俺の名前は菊池エイジ。日本ではそう名乗っている。
彼女と出会ったのは、雨の降っている日だった。彼女はカフェの窓際の席で、ぼんやりと外を眺めていた。華奢な体、青白い顔、でもどこか強い光を宿した瞳。俺は思わず声をかけた。「そんな顔してると、雨まで泣き出しそうだよ。」
彼女が驚いたように顔を上げ、ふっと笑った。その笑顔が、俺の心に刺さった。任務で張り詰めていた俺の心に、初めて温かいものが流れ込んだ気がした。
俺には秘密がある。いや、秘密そのものの人生だ。表向きは貿易会社の営業マン、菊地エイジ。でも、本当の俺はリー・ウェンハオ。中国国家安全部(MSS)の潜入捜査員だ。龍華貿易の裏取引を追う任務で日本に潜伏し、危険な世界に身を置いている。ひとみには、絶対に話せない。彼女の純粋な笑顔を、俺の汚れた世界で曇らせたくなかった。
ひとみと過ごす時間は、俺にとって唯一の救いだった。彼女は病弱で、時折咳き込む姿に胸が痛んだ。でも、彼女の笑顔はどんな薬よりも俺を癒した。デートで歩いた公園、彼女が好きだった桜の木の下で撮った写真、二人で食べたもんじゃ焼き――そんな何気ない瞬間が、俺の人生で初めて「普通」を感じさせてくれた。
「エイジ、結婚してほしい……。」
ある夜、彼女が小さな声で言った。俺は一瞬、言葉を失った。任務の危険が増していた時期だった。龍華貿易の裏に潜む巨大な陰謀――プロジェクト・ドラゴン――に近づきすぎていた。俺の動きは、誰かに気づかれ始めていた。でも、ひとみの目を見たら、断れなかった。
「うん、しよう。君と、ずっと一緒にいたい。」
そう答えたとき、俺は本気だった。任務を終えたら、MSSを抜けて、彼女と静かな生活を送りたい。それが俺の願いだ。
結婚式の準備は、まるで夢のようだった。ひとみがドレスを選ぶ姿を見ながら、俺は心の底から幸せだった。彼女は少し照れながら、「似合うかな?」って聞いてきた。俺は笑って、「世界一綺麗だよ」って答えた。彼女の頬が赤くなった瞬間、俺はこの幸せを守るためなら何でもするって思った。
でも、俺の仕事はそんな甘い夢を許さなかった。龍華貿易の調査を進めるうち、プロジェクト・ドラゴンの核心に迫っていた。軍事技術のデータ売買、国際的な陰謀、裏切り者の影。俺は知りすぎた。誰かが俺を監視してる気配を感じていたけど、彼女の笑顔のために、任務をやめられなかった。
結婚式の前夜、俺はひとみに手紙を書いた。「ひとみ、君と出会って、俺は初めて本当の幸せを知った。君の笑顔が、俺のすべてだ。もし何かあっても、君を愛したことを後悔しない。強く生きてくれ。君は、誰よりも輝ける人だから。」
その手紙を机の引き出しにしまった。彼女が読む日が来ないことを祈ったけど、万が一のために。
結婚式当日。俺は教会に向かった。彼女のドレス姿を見るのが楽しみだった。彼女の笑顔を想像するだけで、胸が熱くなった。でも、教会に入ったとたん、男に呼び止められ、裏庭に連れていかれた。見覚えのある顔――龍華貿易の関係者だ。奴の目が、俺を殺す気で光っていた。
「お前は知りすぎた。」
男が懐からナイフ取り出した瞬間、俺は素早く男を組伏せた。
「誰に頼まれた?どうせKだろう。」
その時、背中に鋭い痛みが走った。背後から来たもう一人が俺の背中を刺したのだ。俺は地面に崩れ落ちた。
男たちが去るのを見ながら俺は呟く。
「ひとみのドレス姿見たかったな……」それが俺の最後の言葉だった。
俺の人生は、任務と秘密に縛られていた。でも、ひとみと過ごした時間だけは、本物だったと思いたい。彼女には、俺の汚れた過去を知ってほしくない。ただ、俺が愛したことを、覚えていてほしい。