中山ひとみは鏡の前に立っていた。
自慢の長い髪が、洗面台に散らばっている。
バサリ、バサリとハサミの音が、まるで心を切り裂く音のように響いた。
「これで……終わり。」
最後に残った一束を切った瞬間、涙がぽろりと落ちた。
菊地英治。
高校時代からずっと片想いだった、あの人の笑顔。
一緒に過ごした文化祭、帰り道の少し照れた会話、雨の日に傘を貸してくれた優しさ。
全部、全部、この髪と一緒に捨てる。
翌朝、ひとみは東京駅にいた。
スーツケースを転がし、切ったばかりの髪を風に揺らしながら新幹線に乗り込んだ。
行き先は決まっていなかった。ただ「遠くへ」という気持ちだけがあった。
彼女は山間の温泉町に辿り着いた。川の音が絶えず聞こえる、昭和レトロな雰囲気を感じさせる旅館「山桜荘」
「いらっしゃいませ。一人ですか?」
カウンターに立っていたのは、甘利卓という少し無愛想だけど、目が優しい男性だった。年はひとみより二つ上。彼は地元の大学生で今はこの旅館でバイトとして働いている。
彼はひとみのスーツケースを運び、部屋まで案内してくれた。その夜、ひとみは露天風呂で空を見上げていた。
星がたくさん輝いている。
胸の奥がまだチクチクする。英治のことを考えると、息が苦しくなる。
「もう、いいよね……」
独り言を呟いた瞬間、足音がした。
「寒くないか?」
卓だった。
彼は湯気の中で、黙って隣に座った。変に話しかけてこない。ただ、静かに同じ空を見ている。
それから毎日、卓はひとみのそばにいた。
彼はあまり自分のことを語らなかったが、ある時ふっとつぶやいた。
「俺も……一度、全部捨てて逃げたことがあるよ。」
その言葉が、ひとみの心に染み込んだ。
「ひとみ。よかったら俺と一緒にいてほしい。お前のこともっと知りたいんだ。」
風が吹いて、ひとみの短くなった髪を優しく揺らした。
その瞬間、胸の奥で何かが溶けていくのがわかった。
ひとみは微笑んで、卓の手をそっと握った。
「うん……あたしも卓のこと知りたい。」
遠くの空に、線路を走る列車の音が小さく聞こえた。東京へ帰る音ではなく、どこか別の未来へ続く音のように感じた。