彼を知るために 12-② | セブンスデーアドベンチスト 聖書研究シリーズ 聖書入門その3

セブンスデーアドベンチスト 聖書研究シリーズ 聖書入門その3

あなたの隣人に伝えてください。
真理を伝えてください。

セブンスデーアドベンチストは真理の保管者です。
エレン・G(グールド)・ホワイト 聖書 キリスト
もう間もなく、再臨があります!

誰も日本語訳をつけないので私が伝えます
古い記事からお読みください

長くはない

「さあ、わが民よ、あなたのへやにはいり、あなたのうしろの戸を閉じて、憤りの過ぎ去るまで、しばらく隠れよ。」(イザヤ26:20)

 

 嵐がひとまとめに、罪に眠っている世界を急に襲うときはそう遠くない。…地球が酔った人のようによろめき、天が震え、主の大いなる日が来る時、だれが立ち得ようか。彼らは恐れおののいて御前から逃れようとむなしい努力をしながら、あるものを見る。「見よ、彼は、雲に乗って来られる。すべての人の目が…彼を仰ぎ見るであろう」(黙示録1:7)。救われなかった者は、ロのきけないもの、すなわち自分たちの神に向って、激しい呪いの言葉を言う。「そして、山と岩とに向かって言った、『さあ、われわれをおおって、御座にいます方のみ顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ』」と(黙示録6:16)

 被造物は、その神に忠実であり、血迷った呼びかけに耳を貸すことはない。報いられなかった愛はいま憤りに変った。自分の罪をイエスに取り除いてもらおうとしなかった罪人は、隠れ場を求めてあちらこちらに走り、刈入れの時は過ぎ、夏はもはや終わった、しかし、われわれの魂はまだ救われないと叫ぶ。‥‥

 主の恵みをあざける者には小羊の憤りは非常に恐ろしいが、すべての主を受け入れた者には恵みと義と愛と祝福である。エジプト人にとっては、恐ろしい復讐的怒りをもった暗黒であった雲の柱は、神の民にとっては輝かしい火の柱であった。このことは、最後の時代の主の民にとっても同じなのである。主の十戒を守る者たちにとっての神の光と栄光は、信じない者たちにとっては暗黒である。彼らは生ける神の手に落ちることは恐ろしいことであると考える。ご自分に来る者を救う為に長く伸ばされた強いみ腕は、命をいただくために、主に来ない者すべて にとって主の判決を遂行するのに強いみ腕となる。恵みがまだ去りかねている間、招きの声がまだ聞かれる間、神は主に帰ることを許される。すべての魂を保護し、主の戒めを守る者を憤りの過ぎ去るまでかばうために確かな備えがなされている。(手紙137, 1890年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしたちが持つことのできる 最上の設計書

「祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。」(テトス2:13)

 

 わたしたちは再臨信徒である。わたしたちの主である救い主イエス・キリストの出現を待っており、それについて考えることが好きである。わたしたちは自分が信じてきた方を知っており、かの日のためにわたしたちの魂を主に委ねることを恐れない。わたしたちは再臨信徒であることを公言するのをまったく恥ずかしいとは思わない。

 わたしたちは、第四条の戒めである安息日を信じる。なぜならそう明確に記されているからである。そしてこれがわたしの宗教的な信仰の土台である。人間の会議による権威を受け入れない。むしろ、もっと以前の天の会議にまでさかのぼる。「主よ、あなたのみ言葉は天においてとこしえに堅く定まり」とある(詩篇119:89)。わたしたちは「主はこう言われる」という言葉を取る。これがわたしたちの立場である。「主はこう言われる」という言葉を持たない教理は、全世界の人に受け入れられるかもしれないが、そのことがその教理を真理とするわけではない。…もしわたしたちが天国への道を知りたいと望むならば、人間の作った学説や、仮説ではなく、聖書を学ばなければならない。……わたしたちは、わたしたちの信仰、セブンスデー・アドベンチスト主義を決して恥じたりはしない。なぜならば、これこそわたしたちが持つことのできる最上の設計書だからである。わたしたちは、わたしたちの主なる救い主、イエス・キリストの再臨を待っている。人々が、わたしたちの信仰を嘲り、ひやかしても、このことが、わたしたちを憤慨させたり、驚かすようであってはならない。こういったすべての示威行動は真理を誤りにすることもないし、誤りを真理にすることもないのである。わたしたちは神のみ言葉という土台の上に堅く、動かされることなく自分の立場を置くのである。 ……

