最後の夜
「また、ソドムとゴモラの町々を灰に帰せしめて破滅に処し、不信仰に走ろうとする人々の見せしめとし、」(ペテロ第二2:6)
平原の町々を焼き尽くした炎は、われわれの時代にまで警告の光を投げている。神は、罪人をあわれみ、長く忍ばれる。しかし、人間はある定められたところ以上に罪を犯し続けることはできないという恐ろしく厳粛な教訓が教えられた。その限界に達するときに、あわれみの招きは取り去られて、刑罰のわざが始まる。
世の贖い主は、ソドム、ゴモラを滅ぼした罪よりもっと大きな罪があると言われた。罪人に悔い改めを促す福音の招待を聞きながら、それを心にとめないものは、シデムの谷間の住民以上に神の前に罪深いのである。そして、神を知り、その律法を守っていると公言しながら、その品性や日常生活において、キリストを拒む者の罪はさらに大きい。ソドムの運命は、……天からの光と特権を軽んじるすべての人々に対する厳粛な訓戒であると救い主は警告された。(人類のあけぼの上巻172,173)
神の裁きが間もなく地上に注がれねばならない。「逃れて、自分の命を救いなさい」というのが神のみ使いたちからの警告である。別の声が「動揺するな。特に恐慌に陥るような原因はない」と言っている。罪を犯す者にすみやかな破滅が下ると、天が宣言している間に、シオンでくつろいでいる人々は「平和だ無事だ」と叫ぶ。青年や軽薄な者、また快楽を愛する者はこれらの警告を根拠のない作り話だと考え、冗談としてしりぞける。両親はこれらのことに対して自分たちの子供はおおむね正しいと思う傾向があり、みな安心して眠る。ソドムとゴモラが火で焼き尽くされた時、古い世界の滅亡にあたってはこのようであった。破滅の前夜、 この平原の町々は快楽に大騒ぎをしていた。ロトは彼の恐れと警告を発したためにあざけられた。しかし炎の中で滅びたのはあざ笑った人々であった。その夜、ソドムの邪悪で不注意な住民に、恵みの扉が永久に閉ざされた。(教会への証5巻233,234) ロトにソドムを去るようにと警告したその同じ声が、わたしたちに「彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ。……そして汚れたものに触れてはならない」と言われる(コリント第二6:17)。この警告に従う者は避難所を見出す。(セレクテッド・メッセージ2巻354)
忘れてはならない
「ロトの妻のことを思い出しなさい。」(ルカ17:32)
避難者のひとりが、ふり向いて滅びの町を見たために、神の刑罰の記念碑になった。もしロトが、ためらうことなく天使の警告に従い、嘆願や抗議をしないでけんめいに山地をさして逃げていたならば、彼の妻ものがれたことであろう。ロトは、彼自身の模範によって、彼女を罪と滅びから救うことができたのであった。しかし、彼のためらいと遅延が、彼女に神の警告を軽視させた。彼女のからだは平原に来ていたが、彼女の心はソドムに執着していて、それとともに滅びた。彼女は、持ち物や子供たちまでが神の刑罰にのまれてしまうので、神に反逆の精神をいだいた。彼女は罪悪の町から救い出されて大きな恵みをこうむったが、長年かかって蓄積した富を、そのまま残して灰にしなければならないことを、きびしい取り扱いだと感じた。彼女は、救いを感謝して受けるかわりに、神の警告を拒んだ人々の生活をしたって、あえて後ろを振り向いた。彼女の罪は、彼女が生きる価値を持っていないことを示した。彼女は、助けられていることになんの感謝もあらわさなかった。
われわれは、神がわれわれを救うために、恵み深くもとられる方法を軽々しく扱わないように注意すべきである。「わたしの配偶者や子供がいっしょでなければ、わたしは救われたくない」というクリスチャンがある。彼らは、愛する者たちがいなければ、天国は、天国でないと感じる。しかし、神の大いなる恵みとあわれみを考えると、こういう感情の人は自分自身と神との関係について、正しい観念をもっているといえようか。彼らは、愛と誉れと忠誠という最も強いきずなによって、創造主とあがない主の奉仕に結ばれていることを忘れたのであろうか。あわれみの招きは、すべてに与えられた。そして、友人が救い主の愛の訴えを拒むからといって、われわれも顔をそむけるのであろうか。魂の贖罪は尊いことである。キリストは、われわれの救いのために無限の代価を払われた。そして、この大犠牲の価値、また魂の価値を認めるものは、他の人々があなどるからといって、神の恵みの申し出を軽んじないのである。(人類のあけぼの上巻171,172)
