朝は6時に起床する。洗面台で顔を洗い、鏡に映る自分の顔を見る。事故の痕跡はほとんど消え、腫れも引いていた。シャワーを浴び、着替えて水色のシャツにネクタイを締める。学校へ向かう車中では、窓の外を眺めながら、授業の流れを頭の中で復習した。今日の授業は「生物多様性」についてだ。
学校に着くと、職員室で同僚たちが声を掛けてきた。
「おかえり、菊地先生。顔色いいね」
「無理しないでよ」
英治は穏やかに笑って、「ありがとう。もう大丈夫です」とだけ答えた。
授業が始まると、教室はいつも通り騒がしかった。生徒たちが「先生、生きててよかったー!」と声を上げ、拍手が起こる。英治は黒板の前に立ち、軽く頭を下げた。
「心配かけてごめん。」
黒板に生物多様性を表した紙を貼りながら、声は落ち着いていた。生徒の一人が手を挙げ、「先生、事故の後って記憶とか飛んだりした?」と聞いた。英治は少し間を置いて、「それはないよ。君たちの顔はちゃんと覚えてる」と答えた。教室が笑いに包まれた。
放課後、理科準備室で飼育動物の世話をしながら、夕食はトムヤムクンでも作ろうかと考えた。
帰宅後、Instagramに久しぶりに写真を一枚投稿した。モルモットと自分の手が写ったもの。キャプションはシンプルに。
「久しぶりの教室。明日もがんばります」
コメントがすぐにいくつか届いた。友人からの「おかえり」同士からの励まし。英治は一つずつ返信し、スマホを置いた。
毎日のルーチンは、事故前とほとんど変わらなかった。朝のランニング、授業、準備室での作業、休日のソロキャンプ。英治の日常は、静かに、確実に続いていた。
誰とも深く結ばれず、誰の記憶にも深く刻まれず、ただ自分らしく。
中山ひとみはそのことを、永遠に知らない。英治の人生に、彼女という存在は一度もなかった。