)

 

 キリストは「小事に忠実な人は、大事にも忠実である」と言われた。(ルカ16:10)。ある人々は小さい事柄にはそれほど厳密になる必要はないと考えている。しかし、これはサタンの欺瞞である。

 利己主義はすべての不公平と誠実さの欠如の根である。……真理を信じていると公言する青年の多くには、虚栄心や自尊心、また浪費や不注意がみられる。これらは彼らを無頓着で気高く高められたこの世の生涯に不適格なものとし、その先の将来の生涯にふさわしくないものとしている。……すべての者が自分に与えられた時間を注意深く活用しているわけではない。自分の時間を浪費したり、最善に利用しない者は神のものを奪っているのである。ある者は……金銭に不注意で、また無頓着であり、時間を気にしない者に非常に好意的な意見を持つが、 神がすべてこれらのことを彼らの本当の性格、すなわち神の報復を受ける詐欺的なものだとみなされる。

 時間やタラント、また技術は用いられ、最善の方法で活かされるべきである。 ……だれも、みなあたかも無限な方の目が自分に注がれているかのように原則に対して真実でありなさい。あなたがた、青年男女は、熱心な努力と断固とした意志を神のみ恵みと結合させることによって、放縦への傾向に抵抗するために、あなたが望んでいるような者になることができる。……

 キリストは完全な模範を人間に与えられた。しかし、彼らが自由な計画と呼ぶものに共鳴し、小事に不注意な者は、まもなく、唯一の真の手本であるキリストの模範からひどく逸脱していることを示すであろう。青年男女よ、もっとキリストのご生涯を身近に、祈りをもって学び、主のご生涯をあなたの基準、またあなたの標準にしようではないか。(原稿6,1878年)

 実際的な宗教は日常生活の慎ましい勤めにも持ち込まなければならない。そして、これらの務めを実行することによって、あなたは裁きに立ちうる品性を築いているのである。あなたの置かれた立場が何であろうと、あなたの務めが何であろうとも、全天があなたの働きを見守っていることを悟って、それらを気高く忠実に行いなさい。(ユース・インストラクター1897年1月28日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神の道徳の鏡

「これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。」(ヤコブ1:25)

 

 デュセルドルフで、わたしたちは車を乗り換え、その停留所で二時間待たなければならなかった。ここで、わたしたちは人間の本性を学ぶ機会を持った。婦人たちが入ってきて、外套を脱いで汚れていないかとあちこちと調べた。それから、お化粧を始めた。他人に見られる時に自分の外観を最上のものにするために自分の満足のゆく装いをしようとその人々は鏡の前に長い間ぐずぐずしていた。わたしは、罪人が自分の品性の欠点を発見するために見るべき偉大なる道徳の鏡である神の律法を考えた。もし、わたしたちが神の律法(品性の道徳的標準)を、 品性のすべての欠点を正し、改める目的で、熱心に注意深く鏡を見て外観を整えるように学ぶなら、なんという変化が彼らの上に確実に起こることであろう。「おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう」(ヤコブ1:23,24)。……

 神の道徳の鏡である律法を見る時、自分の品性に欠点を見出す者がたくさんいる。しかし彼らは「あなたがなすべきすべてのことは、信じることだけである」と何度も聞いてきた。……それで、鏡を見るという冒険をおかした後で彼らは直ちに自分の欠点をすべて記憶にとどめることから離れ、「イエスが、それをすべてして下さった」と言うのである。これらのことをヤコブは指摘しようとしたのである。人間は、自分を見つめて人間の在り方から離れ、それを忘れているのである。 ……信仰と働きは、世俗の流れや自尊心と虚栄の対抗する舟を動かすために用いるべき二つのオールである。そしてもしこれを用いないならば舟は流れと共に滅亡へと漂っていく。神はわたしたちが外観を整えるのと同じように注意深く心を整えるために内なる飾りに気を配るようにわたしたちを助けて下さる。(レビュー・アンド・ヘラルド1887年10月11日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

従順の特権

「あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」(ヨハネ15:14)

 

 キリストと身近な交わりを持って生活する者は主から信頼される。自分の主人である方のために最善を尽くす僕は、彼が喜んで従っている命令を出された方と親しい交わりをすることを許される。義務の忠実な遂行において、わたしたちはキリストと一つになる。なぜなら、神の命令に従う者は、神に自由に語るからである。彼の聖なる指導者と最も親密に果たす者は主の偉大さについて最も気高い認識を持ち、主の命令に最も従順である。

 「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。……あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである」(ヨハネ15:7,14,15)。……

 信仰によって神に来る者の品性は、救い主が彼の生活に入っており、すべてを指導し、すべてに行き渡っていることの証人となる。このような人は絶えず「わたしの救い主よ、これはあなたのみ心また道ですか」と尋ねている。彼は常に、自分の行動すべてに関して聖なる友の意志を伺う。なぜなら、彼はこの信頼の中に自分の力があることを知っているからである。彼はどのような困難の時にも神に心を寄せる習慣を持っている。……

 神を自分の統治者として受け入れる者は、主の忠誠の誓いをしなければならない。彼はクリスチャンの制服を着、自分がそれに属していることを示す旗を高く掲げなければならない。キリストに対する忠誠を公に示さなければならない。隠すことは不可能である。キリストのしるしが、清められた働きを通して生活に現れなければならない。

 「わたしはあなたがたを他の民から区別したあなたがたの神、主である。…… あなたがたはわたしに対して聖なる者でなければならない。主なるわたしは聖なる者で、あなたがたをわたしのものにしようと、他の民から区別したからである」(レビ20:24-26)。……「この民は、わが誉を述べさせるために、わたしが自分のために造ったものである」(イザヤ43:21)。(原稿96,1900年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

従順の動機

「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。」(ヨハネ第一5:3)

 

 神に選ばれた者が神に誉と栄光を帰すのは、神の戒めを守ることである。それゆえに神に理性の能力を与えられた魂はだれでもみ言葉を探求することと、神の買われた所有物としてわたしたちに命じられたすべてを果たす義務を神に対して持つ。わたしたちはみ言葉がわたしたちに求めるすべてのことを理解しようとしなければならない。……天の住民に対し、堕落していない世界に対し、また堕落した世界に対し、神の国を支配している法律である十戒すべてにわたしたちが 従順に聞き従っているという証拠を示す以上に創造と贖いとによってわたしたち の所有者であられる神を敬っていることを示すことはできない。

 わたしたちは神の律法の知識を得るために勤勉に学ぶ必要がある。わたしたちが神の国を支配している律法を理解するのに失敗したとすればどうして、従順な臣民になれるであろうか。あなたの聖書を開いて、神の教えに関して、あなたに知識の光を与えるすべてのことを探求しなさい。そして主はこのように言われたということを見つける時、人の意見に従わないで、あなたにとって犠牲がどのようなものであろうと、喜んで従いなさい。その時、神の祝福はあなたの上にあるであろう。……

 しばしば、祈りながら次のように尋ねなさい。「主よ、あなたはわたしに何をさせたいと望まれますか。わたしは聖なる戒めをどのような方法によってでも軽視してはいないでしょうか。敵の側についているようなことはないでしょうか。神の十戒を不注意に軽視していないでしょうか。わたしは、キリストとくびきを共にし、重荷を負い、主の共労者になっているでしょうか。主がこのように言われるということに従わない口実を作ってはいないでしょうか。わたしは世から出、離れる意志がないため、エホバの神がはっきりと示された戒めに従おうとしない危険はないでしょうか。人に対する恐れが神への恐れよりもわたしに大きく影響していないでしょうか」と。

 神にあなたをゆだねて、「主よ、ここにわたしは、自分自身をお捧げします。これが『わたしのできるすべてです。』世がわたしを敵の側に置こうとしても、わたしはあなたの律法に不従順なことはいたしません」と言おう。(手紙82,1895年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神の統治の基礎

「愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。」(ローマ13:10)

 

 一人一人にとって最も関心を持つべき質問は、わたしは神の律法の要求に応じているだろうかということである。律法は聖であり、正しく、善であって、神はわたしたちの行動を、日々、この律法、すなわち主の偉大なる義の標準と比べられる。神のみ言葉の光の中で自己をよく吟味することによってのみ、わたしたちは、主の聖なる義の法則からの自分の逸脱を発見することができる。……

 愛は天と、地上における神の統治の基礎をなす原則である。この愛はクリスチャンの生涯に織り込まれなければならない。キリストの愛は気まぐれな愛ではない。それは深く、広く、完全なものである。この愛を持っている者は「わたしを愛してくれる者だけをわたしは愛します」とは言わない。この聖なる原則に動かされている心は自分本位の性質を乗り越える。

