相原徹と菊地英治は、冬の北海道の山に分け入った。冬季での動物の調査が目的だった。二人は長年の友人で、厳しい自然の中での調査にも慣れていた。だが、この日は空が重く、雪が不穏な音を立てて降り積もっていた。
山の斜面を登りながら、徹は英治と軽口を叩き合っていた。
「シマエナガに出会えたらいいな」と笑う徹に、英治は「そうだね」と返した。だが、その笑顔が最後の記憶になるとは、徹は知る由もなかった。
突然、地面が揺れた。雪崩だ。轟音とともに白い波が二人を飲み込んだ。徹は身体が宙を舞い、雪と岩に叩きつけられる感覚に襲われた。「折れてっぽいな……このまま死ぬのか」と、痛みと寒さの中で意識が薄れていく。ふと、英治が自分の上に覆いかぶさっているのに気づいた。まるで徹を守るように。
「英治! おい、英治!」声をかけても、英治は動かない。冷たい雪の中で、徹の意識は闇に落ちた。
どれくらい時間が経ったのか。徹が目を開けると、白い天井と消毒液の匂いが彼を迎えた。病院のベッドだった。身体は痛んだが、動かせないほどではなかった。医者がベッドの脇に立っていた。
「雪崩に巻き込まれて軽症なんて、奇跡だな」と、医者は淡々と言った。
「えっ!?」徹の頭に電撃が走った。そして、英治の姿が脳裏に浮かぶ。
「あ、あの。もう一人は? おれ、友人と二人で登ってて……」
医者は首を振った。
「救助隊の話じゃ、お前さんしかいなかったぞ。雪崩の現場に他の人間の痕跡はなかった。」
徹は言葉を失った。英治がいない? そんなはずはない。あの瞬間、英治は確かにそこにいた。徹の上に覆いかぶさり、まるで盾になるように。徹はベッドから身を起こし、窓の外を見た。雪に覆われた山々が遠くに広がっている。「英治、お前どこに行っちゃったんだよ」と、呟く声は震えていた。
数日後、徹は退院した。だが、心はまだあの雪崩の中に取り残されていた。英治の行方はわからない。救助隊は何度も捜索したが、手がかりすら見つからなかった。徹は山に戻り、雪崩の現場を訪れた。そこにはただ、静かな雪原が広がるだけだった。
「あの時、お前が俺を守ってくれたんだろ?」徹は雪に向かって呟いた。風が答えの代わりに冷たく頬を撫でた。英治の笑顔が、雪の白さの中に浮かんで消えた。
雪崩が徹と英治を飲み込んだ山からそう遠くない場所に、その存在はいた。いや、正確には「人物」と呼ぶのはふさわしくなかった。それは、竜だった。かつて菊地英治と名乗り、徹の親友として振る舞っていた者の正体は、瑛流という名の竜だった。
瑛流は雪崩の瞬間、徹を守るために自らの身体を盾にした。竜の力で雪の奔流を抑え、徹の命を繋ぎとめたのだ。さらに、徹の折れた足を癒すため、瑛流は自らの生命力を分け与えた。だが、その代償は大きかった。竜の力は無尽蔵ではなく、瑛流の身体は極端に消耗していた。
雪に覆われた山の斜面で、瑛流は鱗を輝かせながら静かに息をついた。
「しばらく眠りにつかないといけないな」と、低く呟いた。
その声は風に乗り、山の奥深くへと消えていった。瑛流はゆっくりと歩みを進め、誰も知らない洞窟の奥へと姿を隠した。そこは、竜が長い眠りにつくための聖域だった。
瑛流は洞窟の奥で目を閉じた。竜の眠りは時に数百年にも及ぶ。徹が生きている間に再び会うことは、おそらくないだろう。それでも、瑛流の心には一抹の安堵があった。徹は生きている。それで十分だった。
洞窟の闇が瑛流を包み、竜の意識はゆっくりと深い眠りへと沈んでいった。山は静寂に包まれ、雪がその秘密を覆い隠した。
これから先、徹がどんな人生を歩もうとも、瑛流の存在は彼の記憶の中でだけ生き続けるだろう。雪崩の夜、命を賭して友を守った竜の物語は、誰にも語られることなく、静かに山の奥で眠りについた。
徹は東京に戻ってからも、英治のことを考えずにはいられなかった。中学時代からの付き合いだったはずだ。あの頃、二人で校舎の屋上で弁当を食べ、将来の夢を語り合った。山での調査も、英治の「野生動物の声を聞きたい」という情熱に引っ張られて始めたものだった。なのに、なぜ英治の痕跡がどこにもないのか。
ある日、徹は意を決してなかまたちに連絡を取り、英治のことを尋ねてみた。
「菊地英治って覚えてる? 俺とよく一緒にいたやつ」とメッセージを送った。だが、返ってくる答えはどれも同じだった。
「菊地? そんな奴、いたっけ?」
「いや、知らないな。お前の友達なら覚えてるはずだけど……」
誰も英治の存在を覚えていなかった。徹は混乱した。英治との思い出は鮮明だ。修学旅行で夜通し話したこと、テスト勉強をサボって山にサッカーの試合を見に行ったこと、あいつとの数々のエピソードすべてが頭に焼き付いている。なのに、なぜ誰も彼を知らない?
徹は実家に帰り、中学、高校時代のアルバムを引っ張り出した。ページをめくる手が震えた。クラスの集合写真、部活のスナップ、卒業式の写真――そこに英治の姿はどこにもなかった。徹はアルバムを閉じ、頭を抱えた。
「お前、誰だったんだよ、英治……」
その夜、徹は夢を見た。雪崩の夜、英治が徹の上に覆いかぶさり、静かに微笑む姿だった。「徹、生きろよ」と、その声はまるで風のように柔らかかった。目が覚めたとき、徹の頬は涙で濡れていた。
山の奥、瑛流が眠る洞窟では、時間が止まったかのように静寂が支配していた。竜の意識は深い眠りの中にあったが、かすかに徹の声が届いた気がした。瑛流は知っていた。自分が徹の人生に現れたのは、ほんの一瞬の気まぐれだったのかもしれない。人間の時間の中で、竜はただの幻のような存在だ。徹の記憶にだけ残り、誰にも知られぬまま消える。それが瑛流の選んだ道だった。
だが、瑛流はほんの少しだけ願った。徹が自分の人生を全うし、いつか山の向こうで再び笑い合える日が来ることを。
徹は再び、あの山にやって来た。英治の存在が幻だったとしても、彼との時間は本物だった。調査を続けることで、英治の情熱を継ぐことができる気がした。徹はリュックに道具を詰め、再び雪山を見上げた。
「英治、どこにいるか知らないけど、俺は進むからな」と呟き、一歩を踏み出した。
雪は静かに降り続き、山はすべての秘密を隠したまま、ただ黙って徹を見送った。