もっと良いふるさと
「しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(へブル11:16)
ロトはソドムに移ったとき、自分を罪悪から守り、家族を自分に従わせる堅い決心であった。しかし、彼は、明らかに失敗した。……
今日も同様のまちがいをくりかえす者が多い。‥…子供たちは誘惑にかこまれる。そして、彼らは敬虔の念を養い、正しい品性を形成するには不利な友人を持つ場合が多い。低い道徳観念、不信仰、宗教に関する無関心などの雰囲気は、親の感化を中和させる傾向がある。親や神の権威に対する反抗の実例は、常に青年たちの前にある。多くの者は、無神論者や未信者と親しくなり、神の敵と運命をともにする。
神はわれわれが住宅を選ぶとき、自分たちと家族をとりまく、道徳的、宗教的感化を、まず考慮することを望まれる。希望する環境を持つことができない者が多いから、われわれは苦しい立場に立たされる。もし、われわれが、キリストの恵みにたより、目をさまして祈っているならば、どのような所に召されても、神は、われわれを汚れに染むことなく立たせてくださるのである。しかし、クリスチャン品性の形成に不利な環境に、わざわざ身をさらしてはならない。……
子供たちの永遠の幸福を犠牲にして、世の富と名誉を彼らに与えようとする者は、ついに、これらの利益が恐ろしい損失であることに気づくのである。多くの者は、ロトのように、子供たちを失い、自分の魂を救うことがせいいっぱいであったことを知るであろう。彼らの生涯の事業は失われ、彼らの一生は悲しい失敗である。もしも彼らが真の知恵を働かせていたならば、世的財産は少なくても、永遠の嗣業の獲得権を確保したことであろう。
神がその民に約束された嗣業は、この世のものではない。……
われわれも「もっと良い、天にあるふるさと」を獲得しようと思うならば、この地上で旅人、また寄留者の生活をしなければならない。(人類のあけぼの上巻177-180)
惜しいものはない
「信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。……彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。」(へブル11:17-19)
神は、アブラハムを信仰の父として召されたのであるから、彼の生涯は後世の人々の信仰の模範となるべきであった。しかし、彼の信仰は完全ではなかった。彼はさきに、サラが妻であることを隠し、こんどはハガルと結婚して神への不信を示した。神は、彼が最高の標準に達するために、これまでまだだれも召されたことのないきびしい試練に彼を会わせられた。(人類のあけぼの上巻153) 主は彼に、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れて……彼を燔祭としてささげなさい」と言われた。老人の心は恐怖に黙して耐えた。病気で、こうした息子を失うことは、慈愛深い父親にとって胸のはりさける思いであろう。それは 彼の白髪を悲嘆にくれさせることであろう。しかし今、彼は自分の手で息子の尊い血を流すようにと命令されている。それは彼にとって恐ろしい、不可能なことに思えた。しかし神が語られたのであるからそのみ言葉に従わなければならなかった。アブラハムは年老いていたが、それを理由に義務を免れようとはしなかった。彼は信仰という杖を握りしめ、物も言えないほどの苦痛にさいなまれながら、若者特有のバラ色に輝く健康な自分の子供の手をとって、神のみ言葉に従うために出かけた。…… アブラハムは、もしイサクが殺されたなら、神のみ約束はどうやって成就されるのかという疑問を持とうとはしなかった。彼は自分の痛む心に思いを向けようとはしないで、ちょうど刃物が子供の震えている体に刺しこまれるその瞬間まで、神のご命令をその言葉通りに行った。そして「わらべに手をかけてはならない。」「あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を畏れる者であることをわたしは今知った」というみ言葉が与えられた。(教会への証4巻144,145) アブラハムの信仰によるこの行為はわ たしたちの益のために記録されている。それは神がわたしたちに要求されることは、たとえ自分にとって身を切られるほどのことであっても信頼して従うという大きな教訓を教える。そして子供たちには、両親と神への完全な服従を教えるのである。アブラハムの従順によって、わたしたちは神に捧げるのに借しいものは何一つないことを知る。(同上3巻368)