 クリスチャンと公言する者の間でさえ、何か腹を立てることはないかといつも待ち構えている人がいる。彼らは自分の友人たちが注意を要する事柄に没頭して、自分に捧げる時間がないと、ばかにされ、傷つけられたと感じる。……彼らの生活は香りのない派手な花のようなものである。そばに来る人に快い香りで祝福を与える単純な、慎み深い花のほうがはるかに好ましい。

 他人の欠点を見つける代わりに、このような人はキリストを着ることによりうるわしい者となるようにすべきである。……キリストの品性はクリスチャンが守るべき標準である。彼の目的は人性をとられたキリストの生涯の中に例示された恵みを所有することである。……

 イエス・キリストの宗教は単にわたしたちを将来の不死の命に備えるためだけではなく、この地上でも、キリストの生涯を送ることを可能にするものである。イエスはわたしたちの模範であるばかりでなく、わたしたちの友であり、導き手である。主の力強い腕にすがり、主の御霊を受けることによって、わたしたちは「主が歩まれたように」歩くことができる。(ユース・インストラクター1897年6月10日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

心に記された神の律法

「わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。」(へブル8:10)

 

 新しい契約の祝福はまったく不義と罪を許す憐みに基礎が置かれている。主は悪を捨て、ご自分に帰ってくる者にこのようにすると仰せられる。「わたしは、彼らの不義をあわれみ、もはや、彼らの罪を思い出すことはしない」と(へブル8:12)。その心を謙遜にし、自分の罪を告白するすべての者は、あわれみと恵みと保証を見出すであろう。

 神は罪人にあわれみを示すことによって、義であることをやめられたのであろうか。神はご自分の聖なる律法を尊んでこられず、今後その違反を見逃されるのであろうか。神は真実であり、変わることがない。救いの条件は永久に同じである。命、永遠の命は神の律法に従う者に対して与えられる。思いと、言葉と行為に現れる完全な従順は、かつて律法学者が「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」とキリストに尋ねた時、イエスが「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか……そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」 と答えられたように(ルカ10:25-28)、今日もそれは本質的な事である。

 新しい契約の下においても、永遠の命が得られる条件は古い契約と同じように―完全な服従である。古い契約のもとにあっては、律法が要求する贖罪の働きが及ばない故意の性質の違反が数多く存在した。新しい、より良い契約においては、もし律法の違反者が信仰によって主を個人的救い主として受け入れるならば、キリストは彼らのために律法を満たされる。……あわれみと許しは、彼らの罪を取り除かれる主の功績により頼んでキリストに来るすべての者に報いとして与えられる。より良い契約において、わたしたちはキリストの血によって罪から清められる。……罪人は自分では一つの罪をも贖うことはできない。キリストの無償の賜物の中に力がある。この無償の賜物は、自分の罪に気づき、その罪を捨てて、自分の無力な魂を、罪を許される救い主であるイエスにゆだねる者によってのみ正しく評価される。み約束である主は、「聖であって、正しく、かつ善」であるご自分の完全な律法、神ご自身の本質である律法を彼らの心に置かれる(ローマ7:12)。(手紙276,1904年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

品性の真の標準

「ただ律法とあかしとに求むべし、彼らのいうところこのことばにかなわずばしののめあらじ。」(イザヤ8:20文語訳)

 

 それを受け入れるすべての人に対して神の恵みが備えられているが、わたした ちがしなければならないこともまだ他にある。……それはわたしたちを天使たちと の交わりにふさわしいものとするために、わたしたちがしなければならない働きである。わたしたちは罪の汚れから解放されて、イエスのようにならなければならない。主は、ご自身が、わたしたちにそのようであるようにと求めておられる通りの方であられた。主は、子供に対しても青年に対してもまた、成人に対しても完全な型であられた。わたしたちはこのパターンをもっと細かい点に至るまで学ば なければならない。

 イエスは天の王であられたが、しかし、ご自分の腕に幼児を抱き上げ、そして祝福するために身を低くされた。天使たちが崇拝する方は、彼らの舌足らずの、かたことでする讃美をこの上なくやさしい愛をもってお聞きになった。わたしたちは高潔な気高い主のようにならなければならない。その時、わたしたちの心はキリストの心に満ちている神の愛によって和らげられ、柔らかくされるのである。 ……

 わたしたちは聖なる模範に従って品性を形成するためにするべき仕事を持っている。すべての悪い習慣は捨てなければならない。心の中の不純なものは清くならなければならない。利己的な人は自分のわがままを取り去り、自尊心の強い人はその誇りを捨て去り、うぬぼれの強い人は、その自己過信に勝利して、キリストなくしては自分が無であることに気づかねばならない。……

 わたしたちはキリストに錨を下ろし、信仰によって根を下ろし、基礎を置く必要がある。サタンは代理人を通して働きかける。彼は、生ける水を飲んでいない人々を選ぶ。何か新しくて、変わったものを渇望して、そのようなものを与えてくれる泉を飲む用意はできているから。「見よ、ここにキリストがいる」とか「あそこにいる」という声が聞かれるであろう。しかし、わたしたちは、それらの声を信じてはならない。わたしたちは真の羊飼いの声の間違えようのない証拠を持っている。そして、主はご自分に従ってくるようにとわたしたちを召しておられる。主は「わたし の父の戒めを守った」と仰せになる。主は、ご自分の羊を神の戒めに謙遜に従う道へとお導きになり、決して律法を犯すことをお勧めになったりはしない。……

 だれも欺かれる必要はない。神の律法は、神のみ座と同じように神聖であり、それによって、この世に生を受けたすべての人が裁かれるべきである。この他には品性を試す標準はないのである。(レビュー・アンド・ヘラルド1885年11月17日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

命の選択

「目をさましていなさい。信仰に立ちなさい。男らしく、強くあってほしい。」(コリント第一16:13)

 

 神の真理に従い、神の一つ一つのみ言葉によって生きることは今日のような邪悪な時代にわたしたちを固く立たせるのに充分である。サタンは魂に対して命の勝負を挑んでいる。……

 道徳的、霊的力を強めるためにすべての者の手の届くところに好機と機会がある。心は広げられ、高貴にされ、天の事柄をじっと考えるべきである。……心が天に向かって流れるのでなければ、神との特別なつながりを持たない世的な計画や仕事に誘うサタンの誘惑の餌食にたやすくなってしまう。そしてすべての熱心や努力、またやむことのない活動や、熱にうなされたような欲求が、その仕事のために投入される。そして悪魔は側に立って、得られそうで決して得られない事柄にたゆまず全力を尽くしている人間の努力を見て笑っているのである。サタンが発明するたくらみやもくろみは魂を罠にかけ、あわれな、欺かれた人間は目隠しをされて、自分自身の滅亡へと進んでいく。……

 サタンの欺瞞や罠に対する一つの保護手段がある。それはイエスの内にあるその真理である。心に植えられ、目を覚まし、祈ることによって成長し、キリストの恵みによって成長した真理はわたしたちに識別力を与える。真理が心に宿り、サタンのあらゆる誘惑する魔力の代わりに真理の力を受け、そして、あなたとわたしの経験は、真理が魂を清め、導き、祝福することのできるものとならなければならない。……敵はわたしたち、一人一人の手がかりを得ている。それで、もしわたしたちが内から外から攻めてくる誘惑に抵抗したいのなら、主の真理がわたしたちの心に宿って、魂を見守り、あらゆる敵の攻撃に対して警報を鳴らし、行動を起こす用意をして、しっかりと主の側にいる必要がある。見えざる敵の真ん中では、この防御なしには、風に吹きつけられ、揺すられた柳のようになってしまう。しかし、もし、キリストが魂に宿るならば、わたしたちは主に会って強く、主の全能の力の中にいることができるのである。(手紙17,1886年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神に満ちているもので満たされる

「また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。」(エペソ3:19)

 

 罪の力から逃れることは不可能であると考えている人が大勢いるが、しかし、み約束は神に満ちているもののすべてをもってわたしたちは満たしていただける。わたしたちの志はあまりに低い。目標はずっと高いところにある。わたしたちの心は広がる必要がある。そうすれば神のお備えになるものの重要性を理解できるようになる。わたしたちは神のご品性のこの上なく気高い特質を反映すべきである。わたしたちは自分一人で残されていないことを感謝すべきである。神の律法は、わたしたちがそこに到達すべきである崇高な標準である。……わたしたちは自分の考えに従って歩まないで……キリストのみ足の跡に従っていくべきである。(レビュー・アンド・ヘラルド1892年7月12日)