 永遠の事実が心の目の前に据えられなければならない。世の魅力はそのあるがまま、すなわち全く益のないものと映るようになる。…わたしたちは、祝福された望みであるわたしたちの主なる救い主イエス・キリストの栄光の出現を待ち、望み、祈っている旅人であり、寄留者である。もしわたしたちがこのことを信じ、実際生活の中にあらわすなら、何という力強い活動がこの信仰と希望に吹き込まれ、互いに対する燃えるような愛が吹き込まれることだろう。‥…神の栄光のためにどれ程注意深い清い生活を送るようになり、……わたしたちと世の間に引か れる境界線をはっきりしたものにすることだろう。(原稿39,1893年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

絶えず続く準備

「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(マタイ24:44)

 

 わたしたちは、将来を見ることができないので、しばしば、そのことが不安と不幸との原因になる。しかし、わたしたちが神の慈愛を持っているという最も大きな証拠の一つは、主 が、明日の出来事を隠しておられるということである。わたしたちが明日を知らないということが、わたしたちを今日もっと用心深い者にし、また熱心な者とする。わたしたちは自分の前に何があるかを知らない。わたしたちが最善を尽して作った計画も、時に愚かで欠陥があるように思える。わたしたちは、「将来を知ることさえできたなら」と考える。しかし、神はご自分の子らがご自分を信頼し、神が導かれる所に行く用意をしていることを望んでおられる。わたしたちは主が天の雲に乗って、現われる正確な時を知らない。しかし主は、わたしたちにただ一つの安全は、絶えず準備していること、すなわち目を覚まし待っていることであると告げておられる。わたしたちの前に、1年あるいは5年、10年あろうとも、今日わたしたちは委ねられたものに忠実であるべきである。わたしたちは日毎の義務をその日こそ、最期の日であるかのように忠実に果すべきである。 わたしたちが怠けて待っているなら、神のみ心を行なっているとはいえない。神はすべての者に働きをお与えになった。そして主は各自が忠実に自分の分をなすことを期待しておられる。…かつてなかったほど罪、すなわち暗黒の力に対して抵抗しなければならない。時は、現代の真理を信じる者達が精力的に決定的にその分を果たすことを要求している。彼らは真理を言葉と行いによって示さなければならない。 救い主の再臨を長く待たねばならないように思えるならば、また悩みに打ちひしがれ、骨折りに疲れたならば、また終りの任務に耐えられないと感じ、戦いから放免されたいと思うならば、次のことを思い出しなさい。そして、次のことを覚えてすべてのつぶやきを抑制しなければならない。つまり、神はわたしたちを地上で嵐や争闘に遭遇し、クリスチャン品性を完成し、わたしたちの父なる神とわたしたちの兄であるキリストをもっとよく知り、そして、キリストに多くの魂を勝ち取ることによって、主のために働きをなすためにわたしたちを地上に残しておられるのである。そしてわたしたちは「よくやった、よい忠実な僕よ、あなたの主の喜びに入りなさい」 (マタイ25:23参照)という言葉を、喜びをもって聞くことができる。(レビュー・アンド・ヘラルド1881年10月26日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最終の決定の日

「また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。」(黙示録20:12)

 

 聖書は、「神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れたことを善悪ともにさばかれるからである」と宣言している(伝道12:14)。この事に関して、疑いの余地はない。…罪は父や母また妻や子供、そして友人には秘密にされ、否定され、覆い隠されるかもしれない。罪を犯した本人以外は誰もその悪事に対し、少しも疑いを心に抱かなくても、天の知的存在者たちの前にはあらわにされる。この上なく暗い夜の暗さも人を欺くあらゆる巧妙な秘密も、永遠なるお方の知識からその一つをも隠すことはできない。……

 主は、アダムとエバが禁断の木の実を取った時、それをご覧になった。罪を犯して彼らは御前から逃れ「自分たちを隠した」。しかし、神は彼らを御覧になった。彼らは主の目から自分の恥をおおい隠すことができなかった。カインが弟を殺した時、彼は自分の行為を否認することによって自分の犯罪を隠そうとした。しかし、主は「あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます」と言われた( 創世記4:10)。

 悔い改めず告白していないすべての罪は、記録の書に残っている。それは消し去られることがない。イエスの贖いの血による取り消しが裁きに先立って行われることはない。個人個人の徐々に蓄積された罪は完全な正確さをもって記される。そして神の律法の刺し通す光はすべての暗黒の秘密を裁く。彼らに対して神が要求される光と機会と知識に比例して、神の恵みの拒絶者たちに有罪の宣告がなされる。

