中山ひとみは、中学の頃から菊地英治に片思いをしていた。あの頃の英治は、クラスで一番の人気者だった。笑顔が眩しく、いつも周りを明るく照らすような存在。ひとみはただ遠くから見つめるだけで満足していたが、運命は意外な形で二人を結びつけた。
大学卒業後、再会した彼に告白され、交際が始まり、そして結婚。夢のような出来事だった。結婚生活は、ひとみが想像していた以上に幸せで満たされていた。毎朝、英治が淹れてくれる紅茶の香りで目覚め、ゲームで遊びながら他愛のない話を交わす。週末は公園を散歩し、手を繋いで未来を語り合う。英治は仕事で忙しいながらも、ひとみを大切に思ってくれているのが伝わってきた。「ひとみ、君がいればそれで十分だよ」と、彼はよく言った。あの言葉が、心の支えだった。しかし、結婚からちょうど一年が経ったある日、すべてが変わった。
英治はいつものように朝、出勤した。「行ってきます」とハグをして。ひとみは笑顔で見送った。夕方になっても、彼は帰ってこなかった。英治の仕事は大学の研究職で、時には遅くなることもあった。でも、夜の8時を過ぎても、9時を過ぎても、連絡一つない。こんなことは初めてだった。
ひとみはリビングのソファに座り、スマホを握りしめて待った。心臓の鼓動が速くなるのを感じた。不安が胸に広がっていく。英治はいつも、遅くなる時はメッセージを入れてくれるのに。電話をかけてみたが、呼び出し音が続くだけで繋がらない。留守電に切り替わると、ひとみの声は震えていた。
「英治さん、どうしたの? 早く帰ってきて……」
そんな時、テレビで速報が流れた。
「首都高速道路で多重衝突事故発生。複数台の車両が巻き込まれ、負傷者多数!」
映像には、炎上する車とサイレンの音が映し出されていた。ひとみの視線が釘付けになった。英治の通勤ルートはまさに首都高を通る。まさか……彼が巻き込まれたんじゃないか? 心臓が凍りつくような恐怖が襲ってきた。
電話が鳴ったのは、深夜の11時を少し回った頃だった。ひとみはソファの上で膝を抱え、スマホを握りしめたまま固まっていた。画面に表示された「英治」の名前を見た瞬間、涙が溢れそうになった。震える指で通話ボタンを押す。
「……もしもし、ひとみ?」
英治の声だった。いつもの変わらない穏やかな声にひとみは声を詰まらせながら、ようやく言葉を絞り出した。「え!英治さん……! 大丈夫? 事故のニュース見て、あなたが巻き込まれたんじゃないかって……」
「ああ、ごめん。首都高が大渋滞でさ。事故の影響で全然動かなくて。もう少しで抜けられそうだけど、かなり遅くなる。もう寝てていいよ。」
「……本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だって。心配かけて悪かったな。愛してるよ、ひとみ」
その一言で、張り詰めていた糸が切れた。ひとみは泣きながら、でも笑いながら頷いた。
「うん……私も。早く帰ってきてね」
電話が切れた後、ひとみは深い安堵に包まれた。彼は無事だった。事故に巻き込まれたわけじゃなかった。そうして彼女は寝室のベッドに潜り込んだ。安心した体はすぐに眠りに落ちた。
翌朝。ひとみはいつものように目を覚ました。でも、隣に人の気配がない。時計は8時を過ぎている。いつもなら英治はもう起きて、朝食の支度をしているはずなのに。
「……英治さん?」
寝室からリビングへ。玄関を見ても、彼の靴はない。昨夜の電話の記憶がよみがえる。遅くなるって言ってたけど……帰ってこなかった?
テレビをつけるといつも見ている朝の情報番組。キャスターの声が淡々と流れている。
「昨夜、首都高速道路で発生した多重衝突事故について、新たな情報です。……犠牲者の方々の身元が一部判明しました。……東京都内在住、菊地英治さん……」
テロップに映し出されるその名前を見たとたんひとみの視界がぐらりと揺れた。
「………えっ!?」
声にならない声が漏れる。テレビの音が遠くなる。胸が締め付けられ、息が吸えない。過呼吸が始まった。両手で口を覆い、床に崩れ落ちる。肺が焼けるように痛い。涙が止まらない。頭の中が真っ白になる。昨夜の電話。あの声。あの「愛してるよ」あれは……本当に彼だったのか?それとも、ひとみが必死に願った幻聴だったのか。
ひとみは床にうずくまり、ただ震え続けた。
過呼吸の波が引くたび、胸の奥で同じ言葉が繰り返される。彼は、帰ってこなかった。そして、もう二度と帰ってこない。
彼が亡くなってから、ちょうど一ヶ月が経った。事故のニュースはもう流れなくなり、世間は忘れていく。でも、ひとみの中では時間が止まったままだった。その日もひとみはポツリとソファに座り込んでいた。
そんなときに玄関の鍵が回る音がした。そして、聞き覚えのある声が、静かな家の中に響いた。
「ただいま」
その声は、紛れもなく英治だった。ひとみが好きだったあの明るい声。ひとみの心臓が激しく鳴った。立ち上がろうとして足が震え、よろめきながら玄関の方へ向かった。廊下の突き当たり、薄暗い玄関に、男の影が立っていた。顔を上げた彼は、満面の笑みを浮かべていた。
「英治……さん?」
声が掠れる。
「死んだんじゃないの……?」
英治は首を振って、ゆっくりと近づいてきた。「私は生きてるよ」
その言葉に、ひとみの視界が滲んだ。涙が溢れ、足が勝手に動いた。英治の胸に飛び込むように抱きつくと、彼の腕がしっかりとひとみを包み込んだ。温かかった。体温があった。英治の匂いが、懐かしい香水と汗の混じった匂いが、鼻腔を満たした。
「英治さん……本当に……?」
「うん。本当に」
ひとみは彼の胸に顔を埋め、嗚咽を漏らした。やっと、やっと現実が戻ってきた。悪夢が終わった。英治はここにいる。生きている。すべてが間違いだったんだ。と思ったのも束の間。英治の腕が、急に軽くなった。体温が、急速に失われていく。ひとみが顔を上げると、英治の笑顔が、まるで霧のように薄れ始めた。輪郭がぼやけ、色が抜け、透けていく。
「英治さん……?」
呼びかけた瞬間、彼の姿は完全に消え去った。
ひとみは膝から崩れ落ち、床に両手をついた。指先が震え、涙がぽたぽたと落ちる。
幻だった。また、幻だった。一ヶ月経っても、彼は帰ってこない。
彼の「ただいま」は、もう二度と聞くことはない。それでも、ひとみは待つことをやめられなかった。