 勝利の働きは、わたしたちの手中にあるが、自分の名や力によって勝利するのではない。なぜならば、わたしたちは自身では神の戒めを守ることができないからである。神の御霊がわたしたちの弱点を助けなければならない。キリストはわたしたちの犠牲となり、保証人となられた。キリストはわたしたちが彼によって神の義となれるようにわたしたちのために罪あるものとなられた。主にみ名を信じる信仰によって、主はわたしたちにご自分の義を着せて下さり、それがわたしたちの人生における生ける原則となるのである。……キリストはご自分の罪のない品性 をわたしたちに着せて下さり、主ご自身の純潔のうちにわたしたちを御父に推薦して下さる。(同上)

 預言者が「われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである」と言っているように、わたしたちは自分自身のために義の衣を準備することができな い(イザヤ64:6)。自分の裸を見られないために魂に着せる衣が、わたしたちの内には一つもないのである。わたしたちは、天の織機で織られた義の衣、一点のしみもないキリストの義の衣を受けるべきである。わたしたちは「主はわたしのために死なれた。主はわたしの魂の恥を負われた。それは主の御名によって、わたしが勝利者となり、み座まで高められることが出来るためである」と言うべきである。(同上19日)

 神に満ちているもので満たされることは神の子らの特権である。「どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン」(エペソ3:20,10)。(同上)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

区別され、分離されている道

「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」(マタイ7:13,14)

 

 これらの道は別々で分離しており反対の方向へのびている。一方は永遠の死へと導き、他方は狭くて起伏が多い。であるからそれらの道を旅するグループは、品性においても、生活においても、衣服においても、会話においても対照的である。狭い道を旅する人々は、旅路の終わりに彼らが受ける幸福を語りあっている。 ……彼らは広い道を行く人々のような衣服を着ず、彼らのような話し方も、行動もしない。一つの手本が彼らに与えられている。悲しみの人で、深い悲しみを知っておられる方が、彼らのために道を開き、ご自身がまずその道を歩まれたので あった。この方に従う者は、主のみ足跡をそこに見出し、慰められ、元気づけられる。主はその道を安全に通り抜けられた。もし彼らが主の足跡に従うなら彼らもまた安全に通り抜けることができるのである。

 広い道には、彼らに属する人々、衣服、その道にある快楽などで、いっぱいになっている。彼らは自由に、歓楽や、飲み騒ぎにふけり、彼らの旅路の終わり、道の終わりに確かに滅びがあることを考えない。彼らは自分の破滅に毎日近づいているが、なお気が狂ったようにますます急ぐのである。……そして手遅れになった時、彼らは実際は何も得ていないことに気付くのである。彼らは影をつかみ、永遠の命を失うのである。……

 信心深い外見は誰も救わない。すべての人は、深い生ける経験を持たなければならない。これだけがわたしたちの前にある悩みの時に、彼らを救うのである。その時、彼らの働きはどのような種類のものであったか試される。もし、それが金、銀、または宝石であるなら、主の天蓋の秘密の場所に隠されるであろう。しかし、もし彼らの働きが木や草、また、切り株であるなら、激しいエホバの怒りから彼らを守ることのできるものは何一つないのである。……

 永遠の命のためにどのような、またあらゆる犠牲を喜んで払う人々は、それを得るであろう。そしてそれは苦しむ価値のあるものであり、自己を十字架につけ、すべての偶像を犠牲にする価値のあるものである。永遠の栄光の重さはこの世のすべての宝よりも重く、はるかに素晴らしく、この世のあらゆる魅力を覆う。(レビュー・アンド・ヘラルド1882年12月12日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

困難への挑戦

「『狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。』」(ルカ13:24)

 

 狭い戸口とは、入るのに困難な入口を意味する。このたとえによってキリストは、男にとっても女にとっても、この世やまたこの世が持っている魅力を捨て去って、心からの愛を持って神の戒めに従うことがいかに難しいかをお示しになった。広い門は、入りやすい。そこを通り抜けるのに人の心に痛みを与える制限の呼びかけはない。自己否定や自己犠牲は広い道には見られない。そこには堕落した食欲や、生まれつきの性癖がありあまるほど豊富な場所を見つける。そこにはわがままや高慢、妬みや悪い憶測、また金銭欲や自己称揚などが見られる。(原稿 165,1899年)

 キリストは「入るように努め」、すなわち、魂を悩ませ「なさい」と言われた。わたしたちは自分の知恵や、判断力、また力が非常に不足していることを感じ、常に神に寄り頼む必要を感じなければならない。そして、その時わたしたちのために敵に勝利された主に全的に依存しなさい。なぜなら、主はわたしたちの弱さを同情され、わたしたちが勝たねばならないのに、もし主が助けに来てくださらないなら滅ぼされることを知っておられるからである。……どのように安易な、またありきたりの努力によってもあなたが永遠の報いを勝ち取ることができると考えてはならない。あなたの歩む道には狡猾な敵がいるのである。「勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である」(黙示録3:21)。ここにキリストが勝利されたように勝利すべき戦いがある。主の送られた誘惑と、試練の、また苦難と、戦いの生涯は、それにならうようにわたしたちの前に置かれている。わたしたちは自分自身の力で努力することができるかもしれないが、しかし、成功はしない。偉大な勝利者であられる主の特別な助けなしに行われるすべての努力は無益であり、勝利は主の功績によることであると心の底から、感じ、助けなく、苦しみと必要のうちに岩なるキリストの上に落ちて砕かれる時、キリストは、わたしたちが倒れるよりもむしろ敵の力からわたしたちを救出するために、すべての天使をお送りになるのである。(手紙1b,1873年)

 わたしたちは道は狭く、その門は狭いことを知る必要がある。しかし、わたしたちがその狭い門を通り抜ける時に、その広さは無限となる。(同上138,1897年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はっきりした区別

「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。」(ヨハネ17:15)

 

 クリスチャンは、キリストの人を変えさせる恵みの影響をその生活にあらわし、神の標準を持つ者として世からはっきり目立つべきである。彼らは天でキリストと共に座るためにあげられる。それは、彼らがこの世に対して、また、天使や人々に対して永遠の世界の永遠に続く描写を表現することができるためである。彼らは神の律法の義務を帯びた要求を伝える人々として命の言葉を示すべきである。神はご自分の僕が高い標準のものであることを求めておられる。主はこの世の律法よりもより高い標準を持つ律法(主のご品性の写しである律法)に従うよう彼ら に求めておられる。

 神の働きが至上である。主の知力はすべて、また霊的才能のすべてを召しておられる。それらのものは主と人類の奉仕のために捧げられるべきである。主は神のご性質を受けている働き人を召しておられる。イエスを真に信じている人々は、堕落していない世界と、堕落した世界に聖なるものに似た品性を示すことによって、主との共労者となるであろう。彼らは、この世が与えることができるよりも高く、より聖なる状態の楽しみを持っていることを示すべきである。神は自分の資質や才能を主と協力して培うすべての人々に聖霊の力をお与えになるであろう。彼らはそれによってすぐれた者となることができる。……

 キリストに従う人々は、神の御霊が分け与える感化に従って、この世の道徳的風潮を改善するよう努めるべきである。彼らは自分の行為によってそれを高めることができることを考えて、この世の水準まで降りていくべきではない。言葉にも、衣服にも、精神にも、すべてのことにおいてクリスチャンとこの世のものとの間には、はっきりした区別があるべきである。この区別には世俗に対して罪を自覚させる感化力がある。彼らは主の息子や娘が世から分離して、主が彼らをご自身と結び合わされることを知るのである。

 「そして、神は主をよみがえらせたが、その力で、わたしたちをもよみがえらせて下さるであろう」(コリント第一6:14)。だれがこの水準まであげられることを喜んでいるだろうか?(手紙199,1899年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この世におけるキリストの代表者

「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。」(ヨハネ17:16,17)

 

 イエスは「彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします」を言われる(ヨハネ17:19)。「あなたの御言は真理であります」。わたしたちは神のみ言葉に詳しくなり、学び、それを生活の中で実行する必要がある。……真理を受け入れて後、わたしたちが品性に働きかける真理の清めの効果をこの世に対して現わさないなら、イエス・キリストを世の罪を取り除かれる方として認めないことになる。もし、わたしたちがもっと良い男女にならないならば、また、もっと優しく、もっと同情心があり、もっと思いやり深く、もっと柔和と愛にあふれ、イエスが世に対し、あわれみの働きを導いておられる愛を他の人々に表さないならば、この世に対してイエス・キリストの力をあかししていないのである。

