菊地英治が乗った海洋調査船が沈没し、安否不明のまま死亡認定されてから、もう三年が経つ。彼のいない世界は、色を失ったモノクロームの絵画のようだった。
英治と婚約し、共に未来を語り合った日々は、遠い夢のように思える。彼が生命の危険を冒してまで挑んだ海洋調査。その情熱に惹かれ、深く愛した。しかし、その情熱が、彼をひとみから奪い去った。
英治の死が認定されて以来、中山ひとみは心身のバランスを崩し、休職を余儀なくされていた。カウンセリングに通い、薬を服用しても、心に空いた穴は埋まらない。
そんなひとみを見かねた英治の親友、相原徹が、ある日唐突に言った。
「沖縄に行こう。少しは気が晴れるかもしれない。」
徹の言葉に、ひとみはほとんど反応しなかった。しかし、徹は諦めなかった。半ば強引に、ひとみを飛行機に乗せた。沖縄の離島、手付かずの自然が残るその場所は、東京の喧騒とはかけ離れた穏やかな空気に満ちていた。
白い砂浜に打ち寄せる波の音、どこまでも続く青い空と海、そして、南国の植物が織りなす緑の絨毯。ゆっくりと流れる時間の中で、ひとみの心は少しずつ解きほぐされていくように感じられた。
ある日、徹と二人で島を散策していると、ひとみは思わず足を止めた。そこにいたのは、信じられないほど英治そっくりの男だった。
「えいじ……だよね?」
震える声で尋ねるひとみに、男は首を傾げた。
「あなたは、誰ですか?」
彼の口から出たのは、ひとみには全く覚えのない言葉だった。額には、目立つ傷跡が刻まれ、右足を引きずっている。そして、彼の傍らには、地元らしき女性が寄り添っていた。
「彼はレイジさん。私の夫です」
女性は穏やかに微笑みながら、そう言った。
その言葉は、ひとみの心臓を鷲掴みにするようだった。記憶を失っている。名前も違う。そして、結婚している。
目の前にいるのは、愛した英治と寸分違わぬ姿。しかし、彼はもう、ひとみの知る英治ではなかった。希望と絶望が同時に押し寄せ、ひとみの全身を支配した。
「嘘……」
膝から崩れ落ちそうになるひとみを、徹が慌てて支える。レイジと呼ばれた男は、困惑した表情でひとみを見つめている。彼の瞳には、ひとみへの親愛も、戸惑いも、何も映っていなかった。
ひとみは、全身の力が抜けていくのを感じた。三年間の苦しみ、そして、この島でのわずかな希望が、一瞬にして打ち砕かれた。英治は生きていた。しかし、彼の心は、もうひとみの元にはない。
沖縄の強い日差しが、ひとみの絶望をさらに深くするようだった。彼女は、もはや涙も出なかった。ただ、鉛色の空が、再び心に広がるのを感じていた。
東京に戻ったひとみは、沖縄での一抹の希望さえ失い、深い絶望の淵に沈んでいた。高層ビルの窓から見える灰色の空は、彼女の心の状態をそのまま映し出しているようだった。部屋の明かりもつけず、ぼんやりと天井を見つめる日々。食事も喉を通らず、体重はさらに落ちた。
「菊地くんは……あたしのことなんて、好きじゃなくなったから忘れたんだ」
何度、その言葉を心の中で繰り返しただろう。英治は、まるで初対面の人間に接するように、ひとみを見た。彼の記憶から、ひとみとの愛の記憶が完全に消え去っている。それは、英治が死んだことよりも、ひとみにとっては残酷な現実だった。死んでしまったなら、せめて記憶の中だけでも、彼との愛は永遠だったはずなのに。
彼は生きていた。しかし、彼の心には、ひとみと過ごした温かい日々のかけらさえ残っていなかった。彼の額の傷、右足を引きずる様子。それは、確かに彼が体験した過酷な出来事の証だった。しかし、その出来事が、彼の心からひとみを消し去ってしまった。
机に置かれた額に入る英治とのツーショット写真が目に入る。沖縄に行く前は、その写真を見るたびに胸が締め付けられたが、今はただ、遠い過去の出来事を写した紙切れにしか見えなかった。あの時、彼が見せた笑顔は、もう二度とひとみに向けられることはない。
英治は、ひとみにとっての「菊地英治」ではなくなった。彼は、レイジとして、別の場所で、別の人生を歩んでいる。その事実が、ひとみの心を永遠に凍てつかせるようだった。
徹が心配して訪ねてきても、上の空で生返事をするばかりだった。あんなに愛し、未来を誓い合った人が、自分を認識しないどころか、別の女性と家庭を築いている。その事実は、彼女の存在そのものを否定するかのようだった。
そんなある日、ひとみはフラフラと散歩に出かけた。人混みの中をあてどなく歩いていると、駅前で熱心にチラシを配る集団の姿が目に留まった。普段なら見向きもしないはずだが、その日、ひとみの足はなぜか止まった。
「あなたの心の空虚を埋めます」
チラシに大書されたそのフレーズが、ひとみの目に飛び込んできた。まるで、今の自分のために書かれた言葉のように感じられた。空虚。まさにその通りだった。英治を失い、さらに生きている英治に忘れ去られた今、ひとみの心には、どうしようもない空虚だけが広がっていた。
引き寄せられるように、ひとみはチラシを受け取った。柔らかな笑顔で、教団の女性が語りかけてくる。
「今、何かお悩みですか? 私たちは、あなたの苦しみを理解し、救いの手を差し伸べることができます」
女性の言葉は、ひとみの心にすっと染み込んだ。これまで誰にも理解されなかった、深い悲しみと絶望。それを「理解できる」と言ってくれる存在が、まるで暗闇に差し込む一筋の光のように思えた。
その日から、ひとみは宗教団体の集会に足繁く通うようになった。そこでは、皆が笑顔でひとみを迎え入れ、温かい言葉をかけてくれた。これまで感じたことのない、強い連帯感と安心感。まるで、ずっと探し求めていた居場所を見つけたかのように感じられた。
教義は、ひとみの心に響いた。この世の苦しみは、過去の因縁や魂の浄化によって引き起こされる。そして、それを乗り越えるには、教団の教えを信じ、献身的に奉仕することが必要だと説かれた。ひとみは、自分の悲劇もまた、何らかの理由があって起こったことだと納得した。そして、その苦しみから解放されるためには、教団の示す道を進むしかないと信じ込むようになった。
献金を求められても、教団のために働くことを促されても、ひとみは全く抵抗を感じなかった。むしろ、そうすることで、自分の魂が浄化され、英治を失った悲しみから解放されるのだと信じて疑わなかった。彼女は、急速にその宗教団体にのめり込んでいった。心の空虚を埋めるために、新たな、そして危険な依存へと向かっていた。