それから一年経った。
相原透はシンガポール出張の最終日、偶然にも菊地瑛士と再会した。マリーナベイのホテルのラウンジ。ガラス越しに夜景が輝く中、瑛士は変わらぬ爽やかな笑顔で透に近づいてきた。彼の風貌は一年前とまるで変わらない。
「透じゃないか。奇遇だな、元気だったか?」
にこやかに話しかけられ、透も変わらず爽やかな返事をする。二人は軽く酒を酌み交わした。仕事の話、シンガポールの印象、最近の出来事。瑛士は相変わらず饒舌で、笑顔を絶やさなかった。そこで彼は思い出すようにつぶやいた。
「……なあ、ひとみは元気してる?」
それを聞いて、透は言葉につまった。彼女は失恋のショックで心療内科に通っている。でもその事を言うのは違うので当たり障りない答えで返した。
「まあ、元気だよ。なんでひとみのことが気になるんだ?」
「そりゃ、あいつのことが好きだからだよ。覚悟はできたから、帰国したら彼女と籍を入れようと思うんだ。」
彼が満面の笑みで言うのを見ると、嘘は言っていない。それなら、どうしてひとみをふったのか。
「ここにいる間、ちゃんと自分の気持ち整理できたよ。ひとみみたいな純粋で真っ直ぐな子、他にいないなって。もう少しで日本に帰る。一ヶ月後には戻る予定だ。そのタイミングでちゃんと話すつもりだよ」
瑛士はそう言って、透の肩を軽く叩いた。別れ際も爽やかな笑顔のまま、手を振った。
「じゃあ、また日本で会おうな」

日本に帰ってきた透は、すぐにひとみに連絡を取った。待ち合わせは駅前の喫茶店、フラれたショックでやけ食いしたせいなのか少し太ったひとみは、向かいの席に座る透の顔を不安げに見つめていた。
「透くん……どうしたの? 急に呼び出して」
透はコーヒーを一口飲んでから、ゆっくりと切り出した。
「シンガポールで、瑛士に会った」
ひとみの肩がびくりと震えた。
「……え?」
「変わってなかったよ。元気そうだった。そして、ひとみの話が出たとき……」
透は迷わず瑛士の言葉をそのまま伝えた。
「『覚悟はできたから、帰国したらひとみと籍を入れようと思うんだ』って言ってた。一ヶ月後には日本に帰ってくるらしい」
ひとみは目を丸くして透の顔を見つめていた。信じられない、という表情のまま、唇が小さく動く。
「……籍? 瑛士くんが……あたしなんかと?」
声が震えていた。目にはみるみるうちに涙が浮かぶ。
「冗談はやめて……そんななぐさめなんかいらないよぉ~」
透は静かに首を振った。
「本気で言ってたよ。あいつ笑顔で、嬉しそうにひとみのことが好きだって。」
ひとみは両手で口を覆った。涙が一筋、頰を伝う。一年前の自己嫌悪の日々。毎晩のように泣いた夜。諦めようとして、でも諦めきれなかった想い。すべてがぐちゃぐちゃに混ざり合い、胸の奥が熱くなった。
「瑛士くん……本当に?」
ひとみは小さく笑った。笑ったら止まらなくなった。涙が溢れてきたけど、それは悲しみの涙ではなかった。心の底から、胸の奥底から、喜びが湧き上がってくる。あたしみたいな人間を、瑛士くんが選んでくれる。ちゃんと自分のことを想ってくれていた。
「うれしい……本当に、うれしい……」
ひとみは声を殺して泣き笑いした。久しぶりに、心が軽くなった気がした。一年分の寂しさと自己嫌悪が、溶けるように消えていくようだった。
瑛士が帰ってくる日まで、毎日を大切に過ごそうと思った。仕事中も、ふとした瞬間に笑みがこぼれる。同期の女性に「ひとみちゃん、最近なんかいいことあった?」と聞かれ、彼女は照れくさそうに頷いた。「うん……大事な人が、帰ってくるの」

一ヶ月は、意外とあっという間だった。瑛士が帰国する当日、ひとみは空港の到着ロビーで待っていた。
到着の表示が点滅し、乗客たちが次々と出てくる。ひとみは背伸びをして、必死に人ごみの中を探した。
(瑛士くん……早く会いたい)
心の底から、純粋に、ただただ喜びで胸がいっぱいだった。