西尾結斗は、小学校四年生の夏に「自分が普通じゃない」と知った。近所の公園で、いつも一緒に遊んでいた男の子——名前は翔太といった——に、突然キスされた。彼にとってそれはただの遊びだったけど、結斗の胸はドクンと大きく鳴った。その瞬間、結斗は「これが好きになるってことだ」と直感した。家に帰ると、母が夕飯の支度をしていた。
結斗は何気なく言った。
「ぼく、翔太くんのこと好き!」
母の手が止まった。次の瞬間、振り向いた母の顔が、見たことのないほど怖かった。
「……何? 今、何て言ったの?」
結斗は凍りついた。悪いことなんて言ってないのに、母の目は本気で怒っていた。
「男の子が男の子を好きになるわけないでしょ!そんな気持ち悪いこと、二度と言わないで!」
「なんで?ぼくは正直な気持ちを言っただけだよ」
「男の子は女の子を好きになるものよ。おかしいこと言わないで」
母親の剣幕に驚いて結斗は必死に頷いた。
(ごめんなさい、もう言わない、もう思わない)
結斗は明るく、誰にでも好かれる、ちょっとお調子者の仮面をかぶった。本当の気持ちは、胸の奥に鍵をかけて閉じ込めた。結斗が小学校六年生のとき、翔太が転校していった。
最後に公園でふたりきりになったとき、翔太が言った。
「結斗って、ほんと可愛いよな」
結斗は笑って誤魔化した。(好きだよ)って言えなかった。好きになる気持ちが湧いても、すぐに「汚い」と打ち消した。
鏡に映る自分が憎くて、夜中に爪で腕を掻きむしったこともあった。
高校生になったとき、結斗は初めて「逃げたい」と思った。
でも、母はよく言っていた。
「お母さんのために、普通になって。お母さんがどれだけ苦労して育てたと思ってるの?」
結斗は逃げられなかった。母を悲しませるのが怖かった。自分が悪いんだと思っていたから。
英治と出会ったのは、大学に入ったときだった。英治は、結斗の仮面を一瞬で見抜いた。
「結斗、辛いのか?」
初めて、自分のありのままを見せたい人物に出会えた。彼と一緒にいたい、誰にも邪魔されることなく彼といたい。
それが結斗の本音。
あの車の中で、最後に英治の手を握ったとき、
結斗はようやく、ほんの少しだけ、幼い頃の自分に言えた気がした。——ごめんね、もう怖がらなくていいよ。
結斗は、母からも、自分からも、最後にやっと逃げられた。ただ、逃げた先が、死だったというだけで。