チャイムが鳴った。
ひとみは玄関を開けると、そこに立っていたのは、佐竹哲郎だった。いつも一緒にいた幼なじみ。
大学を卒業してからは連絡も途絶えがちだったのに………。
「……ひとみ」
哲郎は、照れくさそうに頭を掻いた。
「久しぶり。結婚したって聞いたから、祝福に来たんだけど……なんか、タイミング悪かったかな」
ひとみは、一瞬言葉を失った。英治との結婚式にも、哲郎は来ていない。
ひとみは、哲郎が来ることを誰よりも望んでいたのに、招待状を出せなかった。英治が「幼なじみって男?」と聞いたとき、なぜか怖くなって、「彼、海外にいるから」と嘘をついた。
哲郎は、ひとみの指に結婚指輪がないことに気づいた。
「……入っていい?」ひとみは小さく頷いた。部屋には多肉植物と犬のぬいぐるみがソファーに置かれている。哲郎はソファーに座ると、持ってきた紙袋をテーブルに置いた。
中から出てきたのは、懐かしいパッケージのカップケーキ。高校の帰り道、いつもふたりで買いに行った店のものだった。
「これ、まだ売ってたんだ」
ひとみは、思わず笑ってしまった。
久しぶりに、自分の声で笑った気がした。哲郎は、少しだけ躊躇ってから、聞いた。
「……ひとみ、幸せ?」
ひとみは答えられなかった。幸せだった瞬間もあった。でも、その幸せは全部、嘘の上に成り立っていた。哲郎は、それ以上聞かなかった。
代わりに、静かに言った。
「俺さ、中学のときからずっとひとみのことが好きだったんだ。でも、菊地英治が先にプロポーズしたって聞いて、諦めた。……後悔してるよ」
ひとみは、驚いて顔を上げた。
哲郎は、照れ臭そうに笑った。
「でも、今は違う。祝福に来たのは本当だけど、もう一度、ひとみの隣にいていいかって、聞きたかった」
ひとみは、胸が締めつけられるのを感じた。でも、それは昔みたいに痛くはなかった。少し、温かかった。
「……あたし、まだ誰かを好きになれるかわからない」
ひとみは、震える声で言った。
「英治くんのこと、全部忘れられたわけじゃない。あなたのこと傷つけるかもしれない」
哲郎は、ゆっくりと首を振った。
「いいよ。俺、待つから。ひとみが笑える日が来るまで。ずっと昔みたいに、隣にいるだけでいい」
ひとみは、涙が出そうになった。でも、堪えた。代わりに、小さく頷いた。哲郎は立ち上がると、玄関で振り返った。
「また来てもいいかな?それかどこか行こうか?」
ひとみは、初めて、はっきりとした声で答えた。
「……いいよ。いつでも待ってる」
ドアが閉まって、部屋に静寂が戻った。ひとみはテーブルの上に残されたカップケーキを見つめた。少し昔の匂いがする。
窓の外、夕焼けが綺麗だった。ひとみは、まだ壊れたままの心を抱えている。でも、その欠けたところに、ほんの少しだけ、新しい風が吹き始めた。これから先、ゆっくりでいい。
誰かをまた好きになれる日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。ひとみは、ただ、もう一度、自分の足で歩き始めることにした。佐竹哲郎という、昔から知っている温もりを、
そっと横に置いて。