闘争と勇気 4-② | セブンスデーアドベンチスト 聖書研究シリーズ 聖書入門その3

セブンスデーアドベンチスト 聖書研究シリーズ 聖書入門その3

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報酬のための預言

「彼らは正しい道からはずれて迷いに陥り、ベオルの子バラム、報酬さえ得られれば、悪に対して良心のとがめを感じないバラムの道に従った。」(ペテロ第二2:15, 16フィリップス訳)

 

 バラムは、かつては、善人であって、神の預言者であったが、背教して欲に目がくらんでいた。それでいてもなお自分はいと高き者のしもべであると自称していた。彼は、神がイスラエルのためになされたみわざについて無知ではなかったから、使者が用向きを伝えたとき、自分としては、バラクの報酬を拒み、使者を去らせるのが義務であることをよくわきまえていた。それにもかかわらず、彼はあえて誘惑に手を出し、主に勧告を求めるまでは、はっきりした解答を与えるわけにはいかないと言って、その夜は、使いの者たちを泊まらせた。バラムは自分ののろいがイスラエルに災いをもたらし得ないことを知っていた。神が、彼らについておられ、彼らが神に誠実であるかぎり、地の上、また、黄泉のどんな敵対力も勝つことはできなかった。しかし、「あなたが祝福する者は祝福され、あなたがのろう者はのろわれる」と使者に言われて、彼はうぬぼれた。高価な贈り物の贈与、また、高い地位の約束などによって、彼は欲を起こした。彼は、贈られた宝を欲ばって受け取った。そして、口では神のみ旨に厳格に従うと言いながら、バラクの願いに応じようとした。……

 神が、偶像であると言明されたむさぼりの罪によって、彼は日和見主義者となってしまった。この一つの過失によって、サタンは、彼を完全に支配するようになった。彼を破滅に陥れたのは、このむさぼりであった。誘惑者は、人々を神に仕えさせないようにしようとして、常にこの世の利得と名誉を提供する。あまり良心的すぎては繁栄しないとサタンは人々に言う。こうして、多くの者は、厳格な誠実の道から離れるように誘われるのである。悪の一歩は、次の一歩をたやすくする。彼らは、ますます僣越になる。彼らはひとたび貪欲と権力欲に支配されると、どんな恐ろしいことでも、あえてするようになる。多くの者は、自分はこの世の利得のために一時的に厳格な誠実の道を離れてもかまわないと思い、そして、目的が達せられたならば、いつでもそれをやめられると考えている。そのような人はサタンのわなに陥り、それから逃げることができないのである。(人類のあけぼの下巻45, 46)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

義務か欲望か

「かえって、あなたがたはわたしのすべての勧めを捨て、わたしの戒めを受けなかったので、」(箴言1:25)

 

 夜、神の使いがバラムを訪れ、こう伝えた。「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。またその民をのろってはならない。彼らは祝福された者だからである」 ……

 バラムは、二度試みられた。彼は、使者の懇請に答えて、自分が非常に良心的で誠実であって、金銀がどんなに積まれても、神のみ旨に逆らって出かけることはできないことを強調した。しかし、彼は、王の求めに応じたいと願っていた。神のみ旨が、すでにはっきりと知らされていたにもかかわらず、彼は、使者たちに、しばらくとどまるように勧め、もう一度神に尋ねてみようと言った。彼は永遠の神を、あたかも人間のように説得できると思った。

 夜、主はバラムにあらわれて言われた。「この人々はあなたを招きにきたのだから、立ってこの人々と一緒に行きなさい。ただしわたしが告げることだけを行わなければならない」。バラムはすでに心に決めていたので、主は、ここまでバラムが自分の思い通りにすることを許されたのである。バラムは、神のみ旨を行なうことを求めず、かえって自分の道を選び、主の承認を得ようとつとめたのである。

 今日も、同様のことをするものが数多くいる。彼らは、自分たちの傾向と一致しているならば、どんな義務も困難なく理解する。それは、聖書が明らかにし、環境と理性も共にそれをはっきり示しているのである。しかしこうした証拠が彼らの欲望と傾向に反するものであるため、彼らは、しばしば、それをないがしろにして、神のみ前に出て、自分の義務を知ろうとする。彼らは、一見、非常に良心的にふるまい、光を求めて長い祈りをささげる。しかし、神を軽んじることはできない。神は、そのような人々が、欲望のままに行なって、その結果、苦しむことをお許しになることがよくある。……義務をはっきり示されたとき、それを実行しなくてもよいという許しを受けるために、神に祈ろうなどと思ってはならない。 かえって謙虚なへりくだった心をもって、その要求を履行するために、神の力と知恵を求めるべきである。(人類のあけぼの下巻47, 48)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同類の二人

