半年後、菊地瑛士は静かに自宅の鍵を開けた。玄関に溜まった埃が、足元で薄く舞った。もちろん、家には誰もいなかった。
リビングのソファに腰を下ろし、瑛士はゆっくりと息を吐いた。
一年前、病院で告げられた余命宣告が、まだ耳の奥に残っている。
「余命一年程度でしょう。積極的な治療をしても、劇的な延命は難しいと思います」
その言葉を聞いた日から、彼は決断した。それは悔いなく生きること。
銀座の高級クラブで散財し、下田温泉の宿でゆったりと過ごし、食べたかったものを見たかった景色を、ただ貪るように追いかけた。
すべては、死ぬまでの最後の贅沢。
現在、病状は安定していた。完治とはいかないまでも、死の影は少し遠のいている気がする。瑛士はキッチンで水を飲み、きれいに整えられた寝室に入り、ベッドに横になる。
「結局、一人か」
独り言が静かな部屋に響いた。誰の記憶にも残らないかもしれない最後の放蕩。誰にも縛られず、誰にも傷つけず、ただ自分の欲求だけを満たした日々。それで十分だった。
瑛士は天井を見つめながら、静かに目を閉じた。
それから一週間後、瑛士は中川冴子と籍を入れた。彼女は高校生から付き合っていた恋人だった。瑛士が余命宣告を受け、突然すべての連絡を絶って放蕩旅行に出てしまったときも、彼女は静かに待っていた。
「どうしてもキミと一緒に暮らしたい。一日でも長く、そばにいたい」とプロポーズし、冴子は喜んで受け入れた。
結婚式は親しい友人だけを読んでレストランを貸しきって行った。
二人の生活は、とても穏やかだった。朝は瑛士が紅茶をいれ、冴子手作りのパンとスープの朝食で始まる。
お互いに、仕事で忙しいが、休日ともなればキャンプに行ったり、サッカーの試合を見に行ったりと充実した日々を過ごしている。
夜はリビングのソファで寄り添い、ゲームをしたり、アニメ鑑賞をする。
瑛士が時折、旅の話をすると、冴子は穏やかに耳を傾けた。すべてを聞き終えた後、彼女はただこう言った。
「生きて帰ってきてくれて、ありがとう」
瑛士の病状は依然として予断を許さないものの、奇跡的に進行は遅く、日常生活に支障はほとんどなかった。
二人は無理に未来を語らず、その日その日を大切に過ごした。休日の午後、冴子が庭で野菜を育て、瑛士がそれをぼんやりと眺めている光景が、二人の日常の象徴になった。派手で刹那的だった放蕩旅行の後、瑛士はようやく、静かな幸せの形を見つけたのだった。