妻を選ぶ
「あなたはわたしが今一緒に住んでいるカナンびとのうちから、娘をわたしの子の妻にめとってはならない。あなたはわたしの国へ行き、親族の所へ行って、わたしの子イサクのために妻をめとらなければならない。」(創世記24:3,4)
アブラハムは、彼のむすこの周囲にある腐敗的感化の影響を恐れた。アブラハムの、いつもながらの神への信仰と神のみこころへの服従は、イサクの品性に反映されていた。しかし、イサクは愛情が強く、柔和で、人に譲歩する性質もあった。もし彼が神をおそれない人と結ばれるとすれば、一致を保つために原則を犠牲にするという危険があった。アブラハムにとって、むすこに妻をめとることは重大なことであった。アブラハムは、彼を神から引き離すことをしない人と結婚させたいと心から願っていた。‥‥
アブラハムは、カインの時代から彼の時代までの、神を恐れる者と恐れない者との結婚がどんな結果に終わるかをよく知っていた。彼自身とハガルとの結婚の結果、また、イシマエルやロトの結婚関係の結果を、彼は目の前に見ていた。アブラハムとサラの信仰が欠けていたために、イシマエルが生まれ、義人の種族が神を敬わない者と混じった。父の子に及ぼす影響は、偶像礼拝者である母親の側の親族と、イシマエルがめとった異邦の妻たちによってその力をそがれた。 ……
ロトの妻は利己的で、宗教心のない女であった。そして、彼女は、自分の夫をアブラハムから離れさせようとした。ロトは、彼女さえ望まなければ、賢明で神を恐れるアブラハムの勧告も聞けないソドムにとどまっていたくなかった。……
神を恐れる者が、神を恐れない者と結合すれば必ず危険が伴う。「ふたりの者がもし同意しなかったなら、一緒に歩くだろうか」(アモス3:3英語訳)。結婚関係の幸福と繁栄は、ふたりの和合にかかっている。しかし、信者と未信者の間には、趣味、傾向、目的などに根本的相違がある。彼らは、ふたりの主人に仕えている。彼らの間に一致はあり得ない。どんなに純粋で正しい原則を持っているとしても、信者でない伴侶は、神から引き離す傾向を持っている。‥…
「不信者と、つり合わないくびきを共にするな」と主は命じられる(コリント第二6:14,17,18)。(人類のあけぼの上巻181-186)
幸せな結婚
「天の神、主はわたしを父の家、親族の地から導き出してわたしに語り、わたしに誓って、おまえの子孫にこの地を与えると言われた。主は、み使をあなたの前につかわされるであろう。あなたはあそこからわたしの子に妻をめとらねばならない。」(創世記24:7)
イサクは、世界の祝福となる約束の相続人となり、神から大きな栄誉を受けた。しかし、彼が四十才のとき、経験豊かで神を恐れるしもべに命じて、彼の妻を選ばせるという父の判断に従った。聖書は、この結婚が愛に満ちた幸福な家庭を築いたことを美しく描いている。「イサクはリベカを天幕に連れて行き、リベカをめとって妻とし、彼女を愛した。こうしてイサクは母の死後、慰めを得た。」
イサクの歩いた道と、現代の青年たち、またクリスチャンと自称する人々でさえ追い求めている道とは、なんと異なっていることであろう。青年たちは、だれを愛そうと、それは自分だけで決定すればよく、神や親たちからはなんの支配も受けることではないと考えやすい。‥‥こうして現世の幸福と永遠の生命の希望を破壊した人が多い。……
親たちは、子供たちの将来の幸福について責任があることを忘れてはならない。イサクが父の判断を尊重したことは、彼が、服従の生活を愛するように訓育された結果であった。アブラハムは、子供たちに、親の権威を尊重するように教えたが、彼は日常生活において、その権威が利己的または独裁的支配ではなくて、愛に基づき、彼らの福利と幸福を考慮したものであることを示した。(人類のあけぼの上巻186,187)
もし注意深く考慮し、年配の経験豊かな人々の勧告を求めるべき問題があるとすれば、それは結婚問題である。もし、聖書の勧告を必要とし、祈りのうちに神の指導を求めるべきときがあるとすれば、それは、一生を結合する段階にはいる前である。(同上187)
あなたの宗教を示しなさい
「それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、……彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)