 最終決定の日がわたしたちの前に迫っている。聖書は、生活と品性を形づくる完全な標準として神の律法を提示している。この戒めに対する従順の唯一で完全な模範は、神の御子、すなわち失われた人類の救い主の中に見られる。主には一点の不義もない。そしてわたしたちは主のみ足の跡に従うように命じられている。(レビュー・アンド・ヘラルド1888年3月27日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

恐れるな、神の子よ

「わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、『恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている』。」(黙示録1:17, 18)

 

 パトモス島に流されたヨハネは、「わたしはアルパであり、オメガである。初めであり、終りである」という声を聞いた(黙示録1:18英訳)。その声を聞いた時、ヨハネは驚いて死人のように倒れた。彼は神の栄光の光景に耐えることができなかった。しかし、一つの手がヨハネを起こした。そして、彼が覚えていた主の声を聞いた。彼は強くされ、主イエスと話すことに耐えることができた。散らされている神の民、すなわちある者は山の砦に、ある者は追放され、ある者は追跡され、ある者は迫害を受ける。神の残りの民も同様である。神の声が聞こえ、栄光の輝きが現れる時、悩みの時が去り、不純物が取り去られる時、彼らは、自分たちが自らの血潮で贖って下さった方のみ前にいることを知る。ちょうど流刑のヨハネに対してキリストがなされたように、主は、信仰とイエス・キリストのあかしのために、迫害の手を感じている主の民に対して、同様になさる。…… 彼らは迫害の嵐がうずまく大嵐によって岩の裂け目に追いやられたが、千歳の岩に隠れていた。そして山の砦や他の洞穴や隠れ場にいても、救い主はご自身の臨在と栄光をあらわされる。それはもうしばらくの間であって、主は必ず来られ、遅れることはない。主の目は、燃える炎のように、堅く閉ざされた地下牢の中をも見通し、隠れた者を捜し出される。彼らの名前が小羊の命の書に書かれてい るからである。救い主の目は、わたしたちの上にあり、わたしたちのまわりにあって、すべての困難に注意を払い、あらゆる危険を見分けられる。主の目が届かない所はない。キリストの同情が届かない主の民の悲しみや苦しみはない。

 神の子はイエス・キリストの至高の主権者としてのみ姿を初めて見るとき、恐れおののくであろう。彼は、主の聖なる御前に生きることはできないと思う。しかし、ヨハネに「恐れるな」という言葉が与えられたように彼にもみ言葉が与えられる。イエスはご自分の右手をヨハネにおかれた。主は彼の地上に倒れた体を起こされた。主はご自分の忠実な、またご自分を信頼する者に対してもそのようになさるのである。(原稿56, 1886年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主の完全さを着る

「そこで、子たちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、彼が現れる時に、確信を持ち、その来臨に際して、みまえに恥じいることがないためである。」(ヨハネ第一2:28)

 

イエスは罪のうちにではなく、罪から罪人を救い、そして真理を通して彼らを清めるためにこの世界に来られた。主がわたしたちにとって完全な救い主となられるために、わたしたちは信仰の個人的な行為によって、主との一致に入らなければならない。キリストは、わたしたちを選び、わたしたちは主を選んだ。この選びによってわたしたちは主と結合する。そしてこれからは、自分のために生きるのではなく、わたしたちのために死なれた主のために生きるようになる。この結合は、絶え間ない注意によってのみ維持できる。さもなければ、誘惑に陥り、誤った選択をする。なぜなら、わたしたちは自分が望めばいつでも別の主人を選択することができるからである。キリストとの結合はすべての行為と思いにおいて主を必ず選ぶことを意味する。… わたしたちは自分をキリストの家族の一員であると考えるべきである。そしてわたしたちは愛されている子供として主に従うべきである。神の家に養子になったならば、天父とわたしたちの親族をあがめないでおられようか。‥… わたしたちは自分の魂と敵の間に断固たる敵意を確立しなければならない。しかし、わたしたちは、聖霊の力と影響には、わたしたちの心を開かなければならない。わたしたちは、サタンの暗黒は閉め出し、天の光は流れ込むようにと望む。イエスのほんのかすかなささやきでもわたしたちの心を動かすほどに聖なる影響に敏感な者となりたい。…その時、わたしたちは神のみ旨を行なうことを喜び、キリストは天父と聖天使の前でわたしたちをご自分の内に宿る者として所有することがおできになる。 しかし、わたしたちは、自分の聖なることを誇らない。わたしたちがキリストのしみのない無限の純潔をもっとはっきりと見るとき、ダニエルが、主の栄光を見て「わが顔の輝きは恐ろしく変わった」と言ったようにわたしたちも感じるであろう(ダニエル10:8)。わたしたちはこのみじめな体が変化し、主の輝かしいからだに造られるまで、わたしには罪がない」と言うことはできない。しかし、イエスに従おうと絶えず望むならば、しみもしわも、そのたぐいのものがいっさいなくキリストにあって完全となり、主の義と完全を着て神の御座の前に立つという祝福された望みはわたしたちのものになる。(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1888年3月23日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