 イエスは自分を満足させるために生活されなかった。主は他の人々の益のために、ご自身を生ける焼き尽くす犠牲としてお与えになった。彼は接触されるすべての人を幸福にし、高貴にし、向上させるためにおいでになった。キリストを受け入れる人々は、信仰によって心のうちにキリストが住んでくださるので、不作法や苛酷な、また粗野なところをすべて捨て去り、イエスのうちにある快活や親切をあらわすようになる。キリストは暗闇に輝く光であった。だから主に従う人々もまた世の光となるべきである。彼らは聖なる祭壇から点じた彼らの灯心を持つべきである。真理によって清められる品性は、申し分のない輝きを加えていくのである。

 キリストはわたしたちの模範である。しかしわたしたちが主を見つめていない限り、また、主のご品性を瞑想しない限り、わたしたちの実生活に主のご品性を反映することはない。主は柔和で心から謙遜であられた。主は決して粗野な行動をとったり、不作法な言葉をお語りにならなかった。主はわたしたちが他の人々に対して無遠慮な、無情な、思いやりのない態度を取るのをお喜びにならない。このような利己主義はすべてわたしたちの品性から一掃してしまわなければならない。そしてわたしたちはキリストのくびきを負わなければならない。その時わたしたちは、……天の使いたちとの交わりにふさわしいものとなるのである。わたしたちはこの世においてそうなるべきであるが、この世のものとなってはいけない。わたしたちはイエス・キリストの代表者となるべきである。命と栄光の主が御父をあらわすためにわたしたちの世界においでになったようにわたしたちは世にイエスをあらわすために出ていくべきである。(手紙60,1894年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたの天幕をどこに張っているのか

「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。」(コロサイ3:1,2)

 

 カナンの地の近くに天幕を張るべきである多くの人々がエジプトの近くに天幕を張っている。彼らは義の太陽の光の中で生活していない。多くの者が好みを満足させるために娯楽の場所に出向く。しかし、そうすることによって霊的な力は得られない。そして、あなたは滅びの側にいる自分自身を見出すのである。娯楽を愛する心を励ますことは、宗教的経験を愛する心に水を差すことである。なぜなら生来の心を楽しませているつまらない事柄で心が一杯になるので、イエスに入っていただく余地がなくなってしまうからである。……

 愛によって働き、神のみ心に添うために魂を清めるには信仰が要求される。キリストを信じる者はたくさんいる。彼らは主を詐欺師などとは考えない。彼らは聖書が主の聖なるご品性の掲示であると信じている。彼らはその聖なる教理を賞賛し、み名、すなわち、人々が救われることのできる天下において与えられている唯一のみ名をあがめる。けれどもこのような知識のすべてをもってしても彼らはこれ以上ない罪人として神の恵みに対して本当に無知なのである。彼らはイエスに入っていただくために心を開いていないのである。(レビュー・アンド・ヘラルド1890年 10月7日)

 青年たちの益のためにわたしは何と言おうか。あなたはイエスに対し、主の愛、主のあわれみに対して心を開いているだろうか。あなたの魂の部屋が満たされるように、そしてあなたの心の内で神に対して歌い、曲を奏でることができるように。ああ、もしあなたの愛がすべてイエスに捧げられているならば、あなたはカナンの言葉や歌を学ぶのだが!

 あなたがたは、世俗の人の内に軽々しさや不真面目、また虚栄や不道徳、そして洒落や冗談を見ると考えるだろうが、むしろキリストと共によみがえらされたあなたがたの間でそれが見出されないようにしよう。……今わたしたちは自分の考えを高め、そして、主の学校で学ぶために来なければならない。(同上)

 時の終わりに近づくにつれて、悪の風潮は永遠の死に向かって一層明白に流れている。わたしたちはイエスのみ手にしっかりとつかまり、常にわたしたちの信仰の導き手であり、その完成者であるイエスを見上げる時にのみ安全でいられる。主はわたしたちの力強い助け主である。(同上)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だれがわたしたちの友であるか

「不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。」(ヤコブ4:4)

 

 聖書にはこの世に好意と支持を求め、神に寄り頼むことを忘れるよりも、この世の友情や好意を失って、主に堅く結びつくほうがより安全であるというありあまるほどの証拠が用意されている。……

 主ご自身が世のものと、世から選び出し、主ご自身のために清められたものとの間に、隔ての壁をお作りになった。世は、このような区別があることを知らない。 ……しかし神はこのような分離をお作りなり、それをお続けになっている。旧約と新約聖書のどちらにも、主はご自分の民が精神においても、仕事においても、行為においても、世とはまったく別になるようにとはっきり命令された。清い国家であり、特別な民となるために、彼らは暗闇から驚くべきみ光に招き入れて下さった方のみわざを、ほめたたえることができる。光の子らが習慣や行為、また精神 において暗黒の子らから離れているほど東は西から離れていない。この区別は時の終わりが近づくにつれ一層明白に、そして一層決定的になるであろう。……

 わたしたちの仲間に対して彼らの危険を忠実に告げず、また善に対して勧めたり警告したりしないで、へつらったり賞賛することが愛であるといわれることがある。この愛は天から生まれたものではない。わたしたちの言葉や行為は真剣で熱心でなければならない。特に魂の救いをおろそかにしている人々の前ではそうすべきである。……もしわたしたちが彼らと一緒になって軽薄や不真面目、また快楽を追い求めたり、もしくは、心からまじめさを追い出そうとするなら、いつも自分の模範によって彼らに「平安、平安、案じることはない。あなたは警告を受ける理由はない」と言い続けているのである。これは罪人に対して「あなたは問題ない」と言っていることになる。(レビュー・アンド・ヘラルド1884年1月8日)

 もしわたしたちが神の息子娘であると公言しているならば、最後の大いなる裁きの日に、彼らと会う時、彼らの血にはわたしたちの魂は関係ないと不信心な者に言えるような方向を追求すべきである。(同上)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神か富か

「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」(マタイ6:24)

 

 あなたはには、一個人として、救われるか、失われるかの魂がある。ノアやヨブ、またダニエルのような人も自分の義によって彼ら自身だけを救うことが出来た。もしあなたがこのことを考えるなら、あなたは、有益な結果を確実にするために日々あなたの心と力をすべて用いるためにこの上なく、熱心にならねばならないということに気付くであろう。

 世の崇拝者は富を自分の神としている。そして他のすべてのことはこの崇拝に対して二次的なものとなる。クリスチャンは、イエス・キリストについての関心と相いれないすべての愛、快楽の愛を軽視するべきではないであろうか。大切な時間は無価値なものや虚栄に費やされるために与えられたのではない。このような行いにおいて、わたしたちは、この世における現在の平和によって来世の永遠の幸福を自らにごまかしているのである。……

 低い標準をあなたの目標にしてはいけない。目標を高くしなさい。どんな時でも神の御霊の働きを妨げようとしている魂の敵の側で働くようなことがあってはならない。イエス・キリストの力と恵みにあって、躊躇しないで、しっかりと歩きなさい。 ……あなたは創造と贖罪によって二重に神の財産である。そして神の栄光はあなたの個人的な成功にかかっている。

 あなたは世にあって、天使と人の前に見せ物になっている。神にあって勇敢でありなさい。神の武具をすべて身につけなさい。あなたの未信者のお父さん*にセブンスデー・アドベンチストとして神の十戒のすべてに忠実で正直であるためにあなたの生活が汚れのないものであることを示しなさい。あなたは神の断固とした証人になることができ、神はあなたがそうなることを求めておられる。あなたは決して疑いというサタンの側で働いてはならない。恵みの時は大切な時間である。黄金のような時間を神が与えられたタラントを用いることに使いなさい。そうすればあなたは主のために何か良いものを蓄え、あなたのまわりのすべての人の祝福となるであろう。あなたがイエス・キリストに対して、忠誠で、忠実であるのを天使に喜んで見てもらいなさい。(手紙71,1893年)*この文章は未信者の父親を持つ一青年への手紙である

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

息子となる条件

「だから、『彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、あなたがたは、わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる』。」(コリント第二6:17,18)

 

 あなたがたは、いと高き方の息子、娘となることを望んでいるだろうか。ここにこの偉大なる特権の条件が述べられている。出て来なさい。分離しなさい。汚れたものに触れてはならない。世と親交を保ち、世の楽しみに参加し、世の関心と行動を共にしながら、なお神の息子であることはできない。「世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。」(ヨハネ第一3:1)とヨハネは言っている。しかし、わたしたちは、救いの条件を受け入れるよりも、わたしたちの主の敵の好意を受けようとする願望に重さを置くべきだろうか。……神の息子、娘たちから期待できる偉大な事柄がある。わたしは、今日の青年を見て、わたしの心は彼らに期待する。なんという可能性が、彼らの前に開かれていることであろう。もし彼らが、まじめにキリストを知ろうと求めるならば、主はダニエルに知恵をお与えになったように、彼らに知恵を与えられるであろう。……青年たちが、自分のものにすることのできる特権を理解し、また感謝するように、そして誤ることのない神の知恵によって指導していただくようにしなさい。……