アブラハムは、周囲の国々から、偉大な族長、賢明で力ある首長として尊敬された。彼は、隣人に自分の感化を及ぼさないようにはしなかった。彼の生活と品性は、偶像礼拝者たちと著しく異なっていて、真の信仰の非常によい感化を及ぼした。彼の神への忠誠は不動のものであるとともに、彼の親しみやすさと情深さは、人々の信頼と友情をかち得、彼の飾らない偉大さは、尊敬と栄誉を受けた。
アブラハムは、宗教をひそかにしまっておいて、所有主がひとりで楽しむ秘宝のようなものだとは思わなかった。真の宗教は、そのようにしまっておけるものではない。そのような精神は福音の原則に反する。キリストが心のなかに住んでおられるなら、彼の臨在の光をかくすことも、あるいは、その光が暗くなることもあり得ない。
かえって、魂にかかる自我と罪の霧が、義の太陽の明るい光に照らされて、日ごとに消されていくにつれて、ますます輝きを増すことであろう。
神の民は、地上の神の代表者である。神は、この世界の道徳的暗黒のなかで、彼らが光になることを望まれる。彼らは、全国の都市や村々に散在した神の証人であって、神は、彼らを通して、神のみこころと神の驚くべき恵みの知識を不信の世界にお伝えになる。大いなる救いにあずかった者がすべて、主のための伝道者になるように神は計画された。クリスチャンの敬神深さを標準にして、世の人々は福音を評価する。忍耐強く試練に耐え、感謝して祝福を受け、柔和、親切、あわれみ、愛を習慣的にあらわすことなどが、世の人々の前で、品性から輝き出る光であって、生まれつきのままの心の利己心から出る暗黒との相違を示す。(人類のあけぼの上巻133,134)
異なった双子
「さてその子らは成長し、エサウは巧みな狩猟者となり、野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた。」(創世記25:27)
イサクのふたごのむすこ、ヤコブとエサウは、その性質も、生活ぶりも著しく異なっていた。……
エサウは、自分を楽しませることを好み、ただ現在のことばかりに心を奪われて成長した。彼は、束縛に耐えられず、自由奔放な狩りを楽しみ、早くから猟師の生活を選んだ。しかし、彼は父親の気に入っていた。物静かで、平和を愛する牧羊者は、長子の勇気と活気に心をひかれた。エサウは、恐れることなく、山やさばくを歩き回って、父親に獲物を持って帰り、心おどる冒険談を話して聞かせるのであった。
ヤコブは、思慮深く、忠実で用心深く、現在のことよりは将来のことを考えていたので、家にいて家畜の世話をしたり、土を耕したりして満足していた。母親は、彼の忍耐力、倹約の精神、先見の明などを高く評価した。ヤコブの愛情は深く強かった。そして、彼の物静かで根気強い思いやりの精神は、エサウの荒々しい、時おりの親切よりは、彼女により大きな幸福感を与えた。‥…
ヤコブは、長子の特権が自分に与えられるという神の告示を母親から聞き、なんとかしてその特権を自分のものにしたいという言葉には表現できない願望に満たされた。彼が渇望したのは、父親の富を所有することではなかった。彼が願い求めたものは、霊的長子の特権であった。義人アブラハムのような神との交わりにはいり、家族のために犠牲をささげ、選民と約束の救い主の先祖となり、契約の祝福に含まれている永遠の嗣業にあずかることなどが、彼の熱心に求めてやまない特権であり、誉れであった。……
しかし、ヤコブは、このように現世の祝福よりは永遠の祝福を尊重はしたが、まだ彼の敬う神について体験上の知識はなかった。彼の心は神の恵みによって新たにされていなかった。彼は、兄が長子の権利を保持するかぎり、自分に関する約束は実現し得ないと思った。そして、彼は、兄が軽視しても自分には非常に貴重なその祝福を確保しようと、絶えず策略をめぐらしていた。(人類のあけぼの上巻189―191)
よじれた価値
「そこでヤコブはパンとレンズ豆のあつものとをエサウに与えたので、彼は飲み食いして、立ち去った。このようにしてエサウは長子の特権を軽んじた。」(創世記 25:34)
エサウは献身を好まず、宗教生活を送る気持ちがなかった。彼にとって、霊的な長子の特権に付随した要求は、好ましくないというよりはやっかいな制限とさえ思われた。アブラハムと神との契約の条件であった神の律法は、奴隷のくびきのようにエサウには思われた。彼は放縦を好み、ただ自分の欲するままにふるまう自由を望むだけであった。彼にとって、権力と富、飲食と宴楽が幸福なのであった。彼は、なんの束縛もない奔放な流浪の生活の自由を誇った。(人類のあけぼの上 巻190)