「それから人々にむかって言われた、『あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである』。」(ルカ12:15)

 

 バラムは神の民に対して宣言することのできなかったのろいを、彼らを罪に誘惑することによってついに彼らの上にもたらすことができた。(各時代の大争闘下巻276)

 バラムは、彼の悪魔的な企てが成功するのを見た。彼は神ののろいがその民にくだり、幾千の者が刑罰を受けるのを見た。しかし、イスラエルの中の罪を罰した神の義は、誘惑者がのがれるのを許さなかった。イスラエルとミデアン人とが戦ったときに、バラムは殺された。……

 バラムの運命はユダのそれと同じであった。彼らの性質は、互いによく似ている。両者とも神と富にかね仕えようとして、完全に失敗した。バラムは真の神を知り、彼に仕えることを公言した。ユダはイエスをメシヤとして信じ、彼に従う者たちに加わった。しかし、バラムは主の奉仕を富と世俗のほまれを得る踏み石にしょうと望み、これに失敗して、つまずき倒れ、滅びた。ユダは、キリストと結合することによって、メシヤがまもなく樹立すると彼が信じたこの世の王国において、富と昇進にあずかろうと期待した。彼の希望が裏切られると、彼は背教して破滅した。バラムもユダも大きな光を受け、大きな特典にあずかった。しかし、心にいだいた一つの罪が全人格を毒し、滅亡の原因となった。……

 心に秘められた一つの罪は、徐々に性質を堕落させ、その高尚な能力をすべて悪い欲望に屈服させる。良心から一つの保護物を取り除くこと、一つの悪い習慣にふけること、義務の重要な要求を一度怠ることなどは魂の防壁を破り、サタンがつけ入って、われわれを誤らせる道を開くのである。唯一の安全な道は、ダビデのように、次の祈りを、毎日、まごころからささげることである。「わたしの歩みはあなたの道に堅く立ち、わたしの足はすべることがなかったのです」(詩篇17:5)。(人類のあけぼの下巻63, 64)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

傷跡を残す罪

「戒めはともしびである、教は光である、教訓の懲らしめは命の道である。これは、あなたを守って、悪い女に近づかせず、みだらな女の、巧みな舌に惑わされぬようにする。」(箴言6:23, 24)

 

 イスラエルの上に神の天罰をもたらした犯罪は不道徳の罪であった。魂をわなにかけるための女たちの働きかけはベオルのバアルだけにとどまらなかった。イスラエルにおける罪人たちに罰が与えられたにもかかわらず、同じ犯罪が何度も繰り返された。サタンはイスラエルを完全に打ち倒そうとして最も活発に活動していた。バラムの助言によってバラクはわなをしかけた。イスラエルは戦いでは敵に勇敢に立ち向かい、彼らを阻止し、勝利者となったが、女たちが彼らの注意を引き、彼らの同席を求め、その魅力で彼らを喜ばせた時、彼らは誘惑に抵抗しなかった。彼らは偶像崇拝の祭礼に招かれて、酒を飲みたいだけ飲み、幻惑した精神をますます混乱させた。自制力や神の律法への忠誠心を保ちつづけなかった。彼らの感覚は酒で混乱し、汚れた情欲があらゆる防壁を打ち負かすほどに完全に支配したので、偶像崇拝の祭礼へ出席するという誘惑さえも招いたのである。戦いにおいては決してひるむことのなかった者、勇敢だった者が、最も卑しい情欲にふけるという誘感に抵抗するために、自分の魂を防ぎ守らなかった。……彼らはまず淫らなことで良心を汚し、このようにしてイスラエルの神を侮りつつ、偶像礼拝によって神からますます遠く離れて行ったのである。

 地上歴史の終りが近づくにつれて、サタンは全力を尽くして同じ方法、すなわち古代イスラエル人を約束の地に入る直前に誘惑したのと同じ方法で働く。サタンは神の戒めを守ると公言する人々、天のカナンへのほとんど境界線近くにいる人々にわなをしかける。彼は魂をわなにかけるために、また神の民であると公言する人々の一番の弱点を突くために最大限度にまで自分の能力を用いる。……