 この地上の王の前に招かれたなら、それは偉大な名誉である。しかし、わたしたちに提供されている驚くべき特権を考えよう。神のご要求に従うならば、わたしたちは宇宙の王の息子、娘になることができる。十字架につけられ、そして、よみがえられた救い主によって、わたしたちは、義の実で満たされ、永遠にわたって王の王である方の宮廷で輝くのにふさわしくされる。この世はいと高き方の息子、娘の位の高さを知らない。神の子たちのまわりにいる者は、謙遜な自制心の強い精神、また忍耐深い柔和な心に特別な価値があることを認めない。彼らはキリストを知らないし、評価もしなかった。……彼らは主を理解できなかった。そしてわたしたちが主の聖なるご品性に似た者になればなるほど世から誤解されるのである。わたしたちがキリストと天との交わりに来れば来るほど、わたしたちは世との交わりは少なくなる。なぜならば、わたしたちは世のものではないからである。(レビュー・アンド・ヘラルド1888年2月28日)

 

わたしへの個人的呼びかけ

「わたしは貧しく、かつ乏しい。しかし主はわたしをかえりみられます。あなたはわが助け、わが救主です。わが神よ、ためらわないでください。」(詩篇40:17)

 

 あなたの大きな欠乏があなたを失望させないようにしなさい。罪人の救い主であり、友なき人の友である方は、愛する、そして悩んでいる子供に対する優しい母親よりも、無限に大きな思いやりを持って「わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる」と招いておられる(イザヤ45:22)。「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(イザヤ53:5)。……

 キリストの教えを、個人的な事柄とせず、わたしたちへの個人的な呼びかけとして受け入れないという危険がある。教訓のみ言葉の中で、イエスはわたしのことを言っておられるのである。わたしは、あたかも、世界にキリストがそのために死なれた罪人は他にいなかったかのように、十分に主の功績と主の死、また主の清めの血をわたし自身に当てはめていいのである。……

 わたしたちすべての者が、なすべき、苦労や、戦い、また自己否定がある。だれもそれから逃れることはできない。わたしたちは、イエスが導かれる道を歩まねばならない。それは、涙や試練、分離、罪に対する悲しみの中にあるかもしれない。あるいは、邪悪な欲望や調和の取れていない品性、清められていない気質に勝利しようと努力することにあるかもしれない。わたしたち自身を生ける犠牲、また神に受け入れられる清いものとしてささげることは熱心な努力を要する。それは、わたしたちのすべてをあげてなされるべきものである。その心には、サタンが支配権を持ち、悪だくみを実行することのできる余地はない。自我は、十字架につけられなければならない。献身と従順、そして犠牲は、心臓から命 の血液そのものを取り去るかと思えるほどになされねばならない。(レビュー・アンド・ヘラルド1884年7月22日)

 世に打たれ、軽蔑され、あざけられ、そしられることが、あなたを悲しませるであろうか。そうであってはならない。なぜならば、イエスは、わたしたちにそれがどういうものであるかを告げておられるからである。「もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい」(ヨハネ15:18)。信仰の偉大なる勇者、使徒パウロは、「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」(ローマ8:18)。「なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである」とあかししている (コリント第二4:17)。(同上)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

心の土地を耕すこと

「あなたがたは自分のために正義をまき、いつくしみの実を刈り取り、あなたがたの新田を耕せ。今は主を求むべき時である。主は来て救いを雨のように、あなたがたに降りそそがれる。」(ホセア10:12)

 

 どの教会員にも、農夫のする骨の折れる仕事である新田の開墾や、土地の注意深い浄化、耕作、そしてうねを作って種をまく仕事について考えさせなさい。それは、厳しい、労苦の多い過程である。種をまくためにうねを作ることは、受ける者にとって必ずしも楽しいことではない。そしてしばしば、み言葉の効力を知らず、霊的生活における耕作の過程のもとに、従順であろうとしないために、その人に種まきができなくなる。犯した罪は、悔い改める必要のない心からの悔い改めを要求する。しかし、固い土が耕され、強情さという土のかたまりがこなごなに砕かれると、その後、尊い種をまき、すきで土の中に入れることができる。これは、神の厳しい訓練を表している。しばしば反逆が現れるために、神の訓 練は固くなった人の意志を砕き、目的が達成されるまで、続かなければならない。

 自然界のことと同様、霊的な事柄においてもこの働きがなされなければならない。しばしば、厳格さが、霊的収穫においても必要とされる。適切に種をまき、そこを耕作しないならば、豊かな収穫が得られないことは、神の偉大な法則である。ある一つの経験が欠けている。神の祝福は、主がみ言葉の種をまいておられる間ただ人が、心の土地への霊的働きをなし、その土地に対する勤勉な世話をするようにと待っているのである。

 人が種をまく時、またそれを刈り取る。生活からあらゆる罪を洗い清めるという目的をもってみ言葉を学び、真理が何であるかを知ろうとして聖書を調べる人は、すべて、「主はこのように言われる」との通りにみ言葉の真理を歓迎する。彼らは聖書の真理の鋭い譴責のもとに悔い改める。……もし人が、真の悔い改めという種をまくなら、彼は、健全な働きという良い報酬を刈り取る。もし彼が信仰を持ち続けるなら、安っぽいもの、愚かなものに対する欲望から清められるならば、……義と完全な愛とを刈り取る。……勝利のうちに善行を続けるならば、彼は、日々勝利者となる。なぜならば、彼は、とこしえに彼の前にあるキリストの完全さの印を持つからである。(手紙291,1903年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

霊的な筋肉と筋

「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。」(ヤコブ1:12)

 

 試練の時になると、わたしたちの信仰が試みられ、イエスの現れる時、賞賛と名誉と栄光が与えられるようになるまで、神がわたしたちを試されるという事実を見失いがちである。主は、わたしたちを啓発するために、わたしたちをいろいろな立場におかれる。もしわたしたちが自分の気付いていない品性の欠点を持っているならば、それらの欠点をわたしたちに知らせ、それに勝利できるように訓練してくださる。いろいろな境遇にわたしたちを導かれるのは、主の摂理である。どの新しい立場においても、わたしたちは違った種類の誘惑に遭遇する。試みられるような状況に置かれた時、なんとしばしば「これは、なんという間違いだ。以前のようであったならば、どんなに良かったであろうに」と考えることであろう。しかし、あなたが満足しないのはなぜだろう。それは、新たな環境が、あなたに、品性の新しい欠点を知らせるからである。しかし、あなたのうちになかったものが現わされることはない。……

 困難に遭遇する時、あなたは霊的な筋肉と筋がつくようになる。あなたが、試みの過程と神の試練に耐えるならば、キリストにあって強くなる。……試みが来た時、あなたは、天使と人の前に見せ物になっていることを覚えなさい。そして、主の試みに耐えるのに失敗するたびに、あなたの霊的な力が弱くなっていくのだということを覚えなさい。つぶやかないで、沈黙を守るべきである。そして重荷をイエスのところへ持って行き、あなたの魂全体を主の前に開きなさい。重荷を第三者のところに持って行ってはならない。人間にあなたの重荷を負わせてはなら ない。「わたしは、つぶやくことによって敵を喜ばすことをするまい。そして、心配をイエスの足もとに持って行こう。信仰をもってそれを主に申し上げよう」と言いなさい。もしあなたがそうするならば、天からの助けを受ける。あなたは、「主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない」というみ約束が成就したことに気づくであろう(詩篇16:8)。(レビュー・アンド・ヘラルド1889年8月6日)

 「多くの者は、自分を清め、自分を白くし、かつ練られるでしょう」と神の言葉に記されている(ダニエル12:10)。試練を耐え忍ぶ人だけが命の冠を得るのである。(キリストの実物教訓134)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしの恵みはあなたに対して十分である

「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。」(コリント第二12:9)

 

 この八か月(オーストラリアにおける、エレン・ホワイトの長期の病気の時書かれたもの)、わたしの病気のために、眠れなかった時に、人間を滅びから救うために払われた、驚くべき犠牲にあらわされている、人に対する神の愛を考える最も尊い時を得た。わたしは、イエスの名前を喜んでくり返した。何というやさしい、明るい、そして愛に満ちたみ名であろう。主の義がわたしたちに着せられるようにと、わたしたちの罪を負われて、屈辱と苦しみの十字架を仰ぐ時、わたしたちの心は、和らげられ、心は主の愛で満たされる。……

