久しぶりに菊地英治が橋口純子の働くカフェにやってきた。彼と会うのはあの滑落事故以来はじめてだった。あの事故で英治は生死の境をさ迷ったが、彼は奇跡的な回復力を見せてなかまたちを驚かせた。

何より彼が強いのはあれだけの目に遭いながらも自然に対する愛着があること。むしろ更にその思いは強くなっていると思う。

「ねえ、菊地くん……ひとみのことは?」

英治はカップを置いて、首をかしげた。

「ひとみ?」

「中山ひとみ! 君の彼女だよ! プロポーズしたって聞いたけど……」

英治の表情に、わずかな困惑が浮かんだ。でも彼ははっきりと答えた。

「ん? 誰だっけ?」

純子は息を飲んだ。冗談ではない。英治の目は澄んでいて、嘘をついているようには見えなかった。

「 君のこと大好きだった……」

「ごめん、本当に知らないな。」

英治は笑いながら首を振った。その笑顔は優しく、温かく、純粋だった。だが、純子にはそれが残酷に映った。ひとみの涙、恐怖、絶望――すべてが、英治の記憶から完全に消え去っていたのだ。

「じゃあ、またね、純子」
立ち上がり、軽く手を振って店を出て行った。残された純子は呆然とした。ひとみの愛は、英治の心から消えたのだ。プロポーズの約束、崩落の悲劇、狂気の瞬間――すべてが、彼にとっては「なかったこと」になった。
彼女はただ、窓の外を見つめた。英治の笑顔が、遠く街並みに溶けていく。二人の関係はまさに平行線、絶対に交わることはない。ひとみの心は闇に沈み、英治の記憶は光に満ちていた。愛は、どこにも残っていなかった。