永遠の門口

「この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。『死は勝利にのまれてしまった』。」(コリント第一15:54, 55上句)

 

 この世界で愛する者を失っていく人々にとって、将来の不死の命を彼らの前に明らかにする神の約束を信じる信仰と希望は、なんと尊いものであろう。彼らの望みは、世界の目には見えていない将来の現実を確信する。キリストは初穂として死からよみがえられた。希望と信仰は、復活の朝、不死の命を着て出てくるという完全な信仰によって墓の暗い影を通るために魂を力づける。神のパラダイス、 そこは祝福された者の家郷である。そこでは、すべての顔から涙が全く拭い取られるのである。キリストが二度目に来られる時「信じる者たちの間で驚嘆される であろう」(テサロニケ第二1:10)。死は勝利にのまれ、もはや病気も悲しみも死もない。豊かな約束がわたしたちに与えられている。「命の木にあずかる特権を与えられ、また門を通って都に入るために、神の戒めを守る者たちは、幸いである」 (黙示録22:14英訳)。神を愛する者たちにとってこの約束は豊かで、慰めに満ちたものではないであろうか。(レビュー・アンド・ヘラルド1887年10月11日) イエスの復活は、主にあって眠っているすべての者の最後の復活の実例であった。救い主の復活されたお体、主のふるまい、主の話し方は主に従う者にとってはすべて見慣れたものであった。イエスにあって眠る者もそれに似た方法で再びよみがえる。わたしたちは弟子たちがイエスを知っていたように友を知る。この人の世では不具になり、病を負い、醜くかったかもしれないが、復活し、栄化されたからだにおいても彼らの各個人の独自性は正確に保たれる。イエスのみ顔から出る光によって揮いている顔の中に、わたしたちが愛する人の顔だちを認めるであろう。(SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ホワイト・コメント]6巻1092) 命の賦与者は、第一の復活において、ご自身が買い取られた所有物を集められる。そして、最後のラッパが響くその勝利の時まで、膨大な大軍が永遠の勝利へと現われるまで、すべての眠っている聖徒は安全に保たれ、神は一人一人の名前を覚えて大切な宝石のように守られる。(同上4巻1143)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたのための永遠の場所

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネ14:1-3)

 

 キリストが墓に横たわっておられた時、主の弟子たちはこれらの言葉を思い出した。彼らはこの言葉を何度も思い返しては泣いた。充分理解できなかったからである。信仰も希望も悲嘆にくれた弟子たちを慰めることがなかった。彼らはただ「またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう」というみ言葉を繰り返すことができるだけであった。… 聖なる律法に自分を従順に従わせるすべての者のために天の住居が用意される。人類家族がサタンの誘惑による言い訳をしないようにキリストは人間と一つになられた。神と一つであられた唯一のお方が人間とし て律法に生き、普通の労働者の慎ましい生活にまで下りてこられ、主のこの世の両親と共に、大工の仕事場で骨折りの仕事をされた。主の子供であると主張するすべての者に主が求められる生活を主は送られた。そして神は、ご自身ではなさろうとしない自己否定と服従を人間に要求されたというサタンの強力な議論を 断ち切られた。… イエスは、ご自分のみ足の跡に従う以上のことを人間にお求めにならない。主は天の主権者、栄光の王であられたが、わたしたちのために貧しくなられた。それは主の欠乏によって、わたしたちが富む者となるためであった。わたしたちに対する主の最後の言葉ともいうべきものは「あなたがたは、心を騒 がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」という言葉である。悲しみや心を騒がす代りに喜ぶべきである。わたしはあなたのために、この世に来た。今やここにおけるわたしの時は成就する。今からわたしは天に行く。あなたのためにわたしは、この世で熱心に働いた。将来においてはあなたのために更に重要な仕事においてもっと熱心に働くのである。わたしはあなたを救うためにこの世に来たのだ。わたしはわたしの父のみ国にあなたのための永遠の住まいを備えにいく。(手紙121,1897年) これらの言葉はわたしたちにとってなんという慰めであろう。キリストがいま天でしておられる働き、すなわちご自分の子供たちのために住まいを準備しておられることを考えなさい。主は、わたしたちがこの住居に住む準備をするように望んでおられる。(原稿28, 1901年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