 現在目を覚まして祈り、聖書を勤勉に探って、心の内に神のみ言葉をたくわえ、偶像礼拝的な考えや品位を落す行動で神に対して罪を犯さないようにし、このようにして神の教会が堕落することのないようにすることが、神の戒めを守る民の義務である。(レビュー・アンド・ヘラルド1887年5月17日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

勝利する唯一の方法

「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。」(ヨシュア1:8)

 

 もし人々が、神が彼らのために計画している道に歩むならば、彼らはどんな人間の知恵よりも、はるかに優る知恵を所有する助言者を持つことだろう。ヨシュアが賢明な将軍であったのは、神が彼の導き手であったからである。ヨシュアが用いた最初の剣は、御霊の剣、すなわち神の言であった。……

 主が憐れみのうちに、右にも左にも曲がってはならないと命じられたのは、彼の義の原則に反する最も強力な影響がもたらされようとしていたからであった。彼は、最も厳格な高潔な道をたどらなければならなかった。……もしヨシュアの前途に危機がなかったなら、神は彼に雄々しくあるよう何度も繰り返し命じられなかったであろう。しかしあらゆる心配のただ中にあって、ヨシュアは神を導き手とした。

 人がどのような困難の中にあっても、あらゆる緊急事態において、より賢明な助言を与えて下さるお方、いかなる境遇においてもより強力な防御であられる神よりも優れた導き手を見い出すことができると考える程、巧妙な欺瞞はない。 ……

 主は我々の世界においてなすべき偉大な働きを持っておられる。主はすべての人に、なすべき主の働きをお与えになっている。しかし、人を導き手とすべきではない。惑わされないためである。これは常に危険である。聖書の宗教は、奉仕における活動の原則を具体的に表現しているが、同時にすべての知恵の源であるお方に、日々知恵を求める必要がある。ヨシュアの勝利とは、どのようなものであったのか。あなたは、昼も夜も神の言葉を思いなさい。ヨシュアがヨルダンを渡る直前、主の言葉が彼に与えられた……。これが、ヨシュアの勝利の秘訣であった。彼は神を導き手とした。

 勧告者という立場にある人々は、無我の人、信仰の人、祈りの人、あえて自分自身の人間的知恵に頼らず、彼らの事業を営む最善の方法については熱心に光と知恵を求める人であるべきである。イスラエルの指揮官ヨシュアは、軽率に行動しないように、モーセが神によって与えられた命令―神の要求、叱責、制限―を忠実に記録していた書物を、勤勉にくまなく調べた。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ ホワイト・コメント]2巻993, 994)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目には見えない協力者

「わたしは……あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。」(ヨシュア1:5)

 

 イスラエルのカナンへの旅における体験を注意深く学びなさい。……我々は、主が古代の神の民に教えられた教訓で記憶を新たにすることによって、心と思いを訓練し続ける必要がある。そうすれば、主が彼らに対して計画されたように、我々にとっても、主の言葉の教えは常に、興味深く印象的なものとなるであろう。

 エリコを征服する前日の朝、ヨシュアが出発したとき、彼の前に完全武装した一人の戦士が現れた。そこでヨシュアが、「あなたはわれわれを助けるのですか。それとも、われわれの敵を助けるのですか」と尋ねると、彼は答えた、「いや、わたしは主の軍勢の主将として今きたのだ」と。もしヨシュアの目が、ドタンにおけるエリシャの召使のように開かれて、その光景に耐え得たならば、彼はイスラエルの子らの周りに陣を張っている主の使いたちを見たことだろう。訓練された天の軍勢が、神の民のために戦おうとやってきて、主の軍勢の長が、指揮のためにそこにおられたからであった。エリコが陥落したとき、人の手はいっさい都の城壁に触れなかった。主の使いたちが砦を打ち倒して敵の要塞の中に入ったからであった。エリコを占領したのはイスラエルではなく、主の軍勢の長であった。しかしイスラエルは、彼らの救いの長に信仰を示すため行うべき役割があった。

 戦いは毎日なされねばならない。大争闘は、暗黒の君と生命の君との間で、すべての魂をめぐって繰り広げられている。……

 あなたは神の代理者として、神に自らを任せるべきである。神があなたの協力を得て、あなたのために計画して指揮を執り、闘争を戦われるためである。生命の君が、その業の頭である。あなたが原則に忠実で、勝利を得ようと奮闘するとき、キリストの恵みによって情欲が抑えられ、我々を愛されたお方を通してあなたが勝ち得てあまりある者となるよう、彼は日々、自己と戦うあなたと共にいるのである。イエスはその戦地をくぐってこられた。彼はすべての誘惑の力をご存知である。彼はあらゆる非常事態に対処する方法と、あらゆる危険な道中を導く方法をご存知である。だから、彼に信頼しようではないか。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイ ト・コメント]2巻994, 995)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神だけがそれをすることがおできになった

