中山ひとみは夢見心地だった。長年、秘め続けてきた想いがついに実を結び、菊地英治との婚約が決まったのだ。胸いっぱいの幸福感に包まれた。英治は大学で野生動物の保全について研究しており、逞しくて動物への深い愛情を持つその姿に、ひとみはずっと惹かれてきた。これからはずっと一緒にいられる。そう思うと、どんな困難も乗り越えられる気がした。
しかし、幸せは脆くも崩れ去る。英治が調査で山に入ったある日、滑落事故に巻き込まれたという報せが飛び込んできた。ひとみは血の気が引くのを感じた。病院へ駆けつけると、英治は一命を取りとめたものの、頭を強く打っており、意志疎通ができなかった。
数日後、英治は目を覚ました。ひとみは安堵し、涙ながらに彼の名を呼んだ。しかし、英治の瞳には、かつてひとみに向けられていた愛情のかけらもなく、ただ冷たい光が宿っていた。
「お前は……誰だ?」
その一言が、ひとみの心を深く抉った。それだけではない。ひとみのことを全く思い出せないだけでなく、まるで初めて会う他人のように、警戒心を剥き出しにした。ひとみが語りかける過去の思い出も、二人の愛の証も、彼には何の響きも持たなかった。
「私の知ったことではない。お前みたいな冴えない女が私の婚約者なわけないだろ。一体どういうつもりだ。」
英治の言葉は、氷のように冷たかった。彼はひとみを拒絶し、まるで悪夢を見るように、彼女の存在そのものを否定した。ひとみは彼の態度の変わりように愕然とし、打ちひしがれた。病院のベッドに横たわる英治の姿は、以前の彼とは似ても似つかない。無関心な視線、冷淡な口調、そしてひとみを突き放す言葉の数々。愛し合った日々が、まるで最初から存在しなかったかのように消え去ってしまったのだ。
ひとみは次第に精神の均衡を失っていった。眠れぬ夜が続き、食欲もなくなった。鏡に映る自分の顔は、日に日に痩せこけ、生気を失っていく。彼女の心は、深い絶望の淵へと沈んでいった。そこに英治との未来を夢見ていたひとみは、もういなかった。彼女の心は、愛する人から向けられた冷たい視線と、拒絶の言葉によって、深く深く傷つけられ、二度と元には戻らないかのように、ゆっくりと壊れていった。
橋口純子と朝倉佐織は、変わり果てたひとみの姿を見て心を痛めていた。何とかして英治の記憶を取り戻し、ひとみを救いたい一心で、二人はあらゆる手を尽くした。英治がひとみと写っているアルバムを持って行ったり、二人でよく行った思い出の場所へ連れて行こうとしたり、共通の友人たちに当時のエピソードを語ってもらったりもしたがどれも無駄だった。
アルバムのページをめくるたび、英治は嫌悪感を露わにした。写真に写る幸せそうな二人の姿は、彼にとっては全くの他人事だった。ひとみが懸命に話しかける過去の出来事も、英治の耳には届かず、むしろ不快そうに顔を歪めた。
純子と佐織の必死の努力は、かえって逆効果となってしまった。記憶のない英治にとって、見知らぬ女たちが「過去の自分」について語り、見知らぬ場所へ連れて行こうとすることは、迷惑そのものだった。
「いい加減にしてくれ! 特にそこのネクラ女!」
英治は、ひとみを指差し、かつてないほど激しい拒絶の言葉を浴びせた。彼の瞳には、かつての優しい光は一片もなく、ただ純粋な嫌悪が宿っていた。
「頼むから、もう私の前に現れないでくれ。君を見ると激しい頭痛がする。」
その言葉は、ひとみの心を完全に打ち砕いた。彼女の存在そのものが、英治にとって不快の対象であるという事実が、ひとみを精神のどん底へと突き落とした。純子と佐織も、これ以上は無理だと悟った。彼らの善意が、かえってひとみを深く傷つけてしまったのだ。
ひとみは、愛する人からの完全な拒絶によって、深い心の闇へと沈んでいくしかなかった。
それから三年という歳月が流れた。ひとみにとって、その三年間は無限に続く闇のようだった。愛する人からの拒絶という、耐え難い現実が彼女の心を蝕み続け、その傷は決して癒えることはなかった。
その一方で、菊地英治の人生は、何事もなかったかのように穏やかに、そして幸せに流れていた。記憶を失った彼にとって、ひとみという存在は最初から存在しなかったのだ。
彼はずっと好きだったという中川冴子と再会し、親愛を深めた。
冴子といるときの英治は、いつも満面の笑顔を浮かべていた。彼の瞳には、かつてひとみに向けられていた愛情と同じくらい、あるいはそれ以上に深い愛情と信頼が宿っているように見えた。
二人はごく自然に愛を育み、そして結婚した。結婚式では、英治と冴子が寄り添い、幸せそうに微笑む姿になかまたちは安堵した。英治の記憶には、ひとみと過ごした日々の面影は一切なく、彼の隣にいるのは、紛れもなく冴子だった。
一方、ひとみの行方は、誰も知る者はいなかった。純子と佐織は、彼女の姿が消えてから必死に探し回ったが、どこを探しても見つからなかった。彼女はまるで、この世から忽然と消え去ってしまったかのようだった。
英治が冴子と幸せな家庭を築いていることを知った純子と佐織は、ひとみがこの事実を知ったら、どれほど深い絶望に打ちのめされるだろうかと、胸を締め付けられる思いだった。もはや、ひとみを救う手立てはどこにも残されていなかった。彼女の愛は、英治の記憶と共に消え去り、その心は癒えることのない深い傷を抱えたまま、この世界のどこかで、あるいはもうこの世界には存在しないのかもしれない。