俺の名前は海斗。らしい。3年前、知床の海岸で意識を失い、波に打ち上げられていたところを漁師に拾われた。それ以前の記憶は、頭の中の霧に閉ざされている。
医者は「重度の逆行性健忘」と診断した。頭に刻まれた傷と、右足の古傷が、俺がどんな過去を生きてきたかを物語る唯一の手がかりだ。でも、それも曖昧だ。嵐、船、叫び声――断片的なイメージが、夜中に頭を刺すように蘇るが、すぐに消える。

最初の1年は地獄だった。病院の部屋で、夜ごとに襲ってくる頭痛と発作に耐えた。頭が割れるような痛み、身体が勝手に震える感覚。眠れない夜は、知床の海を眺めながら、俺が誰だったのかを考えた。家族は? 友は? 愛した人はいたのか? 何もわからない。鏡に映る自分の顔すら、まるで他人のものだ。医者の沙紀が、根気強く俺を支えてくれた。彼女の落ち着いた声と、優しい手が、俺を現実につなぎ止めた。
「焦らなくていいよ、海斗。少しずつでいいから」
彼女の言葉だけが、俺の拠り所だった。
ある日、保護センターで野生動物たちの保護活動を手伝っていると、ふとした瞬間に笑顔がこぼれた。シャチが海で跳ねる姿を見ると、胸の奥がざわめく。なぜか、懐かしい気がするんだ。沙紀にその話をすると、彼女は笑って「海斗は海と話せる人だからね」と言った。彼女と婚約したのは、自然な流れだった。沙紀は俺の空白を責めず、ただ隣にいてくれる。彼女との未来は、初めて俺に「生きる意味」をくれた。
それでも、時折、知床の海を見ていると、胸の奥にぽっかり空いた穴を感じる。誰かを待っているような、誰かに呼ばれているような感覚。

ある日、町のカフェでミルクティーを注文したとき、ふと視線を感じた。カウンターの向こうで、女の人が俺をじっと見ていた。彼女の目は、まるで俺の知らない過去を覗き込むようだった。だが、俺には何も思い出せない。ただ、胸が締め付けられるような、名前のない痛みが残った。
医者は言う。「記憶が戻る可能性はほぼない」と。俺はそれを受け入れた。英治という名前も、カフェにいた女も、俺の中には存在しない。俺は海斗だ。沙紀と、動物たちと、知床の海と生きていく。それでいいはずだ。なのに、夜の海を見ると、なぜか涙が滲む。俺の知らない誰かが、波の向こうで俺を呼んでいる気がしてならない。でも、俺はもう振り返らない。過去は海の底に沈んだ。俺はただ、目の前の波と向き合うだけだ。