中山ひとみは、病室の白い天井をぼんやりと見つめていた。頭が重い。記憶が霧の中に溶け込んだように、何も思い出せない。事故のことはもちろん、事故の前のことも。

医師は「逆行性健忘」と説明したが、言葉はただ空しく響いた。

「ひとみ……!」

ドアが勢いよく開き、背の高い男性が駆け寄ってきた。整った顔立ちのイケメン。でもその目は真剣で、どこか必死だった。

「大丈夫? 俺だよ、徹。相原徹……君の婚約者だ」

ひとみは瞬きを繰り返した。婚約者? その言葉に心臓が跳ねたが、顔を見ても何の記憶も浮かんでこない。むしろ、警戒心が先に立った。

「……ごめんなさい。あなたが誰だか、わかりません」

徹は一瞬、傷ついたような表情を見せたが、すぐに優しい笑みを浮かべた。

「いいんだ。医者から聞いたよ。無理に思い出そうとしなくていい。俺が全部教えてあげるから」

それから徹は毎日、病院に通ってきた。

彼はひとみの好物をよく知っていた。チョコミントに目がないこと、辛いものは苦手なこと、サックスの演奏が上手なこと。
事故の直前、二人で考えた結婚式のプランまで。
「本当に、あたしの婚約者だったの?」
ひとみが小さく呟いた。徹は隣の椅子に座り、彼女の手をそっと握った。温かくて、大きな手だった。
「ああ。事故の二週間前、プロポーズしたばかりだった。君は『やっとこの日が来た』って泣きながら笑ってくれたよ」
手に置かれた婚約指輪。ひとみはそれを何度も見つめた。でも、心はまだ追いつかない。
懐かしい写真を次々と見せてくれる。二人で旅行に行った屋久島、笑顔で並ぶツーショット、
「……なんか、変だよね」
ひとみはぽつりと言った。
「こんなに優しくしてカッコいい人が婚約者だって、すごく幸せなはずなのに……怖い」
徹の動きが止まった。
「怖い?」
「だって、全部忘れちゃってるあたしを、こんなに好きでいてくれるなんて……本当かなって。もしかして、優しい嘘なんじゃないかって」
徹は深く息を吐き、額をひとみの肩に預けた。声が少し震えていた。
「嘘じゃない。俺はひとみが好きなんだ。事故に遭う前も、今も。これから先も。記憶がなくても、君は君だ。俺の大切なひとみだよ」
その瞬間、胸の奥で何かが小さく輝いた。記憶ではないけれど、確かに感じるものがあった。温かくて、切なくて、懐かしい感情。
退院の日。ひとみは徹の差し出した手を、迷いながらも握った。まだ全てを思い出せない。でも、この人の横にいると、ゆっくりと記憶の霧が晴れていくような気がした。
「徹さん……これから、よろしくお願いします」
徹は笑った。初めて見せる、安心しきったような笑顔だった。
「こちらこそ。ずっと、そばにいるから」
失われた記憶の向こう側に、新しい物語が始まろうとしていた。