「そして祭司たちが雄羊の角を長く吹き鳴らし、そのラッパの音が、あなたがたに聞える時、民はみな大声に呼ばわり、叫ばなければならない。そうすれば、町の周囲の石がきは、くずれ落ち、民はみなただちに進んで、攻め上ることができる。」(ヨシュア6:5)

 

 エリコの占領において、力強い軍勢の司令官は人間が自分に名誉を帰すことができないような単純さを用いて、戦闘計画を立てられた。人が勝利の栄誉を得ることのないように、人の手が都の城壁を打ち崩してはならなかった。そのように今日も、人間は自ら成し遂げる働きの栄誉を自分自身に帰すべきではない。主だけが讃えられるべきである。人々が任務遂行のために、神からの指示を頼みにする必要性を悟るならどんなに良いことだろう。

 主は、運命の定まった都の周囲に軍勢を配置なさった。それに向かって人の手があげられることなく、天の軍勢はその城壁を打ち倒した。それは、神の御名だけが栄誉を得るためであった。それは、不信仰な斥候たちに恐怖を起こさせる程の、巨大な砦を誇る都であった。今、エリコの占領において、神はヘブル人に、彼らの父祖たちが神にただ信頼していたら、彼らは40年前に都を占領していたであろうと言明された。(SDAバイブルコメンタリー[E・ G・ホワイト・コメント]2巻995)

 弱い人間は、あらゆる激しい闘争の際に全能者のみわざを行うための超自然の力と助けを見出すであろう。忍耐強い信仰と神にある完全な信頼が成功を確実なものとする。

 かつての悪の同盟軍が彼らに対して勢揃いする一方、主は強く、また雄々しく勇敢に戦うよう彼らに命じられる。彼らには勝ち取るべき天国があり、彼らの軍勢には、天使以上のお方、すなわち力強い司令官がおられて、天の軍勢を先導されるからである。エリコ占領の際、イスラエルの軍勢の内一人として、城壁を打ち倒すために限りある力を発揮させて誇ることはできなかったが、主の軍勢の長は、最も単純な方法で闘うように計画された。それは、主だけが栄誉を受け、人間が称賛されることのないためであった。神は、我々にすべての力を約束しておられる。約束はあなたとあなたの子供たちに、我々の神、主が召される限りの、離れたところにいるすべての人に与えられているからである。(同上996)

 わたしたちの救いの長に対する、絶え間ない信仰と信頼がなくてはならない。わたしたちは彼の命令に従わなければならない。エリコの城壁は、命令に従った結果崩れ落ちたのである。(同上)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ひとりの人の罪

「金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。」(へブル13:5上句)

 

 アカンは罪の知覚が鈍くなるまで、心の内で貪欲と欺瞞を育み、とうとう誘惑の餌食となった。知っている罪にあえてふける人々は、二度目にはもっとたやすく征服されるであろう。初めの罪は誘惑する者に戸を開き、彼は徐々にすべての抵抗を抑えて魂の砦を完全に占領する。アカンは貪欲の罪に対する警告を何度も繰り返して聞いていた。明確に述べられた神の律法が、盗みとあらゆるごまかしを禁じていたのに、彼は罪を心に抱きつづけた。見破られず、公然と叱責されなかったので、彼はもっと大胆になっていった。彼は警告に次第に麻痺してきて、ついに彼の魂は暗黒の鎖に縛りつけられてしまった。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]2巻997)

 恥と敗北、そして死が一人の人の罪によってイスラエルにもたらされた。戦いの時に民の上をおおっていた保護が取り除かれた。クリスチャンであると公言する者が心に抱き、実践するさまざまな罪は教会に神のご不興をもたらす。……

 教会にとって最も恐るべき影響は、公然とした反対者や無神論者、また神を冒涜する者ではなく、キリストを公言しながら一貫性のない人の影響力である。この人々はイスラエルの神の祝福を隠しておき、たやすく拭い去ることのできない不名誉を教会にもたらす。……