エサウのような人々が非常にたくさんいる。エサウは、自分の手の届くところにある特別貴重な祝福、すなわち永遠の始業、宇宙の創造主である神の命と同じ不朽の命、計り知れない幸福と栄光の永遠の重みをもっていながらも、あまりに長い間、食欲、情欲、生来の傾向にふけってきたために、永遠の事柄についての価値を識別し、正しく理解する能力が弱くなってしまった人々を代表してい る。
エサウはある特定の食物に対して、特別な強い願望を持っていた。そして彼は長い間自分を喜ばせることをしてきたので誘惑に負けないようにしようとは思わず、その魅力的な食物をどうやってでも食べようと決心した。彼は、食欲のカが自分を支配してしまうまで、自分の食欲を抑えるために特別の努力をしようとは思わなかったので、もしその特定の食物を食べることができなければ、非常に不都合なことが起こり、さらに死ぬかもしれないと想像した。このように考えれば考えるほど、ますます欲望がつのり、神聖な長子の特権がその価値と神聖さを失ってしまったのであった。(教会への証2巻38)エサウはそれを知らないで、生涯の危機を通過した。彼がほとんど考えるに値しない間題と見なした事が、彼の品性の顕著な特徴を露呈した行為であった。それは彼の選択を示し、神聖な、そして厳粛な思いで大切にすべきであった事柄に対する、彼の真実な評価を示した。彼はせつな的願望を満たすため、些細な道楽のために自らの長子権を売った。そしてこれが、彼の生涯を決定した。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]1 巻1094,1095)
エサウは、無限の値をもって買われた、自分たちのものである特典を味わうこともなく、若干の食欲の満足感、あるいは利得のために自らの長子権を売ってしまった人たちを代表している。(同上)
交換された長子権
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ」(詩篇37:5)
イサクは、ヤコブよりもエサウを愛した。そして、自分の死ぬのもまちがいと思ったイサクは、死ぬ前に祝福をあたえたいから、肉を料理して持ってくるようにとエサウにたのんだ。……イサクのことばをきいたリベカは、「兄は弟に仕える」と言われた神のみことばを思い出した。彼女はまた、エサウが家督権を軽んじてこれをヤコブに売ったことも知っていた。……
リベカは、イサクがエサウを偏愛していることを知っていたので、理屈では彼の目的を変えることができないものと信じこんでいた。彼女は、すべての事件の処理者である神に信頼しないで、ヤコブに父親を欺くように説きすすめて信仰の足りなさを暴露した。……
もしエサウが、長子にあたえられる祝福を父親から受けたとしても、彼に繁栄をあたえることができるのはただ神だけである。神はエサウの行為にしたがって、彼に祝福と繁栄をあたえることも、あるいは逆境をあたえることもおできになった。もし彼が、義人のアベルのように、神を愛し神を敬ったら、彼は神に受け入れられ祝福されたはずだった。もし悪人のカインのように、神を敬うことも、神の誡を守ることもしないで、自分の堕落した道を歩むのだったら、神から恵みを受けないで、カインのように神から捨てられるのだった。もしヤコブが正しい道を歩み、神を愛し、神を敬ったら、彼は一般に長子にあたえられる祝福と特権を手に入れなくても、神から祝福され、神の繁栄のみ手は彼とともにあっただろう。(生き残る人々107,108)
ヤコブとリベカは、目的を達したものの、彼らの詐欺行為によって得たものは、苦悩と悲哀だけであった。神は、ヤコブが長子の特権を得るであろうと言われたのであるから、神が彼らのためにそうしてくださるのを信仰をもって待っておれば、神の言葉は、神ご自身がよいと思われるときに達成されたことであろう。しかし、今日神の子であると公言する多くの人々のように、彼らはこの事を主の手にゆだねようとしなかった。リベカは、自分がむすこにまちがったことを勧めたことを非常に後悔した。これが、ヤコブをリベカから引き離す原因になり彼女は、ふたたび彼の顔を見ることができなくなった。(人類のあけぼの上巻194)
苦い代価
「彼はその後、‥‥涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。」(へブル12:17)
