中山ひとみは、老稚園の庭の片隅で、空がオレンジ色に染まるのを見つめていた。ひとみの視線は、犬と猫に話しかけている菊地英治の姿を捉えた。彼の優しい笑顔が、ひとみの胸を締め付けた。英治は人以外の生き物には優しく接する。川に流されている子犬を濡れるのもかまわずに飛び込んで助ける姿に、ひとみは惹かれた。自分にはない、温かくて大きな心。運動神経も抜群で、サッカー部のエースとして活躍する姿は、まるで物語の主人公のようだった。でも、その優しさは、ひとみだけに向けられるものではなかった。ひとみは、英治と話すたびに感じていた。丁寧な言葉遣い、穏やかな微笑み、そして、どこか見えない壁。どんなに話しかけても、彼のプライベートな一面を知ることはできなかった。好きな音楽、休日の過ごし方、家族のこと――英治はいつもそつなく話をそらし、ひとみはいつもその壁の前で立ち尽くしていた。

橋口純子は、いつもひとみの片思いを応援してくれた。一緒に帰る道すがら、純子は冗談めかして「告白しちゃえば?」と背中を押してくれたり、英治が近くにいるときはわざと二人きりにしてくれたりした。でも、その純子が、先週、初めて真剣な目でひとみを見つめた。
「ひとみ、ごめんね。菊地くん、やっぱり、あなたのこと、ただの友達としか見てないみたい。多分、脈なしだよ」
その言葉は、ひとみの心に突き刺さった。頭では分かっていた。英治の優しさは、誰にでも平等に分け与えられるものだ。ひとみだけが特別扱いされるなんて、ありえないことだった。それでも、純子の言葉は、ひとみの淡い希望を鋭い刃で切り裂いた。家に帰り、ベッドに横たわったひとみは、天井を見つめながら涙がこぼれるのを感じた。
「分かってたよ」と呟きながら、胸の痛みを抑えきれなかった。英治の笑顔、動物と戯れる無邪気な姿、サッカーで汗を流す凛々しい横顔――その全てが、ひとみの心を掴んで離さなかった。でも、もう、諦めよう。そう決めた。
翌日、ひとみは英治に積極的に話しかけるのをやめた。いつもなら休み時間にさりげなく近づき、他愛もない話をしていたのに、その日は自分の席で詩集を開いたまま、視線を落とした。英治は気づいているのかいないのか、いつも通り友人と笑い合い、楽しそうに話していた。
「ひとみ、大丈夫?」純子が心配そうに声をかけてきた。
「うん、平気。もう、決めたから」
ひとみは小さく微笑んだ。笑顔の裏で、胸の奥がちくりと痛んだが、それを押し隠した。
数日後、ひとみは英治がバイト先のペットショップで子犬を抱き上げて笑う姿を遠くから見つめた。いつものように心が温かくなり、同時に、ほろ苦い気持ちが広がった。
「好きだったな」と、ひとみは心の中で呟いた。英治の優しさは、きっとこれからも多くの生き物を、幸せにするだろう。でも、それはひとみだけのものではない。ひとみは深呼吸をして、店を後にした。新しい自分になるために、最初の一歩を踏み出す勇気。それが、ひとみの小さな決意だった。