 キリスト教の精神は単に安息日に自分をひけらかしたり、聖なる場所で目立つようにすることではない。キリスト教の精神は週のうちの毎日、あらゆる場所で発揮されねばならない。礼拝において家庭において、また兄弟や世との業務取引において、キリスト教の要求を認め、またこれに従わなければならない。……

 罪を犯すよりは死んだ方が良い。だまし取るよりは欠乏している方がよい。うそをつくよりは飢える方が良い。誘惑されるすべての者に次の聖句をもってサタンに立ち向かわせなさい。「すべて主をおそれ、主の道に歩む者はさいわいである。あなたは自分の手の勤労の実を食べ、幸福でかつ安らかであろう」(詩篇128:1, 2)。(教会への証4巻493-495 )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神から隠れるものはない

「あなたがたが、その滅ぼされるべきものを、あなたがたのうちから滅ぼし去るのでなければ、わたしはもはやあなたがたとは共にいないであろう。」(ヨシュア 7:12下句)

 

 ひとりの人の罪が、イスラエル人が敵の前で打ち破られる原因となった。祈り以上の何かが要求された。彼らは立ち上がり、イスラエルの陣営を清めなければならなかった。(原稿12, 1893年)

 あなたはなぜアカンにつながりのあるすべての人が神の刑罰の対象となったのかについて考えたことがあるだろうか。それは彼らが神の律法という偉大な標準において彼らに与えられていた指示に従って彼らが訓練されず、教育されていなかったからである。アカンの両親は、自分の息子が主のみ言葉に従わなくてもかまわないと思うようなやり方で教育してきた。彼の生涯に植え付けられた諸原則が彼を導いて自分の子供たちも堕落するような方法で彼らを取りあつかうようにさせたのであった。……刑罰は……すべての者が不法にたずさわっていたことを明らかにしている。

 アカンの経歴は、違反が捜し出されて罰せられるまで、一人の罪のために、神の怒りが民や国家の上に留まるという厳粛な教訓を与える。罪はその性質上、犯す者を堕落させる。致命的ならい病に感染した一人が、幾千もの人々に病毒を感染させることができる。民の後見人として責任の重い地位を占める人々が、もし忠実に罪を捜し出してとがめないならば、それは彼らが責任を果たしていないことである。……

 神の愛は罪を軽んじるようには決して導かない。告白しない誤りをかばうことはない。……それは、わたしたちのあらゆる行為や思い、感情に関係がある。それは私たちの後をたどり、あらゆる密かな行為の源泉に達する。罪にふけること によって、人は神の律法を軽く見なすようになる。多くの人は仲間に自分の罪を隠し、神は不正を記録する程に厳格な方ではないと思い上がる。しかし、神の律法は義の崇高な基準であり、それに対して人生のあらゆる行為は、良かろうと悪かろうと、神がすべての事を裁かれる日に、すべての隠れたことと共に比較されなければならない。心の純粋さは、純粋な生活へと導く。罪に対する弁解はすべて無駄である。神が罪人に不利な証言をなさるとき、彼を誰が弁護できるのだろうか。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント]2巻996, 997)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遅すぎた!

「その罪を隠す者は栄えることがない、言い表わしてこれを離れる者は、あわれみをうける。」(箴言28:13)

 

 アカンは罪を告白したけれども、時はすでにおそく、彼にはなんの役にも立たなかった。彼は、イスラエルの軍勢がアイで敗北し、失望したのを見た。しかし、彼は進み出て罪を告白しなかった。彼は、ヨシュアとイスラエルの長老たちが、言葉で表現できない大きな悲しみのうちに、地にひれ伏したのを見た。もし彼がそのときに告白していたならば、それは、真の悔い改めの証拠となったことであろう。しかし、彼は、まだ黙したままであった。彼は、大きな犯罪が行なわれたこと、そして、その罪の性質さえもはっきり宣言されたのを聞いた。しかし、彼は、くちびるを閉じていた。それから厳粛な調査が始まった。彼の部族、氏族、そして家族が指摘されたとき、彼の心は、恐怖にふるえたことであろう。それでも彼は告白しなかったので、ついに、神の指が彼を指さすにいたった。こうして、彼は、罪をこれ以上かくすことができなくなって事実を認めた。同様の告白が、なんと多くなされていることであろう。事実が証明されたあとで、それを認めることと、神とわれわれだけに知られた罪を告白するのとは、非常な相違がある。アカンは、告白することによって、犯罪の罰をのがれようとする気がなかったならば、告白はしなかったことであろう。しかし、彼の告白は、その刑罰の正当なことを示したに過ぎなかった。彼は、罪に対する真の悔い改めも、悔悟も、目的の変更も、悪に対する憎しみも感じていなかった。

