中山ひとみは、菊地英治の存在が心の中心にあった。高校生の頃から英治はいつも明るく笑顔を振りまく人気者だった。ひとみは彼に片思いを続け、告白する勇気もないまま卒業を迎えた。それから数年後、奇跡のような再会が訪れた。共通の友人の結婚式で、英治がひとみに声をかけてきたのだ。
「久しぶり、ひとみ。変わらないね」
その言葉から、二人の関係は急速に深まった。デートを重ね、英治の優しさに触れるたび、ひとみの胸は温かな喜びで満たされた。そして、ついに結婚。
英治はIT企業で働いており、ひとみはデザイン事務所のスタッフ。東京の郊外にマンションを借り、二人だけの穏やかな生活が始まった。毎朝、英治が淹れる紅茶の香りが部屋に広がり、夕食を一緒に作る時間が何よりの幸せだった。英治はいつも「君がいると毎日が楽しいよ」と言い、彼女を抱きしめた。結婚生活は、ひとみの長年の夢が現実になったようなものだった。喧嘩もなく、互いの存在が自然に溶け合う日々。ひとみは時折、自分がつかんだ幸運に感謝の祈りを捧げた。
しかし、結婚からちょうど一年が経ったある秋の夜、すべてが変わった。あの日は平日で、英治はいつも通り朝に出勤した。
「行ってきます。今日は少し遅くなるかも」
そう言って、軽くハグをしてドアを閉めた。ひとみはいつものように仕事に集中し、夕方にはスーパーで食材を買って帰宅した。夕食の準備をしながら、英治の帰りを待った。時計の針が7時を過ぎ、8時を回っても、彼は帰ってこない。普段は遅くても9時までには家にいるはずだった。こんなことは初めてだ。ひとみはリビングのソファに座り、スマホを握りしめた。不安が胸に広がり始める。英治の携帯に電話をかけたが、呼び出し音が続くだけで繋がらない。メッセージを送っても、既読がつかない。外はすでに暗く、秋風が窓を叩く音が不気味に響く。
「事故でもあったのかしら……」
そんな考えが頭をよぎった。ひとみはテレビをつけた。画面に映し出されたのは、首都高速道路で起きた多重事故の映像だった。渋滞中の車列にトラックが追突し、数台の車が巻き込まれた大惨事。負傷者多数、死者も出ているという。場所は英治の通勤ルートに近い環状線。ひとみの心臓が激しく鼓動した。
「英治さん……もしかして巻き込まれたの?」
慌ててニュースを凝視する。画面には、炎上する車や救急車のサイレンが映っていた。ひとみは再び英治の携帯に電話をかけた。一回、二回、三回……。応答はない。留守番電話に切り替わる機械的な声が、ひとみの不安を増幅させる。「英治さん、どこにいるの? 早く帰ってきて……」
彼女は声を震わせてメッセージを残した。部屋の中が急に寒く感じ、ひとみは膝を抱えて座り込んだ。指輪を指でいじりながら、過去の思い出がフラッシュバックする。英治の笑顔、二人で過ごした旅行、毎日のささやかな幸せ。あのすべてが、突然失われてしまうかもしれない恐怖に、ひとみの目から涙が溢れた。
夜が深まるにつれ、ひとみの想像は最悪の方向へ向かう。事故のニュースは繰り返し放送され、被害者の身元確認が進んでいるという。英治の車はあの場所を通るはずだ。もしかして、彼の名前がリストに載るのでは? ひとみは警察に連絡しようか迷ったが、まずは友人や会社に聞くべきかと考えを巡らせた。だが、手が震えてスマホを落としてしまう。静かな部屋に、時計の針の音だけが響く。英治からの応答は、一切なかった。ひとみは窓辺に立ち、外の闇を見つめた。幸せだった生活が、こんなにも脆いものだったなんて。彼女の心は、嵐のように乱れていた。
都内の総合病院の救急入口は騒々しかった。夜の雨がアスファルトを叩き、赤い回転灯が濡れた地面に反射している。担架に乗せられた無数の負傷者が次々と運び込まれ、医師と看護師たちが慌ただしく動き回っていた。その中の一人、意識を失った男が集中治療室に運ばれた。彼には身元を示すものは何もなかった。男の額には傷跡があり、頭部に強い打撲を負っていた。医師たちは懸命に治療を施したが、目覚めたとき、彼は過去の記憶をすべて失っていた。「名前は……?」
「どこに住んでいたか覚えていますか?」
医師の問いかけに、男はただ静かに首を振った。
不思議なことに、彼はその喪失を悲しむ様子はなかった。むしろ、空白の自分を受け入れるように穏やかだった。「思い出せないなら、それでいいのかもしれない」と、かすれた声で呟いた。
数週間の入院を経て、男は退院した。身元不明のままでは社会復帰が難しいため、病院側が特別に用意した道があった。病院の敷地内に併設された小さな植物園――患者たちの心を癒すための緑の空間。そこで、園芸作業を手伝うスタッフとして働くことになったのだ。そして彼は「レイジ」と呼ばれるようになった。
植物園は、コンクリートのビル群に囲まれた都心にありながら、意外なほど静かだった。温室の中には色とりどりの花が咲き、ベンチでは入院患者や見舞い客がゆっくりと時間を過ごす。レイジは朝早くから水やりをし、剪定をし、枯れた葉を丁寧に取り除いた。にこやかな笑顔で、通りがかった人々に挨拶をする。
「おはようございます。今日はいいお天気ですね」
車椅子の老婦人に声をかけると、彼女は目を細めて微笑んだ。
「あなたみたいな人がいると、病院に来るのも悪くないわね」
子供を連れた母親が花壇の前で立ち止まると、レイジはしゃがみ込んで花を指さし、説明をした。
病院関係者たちの間でも、レイジはすぐに評判になった。
「記憶がないのに、あんなに穏やかで……不思議な人だよね」
「患者さんたちに優しいし、植物の扱いも上手い。元々そういう仕事をしていたのかも。」
レイジ自身も、この新しい日常に不満はなかった。朝の陽光に照らされた葉の緑、土の匂い、花の香り。すべてが新鮮で、心地よかった。夜になると、社員寮で静かに眠りにつく。目覚めるとまた同じ穏やかな一日が始まる。
ひとみは今も英治の帰りを待ち続けている。警察の捜索は行き詰まり、事故の被害者リストに該当する人物は見つからなかった。彼女は毎晩のようにニュースをチェックし、SNSで情報を探し、祈るように英治の名前を呼び続ける。
だが、レイジはそのことを知らない。植物園のベンチに座り、レイジは空を見上げた。
雲一つない青い空に、かすかな風が吹き抜ける。
彼は小さく息をつき、そっと微笑んだ。「今日も、いい日だな」 その言葉は、誰にも届かないまま、静かな緑の中に溶けていった。