中山ひとみにとって菊地英治は初恋だった。だけど彼女がその気持ちに気づいたとき彼には恋人がいた。
ひとみが足元にも及ばないような素敵で美しい女性だった。英治はその彼女と結婚の約束をしたが、彼女は急な病で死んでしまった。
最愛の人を失って悲しむ彼の姿を見てひとみは少しでも癒してあげようとしたが、彼に激しく拒絶されてしまった。
その瞬間、ひとみの恋は終わってしまった。


それから10年以上が経った。
ひとみは図書館で司書として働いていた。表向きは真面目で真摯な司書だったが、彼女は未だに彼への未練が残っていた。特定の恋人がいないのもいつか彼とどこかで出会って、恋に発展するのではと思っているのだ。
最近、ひとみがハマってる韓国ドラマも長いこと離れていた男女が偶然再会し、その後結婚という内容だ。ひとみは録画を何度も再生しては彼への想いをいっそう強めていた。


世間が夏休みになり、ひとみは友人の朝倉佐織、橋口純子と純子の婚約者天野司と一緒に和歌山へ旅行に出かけた。
運転席に司、助手席には純子が座っている。その様子はまるで夫婦のようだった。
1日目は熊野大社を参った後、熊野古道を少し歩いてホテルに宿泊した。
2日目は太地に行き、そこにあるくじらの博物館へやってきた。
その名の通りクジラに関することが展示されている場所だ。ひとみは捕鯨にまつわる資料を丁寧に見ながらメモしていく。
「ひとみ、真面目だね」
佐織が冷やかす。
「図書イベントでクジラと人との関係について企画しようかなって思ってさ」
「まあ、我々日本人にとって捕鯨は文化だもんね。」
屋外には入り江を区切って作られたプールがある。桟橋では数人の飼育係が黒くて丸っこいクジラにエサをあげているようだ。千葉にある水族館で働く佐織は「あの黒いのはオキゴンドウ、手前にいるのはハナゴンドウ」と説明してくれた。
そして、一人の飼育係が笛を吹き、手を挙げるとオキゴンドウは一瞬水中に潜り、その後ジャンプをした。
見ている客から歓声が上がる。
「あれ?あの人菊地じゃないか?」
司の声に純子も反応する。ひとみも司の指差す人物に注視する。メガネをかけているも柴犬を連想する髪型は彼の特徴だ。
クジラたちへの給餌が終わり、飼育係が桟橋から陸へとやってきた。
そして、純子が話しかける。
「菊地くんだよね。」
「あ、橋口じゃないか。」
彼は懐かしそうな表情で答えた。
「天野に朝倉、中山もいるな。観光できたのか?」
「そうだよ。休みが取れたから遠出。菊地くんも飼育係してるなんて私と同じじゃん」
佐織が英治の肩を叩く。
「飼育係というより獣医だよ。」

彼は高校を卒業後、獣医学部に進んだ。物心つく頃から動物のお医者さんに強い思いを寄せていたという。そこで学んでいくうちに海獣の虜になり、海獣専門の獣医を志すようになっていった。
クジラの話を熱心に話す彼の姿にひとみは秘めていた想いが再び溢れ出す感覚を覚えた。でも彼に本当の気持ちを伝えようとしてもうまく言葉が出てこない。
お互いの現状について話していると一人の女性が英治の名前を呼んだ。英治はその女性に向かって手を上げた。
「あの人は?」
「ああ、アンナだよ。カナダ出身の写真家で私の婚約者」
英治はにこやかな笑顔で答える。
出会いは彼がカナダに留学した時、お互いに趣味志向が会い意気投合したという。
「そうなんだ。結婚はいつ?」
純子は素直に喜んでいる。
「今は色々忙しいから来年かな。」
「式には絶対呼んでよ。」
「当たり前だろ。」
盛り上がる司、純子、佐織とは逆にひとみはその中に入れなかった。せっかく会えた彼はすでに新たな出会いをしていた。ひとみはまたもフラれてしまった。
「どうしてあたし、タイミング悪いのかな」
彼女の背後でオキゴンドウがジャンプをし、その飛沫が少しひとみにかかった。