み顔を仰ぎ見る

「御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。」(黙示録22:4)

 

 わたしたちは今、神の栄光を見ることはできない。しかし、ここで主を受け入れることによってのみ、だんだんと、主と顔と顔を合わせて見ることができるようになるのである。神はわたしたちが目をご自分に向け続けることを望んでおられる。そうすれば、わたしたちは、この世のことを見なくなるからである。わたしたちには誰ひとりとして神のみ顔を仰ぐことができるように準備することを遅らせるような時間はないのである。…… 神の小羊であるイエスを仰ぎ、主のみ足の跡に従うことによってのみ、あなたは神に会う備えをすることができる。主に従いなさい。そうすれば、いつの日かあなたは神の都の黄金の道を歩むであろう。あなたは王の服と冠をわきへ置いて、ご自身を人性でおおわれ、この世に来て罪を負われた主を見るであろう。これはわたしたちを高め、ご自分の栄光と主権者の権威の啓示をわたしたちに与えるためであった。もし、わたしたちが主によって型どられ、形成され、神のみ国にふさわしい者として用意するために自分を任せるならば、顔と顔を合わせて主を仰ぎ見るであろう。 神の奉仕に自分の生涯をささげる者は永遠にわたって神と共に生きるであろう。「神自ら人と共にいまして、彼らの神となられる」(黙示録21:3英文訳)のである。‥‥ 彼らは心をこの世で神にささげた。彼らは、心と知性をもって神に仕えた。それで今、神はご自分の名を彼らの額に押すことがおできになる。そして「夜は、もはやない。…主なる神が彼らを照らし、そして、彼らは世々限りなく支配する」(黙示録22:5)。彼らは、その場所に居場所を乞うて入るのではない。なぜならば、キリストは「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めから、あなたがたのために用意されているみ国を受け継ぎなさい」と彼らに言われるからである(マタイ25:34)。主は彼らを子供として受け入れられて「あなたの主人の喜びに入りなさい」と言われる。不死の冠が勝利者の額に被せられる。彼らは自分の冠を取り、イエスの足元に投げ出す。そして彼らの金の立琴をとって、小羊を賛美する歌の豊かな音楽で全天を満たす。その時「彼らは御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている」。(ユース・インストラクター1896年8月20日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さらに表されるべき奥義

「更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである。」(エペソ3:9)

 

 多くの人がパウロがここで述べている奥義を定義しようと努めた。しかし、それは多くのことを含んでおり、そして、わたしたちの神の愛と善またあわれみに関する観念は、いかにも限られている。霊的な事柄に関するわたしたちの知識は非常に委縮し、弱くなってしまっているので、わたしたちは光からより大きな光へと前進してこなかった。主はわたしたちの理解力を開いて多くの尊い事柄をお示しになることができなかった。わたしたちがこの世のことと、世俗のことを続けたことによって損失したものを考えて、謙遜にならなければならない。…… エデンで約束が与えられて以来、神はご自分の預言者を通して神の奥義を示して来られた。しかし、多くの奥義がまだあらわされないままになっている。人が真理だと認めていることすらが、またどれ程神秘であり、説明できていないことであろうか。神のみ摂理は、いかに理解されていないことであろうか。神の道徳的支配を信じる絶対的な信仰と信頼がどれほど必要なことか。「そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」(ローマ11:33)。

 わたしは今、神の奥義を理解するために、十分な霊的標準に達していない。しかし、わたしたちが天の家族の一員となるとき、これらの奥義は明らかにされる。 ‥…

 わたしたちが、永遠の奥義について知らされてきたことを取り入れもせず感謝もしないために、神が今は沈黙しておられる多くの事柄の説明がその時に明らかにされるであろう。摂理の方法がはっきりとし、キリストによる恵みの奥義が明らかにされる。人の心が今は掴むことのできず、理解するのが困難な事柄が説明される。わたしたちは解釈できないと思われた事柄に秩序を見出し、差し止められていたすべての事柄に知恵を見出し、分け与えられたすべての事柄に徳と恵みあふれるあわれみを見るであろう。真理は人の心に明らかにされ、暖味でなくなり、一貫して調和し、その輝きは継続する。心は喜びの歌を歌う。大争闘は永久に終わり、そしてすべての困難が解決される。(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1897年3月25日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神の愛の勝利

