それは、ひとみが高校二年の頃だった。梅雨入り前の突然の夕立。ひとみは傘もなく、校舎の軒下で雨宿りをしていると、雨脚はますます強くなるばかりだった。

「……帰れない」

小さな呟きが、雨音に掻き消された。そのとき、背後から声がした。

「大丈夫?」

振り返ると、そこに立っていたのは菊地英治だった。彼はひとみをまっすぐ見ていた。ひとみは名前を知っているだけで、話したことは一度もなかった。学校で一番「遠い存在」に見える人だった。

「あの……すみません、びっくりして……」

ひとみは慌てて頭を下げた。胸がざわざわして、呼吸が浅くなる。いつもの前兆だった。英治はそれに気づいたのか、急に声を柔らかくした。

「ごめん、驚かせたね。」

ひとみは小さく頷いた。言葉にすると、もっと苦しくなる気がした。

「傘、貸してあげる。俺、走ってくから」
「でも…………」
「いいって。君、いつも校庭のクスノキの下でサックス吹いてるよね? 明日、返してくれればいいよ。」
ひとみは驚いて顔を上げた。自分のことなど、誰も気づいていないと思っていたのに。英治は少し照れたように頬を掻いた。
「実は、結構前から見てたんだ。……なんか、放っておけなくてさ」
その言葉に、ひとみの胸が熱くなった。誰かに「見ててもらえた」ことが、こんなに嬉しいなんて。
「……あたし、中山ひとみです」
「知ってるよ。俺、菊地英治」
英治は紺色の傘を差し出し、ひとみの手に握らせた。
「明日、クスノキの下で待ってるよ。」
ひとみは小さく、でも確かに頷いた。その夜、ひとみはなかなか眠れなかった。
(明日、ちゃんと返せるかな……話、できるかな……)
翌日、クスノキの下に英治は本当に待っていた。
「ちゃんと来てくれたね」
ひとみは恥ずかしそうに傘を差し出した。
「昨日は……ありがとうございました」
英治は傘を受け取りながら、そっと言った。
「これから、雨の日だけじゃなくて、晴れの日も一緒に帰らない?」
ひとみは目を丸くした。
「え……でも、あたし、歩くの遅いし……すぐ疲れちゃうし……」
「いいよ。俺、そんなの気にしない。」
英治は笑った。その笑顔は、ひとみがこれまで見た誰のものよりも優しくて温かかった。それが始まりだった。英治は本当に、ひとみのペースに合わせてくれた。少し歩いては休み、過呼吸が起きそうになるとすぐに気づいて手を握ってくれた。ひとみは初めて、
「自分の弱さが許される場所」を知った。