純子は、帰国してから数週間、胸の奥に重い石を抱えていた。シンガポールで見た菊地英治の姿に冷たい目。そして、流暢な中国語。誰も寄せ付けない空気。でも、ひとりで抱え続けるのは耐えられなくなっていた。

ある日の午後、純子は徹に連絡を取った。徹はすぐに彼女の経営するカフェに来てくれた。

「純子、どうした?急に呼び出して」
純子はコーヒーミルを回しながら、ゆっくりと話し始めた。
「……シンガポールで、英治さんを見たの」
徹の表情が一瞬で凍りついた。
「いつ? どこで?」
純子は新婚旅行の三日目、オーチャードロードのモール。カフェのテラス席でサングラスをかけた英治らしき人物。彼は電話で何者かに中国語で話していたことを徹は黙って聞いていた。
「話しかけられなかった……なんか、違う人みたいで。怖かったの」
純子は涙を堪えながら続けた。
「ひとみには、まだ言ってない。言ったら、壊れちゃうかもしれないと思って……でも、徹くんなら、知っておくべきだと思った」
徹は深く息を吐き、目を閉じた。
「……ありがとう、純子」
声は低く、抑えていた。
「俺も、まだ確証はない。でも、火災の倉庫の施錠が内側からだったって話、実は外からでも簡単に鍵がかけられる構造だったんだ。」
徹はファイルを広げ、新たに追加されたメモを指差した。
「あいつの勤めてた会社、表向きは貿易だけど、裏で何か怪しい動きがあったって噂があった。警察は自殺で片付けたけど、俺は最初から違うと思ってた。……生きてるなら、英治は今、何かを隠して生きてるのかもしれない」
純子は震える声で聞いた。
「じゃあ……どうするの?」
徹は静かに答えた。
「もっと調べる。シンガポールに知り合いがいる。現地の日本人コミュニティに聞いてみる。もし本当に英治なら、なぜ死を偽装したのか。なぜひとみを置いて消えたのか。それを知らなきゃ、終われない」
純子は頷いた。
「私も……何か手伝えることがあったら、言って」
徹は小さく笑った。
「ひとみには、まだ言わないでくれ。俺が確信を持てるまで。……あいつをこれ以上壊したくないからな。」
純子は徹に報告したことで、少しだけ肩の荷が下りた。でも、同時に新しい重荷を背負った。英治は生きているかもしれない。でも、それは希望ではなく、もっと深い闇の始まりかもしれない。