「主は王となられた。地は楽しみ、海に沿った多くの国々は喜べ。雲と暗やみとはそのまわりにあり、義と正とはそのみくらの基である。」(詩篇97:1,2)

 

 愛の律法は神の統治の土台である。天に受け入れられる唯一の奉仕は愛の奉仕である。神は、すべての人に意志の自由を許され、主のご品性を正しく知る能力とそれによって主を愛し、主の奉仕を選ぶ能力を人間に与えられた。被造物である者が神を礼拝する限り、彼らは全宇宙において調和を保っていた。神への愛が至上である間は、他に対する愛も豊かであった。神のご品性の写しである律法に対する罪がなかった時には、不協和音が天上の調和を破ることがなかった。 しかし、主の働きは、すべて神がご存知であり、永遠の昔から恵みの契約すなわち功なくして得た恩恵は神のみ心に存在していた。それは永遠の契約と呼ばれている。なぜなら救いの計画は人間の堕落の後に考え出されたのではなく、「長き世々にわたって、隠されていたが、今やあらわされ…もろもろの国人に告げ知らされた」ものであったからである(ローマ16:25, 26) 天で統治しておられる神の前には過去と未来の奥義は同じ様に広がっている。神は、罪がもたらした悲しみと暗黒と破壊のむこうにご自分の目的である愛と祝福の完成をご覧になる。雲と暗黒は主のまわりを取り囲んでいても、義と正義とは主のみ座の土台である。 …… 救いの計画を通して、人間の救いと地の贖い以上のより大きな目的が、成就されるのである。キリストにおいて神のご品性があらわれることによって、聖なる統治の恩恵が、全宇宙に表わされ、サタンの非難の不当が明らかにされ、罪の性質と結果が明らかになり、律法の永遠性が完全に証明される。(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1893年2月13日)

 そのとき、罪の根絶は、神のみこころを行うことをよころび、心に律法をしるされている人々の宇宙の前で、神の愛を立証し、神の栄を確立するのである。(各時代の希望下巻292)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神のご目的の成就

「それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。」(エペソ3:10, 11)

 

 キリストが地上に来られたのは、人間の贖いを成就するためばかりではなかったことをわたしたちは考えるべきである。神の律法が本来受けるべき尊敬を、この小さな世界の住民が神の律法を認めるだけではなく、神の律法が不変であり、罪の支払う報酬は死であるということを、全世界に実証するためであった。 この主題には、わたしたちが理解しているよりも大きなことがある。すべての者が聖書を注意深く勉強することの大切さを知ることができたら!多くの人は、この世界と、天の住まいとが、神の宇宙を構成しているという考えを持っているようであるが、そうではない。贖われた群は、世界から世界へと及ぶのである。そして、彼らの時間の多くは、贖いの奥義の研究に当てられる。そして、永遠の広がりを通して、この主題は絶えず彼らの心に明らかにされていく。小羊の血によって勝利する者の特権と彼らのあかしの言葉は、理解を越えたものである。 わたしたちは、一人一人、堕落した敵と戦わねばならない。…自己に勝利を得ることにより直ちに戦いを始めなさい。悪魔に場所を与えてはならない。‥‥あなたの影響力をキリストの側におきなさい。カルバリーの十字架を見るとき、あなたは神の愛 と神の救おうとするみ心を疑うことはできない。主は、主に天の誉れを与える諸世界につぐ諸世界を持っておられる。そして、天と全宇宙には、主がこの世界を滅びるまま放っておかれたとしても、なお、喜びはあったかもしれないが、しかし、この堕落した人類に対する神の愛は非常に大きいものであったので、神は彼らが永遠の死から救われるために、ご自身の愛される御子を与えられたのであった。わたしたちは神がわたしたちを大切にし、愛しておられるのを見るとき、それに応えよう。主の戦いを雄々しく戦って、わたしたちの存在がもつ力をすべてイエスに与えよう。わたしたちは自分の魂を失うことはできない。わたしたちは神に対抗して罪を犯すことはできない。命、栄光の王国における永遠の命は、あらゆるものよりも価値がある。(レビュー・アンド・ヘラルド1886年3月6日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼の前に置かれている喜び

「彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」(へブル12:2)

 

 地上におけるキリストの働きは失われた者を捜し、救うことであった。血のバプテスマが最初に受け入れられねばならず、世の罪の重みが主の純潔な魂の上に積み上げられなければならず、言い表わせない苦悩の影がいつも主をおおってはいたが、主は目の前に常にご自分の使命の結果を御覧になった。ご自分の前に置かれている喜びのゆえに主は十字架を忍び、辱めに耐えられた。主はすべての罪人が救われ、高められ、高貴にされて主のみ座の前に主と共にいることができるようにこれらのすべてに耐えられた。キリストは天の真理の創始者である。 主は死ぬべき人間でははかり知ることのできない神の愛の思いの高さと深さ、また長さと広さ、そして完全を知っておられた。主は、罪人が天の光を拒絶する時、彼らは祝福を拒んでいるのであって、天の真理を拒む魂の上には恐怖がおとずれるのを知っておられた。……キリストのみが神に反逆する者が、受け入れるのを拒む栄光の非常な重みが何を意味するかを知っておられた。…… 人は罪で汚されているので、彼らが心に抱いている悪の憎むべき性質を充分に認めることができない。罪のゆえに天の主権者であられる方が打たれ、神にたたかれ、苦しめられた。わたしたちが滅びないで、永遠の命を得るために、わたしたちの聖なる身代わりであられる方は自ら進んで、ご自分の魂を正義の剣の前に出された。キリストは「命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである」(ヨハネ10:17, 18)と言われた。……地上の誰も、また天のみ使も罪の刑罰を払うことはできなかった。イエスは反逆した人間を救うことのできる唯一のお方であった。(レビュー・アンド・ヘラルド1892年12月20日) イエスの前におかれた喜びは、ご自分の栄光と誉れ、また富とご自身の命を犠牲にすることにより、贖われた魂をご覧になることであった。人間の救いが主の喜びであった。贖われた者がすべて神のみ国に集められる時、主は、ご自分の魂の労苦の結果を見て満足される。(教会への証2巻686)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キリストの労苦の結果

「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。」(イザヤ53:11)

 

 骨折りと犠牲のご生涯の間、神の御子を支えたものは何であったか。キリストはご自分の魂の労苦の結果をご覧になって満足された。キリストは永遠をご覧になり、ご自身の屈辱を通してゆるしと永遠のいのちを受けた人々の幸福をご覧になった。キリストの耳はあがなわれた者たちの歓喜の叫びを聞き取られた。主はあがなわれた人々がモーセと小羊の歌をうたっているのをお聞きになった。(患難から栄光へ下巻310) 「神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。この世でのキリストの生活の一瞬一瞬に、神はご自分の賜物を繰り返しお与えになった。罪のない方であるキリストは罪人のために無限の犠牲を払っておられた。それは罪人が救われる為であった。主は悲しみの人で、病いを知っている人として来られた。そして主が救う為に来られた者たちは「、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだ」と思った。主があたかも罪人であるかのように苦しみの杯が主の手におかれた。そして、主はそれを一滴も残さず飲み尽された。主は最後まで世の罪を負われた。…だれもカルバリーの十字架で表わされた愛の深さを理 解することも、測ることもできない。… 忍ばれた苦しみの激しい痛み一つ一つに、わたしたちは父の愛の苦闘を見る。父ご自身が罪に滅びつつある世のために、ご自身の全能の愛の偉大さのうちに苦しい働きをなされた。払われた犠牲によって永遠の命という賜物はアダムのすべてのむすこ、娘の手が届くところにおかれた。(手紙100,1911年) キリストに贖われた者は主の宝石であり、主の尊い、特別 な宝である。「彼らは冠の玉のよう」であり、「聖徒たちが継ぐべき、栄光の富」である(ゼカリヤ9:16, エペソ1:18)。彼らを見て「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。」キリストはご自分の民が純潔で完全であるのを御覧になる。それはキリストの苦しみ、謙遜、そして愛とその栄光の補足の報いであって、キリストが偉大なる中心であり、すべての栄光が輝き出ている方なのである。(レビュー・アンド・ヘラルド1908年10月22日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしたちの前にある永遠

「彼らは力から力に進み、シオンにおいて神々の神にまみえるでしょう。」(詩篇84:7)

 

