菊地英治は、押し入れの奥から木箱を引きずり出した。中に入ってるのは全て中川冴子のもの。彼女のきれいでしっかりした字で書かれた手帳、二人で出かけた映画のチケットの半券、彼女のお気に入りのイルカのぬいぐるみ等………。それらを見ていると、冴子の笑顔が脳裏に浮かんだ。彼女の声が、まるで今も耳元で囁いているかのように響いた。
「えいじ、海の見える家に住もうね。朝、波の音で目が覚めるの、素敵じゃない?」
その夢は、英治にとってもささやかな希望だった。冴子と一緒に、どこまでも続く青い海を眺めながら、静かな時間を過ごすこと。
二人はよく海辺を歩いた。冴子はサンダルを脱いで砂浜を駆け出し、波が足を濡らすたびに子供のようにはしゃいだ。英治はそんな彼女を追いかけながら、いつかこの瞬間を永遠に閉じ込められる場所を見つけようと心に決めていた。海の見える一軒家。それが二人の約束だった。だが、冴子は突然いなくなった。病だった。あまりにも呆気なく、英治には現実とは思えなかった。彼女の笑顔も、声も、すべてがまだそこにある気がして、受け入れることなどできなかった。
英治は立ち上がり、窓の外を見た。東京の雑多な街並み。海なんてどこにもない。そこはただの空虚な空間だった。彼は目を閉じ、彼女の声を探した。
「えいじ、私の分も生きてほしい」――そんな言葉を、彼女なら言うかもしれない。次の日、英治は小さな決意を胸に、出かけることにした。彼女との夢をもう一度見つめ直したかった。海の見える場所へ。そこに彼女はいなくても、彼女が愛した波の音が聞こえるなら、きっと何かが見つかるはずだと。彼は車に乗り、かつて二人で行った海辺の町を目指した。そこには、冴子が夢見た海辺の光景が待っているような気がした。