中山ひとみは京都で生まれたが、両親の離婚により母親と共に東京にやって来た。
幼い頃から人見知りが激しく、保育園でもひとりで人形と遊んでいるような子だった。
中学二年生のときピアノ教室の帰り道、人気のない公園のトイレに引きずり込まれ、見知らぬ男にレイプされた。その日から、ひとみは「男性」という存在そのものを恐怖した。
電車で男が隣に座ると過呼吸を起こし、エレベーターは乗れない。コンビニの男の店員に話しかけられてパニックを起こしたこともある。
高校は女子高に通うことになる。そこで軽音楽部に入り、ベースを担当。そこで少しは明るくなるが男性恐怖症は治ることはなかった。
文化祭に来てくれた菊地英治に思わず告白すると、英治は「俺も好きだった」と答えた。
それが、ひとみが初めて「男性」を受け入れた瞬間だった。英治は決して強引にならず、ひとみが怖がるとすぐに距離を取り、「ひとみを傷つけたくない」と繰り返した。だからこそ、ひとみは少しずつ心を開いていった。
初めて手を繋いだ日
初めて「好き」と自分から言えた日
全部、英治が「ひとみのペースでいいよ」と言ってくれたからだった。
英治はいつも「ひとみを大事にしたいから」と言い、それ以上の関係には絶対に踏み込まなかった。
ひとみはそれを「優しさ」だと信じていた。
実際は、英治が女性と触れること自体に吐き気を催していただけだった。
そしてあの結婚式の日
「誓いません」
その一言で、ひとみの世界は崩壊した。長い時間をかけてやっと築いた「男性への信頼」が、
一瞬で粉々に砕け散った。中学のときのトラウマが、別の形で、再び襲ってきた。「信じていた人に裏切られた」という、もっと深い、もっと冷たい恐怖だった。
彼女の男性恐怖症は、完全に治ってはいない。カウンセリングは月1回継続中。
ひとみの過去は、二度、男性によって深く傷つけられた記録だ。
一度目は体を。
二度目は心を。
それでも、彼女は今、ゆっくりと、でも確かに、歩き始めている。
純子は、ひとみと出会った日から、ずっと「守ってあげなきゃ」と思っていた。
ひとみは校庭の隅でベースを抱えて、誰とも目を合わせずにいた。
純子はなんとなく、ひとみの隣にやって来て話しかけた。
「ベース、かっこいいね」って声かけたら、
ひとみはびくっと肩を跳ねさせて、
「……ありがとう」って、蚊の鳴くような声で答えた。それが始まりだった。
そのとき初めて聞いた。
「あたし……男の人、怖いの。近づかれるだけで、息が苦しくなる」
ひとみが震えながら話すのを、純子はただ、黙って聞いてた。
「可哀想」とか「頑張って」とか、そんな言葉じゃ足りなさすぎて。それから、純子はひとみの「盾」になった。
ひとみに男子が近づいてきたら、純子が間に入ったり、バカな男子が絡んできたら純子が睨んで追い返す。ひとみは、いつも申し訳なさそうに笑ってた。
「純子がいなかったら、あたし……生きてこれなかったかも」
「そんなこと言わないでよ。だって、私もひとみがいなかったら、こんなに誰かを本気で守りたいって思えなかったから。」
ひとみの前に英治が現れたとき、純子は最初、警戒した。「男の人と付き合うなんて、無理だよ」って言った。
でも、ひとみが「英治くんは違うの。怖くないの」って、瞳をキラキラさせて話すのを見て、
初めて、ひとみの「幸せ」を信じた。結婚式に呼ばれたとき、純子は心の底から喜んだ。
ひとみがドレスを着て、「純子、ありがとう」って泣き笑いしてるとき、純子も泣いた。
でも英治が「誓いません」って叫んだ瞬間、純子はひとみの隣で世界が終わった気がした。ひとみが固まってる間、彼女はただ、ひとみの手を握りしめてた。
「大丈夫、大丈夫」って何度も言ったけど、
嘘だってわかってた。
あのあと、ひとみが実家に引きこもったとき、
純子は毎日メッセージを送った。返事は「生きてるよ」だけだったけど、それでも、毎日送った。
ひとみがまた笑えるようになったとき、
私は、ひとみの隣で、「やっと戻ってきたね」って泣いた。
ひとみは、二度も、男の人に壊されかけた。
でも、それでも、また誰かを信じようとしてる。私は、ずっとひとみの味方でいる。
どんなときも。どんな未来も。だって、ひとみは私の一番大切なたった一人の
「守りたかった子」だから。