 すべての人の運命が、生か死かに決定したあとで、罪人が神のさばきの座の前に立つとき、同じような告白をする。……天の記録が開かれるとき、審判の主は、人の罪を言葉で宣言されるのではなくて、心の奥底まで見抜き、人を納得させずにはおかないまなざしでごらんになる。そうすると、すべての行為や、人生のすべての取り引きが、悪者の記憶にまざまざと印象づけられる。ヨシュアの時代のように、部族から氏族と人をさがし出す必要はない。彼自身のくちびるが、その恥を告白する。そのとき、人に知られなかった隠れた罪が、全世界に広く知られるのである。(人類のあけぼの下巻121-123)

 もしあなたに告白すべき罪があるなら、時を逃してはならない。一瞬一瞬が貴重である。「もしわたしたちが自分の罪を告白するならば、彼は真実で正しい方であるからその罪を許し、すべての不義からわたしたちを清めてくださる」(ヨハネ第一1:9)。(セレクテッド・メッセージ1巻352)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

偽りの代価

「偽りを言うくちびるは主に憎まれ、真実を行う者は彼に喜ばれる。」(箴言12:22)

 

 イスラエル人は、シケムからギルガルの陣営へもどった。するとまもなく、ここに見知らぬ代表団がやってきて、協定を結びたいと希望した。使節団は、遠い国からやってきたと言い、彼らのようすからすればそれが真実らしく思えた。彼らの衣服は古びて破れ、くつはつぎ当てがしてあり、食料品はかびがはえ、酒を入れる皮袋は破れたのを旅の途中で急いでつくろったかのようにしばりつけてあった。……

 この陳情は成功した。ヘブル人は、「主のさしずを求めようとはしなかった。そしてヨシュアは彼らと和を講じ、契約を結んで、彼らを生かしておいた。会衆の長たちは彼らに誓いを立てた」。こうして契約が結ばれた。……

 しかし、ギベオン人が正直にイスラエル人と交渉したのだったら、事はもっとうまくいったであろう。彼らは主に服従したことによって生かされたが、彼らの欺瞞は不名誉と苦役をもたらしたにすぎなかった。神は、異教を捨ててイスラエルに加わりたい者は、だれでも契約の祝福を受けられるように道を備えておられた。「あなたがたと共にいる寄留の他国人」(レビ記19:34)の条件に彼らは含まれ、この種の人たちは、ほとんど例外なしに、イスラエルと同じ恩典と特権を受けられるのであった。主の命令は次のようなものであった。「もし他国人があなたがたの国に寄留して共にいるならば、これをしえたげてはならない。あなたがたと共にいる寄留の他国人を、あなたがたと同じ国に生れた者のようにし、あなた自身のようにこれを愛さなければならない」(同19:33, 34)

 もしギベオン人が欺瞞的な手段に訴えなかったら、このような立場を与えられたのであった。「王の都にもひとしい」町の住民で、「そのうちの人々が、すべて強かった」といわれていた人々にとって、子孫末代まで、たきぎを切ったり、水をくんだりする者となることは、けっしてなまやさしい屈辱ではなかった。彼らは、欺瞞の目的で貧しい着物を身につけていたが、それは彼らがいつまでも人に使われる身分であるしるしとして、彼らにつけられた。こうして、何代にもわたって、彼らの奴隷状態は、神が虚偽を憎まれる証拠となるのであった。(人類のあけぼの下巻129-133)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この山地をわたしにください

「わたしは……今もなお、モーセがわたしをつかわした日のように、健やかです。それで……この山地を、どうか今、わたしにください。」(ヨシュア14:10-12)

 