ヤコブが父の天幕を去ると、すぐ、エサウがはいってきた。エサウは、長子の特権を売り渡し、その取り引きを厳粛な宣誓によって、確認はしたが、彼は、今弟がなんと言おうと祝福を獲得しようと決意した。長子の霊的特権には、物質的特権も含まれていて、家族の指導権と父の富の二人前が与えられることになっていた。彼が高く評価したのは、こうした祝福であった。……
エサウは、祝福が自分の手元にあると思ったときには、それを軽々しく評価したが、永久に彼から離れ去ったとなると、手に入れたいと思った。彼の衝動的で激しやすい性質がそのままあらわれ、彼の悲しみと怒りは大きかった。彼は、激しく泣き叫んだ。「父よ、わたしを、わたしをも祝福してください」。……
彼が軽率に手放した長子の特権は、ふたたび取りもどすことができなかった。「一杯の食」のため、すなわち、制することをしなかった食欲の瞬間的満足のために、エサウは長子の権利を売った。しかし、彼が自分の愚かなことを悟ったときには時すでにおそく、祝福を取りもどすことはできなかった。……
エサウは悔い改めるならば、神の恵みを求める特権がなくなったわけではなかった。しかし、彼は長子の特権を回復する方法をみつけることはできなかった。彼の悲しみは、罪を認めたことからではなかった。彼は、神との和解を願わなかった。彼は、罪の結果を悲しんだが、罪そのものを悲しまなかった。(人類のあけぼの上巻195,196)
悔い改めとは罪を悲しむことと罪を離れることを含む。人は罪の恐ろしさを知るまでは罪を捨てるものではない。心の中で全く罪から離れなければ、生活にほんとうの変化は起らないのである。
悔い改めの意味のほんとうにわかっていない人が多くある。罪を犯したことを嘆き、外面 的には改める人もありますが、それはその悪事のために苦しみに会わねばならぬことを恐 れるからである。しかしこれは聖書に教えられた悔い改めではない。彼らは罪そのものよりは、むしろ罪からくる苦しみを悲しむのである。エサウが家督の権を永久に失ってしまったと気づいた時の悲しみがそうであった。(キリストへの道22,23)
逃亡者に希望
「時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。」(創世記28:12)
エサウの怒りに生命をおびやかされて、ヤコブは逃亡者となって父の家を出た。しかし、彼は、父の祝福をたずさえていった。イサクは、契約の約束をヤコブにもう一度くり返し、彼がその相続者であるから、メソポタミヤの母方の家族のなかから妻をめとるように命じた。しかしヤコブは、深く物思いに沈んでさびしい旅に出かけた。彼は、ただ一本のつえをたよりにして、荒々しい遊牧の民の住んでいる原野を何百キロも旅しなければならなかった。彼は後悔と恐怖に襲われ、怒った兄につけられないように人目を避けていた。彼は、神が彼に与えようとされた祝福を永遠に失ったのかと恐れた。そして、サタンは、そばで彼を試みるのであった。……
絶望の暗黒が、彼の心におしかぶさり、祈ることすらできなかった。しかし、その極度の寂しさのなかで、これまでになかったほどに神の保護の必要を痛感した。彼は、涙を流して深く恥じ入り、罪を告白し、自分が全く見捨てられていないという確証を願い求めた。……
神はヤコブを見捨てられなかった。神のあわれみは、なお、罪深い不信のしもべに注がれていた。主はヤコブをあわれみ、彼が最も必要としていた救い主を示されたのである。
放浪者は旅に疲れ果てて、石をまくらにして地に横たわった。彼が寝ていると、一つの光り輝くはしごが地上に立ち、その頂が天に達しているのが見えた。このはしごの上を天使たちが上り下りしていた。その上のほうに栄光の主がおられ…た。 ……
ヤコブが目をさますと、あたりはまだ夜の静けさに包まれていた。幻の輝かしい光景は消えていた。さびしい山々の輪郭の上に星空が輝いて見えるだけであった。しかし、彼は、神が自分と共におられるという厳粛な感に打たれた。見えない臨在が寂しい場所に満ちていた。「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった。……これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」と彼は言った。(人類のあけぼの上巻198-200)
神ご自身のものを神に返す
「またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます。」(創世記 28:22)
重大な事件を記念するときの習慣に従って、ヤコブは神のあわれみの記念碑を立てた。それは、彼がこのあたりを通るときに、この神聖な場所にしばらく足をとめて主を礼拝するためであった。……彼は深い感謝の念をいだいて、神が彼と共におられるという約束をくりかえした。そして、彼は厳粛な誓いをたてた。「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。
ヤコブはここで、神と取り引きをしようとしているのではなかった。主は、すでに彼に繁栄を約束しておられた。だからこの誓いは、神の愛とあわれみの保証に対する感謝として彼の心からあふれ出たものであった。ヤコブは神に感謝をいいあらわす必要を感じた。そして特別に神の恵みのしるしが与えられたならば、神に返礼すべきであると思った。それと同様に、われわれも、与えられるあらゆる祝福に対して、すべてのあわれみの源泉であられる神に感謝をあらわさなければならない。クリスチャンは、時おり自分の過去の生涯をふりかえってみて試練のときに支持が与えられ、暗黒と絶望のなかで道が開かれ、倒れるばかりのときに勇気づけられたことなど神から与えられた尊い救済の経験を思い出して感謝しなければならない。彼は、こうしたすべてのことを、天使の保護の証拠と認めるべきである。このような数えつくすことのできない祝福を思うとき、クリスチャンは、謙虚で、感謝の心をもって、「わたしに賜わったもろもろの恵みについて、どうして主に報いることができようか」と時おりたずねてみなければならない。
われわれの時間、才能、財産などは、これらの祝福をわれわれに委託された神にささげるべきである。われわれが特別に危険から救出されるとか、または、新しい予期しない恵みにあずかる場合には、言葉で感謝を表現するだけでなくて、ヤコブのように神のわざのためにささげ物や献金をして、神の恵みに感謝しよう。われわれは絶えず神の恵みを受けているのであるから、絶えずささげるべきである。(人類のあけぼの上巻201,202)
忠実な羊飼い
「ヤコブは彼に言った、『わたしがどのようにあなたに仕えたか、またどのようにあなたの家畜を飼ったかは、あなたがごぞんじです』。」(創世記30:29)
ヤコブの働きは勤勉で忠実であった。…羊飼いは、昼も夜も群れを守っていなければならなかった。羊の群れは盗まれるおそれがあった。また、数多くのどうもうな野獣に襲われる危険もあり、よく見張っていないと群れが襲われ、大きな損害をこうむるのであった。ヤコブの下で多くの羊飼いが働いていて、ラバンの広範囲にわたる群れを養っていたが、彼自身がすべての責任を負っていた。一 年の中のある期間は、彼自身が群れといつもいて、乾燥期には群れがかわいて死なないように、また最も寒い数か月の間は、群れがひどい夜の霜にこごえないように守らなければならなかった。…
キリストは、ご自分と民との関係を羊飼いにたとえられた。人間の堕落後、キリストはご自分の羊が、罪の暗い道で滅びる運命に陥ったのを見られた。彼は、これらのさまよう人々を救うために、天の父の家の誉れと栄光とを捨てられた。「わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし」「それゆえ、わたしはわが群れを助けて、再びかすめさせず」「地の獣も彼らを食うことはない」(エゼキエル書34:16, 22, 28) 。「昼は暑さをふせぐ陰となり、また暴風と雨を避けて隠れる所」である彼のおりに群れを導く彼の 声が聞こえる(イザヤ書4:6)。彼は根気強く群れを守られる。彼は弱いものを強め、苦しみを和らげ、腕に小羊をだき、ふところに入れてたずさえられる。羊は彼を愛する。「ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」(ヨハネ10:5)。キリストは言われる。「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている」(ヨハネ10:11-14) 。
大牧者キリストは、彼の牧者たちに、彼の下で働く羊飼いとして群れの世話をすることをゆだねられた。そして、ご自分が持たれた同じ関心を彼らも持って、主からゆだねられた任務の清い責任を感じるように命じられる。…キリストは羊を救うために、ご自分の命を捨てられた。(人類のあけぼの上巻206-208)