中山ひとみは、高校生の頃から菊地英治の存在が心の中心にあった。英治はいつも穏やかな笑顔を浮かべ、生き物には優しく接する人だった。ひとみは彼のそんな姿に惹かれ密かに想いを寄せていた。高校卒業後も、共通の友人を通じて時折会う機会がありそのたびに胸が高鳴った。でも、ひとみは自分の気持ちを伝える勇気がなくただ見守るだけの日々が続いていた。社会人になって数年が経ったある日、英治から突然の連絡が来た。
「久しぶりに会わないか? 話したいことがあるんだ」
ひとみは心臓が激しく鼓動するのを感じながら、約束の場所へと向かった。待ち合わせは、丘の公園。紅葉が美しく散る中、英治はポプラの木の下で待っていた、
「ひとみ、来てくれてありがとう」
英治の声はいつもと変わらない。
「ずっと君のことが好きだった。私と結婚してくれないか?」
ひとみの世界が一瞬で輝いた。涙が溢れ、言葉が詰まったが、彼女は全力で頷いた。
「はい、喜んで!」
二人は抱き合い、公園のベンチで未来を語り合った。英治は大学で動物の研究者として働き、ひとみは編集者として忙しい日々を送っていたが、これからは一緒に歩んでいける。夢のような時間だった。
プロポーズの余韻に浸りながら二人は公園を後にした。夕暮れの街路を歩き、イタリアンレストランでディナーを楽しむ予定だった。英治がひとみの手を握り、笑顔で「これから一緒に幸せになろう」と囁いた瞬間だった。突然、背後から影が迫ってきた。通り魔だった。男は無言でナイフを振り上げ、英治に襲いかかった。英治はひとみを守るように体を張り、腹を刺された。
「英治くん!」
ひとみの悲鳴が響いた。周囲の人々が騒ぎ出し、誰かがすぐに救急を呼んだ。英治は血を流しながら倒れた。
「ひとみ…だいじ…」
彼の声は弱々しく、目は次第に焦点を失っていった。救急車が到着し、英治は病院に搬送された。ひとみは付き添い、祈るような気持ちで待合室で震えていた。医師の言葉は冷たく響いた。
「申し訳ありません。出血が激しく、心停止状態でした。蘇生を試みましたが、助かりませんでした」
ひとみは凍りついた。英治の死を告げられた瞬間、世界が音を失った。彼女はベッドに横たわる物言わぬ彼に触れ、ただ黙って涙を流した。
葬儀の日、友人や家族が集まったが、ひとみは一言も発しなかった。言葉が喉から出てこない。心が空っぽになり、魂が抜け落ちたようだった。
それから数ヶ月、ひとみは家に引きこもった。食事も取らず、眠れず、ただベッドに横たわって天井を見つめるだけ。時折小さな嗚咽を漏らすが、それさえも次第に消えていった。友人が訪ねてきても、彼女は反応しない。目が虚ろで、まるで人形のようだった。
医師は「失語症と重度のうつ」と診断したが、ひとみは治療を拒否した。彼女の心は完全に壊れていた。英治との未来が永遠に失われた痛みが、彼女を飲み込んだ。街の喧騒は遠く、丘の公園は今や忌まわしい記憶の場所となった。ひとみは思う。もしあの瞬間がなければ…。
だが、現実は残酷だ。彼女は言葉を失い永遠の沈黙の中に沈んだ。
ひとみは激しい頭痛とともに目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む朝陽が、眩しかった。枕元の時計を見ると、今日の日付は……あの日の朝と同じだった。夢?いや、違う。あの悲劇の後、言葉を失い、心が砕け散った日々を、彼女は確かに生きていたはずだ。なのに今、ベッドに横たわる自分の手にはあのプロポーズの直前に英治からもらったメッセージが残っている。
「公園で待ってるよ」
ひとみは震える手でスマホを握りしめた。胸の奥に鮮明な記憶が蘇る。公園での抱擁、血に染まる英治の体、そして永遠に失われた未来。「……行かなきゃ」
彼女は立ち上がり、服を着て家を出た。足取りは重く、心臓は早鐘のように鳴っていた。
丘の公園に着くと、英治はポプラの木の下で待っていた。彼の笑顔はあの時と寸分違わなかった。
「ひとみ、遅かったね。心配したよ」
英治は言った。
「ずっと君のことが好きだった。私と、結婚してくれないか?」
ひとみの視界が歪んだ。あのナイフの閃光、英治の苦悶の表情、血の海がフラッシュバックする。もし受け入れたら、またあの瞬間が来る。英治は死ぬ。自分は壊れる。涙が溢れた。ひとみは首を横に振った。
「……ごめんなさい。無理です」
英治は穏やかな笑みを浮かべた。
「そうか……。私の気持ちちゃんと伝わってよかったよ。ありがとう、ひとみ」
彼は軽く会釈をして、背を向けた。
「じゃあね。元気で」
英治は振り返らず、公園の出口へと歩いていった。ひとみは声を出すこともできず、ただその背中を見送ることしかできなかった。
それから十年が経った。ひとみは編集者として忙しく働きながら一人で暮らしていた。英治のことは、胸の奥に封印していた。あの日を境に、彼の消息は途絶えていた。
ある日、郵便受けに一通のハガキが入っていた。結婚式の招待状だった。差出人は菊地英治。相手は中川冴子、英治がずっと想いを寄せていた子。同封されたポストカードには、二人の満面の笑顔の写真が印刷されていた。英治は変わらない穏やかで幸せそうな表情を浮かんでいる。隣の冴子は、優しげな目元で英治を見つめていた。二人は本当に幸せそうだった。
ひとみはソファに座り、ハガキを握りしめた。胸が締めつけられるような痛みが走る。でも、それは悲しみだけではなかった。
「……これでよかったんだよね」
小さな声でひとみはつぶやいた。涙が一粒、頰を伝った。英治は生きている。誰かを愛し、愛され、笑っている。あの日の選択が彼の命を救ったのだと、ひとみは初めて実感した。痛みは消えない。でも、この痛みがあるからこそ、英治は今、幸せな未来を生きている。ひとみはハガキを胸に押し当て静かに目を閉じた。