帰国した中山ひとみは、自分の部屋のピアノの蓋を開けた。鍵盤に指を置くと、その感触が懐かしくて、胸が震えた。

体はまだ本調子ではなかったが、音楽だけは、彼女の唯一の逃げ場であり、生きる証だった。「もう、大丈夫」
そう自分に言い聞かせ、彼女は久しぶりの作曲作業を始めた。
英治のプロポーズ、桜の花びら、上海の夜、豫園の橋で見たあの後ろ姿――
すべてを、切ないメロディーと儚い歌詞に変えて、美しい声で歌う。
ピアノの音色は優しく、けれど芯に痛みを帯びていた。

あたしみたいなものでいいの?
と聞いたあの春
あなたは笑って頷いた
なのに風は冷たくて
山はあなたを奪って
私はここに取り残されて  

歌いながら、涙が鍵盤に落ちた。
でも、以前のような発狂はなかった。
ただ、静かに、静かに、悲しみを音に変えていく。
それが、彼女なりの癒し方だった。

それを久美子に聞かせると彼女は提案した。
「動画、上げてみない? 多くの人に聞かせたい」
ひとみは最初、ためらった。でも、英治との思い出を誰かに聞いてもらいたいような……誰かに委ねたいような気持ちが、ふと湧いた。
スタジオでの収録、儚そうな顔、長い髪を耳にかけて、淡々と歌う姿。編集もほとんどせず、そのまま動画サイトにアップした。タイトルは

「桜の下で、永遠に」

最初は細々としたものだったが、SNSで少しずつ話題になった。
「この歌、胸が痛い……」
「声が震えてるのに、綺麗すぎる」
「失恋した人は絶対共感する」
「歌手デビューしてほしい」
再生回数はあっという間に十万、五十万、そして百万を超えた。
コメント欄は励ましの言葉と、同じように失った人を想う人たちの告白で埋め尽くされた。ある夜、ひとみは画面を眺めながら、久美子に電話した。
「ねえ、久美子……みんな、優しいね。あたしの痛み、わかってくれる人が、こんなにいるんだ」
声は穏やかだった。
「英治くんに聞かせたかったな……」
そう呟いて、ひとみは涙を流した。

ひとみの歌は世界の片隅で、静かに響き続けていた。
失われた愛は、決して報われることはなかった。しかし、その痛みは、音となって、誰かの心に届き始めていた。桜の季節が、再び巡ってくる。
ひとみはピアノの前に座り、次の曲のメロディーを紡ぎ始めた。
弱く、けれども確かに、前へ。失われたものは、決して戻らない。でも、失った分だけ、彼女は歌を手に、生きていく。――それが、今の彼女にできる、精一杯の答えだった。