 全天は強い関心を持って、神の戒めを守る民であると主張する人々を見つめている。ここに、神の豊かなみ約束をすべて要求できるようになっていなければならない人々、栄光から栄光へと、力から力へと進んで行くべき人々、彼らのなす働きの中で神の栄光を反映する立場にあるべき人々がいる。‥‥‥

 わたしたちは神の豊かな祝福を受けてきた。しかし、わたしたちはここで止まってはならない。わたしたちは天からの光の聖なる光線をもっともっととらえるべきである。わたしたちは光を受けて、その栄光の中で、他の人の道にその光を反映できるところにだけ立つべきである。……

 わたしたちは命の泉をもっともっと深く、飲む必要がある。……あなたは「主がわたしの魂のためになされたことを聞け」という生きたあかしを伝えることができる。主はもっと大きな祝福を与えようとしておられる。主はご自分の恵みがすべてモーセの前を通ることを許された。主はご自身の品性を、あわれみに満ちた神として、すなわち怒ることおそく、恵みあり、悪ととがと罪をゆるす神として宣言された。モーセはイスラエルの民にこのご品性を示すのであった。そして、わたしたちも同じ様にするべきである。わたしたちは人々の前に、神の恵み深いことを知らせ、主の本当のご品性を人々に告げるために出て行くべきである。わたしたちは主の栄光を反映すべきである。…モーセが霊と生活両方においてイスラエルに示したように、人々に神のご品性を明言すべきである。わたしたちは同情と愛にあふれた主のみ顔の光をとらえ、それを、滅びつつある魂に反映しなければならない。 わたしは、あなたがたに、神を追い求め、生ける水の泉から飲みつづけるように懇願する。あなたがたは、水のほとりに植えられて、決して葉が枯れることのない木のようになるであろう。あなたがたは充分な水分を貯えて他を生き返らせ、彼らに恵みと慰めを与えることができるようになるであろう。わたしは今、イエスを愛している。わたしは、さらに、さらに主を知りたいと願っている。わたしは主を知り始めたばかりである。しかし、わたしたちの前には、永遠という時があり、その長きにわたって主の栄光は現われようとしている。そしてわたしたちは、わたしたちの天の主をますます知るようになるのである。(レビュー・アンド・ヘラルド1889年2月26日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ついに、ふるさとに

「父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。」(ヨハネ17:24上句)

 

 神の愛は測ることも、比較することもできない。それは無限である。‥…わたしたちがキリストの尊厳と栄光を瞑想するとき、わたしたちは失われた世界を贖うためにカルバリーの十字架の上であのような犠牲を払わせた愛がどれほど偉大なものであったかを知る。この主題は永遠にわたって聖徒を感嘆と驚きで満たすであろう。それなのに、なぜ、わたしたちはこの世界でそれを瞑想しないのであろうか。…… 神が肉において現れた。なんという信心の奥義であろう。わたしたちが理解しようとすればするほどこの奥義は増大する。それは理解を越えている。 死ぬべき人間がイエスとその比類のない愛を理解することは不可能である。‥… わたしたちは、どうしてこの世のささいなことにひたれるだろうか。この光景、すなわち神のひとり子の死に表されている愛であるカルバリーの十字架に心を打たれずにおられようか。‥… この謙遜と苦悩は、さまよい、罪を犯し、感謝しないすべての者をみ父の家に連れかえるために忍ばれたものである。祝福された者のふるさと―わたしは、それを絶対に失うことはできない。神のみ国に救われたなら、わたしは、救いの計画の新しい深さを絶えず理解するようになるであろう。贖わ れた聖徒は、皆天父と御子の愛を今までにないほど知り、感謝して、不死の唇から、賛美の歌がほとばしり出るであろう。主はわたしたちを愛し、わたしたちのためにご自分の命を与えて下さった。栄化された体と、増大した能力、また清くされた心と清められた唇をもって、贖われた愛の豊かさを賛美する。天では苦しむ者はなく、永遠の事柄の現実を確信させるためにわたしたちが苦労しなければならない懐疑論者もいない。根絶しなければならない偏見もない。すべての者は理解を越えた愛に対して感じやすい者となる。神に感謝することには、安息、神 の民のための安息がある。そこでは、イエスが贖われた者を緑の牧場に導かれ、神の都に喜びをもたらす生ける水の流れのほとりで神の民は休む。その時、天父に対するイエスの「あなたがわたしに賜った人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい」という祈りは答えられるのである。(手紙27, 1890年)