シンガポールのマリーナベイ・サンズ、最上階のスイートルーム。夜景がガラス窓いっぱいに広がり、ライトアップされたガーデンズ・バイ・ザ・ベイが宝石のように瞬いている。ベッドの上で、リー・ウェンハオはパートナーのチャンと並んで横たわっていた。
二人は久しぶりの休暇。任務から解放された数少ない時間。リーはチャンの肩を優しく抱き、静かに息を吐いた。
「苦痛だったよ」
低い声で、リーは呟いた。
「好きでもない女と夫婦関係になるのは、それが任務だったとしても」
チャンは黙ってリーの顔を見つめる。優しく、ゆっくりと。リーは目を閉じ、続けた。
「中山ひとみ……彼女は純粋だった。私の演技を、全部信じてくれた。それが、余計に辛かった。それも日本の政治団体の機密情報を手に入れるためだったけどな。完璧に『菊地英治』として生きて、情報を集めて、そして……消える必要があった」
敵対組織の刺客がリーの正体に気づいたのは、失踪の数日前。深夜の河川敷で襲撃を受け、リーは刺客を返り討ちにした。そして、その死体を「菊地英治」のものに見せかけた。
歯科記録、DNAデータのすり替え、倉庫への放火。すべてが緻密に計算されていた。
警察は自殺と判断し、捜査は終了した。誰もその事に疑わなかった。
リーはチャンの額に、軽く唇を寄せた。キスは優しく、短かった。
「“菊地英治”は死んだ」
二人は静かに夜景を見つめた。窓の外では、シンガポールの夜が穏やかに続いている。リー・ウェンハオは、任務を終え、ようやく自分の人生に戻ってきたのだ。
誰も知ることはない真相は、シンガポールの夜空に溶け、静かに消えていった。