事故から一ヶ月が過ぎたある朝、病院のICUで奇跡が起きた。身元不明の患者――腹部に大きな手術跡を持つ男――が、突然目を覚ました。医師は興奮と慎重さを交えながら、ゆっくりと彼に質問を始めた。
「あなたのお名前は?」
男はしっかりした声で答えた。
「菊地英治です。都内の高校で、生物を教えています。」
その名前を聞き看護師の鴨田は夫を探しているというあの女性のことがよぎった。その夫の名前と一致する。鴨田は思わず質問した。
「あなたの妻らしき人から連絡を受けました。」
男はわずかに眉を寄せ、きっぱりと言った。「私は独身です。妻なんていませんよ。」
その言葉は、静かな病室に冷たく響いた。鴨田は戸惑いながらも、事実確認を進めた。警察と連携し、菊地英治という人物の身元を徹底的に調べ上げた。
結果は、すべて彼の言葉と一致した。都内の私立高校に勤める生物教師、菊地英治、32歳、独身。住民票、勤務先の記録、すべてが「菊地英治」の名義で、家族欄は空白。SNSのアカウントも存在し、そこには彼が数年前に公表した内容が残っていた。
私はゲイです。現在はパートナーはいませんが、これからも自分らしく生きていきたいと思います。
写真はソロキャンプの様子や街で見かけた野鳥などで、そこに女性の姿はなかった。
鴨田はひとみに伝えることはしなかった。彼が彼女の夫でないのなら知らせる義務はない。
それから2週間後、菊地英治は退院した。彼は満面の笑顔で病院を去っていった。