 土地の分配をはじめる前に、カレブが、彼の部族の首長たちを従えて、特別な要求をもって出頭した。ヨシュアを除けば、カレブは、今や、イスラエルで最年長者であった。斥候たちの中で、カレブとヨシュアだけが、約束の地について、よい報告をもち帰って、人々に主の名によってのぼって行ってそこを占領するようにと励ましたのであった。カレブは今、彼の忠誠の報いとして、そのとき与えられた約束、すなわち、「おまえの足で踏んだ地は、かならず長くおまえと子孫との嗣 業となるであろう。おまえが全くわが神、主に従ったからである」という約束をヨシュアに思い出させた。そこで彼は、ヘブロンを自分の所有としてもらいたいと願い出た。……彼の要求はすぐにかなえられた。この巨大な要塞の征服は、だれよりも彼にまかせるのが一番安全であった。……カレブの信仰は、今も、かつて斥候たちの悲観的な報告と反対のあかしをたてたときと全く同じであった。彼は神がご自分の民にカナンを占領させると言われた約束を信じていた。この点において彼は全く主に従ったのであった。彼は、民と共に荒野での長年の放浪に耐えて、失望と罪の重荷を共に味わった。それでも、彼はそのことについてなんの不平も言わずに、荒野で兄弟たちが滅ぼされたときにも彼を生き長らえさせてくださった神をあがめた。……この勇敢な老戦士は、神の栄えとなる模範を人々に示し、父祖たちが征服不可能と考えていた土地を征服するように部族を大いに激励しようと熱望していたのであった。

 カレブは、四十年間心にきめていた嗣業を手に入れた。そして神が共にいてくださることに信頼して、「アナクの子三人を追い払った」。……

 臆病者と反逆者は荒野で滅びた。しかし、正しい斥候たちはエスコルのぶどうを食べた。おのおのその信仰に従って与えられた。信じない者は、彼らの恐れていたことが実現するのを見た。神の約束にもかかわらず、彼らはカナンを継ぐことは不可能だと断言し、そしてその通りカナンを所有することができなかった。しかし、神に信頼した人々は、遭遇すべき困難を見ないで全能者の力を見、よい地にはいった。(人類のあけぼの下巻139-142)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鉄の戦車

「ヨセフの子孫はヨシュアに言った、『あなたはなぜ、わたしの嗣業として、ただ一つのくじ、一つの分だけを、くださったのですか』。」(ヨシュア17:14)

 

 土地の分配についてのもう一つの要求は、カレブの精神と全く異なった精神をあらわしていた。それはヨセフの子らであるエフライムの部族とマナセの半部族から持ち出されたものであった。この部族は人数が多いことから、二倍の地域を要求した。彼らのために指定された土地は最も肥えた土地で、シャロンの肥沃な平野を含んでいた。しかし、谷間の主要な町の多くは、まだカナン人が占領していたので、この部族は彼らの領地を征服するほねおりと危険にしりごみし、すでに平定された地域を余分につけ加えてほしいと希望した。エフライムの部族はイス ラエルの最も大きい部族の一つで、また、ヨシュア自身の属している部族であったので、彼らは当然特別な考慮をしてもらう資格があると考えた。「わたしは数の多い民となったのに、あなたはなぜ、わたしの嗣業として、ただ一つのくじ、一つの分だけを、くださったのですか」と彼らは言った(ヨシュア記17:14)。しかしこの妥協することを知らない指導者に、厳格な公正を曲げさせることはできなかった。

 彼は答えて言った。「もしあなたが数の多い民ならば、林に上っていって、そこで、ペリジびとやレパイムびとの地を自分で切り開くがよい。エフライムの山地が、あなたがたには狭いのだから」( 同17:15) 。

 彼らの答えは不平の真因を暴露していた。彼らはカナン人を追い払う信仰と勇気に欠けていたのである。「山地はわたしどもに十分ではありません。かつまた平地におるカナンびとは、 ・ ・ ・ ・ みな鉄の戦車を持っています」と彼らは言った(同17:16) 。

 イスラエルの神の力は民に対して保証されていたので、もし、エフライム人がカレブの勇気と信仰をもっていたら、どんな敵も彼らの前に立つことはできなかったであろう。困難と危険を避けようという彼らの明らかな願いに対して、ヨシュアはこう言って応じた。「あなたは数の多い民で、大きな力をもっています。 ・ ・ ・ ・ カナンびとは鉄の戦車があって、強くはあるが、あなたはそれを追い払うことができます」( 同17:17,18) 。こうして彼らの議論は自身たちに不利な結果をもたらした。彼らが主張するように、彼らは強大な民だから、兄弟たちと同じように、自分たちの道を十分に切り開いて行くことができたのである。神の助けによって、彼らは鉄の戦車を恐れるにはおよばなかったのである。(人類のあけぼの下巻142, 143)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしは…

「あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい。」(ヨシュア24:15)

 

 ヨシュアは、自分のからだが徐々に老衰していくのを感じ、まもなく務めを終えなければならないことを自覚して、彼の民の将来を非常に憂慮した。人々がもう一度この年老いた指導者のまわりに集まったとき、彼は父親以上の愛情をもって、彼らに語りかけたのである。……

