中山ひとみは、結婚して一年が経った今も、毎朝目を覚ますと隣にいる菊地英治の寝顔をそっと見つめては、胸が温かくなるのを感じていた。高校生の頃から、ずっと片思いだった人。英治が動物の世話をしている姿を遠くから眺めているだけで幸せだった。告白する勇気などなく、ただ彼の隣にいられるだけで十分だと自分に言い聞かせていたのに、ある夜、英治の方から「ずっと気になってた」と言われた。あれから10年が経ち、結婚した。すべてが夢のように滑らかに進み、ひとみは毎日が奇跡のように思えた。

「今日も遅くなるかも。夕飯は先に食べてて」

出かける朝、彼はいつものようにそう言って、ひとみを抱き締めた。

「気をつけてね。」

ドアが閉まる音を聞きながら、ひとみは微笑んだ。この幸せがずっと続けばいいのに、と心のどこかで願っていた。しかし、その夜、彼は帰ってこなかった

『まだ仕事かな? 無理しないで』
既読はつかず、返事もない。珍しいな、と思いながらも、ひとみは一人で夕飯を食べた。
十二時を回り、午前一時になっても音沙汰がない。電話をかけても、コール音が虚しく響くばかりだった。不安が、じわじわと胸に広がっていく。
翌朝になっても、英治は帰ってこなかった。職場に電話をすると、「昨日は定時で上がりましたが……」という答えが返ってきた。
警察にも相談した。行方不明として受理されたが、事件性がないと見なされ、積極的な捜索は期待できないと言われた。英治のスマホは電源が入ったまま位置情報が途絶え、カードの使用履歴もない。まるで忽然と消えたかのようだった。ひとみは一睡もせずに待った。二日目、三日目。家の中で震えながら、何度も彼の名前を呼んだ。
「英治さん……どこにいるの?」
SNSにも情報提供を求めた。

『夫が行方不明です。最後に出かけたのは△月○日朝、心当たりがある方、情報をお願いします。』
添付した写真は海ほたるに行ったときの写真、彼の満面の笑みが眩しい。
投稿は瞬く間に拡散された。
《大変ですね……早く見つかりますように》
《ご主人のこと、祈っています》
同情のコメントは山ほど届いた。励ましの言葉ばかりで、有力な情報は一つもなかった。誰かが「この辺で似た人を見た」と書いたが、顔写真を確認すると別人だった。
ひとみはベランダに出て、夜の街を見下ろした。どこかで彼が生きていて、自分を待っている気がした。
一年間、ずっと幸せだった日々が、今は遠い夢のように感じる。彼の行方は、いまだわからない。ひとみの胸の中には、永遠に終わらない片思いのような、疼きだけが残っていた。

それから2週間後、午後3時過ぎに警察から電話があった。
「奥さん、菊地英治さんの乗用車が発見されました」
ひとみは受話器を握りしめたまま、息を止めた。場所は、市街地から車で一時間ほどの山間にある、ガードレールの低い急カーブの崖下だった。車は大破し、原型を留めていなかったという。発見したのは、通りかかったツーリング中の男性だった。救急隊が車内から彼を引き出すも、現場で死亡が確認されたという。
警察官の声は淡々としていた。
「車内から手帳が見つかりました。菊地さんの筆跡で、『生きていくのが辛くなった』と書かれていました。他に遺書のようなものはありませんでしたが……自殺と判断せざるを得ません。捜査はここで打ち切ります」
電話の向こうで、警察官が何か他にも説明していたが、ひとみには何も聞こえなかった。世界が、真っ白になった。
英治が死んだ。自ら、崖に車を突っ込ませて。あの明るくて前向きで、いつもひとみのことを大切にしてくれた人が「生きていくのが辛くなった」などと残して死ぬなんて信じられなかった。

葬儀の日、ひとみは一言も発しなかった。
友人たちが声をかけても、ただうつろな目で虚空を見つめているだけだった。棺の前で、彼女はゆっくりと膝をつき、震える指で棺に触れた。冷たい木の感触が、初めて現実を突きつけてきた。
その夜、家に帰ったひとみは、ベッドに横になったまま動かなくなった。翌朝、橋口純子が心配して訪ねてきたとき、彼女はもう、言葉を失っていた。
「ひとみ、大丈夫?」
彼女は返事をしようとするも、声が出ないのだ。医師の診断は「心因性失声症」だった。強い精神的ショックにより、声帯が機能しなくなったという。ひとみはただ、窓の外を眺めていた。
英治が好きだった空を、二人が手を繋いで歩いた道を、そして、彼がもう二度と帰らないことを、静かに受け入れようとしていた。しかし、心の中ではまだ、片思いの頃のように、彼の名前を呼び続けていた。

ひとみはノートとペンを手にした。声は出せない。けれど、心に溢れて止まない想いを、ただ文字にすることでしか、彼女は自分を保てなかった。
震える指で短歌を綴った。ノートは涙でところどころ滲んでいる。

届かぬか
片思いのまま
終わるとは
結ばれし日々も
夢の続きかと

辛しとて
崖の底へと
君は逝き
残されし我は
声も失いて

ひとみはペンを置き、ノートを抱きしめた。
声にならない嗚咽が、喉の奥で何度も震えた。 英治の笑顔が、写真の中で静かに彼女を見ている。
短歌を書きながら、彼女は初めて、ほんの少しだけ、彼の死を——自ら選んだ死を——受け入れようとしている自分に気づいた。それでも、心の奥底では、まだ問い続けている。
「英治さん……本当は、どこかで生きているの?」
ノートの一番最後のページに、彼女は小さく書き添えた。

永遠の片思いは、終わらない