ひとみは東京に戻ってからも、胸の奥にぽっかりと空いた穴を抱えていた。英治が生きていること、彼が中川冴子という美しい女性と結婚していること、そして何より、彼の記憶に自分がいないこと。あの山での再会から数ヶ月、ひとみは毎晩のように英治の笑顔と、冴子の輝く姿を夢に見た。
ある日、ひとみは友人で現在は神経内科医として働く柿沼直樹に相談を持ちかけた。直樹はひとみの話をじっと聞き、コーヒーをすすりながら眉をひそめた。
「記憶喪失って…治らないの? ほら、ドラマなんかだと、ある日突然に記憶が戻ってさ…」
ひとみの声には、かすかな希望がにじんでいた。直樹はカップをテーブルに置き、ため息をついた。
「現実はそんな安っぽいもんじゃないよ、ひとみちゃん。ドラマは視聴率のために都合よく作られてるだけだ」
彼は続ける。
「菊地のケース、詳しく聞くと外傷性健忘症の可能性が高い。事故で脳にダメージを受けた場合、過去の記憶が戻る確率は極めて低い。特に、3年以上経ってるなら、ほぼ絶望的だ。新しい記憶を作る能力は残ってるみたいだから、今の生活には適応してるんだろうけど…昔のことは、もう別の人格の話みたいなもんだ」
ひとみは唇を噛んだ。直樹の言葉は冷たく、だがどこか優しかった。彼はひとみの目を真っ直ぐ見て、付け加えた。
「ひとみちゃん、君が辛いのはわかる。でも、菊地はもう君の知ってる菊地じゃない。無理に過去を掘り返そうとすると、彼自身が壊れるかもしれない。あいつが幸せなら、そっとしておくのが一番だ。過去を掘り返しても、お互いに傷つくだけだよ」
その瞬間、ひとみの心の中で何かが砕けた。直樹の冷静な声、英治が冴子と築く幸福な人生、記憶のない彼にとっての自分の無意味さ。それらが渦となって、ひとみを飲み込んだ。彼女はうつむき、震える手でカップを握りしめた。
「…わかった。ありがとう、カッキー」
声はか細く、まるで自分に言い聞かせるようだった。
その夜、ひとみは自宅で一人、英治に巻いてもらった包帯を手に持った。あの山での温もりが、今は冷たく感じられた。直樹の言葉が頭を巡る。
「君の知ってる菊地は、もう存在しない」
ひとみは鏡に映る自分を見た。やつれた顔、虚ろな目。彼女は呟いた。
「あたしには…何も残ってない」
翌日から、ひとみの生活は変わった。夜は眠れず、昼間はぼんやりと時間を過ごした。かつて英治が撮影した動物の写真を見ても、心は動かなかった。
ある日、ひとみは仕事中にミスを連発し、上司から厳しく叱責された。その場で彼女は涙を流し、職場を飛び出した。街を彷徨いながら、ひとみは自分の心が壊れていくのを感じた。英治を失った悲しみ、冴子の美しさに圧倒された劣等感、直樹の言葉で突きつけられた現実。それらが重なり、ひとみの精神は限界を超えた。
数週間後、ひとみは心療内科を訪れた。医師は彼女の症状を「抑うつ状態」と診断し、カウンセリングと投薬を勧めた。だが、ひとみは薬を手にしても虚ろな目で呟くだけだった。
「菊地くんが…あたしの菊地くんが、いないなら…あたし、なんのために生きてるの?」
彼女の友人たちは心配したが、ひとみは次第に連絡を絶った。直樹は自責の念に駆られ、ひとみに何度も連絡を試みたが、彼女は電話に出なかった。
「菊地くん…あなたが幸せなら、それでいい…でも、あたしには…辛すぎるよ…」
ひとみの嗚咽は、雨音に溶けていった。彼女の心は、英治のいない世界で彷徨い続けていた。友人たちの声も、すべてが遠く感じられた。ひとみは自分の存在意義を見失い、深い闇の中に沈んでいった。
ある冷たい秋の夕暮れ、ひとみは東京の雑踏の中でふらりと倒れた。雨に濡れた歩道に膝をつき、力なく崩れ落ちる彼女を、通りかかった橋口純子と天野司が偶然発見した。
「ひとみ!? どうしたの、大丈夫!?」
純子の叫び声に、司が慌ててひとみを抱き起こした。彼女の顔は青白く、目は焦点を失っていた。
「……ごめん…」
ひとみがかすかに呟いた言葉に、二人は顔を見合わせた。すぐに救急車が呼ばれ、ひとみは近くの病院に運ばれた。
病院のベッドで、ひとみはぼんやりと天井を見つめていた。
医師の診断は「重度の抑うつ状態と栄養失調」彼女の身体は極端に衰弱しており、しばらく入院が必要だった。純子と司は交代でひとみのそばに付き添い、直樹にも連絡を取った。直樹は病院に駆けつけ、ひとみのやつれた姿を見て唇を噛んだ。
「ボクの言葉が…ひとみをこんな目に…」
彼は自責の念に苛まれながら、ひとみの手を握った。だが、ひとみは反応せず、ただ虚空を見つめていた。
医師はカウンセリングと投薬治療を開始したが、ひとみの心は簡単には戻らなかった。彼女の頭の中では、英治の無機質な視線、冴子の輝く笑顔、そして「あの山で引き留められなかった自分」が繰り返し再生されていた。
「あたしが…もっと強く…菊地くんを…」
ひとみが呟くたび、純子は涙を堪えて彼女の手を握りしめた。
「ひとみ、頑張って。ひとみは一人じゃないよ。私たちがいるから」
入院から数週間、ひとみの状態は少しずつ安定し始めた。薬の効果で夜は眠れるようになり、栄養管理で身体もわずかに回復した。だが、心の傷は深く、カウンセリングでも彼女は英治の名前を繰り返し口にした。
「彼は幸せなのに…あたしには何もない…冴子さんみたいな人には、絶対に勝てない…」
カウンセラーは静かに耳を傾け、ひとみにこう語った。
「ひとみさん、あなたの価値は、誰かと比べるものじゃない。あなたはあなたで、十分に素晴らしい人です」
その言葉は、ひとみの心に小さな波紋を広げた。だが、英治への愛と喪失感は、依然として彼女を縛っていた。純子や司、直樹は、ひとみが少しでも笑顔を取り戻せるよう、昔の思い出話やささやかなプレゼントで彼女を励ました。ある日、純子が持ってきたのは、ひとみと英治がかつて一緒に撮った写真だった。
「ひとみ、この笑顔、覚えてて。菊地くんも、こんなひとみが大好きだったんだよ」
ひとみは写真を見つめ、初めて小さな涙を流した。それは、絶望の涙ではなく、どこか温かい記憶の欠片だった。
退院の日、ひとみはまだ脆い心を抱えていたが、友人たちの支えでなんとか未来への希望を歩みだした。
「菊地くんが幸せなら…それでいい。あたしも、いつか…自分の幸せを見つけたい」
純子がそっと肩を抱き、司が笑顔で頷いた。直樹は少し離れて見守りながら、ひとみの小さな変化に安堵した。
ひとみは病院の窓から見える秋の空を眺めた。英治の記憶は戻ることはないし、冴子の美しさは、永遠にひとみを凌駕するかもしれない。それでも、友人たちの温もりと、かすかに芽生えた「自分を愛する」気持ちが、ひとみをゆっくりと癒し始めていた。彼女の心はまだ壊れたままで、完全には修復されないかもしれない。だが、ほんの少し、光が見えた気がした。