 ヨシュアの指示に従って、契約の箱がシロから持って来られた。これは、非常に厳粛な時の一つであって、この神の臨在の象徴は、彼が人々に与えようとした印象を強固なものにした。彼は、イスラエルに対する神の恵みを示したあとで、主の名によって、彼らがだれに仕えるかを選べと人々に呼びかけた。偶像礼拝は、なお、ある程度まで、ひそかに行なわれていた。それでヨシュアは、彼らに決心を促して、イスラエルから、この罪を除こうとしたのである。……ヨシュアは、強制的でなくて、彼らが心から神に仕えるようになることを望んだ。……

 「わたしとわたしの家とは共に主に仕えます」とヨシュアは言った。指導者の心に燃えたのと同じ清い熱望が人々に伝わった。彼の訴えに全員は答えて言った。「主を捨てて、他の神々に仕えるなど、われわれは決していたしません」……

 ヨシュアは、聴衆がよく自分たちの言葉を熟考して、彼らがなしとげられないような誓いをしないように、彼らを導こうと努めた。彼らは、熱誠こめて宣言をくり返した。「いいえ、われわれは主に仕えます」。彼らは主を選んで、主に仕えることの証人と自らなることをおごそかに承認して、「われわれの神、主に、われわれは仕え、その声に聞きしたがいます」と、彼らの忠誠の誓約をもう一度くり返したのである。……

 イスラエルのためになすべきヨシュアの働きは終わった。彼は、「全く主に従った」そして彼は、神の書の中で「主のしもべ」と書かれている 。彼の労苦の恩恵をこうむった時代の人々の歴史は、公の指導者としての彼の品性の尊い証言である。「イスラエルはヨシュアの世にある日の間、また ・ ・ ・ ・ ヨシュアのあとに生き残った長老たちが世にある日の間、つねに主に仕えた」。(人類のあけぼの下巻153-158)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしがあなたを つかわすのではありませんか

「主はふり向いて彼に言われた、『……わたしがあなたをつかわすのではありませんか』。」(士師記6:14)

 

 ギデオンに、人々を救えという神の召しが与えられた。彼は、そのとき、麦を打っていた。彼は、隠してあったわずかばかりの麦を、一般の麦打ち場で打とうとしないで、酒ぶねの近くの場所に行った。まだ、ぶどうの熟するときはずっと先だったので、ぶどう畑のほうに注意をするものはいなかったからである。ギデオンは隠れて黙って働いていたが、イスラエルの状態を悲しく思い、どうしたなら人々から圧迫者のくびきを除くことができるだろうかと、思案していた。

 すると突然、「主の使」が現われて、彼に言った。「大勇士よ、主はあなたと共におられます」。彼は答えた。「ああ、君よ、主がわたしたちと共におられるならば、どうしてこれらの事がわたしたちに臨んだのでしょう。わたしたちの先祖が『主はわれわれをエジブトから導き上られたのではないか』といって、わたしたちに告げたそのすべての不思議なみわざはどこにありますか今、主はわたしたちを捨てて、ミデアンびとの手にわたされました」。

 天からの使者は答えた。「あなたはこのあなたの力をもって行って、ミデアンびとの手からイスラエルを救い出しなさい。わたしがあなたをつかわすのではありませんか」。(人類のあけぼの下巻192, 193)

 ギデオンは、目前にある大きな働きに対して自分自身の不十分さを深く感じた。 ……主は必ずしもみ業のために並はずれた才能の人々を選ぶとは限らない。しかし、主は最もよく用いることのできる人々を選ばれる。神によい奉仕をする者は、しばらくは無名のままでおかれ、主により注目されず、用いられもしないように見えるかもしれない。しかし、もし彼らがキリストのために喜んで働き犠牲を払う気持ちを抱きつつ、低い地位の義務を忠実に果たすならば、主はご自分でお定めになった時にもっと重い責任を任せるであろう。

 謙遜は栄誉に先立つ。主は、自分の無価値さと能力不足を最も感じている人々を用いることがおできになる。主は彼らに信仰の勇気を発揮するように教えられるであろう。主は彼らの弱さを主の力に結びつけて強くし、彼らの無知を主の知恵に結合して彼らを賢くなさるのである。(SDAバイブルコメンタリー[E・G・ホワイト・コメント] 2巻1003)