 苦痛がほとんど耐え難いと思った時、私はイエスを見つめ、そしてこの上なく熱心に祈った。その時、主はわたしの傍らにおられ、やみは過ぎ去り、すべては明るくなった。ちょうどその空気は、尊い芳香で満たされた。真理は何と栄光に満ちたものであったことであろう。何と心を高めることであろう。わたしは、イエスの愛の内に休むことができた。痛みは、尚わたしに残っていた。しかし、「わたしの恵みはあなたに対して十分である」というみ約束は、わたしを慰めるのに十分であった。最も鋭い痛みも、平安と安らぎに移された。夜の数時間、わたしは神との快い交わりをした。わたしの心は明るくされた。つぶやきも、不平も起こらなかった。

 イエスは、わたしの希望と喜び、また勇気の泉であった。天が非常に近くあるように思えた。キリストは、偉大な医師、わたしの回復者、すべての病をいやしてくださる方である。主の中にすべてのものが満ちている。イエスは、わたしの耳に音楽であり、苦しみの杯を飲んでいる時も、命の水が、わたしの渇きをいやすために与えられた。キリストはわれらの義、清め、そして贖いである。この苦しみの数か月を通して、わたしはイエスの恵み深いことについてのこんなにも貴重な幻を見たのであった。決しておぼろげにはしたくないと願った。今、わたしはこの外国でのわたしの病気が、神のご計画の一部であることを信じている。……わたしの心は、天が与えてくださるものに対して、なんと熱心に嘆願したことであろう。わたしは自分で何事も、することができない。力と栄光はすべて神のものである。(手紙28,1892年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主はわたしの助け主

「主は、『わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない』と言われた。だから、わたしたちは、はばからずに言おう、『主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか』。」(へブル13:5,6)

 

 わたしたちは、毎日、毎時間、信仰の良き戦いを戦わねばならない。あなたは、多くの試練に会うであろう。しかし、あなたがそれらに忍耐深く耐えるなら、それらは、あなたを霊的に精錬し、清くし、気高くし、また高める。……まことに大きな患難が地上にのぞもうとしている。そしてサタンの力は、苦しみと、災 害と、滅びを起こすために激しくもろもろの支配権を奮い立たせようとしている。彼の働きは、できる限り災害を人類の上に引き起こそうというものである。地球は、彼が活動する場である。しかし、彼は抑制されている。彼は、主が許されるところを越えていくことはできない。「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(へブル13:5)。「わたしはたなごころにあなたを彫り刻んだ」(イザ ヤ49:16)。……「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」(ヨハネ14:18)。 聖霊は求める者に対して与えられる。考えてみなさい。両親がその子供に良い物を与えようとする以上に主はご自分を求める者に聖霊を与えようと望んでおられる。だから、わたしたちは、楽しみ、喜ぼう。希望と勇気がくじけてしまうまで暗黒の勢力がなす滅びの働きを見るようなことはやめよう。イエスは生きておられる。そして、わたしたちは、わたしたちの信仰によって闇を貫き、光の内に留まり、義の太陽の光の内で喜ばなければならない。

 イエスは、わたしたちのためにとりなしておられる。暗黒や暗闇が世界を閉じ込めつつある間も、キリストと共に神の内に隠されている限りわたしたちの命は安全である。尊い救い主!永遠の命に対するわたしたちの希望は、ただ主にのみ集中されるべきである。その時わたしたちは信仰を語り、希望を語り、勇気を語り、そして四方に光を放つ。「あなたがたは」とキリストは言われる、「世の光である。山の上にある町(である。)……あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:14-16)。信仰は、最も暗い雲を刺し貫かなければならない。神への単純でこの上なく熱心な信頼は、み名に栄光を帰す。そして、その信頼において、あなたは主にあってあますことなく光となることができる。主を讃美しなさい。神を讃美して、その比べるもののない愛のゆえに神に栄光を帰しなさい。(手紙133,1894年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

感情は拒否の証拠にならない

「すべて主を呼ぶ者、誠をもって主を呼ぶ者に主は近いのです。主はおのれを恐れる者の願いを満たし、またその叫びを聞いてこれを救われます。」(詩篇145:18,19)

 

 わたしは、神のみ言葉の内にある尊いみ約束にあなたがたの注意を向けたい。神の子供たちが皆、同じ力、同じ気質、また同じ確信や、勇気をもっているわけではない、わたしたちの感情が、わたしたちが神の子供たちでないという証拠にはならないということをわたしは本当に喜んでいる。敵は、あなたが神からあなたを引き離すようなことをしたので、神はあなたをもはや愛しておられないとあなたに考えさせようとする。しかし、わたしたちの主は、なおわたしたちを愛しておられる。ちょうど、あなたのような場合のために、主が記されたみ言葉によって、 わたしたちは知ることができる。わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。「もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」(ヨハネ第一2:1)。「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(ヨハネ第一1:9)。……

 神はあなたを愛しておられる。そして、あなたのためにご自身をお与えになった尊い救い主は、あなたが誘惑を受け、また、弱さのゆえに打ち負かされたから といって、あなたを突き放したりはなさらない。主は、なおあなたを愛しておられるのである。

 ペテロは試みの時、主を知らないと言った。しかし、イエスは、ご自分のあわれな弟子を捨てられなかった。ペテロは自分を忌まわしく思ったが、主は彼を愛された。そして復活の後、主はペテロの名を呼ばれ、彼に愛の使命を伝えられた。何という、やさしく、愛情深い、また思いやりにあふれた救い主をわたしたちは 持っているのであろうか。そして、主は、わたしたちが過ちを犯していてもわたしたちを愛してくださるのである。

 それだから、愛する救い主の腕から離れると恐れることなく、信頼して信仰のうちに休んでいなさい。主はあなたを愛し、かえりみられる。主はあなたを祝福し、あなたにご自分の平安と恵みをお与えになる。主はあなたに、「あなたの罪は許された」と言っておられる。あなたが肉体的な弱さに落胆しても、それは、主があなたのために日々働いておられないという証拠とはならない。主はあなたを許される。しかも豊かに許される。神の芳しいみ約束をあなたの魂に集めなさい。イエスは変わらない信頼できるわたしたちの友であり、あなたがご自分により頼むのを望んでおられる。……自分自身から目を離し、キリストの完全を見つめなさい。(手紙99,1896年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あなたのために祈った」

「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ 22:32)

 

 ペテロに言われたみ言葉は、すべてのクリスチャンにもあてはまる。「サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」(ルカ22:31,32)。わたしたちは一人で放っておかれてはいないことを神に感謝しよう。これがわたしたちの安全である。サタンは、キリストがあらかじめ試練に備えてとりなしてくださった者に、永遠の災いをもって触れることはできない。なぜなら恵みがキリス トにあって、すべての魂に用意されており、逃れの道が備えられているので、だれひとりとして、敵の力に屈する必要はないのである。サタンは、神の民を攻撃するために多くの強力な誘惑を用意している。サタンは吠えたけるししのように、無防備な魂を求めて歩き回り、巧妙に欺いて、最後にはその魂を滅ぼそうとしている者として表されている。わたしたちはキリストなしには、ただの一歩も安全ではない。しかし、「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」と言われたみ言葉には、なんという宝のような慰めがたくわえられていることだろう。サタンはもみがらをふるいにかけるのである。彼が手に入れたいと望んでいるのは、麦である。だから、わたしたちはいつも、勇気を持って、祈っていよう。

 キリストは、わたしたちの祈りにご自身の犠牲の功績を混ぜてみ父に捧げてくださる。そして、わたしたちの祈りは芳しい香りのように、神のみ前に上るのである。 ……あなたが罪に誘われる時はいつでも、キリストの目があなたの上にあること、そして、サタンはあなたを麦のようにふるいにかけることを願っていることを覚えなさい。あなたの嘆願を天に向かってささげるのを忘れてはならない。そしてイエスがあなたのためにとりなしてくださるのを見なさい。神に熱心な叫びをあげなさい。「主よ、わたしを救ってください。わたしは滅びます」と。そうすればあなた は打ち負かされることはない。罪に陥ることもない。パウロの言葉の上にしっかりと立ち、イエスのうちに、言いなさい。「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」(ローマ8:37-39)。(ユース・インストラクター1894年12月20日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

完全の価

「なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。」(へブル2:10)

 

 わたしたちすべての者に対するキリストの招きは、平和と、休息の生涯―自由と愛の生涯への、そして、将来の不死の命、豊かな御国への召しである。…… この自由の道が、戦いと苦難の中を通っているかどうかを、不安に思う必要はない。わたしたちが享受する自由は、それを得るために犠牲を払うことによって、もっと価値のあるものとなる。知識を越える平和のためには、暗黒の力との戦いや利己心と内なる罪に対する厳しい苦闘を要する。……

 わたしが信仰の目をもって、わたしたちの贖い主が、人間の惨めさのこれ以上ない深みにまで来られたこと、ご自身の上に人性をとられたこと、この上なく苦しまれたこと、そして苦しむことによって罪人を救い、ご自分との交わりにまで引き上げるために神としての御力を出し尽くされたことを悟ることができるまでは、最も高い意味において、彼に感謝することができない。なぜ、わたしたちは、罪について、罪に対する意識がこんなにも薄いのであろうか。なぜこんなにも悔い改めないのだろうか。それは、キリストの十字架にもっと近寄らないからである。良心は罪の持つ欺瞞を通して固くなっている。なぜなら、わたしたちが、キリストから離れているからである。わたしたちの救いのかしらのことを考えなさい。彼は、わたしたちが、永遠の恥と侮辱に苦しまないように、わたしたちのために恥をこうむられた。主は、十字架の上で苦しまれた。それによって恵みが堕落した人類に授けられた。神の義は保たれ、そして罪ある人間は許されている。イエスは、罪人が生きるために死なれた。あわれな罪人のために、最高のお方である御子が恥辱に耐えられた。それによって彼らはあがなわれ、永遠の栄光の冠を受けるのである。……

 わたしたちは、イエス・キリストにあって、自我を隠さなければならない。そしてわたしたちの会話や、品性において、主を全く愛の方として、そして万民のかしらとして表されなければならない。わたしたちの生活や態度は、キリストとご自身を犠牲にして、わたしたちのためになしとげられたその救いとをいかに重んじているかを証しするのである。わたしたちが、自分たちの罪が刺し貫き、わたしたちの悲しみを負われた主を、絶えず見つめる時、主のようになるために力を得るようになる。わたしたちは、自分自身を、自発的で幸せなキリストの捕らわれ人とするであろう。(レビュー・アンド・ヘラルド1881年8月2日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神の律法に生きること

「すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。」(マタイ11:27)

 

 イエスは、エホバの聖なる律法に生きることで、神のご品性をあらわすために来られた。主はご自分の弟子と人々に与えられた教訓の中で、律法の原則をはっきりと示そうとなされた。律法に対する個人的な服従によって、主は日常生活の義務聖なる意味のあるものとされた。主人々の間人として生きられた。……主は。民の間で生活され、彼らの貧困や悲しみを共にされた。主は、人間の前で神の栄光を保たれることによって、またすべてのことを天父のみ心に従わせることによって、すべて詳細に至るまで生活を高貴なものとされた。主のご生涯は、神に対 するこの上ない愛と、同胞としての人々に対する燃えるような愛によって特徴づけられている。……

 主のご生涯は、その始めから終わりまで、自己否定と自己犠牲のそれであった。カルバリーの十字架の上で、主はすべての人間のためにご自身を偉大なる犠牲として捧げられた。それにより、全世界は望みさえすれば、救いを得ることができるようになった。キリストは神の中に隠され、神は御子のご品性において、世界にあらわされている。……

 失われた世界に対する愛は、主のご生涯のすべての日、すべての行為に表されていた。聖霊を注がれている人々は、キリストが働かれたよう働く。キリストのうちで、神の光と愛は、人性において表された。いかなる人間も罪のない神の聖なるひとり子が持たれたような敏感な性質をもった者はなかった。彼は神性が与えられることを通して、人間がどのようなものになれるのかをあらわす頭、および代表者として立たれた。キリストを自分の個人的な救い主として信じる者に、主は、ご自分の功績を着せ、ご自分の力を与えられる。悲しみや失望、また試練を負ってご自分に来る者に、主は休みと平安を与えられる。魂が、神に対する悔い改めの必要を悟るのは、キリストの恵みによってである。……そして、信仰によって、キリストを見つめるように導かれ、主の功績はキリストにあって神に来るすべての者を最高にまで救う力があるということを知るのである。……わたしたちは愛を受け入れるために心を開こう。この愛は決して欠くことのできないものであり、神の戒めを完全に実行するために育成するべきである。(ユース・インストラクター1894年8月 16日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神の変わらざる永遠の律法

「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。」(マタイ5:17,18)

 

 サタンの働きが、天において完成していたならば、神の律法は、変更させられたことであろう。しかし、これはありえないことであった。なぜなら神の律法は、神のご品性の写しであり、神のご品性と同じく、不変のものだからである。もし神の律法において何かの変更が可能ならば、その時、そこで変更され、天で反逆者を救ったであろう。しかし、サタンの要求に応じるために変更されることはなかったのでサタンは、……天の宮における、高い聖なる地位を失ったのである。

 サタンの堕落の後、彼は、アダムとエバの心に働きかけ、彼らの忠誠を捨てるようそそのかした。……その時、神の律法が変えられ、人間の堕落した状態に、かなうように変更できるものであるならば、アダムは許されて、エデンにその家庭を持ち続けていたことであろう。しかし、罪の罰は死であった。そして、キリストは、人間の身代わり、また保証人になられたのである。もし、神の律法が変更され得るものであったならば、その時にその変更がなされ、キリストは天の宮にとどまられ、堕落した人類を救うために払われたはかり知れない犠牲は避けられたはずである。しかし、そうではなかった。神の律法はその性質上、不変のものであり、それゆえにキリストは堕落した人類のためにご自身をささげられた。そして、アダムは、エデンを失い、彼の子孫と共に執行猶予の恵みの下におかれたのである。

 天からサタンが追放されて以来、神の律法の一つでも変更されたならば、サタンは自分が追放される前に、天で得ることのできなかったものを追放されてから地上で得たことになる。彼は、自分が、要求したもののすべてを受け取ったことであろう。わたしたちは、サタンが受け取っていないのを知っている。……律法は、……神のみ座と同様に不変であり、そしてすべての魂の救いは、服従か、不服従かによって、決定されるのである。……イエスは、同情に満ちた愛の律法によって、わたしたちの罪を負われ、わたしたちの刑罰を受け、そして、罪人の飲むべき神の怒りの杯を飲まれた。……彼は、わたしたちのために、自己否定と自己犠牲の十字架を負われた。それは、わたしたちが、命、すなわち永遠の命を持つことができるためである。わたしたちは、イエスのために十字架を負うだろうか。(手紙110,1896年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしたちの行為の標準

「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。」(箴言16:3)

 

 わたしたちは自分の働きを主にゆだねる特権を持っていることを感謝しよう。わたしたちは、命のない機械の一部分なのではなく、知的存在であってはっきりとした良心と、純粋な目的をもって善を選び、悪を拒絶することができるということを覚えているべきである。わたしたちは、わたしたちのなすことすべてに一貫性のある目標を持つべきである。

 主に自らの道をゆだね、その道を主の探る律法によって確かめる必要がある。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ」(詩篇37:5) られる。もし、不正の行為をしているならば、わたしたちは神に自分の道をゆだねることができない。「もしわたしが心に不義をいだいていたならば、主はお聞きにならないであろう」(詩篇66:18)と詩篇記者は言っている。わたしたちの道を主にゆだねる時、わたしたちは心をくまなく徹底的に探り、すべての悪を追い出すべきである。そうすれば、キリストは、ご自分の義を心に満たしてくださる。わたしたちは嘆願の最初に罪の悔い改めをなし、祈りのうちに主を求めるべきである。……

 神の律法は、わたしたちの行動の標準である。神の目は、あらゆる行いをご覧になり、心のすべての部屋を探り、ひそんでいる自己欺瞞や、偽善を見破られる。すべての事柄は神の御目にあらわされており、わたしたちが、(言い開きをしなければならない)主の前に明らかである。しかし主は、深く罪を悔いた心でご自分のところに来る者、すべての悪を捨てようと心から決心している者をお受入れになる。……

 あらゆる仕事上の取引において、またすべての言葉と行為において、わたしたちは、汚れていない目的と、潔白な良心を持ち続けなければならない。わたしたちの働きを神にゆだね、主の御手に全く任せるべきである。わたしたちのなすべきことは、この上なく厳格な完全さを持ってなされるべきである。天の宮に持って行くことのできないようなものを大切にすべきではない。わたしたちが働く時、神に助けを求めよう。そしてこのことだけが、わたしたちの働きを利己心から解放してくれることを悟るべきである。……しっかりと上を見上げなさい。なぜならあなたは、人を生きかえらせる天の空気を絶えず必要としているからである。わたしたちは絶えず天の父と交わって生きる必要がある。……あたかも聖なる神の御前にいるようにあなたの義務を行いなさい。(手紙406,1906年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

服従による幸福

「光のうちにある聖徒たちの特権にあずかるに足る者とならせて下さった父なる神に、感謝することである。神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」(コロサイ1:12,13)

 

 わたしたちの将来の永遠の幸福はわたしたちの人性を、あらゆる能力と力とを持って神に服従させ、神性の支配のもとに置くことにかかっている。多くの者が、イエス・キリストを信じる信仰を持っていない。彼らは、「キリストは、神であったから、天父の意志に従うことは容易であったのだ」と言う。しかし、主の言葉が、主が「わたしたちと同じように試錬に会われたのである」(へブル4:15)と宣言している。主は、主の心の高貴さに応じて、そしてそれに比例して試みられた。しかし、主は、試みに負けることによってご自分の聖なる力を弱めたり、無力にしたりすることを望まれなかった。主の地上でのご生涯において、キリストは、主にあって与えられている特権と機会を通して、人間がどのようになることができるかを表された。……

 サタンが、わたしたちの最初の両親を誘惑した時、……彼らが、人間の領域を超えるべきであるかのように信じさせようと彼らをおだてた。しかし、キリストは、ご自分がわたしたちの前におかれた模範によって、人類の家族の一人一人が人として、人間の領域において、神の言葉に従うように励まされた。主ご自身が、人間となられた。それは、サタンの性質をもって働く彼の奴隷ではなく、主のご品性の写しである神の律法に従順な、道徳的力を持った人間となられたのである。神から発している知恵と善に満ちた律法に従わないで、反逆する者は、背教の力 の奴隷である。

 イエスは、人間と神との間で仲保なさるためにひとりの人となられた。……それによりサタンの巧妙な誘惑によって人間がエデンで失った本来の心を人間に回復するためである。……不従順は、神がエデンで人間に与えられた性質に調和するものではない。

 わたしたちは、キリストが人間に与えて下さった道徳の力を通して、わたしたちを、光の聖徒たちの御国を継ぐものとされた神に感謝することができる。イエス・キリストを通してすべての人間は、自分自身のために、そして自分自身の力で勝利することができ、自分自身の持つ個人の品性にあって立つことができるのである。(手紙121,1897年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

服従のための力

「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。」(ヨハネ15:10)

 

 イエス・キリストを自分の救い主として信じていると公言するある人々は、「だれも律法を守ることはできない」と言い続けてきた。この点に関してキリストのみ言葉は明白である。主は、「わたしは、わたしの父の戒めを守った」と言っておられる。そして主はすべてのことにおいて、わたしたちの模範である。

 山上の垂訓において、キリストは、ご自身の使命をはっきりと述べられた。「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」(マタイ5:17)と言われた。主は預言者たちが証しした事柄について文字通り一つ一つ詳細を実行するために来られた。世の創造の前から父と共に存在された方が、ご自身で、聖なる人々によって記された預言を与えられた。すなわちご自身が後に成就するために来られる預言を与えられたのである。

 キリストは、天父と同等の立場に立っておられる。このことにより、主は罪人のための罪祭となることがおできになった。主は、律法を高め、ほまれあるものとするのに完全に十分であられた。……主は、エホバの戒めを人間の格言や伝統と区別された。主は十戒をその完全な純潔さのうちに真理の表現として、掲げられた。……

 キリストは、神が人間の守ることのできない律法を作ったというサタンの偽りを破るためにこの世界に来られた。ご自身に人性を取ってこの地上に来られ、服従の生涯を送ることによって、人間が守ることのできない律法を神はお作りにはならなかったことを示された。人間にとって律法に完全に従うことは可能であることを主は示された。キリストを自分の救い主として受け入れる者は、主の聖なるご品性にあずかる者となり、主の模範に従って、律法の一つ一つの教えに対して従順に生活するのである。キリストの功績を通して人は、天で自分が信用されるに足る者であり、反逆することはないということをその服従によって示すべきである。

 キリストは、人間がもっているのと同じ性質を持っておられた。彼は人が試みられるのと同じくあらゆる点で試みられた。キリストが、服従するために用いられたのと同じ力をわたしたちも得ることができる。(原稿48,1893年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしたちの忠誠の証拠

「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。」(ヨハネ14:15)

 

 この点を、すべての者の心の中にしっかりと定着させなさい。もしわたしたちがキリストを贖い主として受け入れるのならば、主を統治者として受け入れなければならない。わたしたちが主を認め、その戒めに従うまでは、キリストを救い主として完全に、しっかりと信じ、その保証を持つことはできない。このようにして、わたしたちは、神に対する忠誠をあかしする。その時わたしたちは、自分の信仰に真の響きを持つのである。それは、愛によって働く。心からこう言いなさい、「主よ、わたしはあなたが、わたしの魂を救うために死なれたことを信じます。わたしのためにあなたの命を与えられるほど、わたしの魂を価値あるものにしてくださったので、わたしは、自分の生命とわたしのすべての弱い可能性をあなたの御手にゆだねます」と。意志は、神の御旨と完全な調和をもたらすものでなければならない。(原稿24,1890年)

 今日「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」という招きがなされている(マタイ11:28,29)。キリストは、ご自分のくびきを負い、ご自分の柔和と心の謙遜を学ぶ者すべてに休息を与えてこられた。ここでわたしたちは、自制と従順を教えられ、この中にわたしたちは、休息を見出す。謙遜と従順の中にわたしたちすべての者がとても必要としている事柄すなわち信仰と確信と完全な信頼の中にある休息を見出すことを神に感謝しよう。わたしたちは、自分の首にかける重苦しいくびきを作り出してはならない。キリストのくびきを負って完全な服従により主と共にいる者となろう。……

 「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」(ヨハネ15:10)。これが、キリストがわたしたちにつけるようにと招いておられるくびきすなわち従順のくびきである。「主よ、わたしは、あなたのみ言葉を信じます。あなたのみ約束を受け入れ、あなたの所に来ます。なぜなら、あなたを個人的な救い主として、必要としているからです。キリストが共にいて下さらなければなりません。わたしはあなたにより頼みます。あなたはわたしのものです」と言おう。そうすればキリストは、「わたしの戒めを心に抱いてこれを守る者」すなわち、うわべだけでなく、精神と心を魂と力を尽くして守る者は「わたしを愛する者である」と言われる(ヨハネ14:21)。これが品性の真の標準である。わたしたちは、み言葉を行う者とならなければならない。(手紙66,1898年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

律法のすばらしい単純さ

「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。」(詩篇19:7)

 

 エホバの律法はその単純さとその包容力の大きさ、また完全さにおいて、なんとすばらしいものであろう。神のご計画とみ摂理には、有限な心が、理解できない神秘がある。……

 しかし、神の律法には神秘はない。最も弱い知性も、生活を規制し聖なる型に従って形成するこれらの法則を把握することができる。人の子らが、自分の能力の最善を尽くして、この律法に従おうとするなら、今までよりももっと、神の目的と計画を理解する知性の力と識別力を得るようになる。……

 律法を拡大し、高めるためにキリストがなされた無限の犠牲は、律法の一点、一画といえどもその違反者に対する要求をゆるくすることはないということを、明らかにする。キリストは、罪人が違反によって負った負債を払うために来られた。そして、主ご自身の模範によって、人がいかに神の律法を守るべきかを教えるために来られた。キリストは「わたしがわたしの父のいましめを守った」と言われた (ヨハネ15:10)。……神の僕であると告白している非常に多くの者が、主の律法は取り除かれたといって彼らが神の戒めに従う義務はないと罪人たちに教えているのは、信じられないことである。なんという致命的な惑わしであろう。……

 わたしたちは奴隷の地、死の地に住んでいる。大多数の者は、罪深い習慣や悪の慣習のとりこになっている。そして彼らの足かせは、壊すのが難しい。悪は洪水のように世界に氾濫している。犯罪は、話すことさえ恐ろしいほど日常茶飯事になっている。わたしたちはこれらのことのすべては人間が、神のみ心に従順に生きているから起きているのであるか、あるいは、牧師も人々も、神の戒めは、拘束力を持っていないと信じまた、教えているためから起きることであるかがわかるであろう。(レビュー・アンド・ヘラルド1886年9月14日)

 「神はそのひとり子を与えられるほど、世を愛された」このことにより失われた者も救われる。……主が憐み深い方であることを経験し、知った者は、罪の道に従おうとする思いを持つことができない。自分をそれほどまでも愛して下さった神の律法を破ることは、彼にとって苦痛なのである。(同上1月24日)