中山ひとみは、いつも教室の隅で静かに本を読んでいた。極度の人見知りで、誰かと目を合わせるだけで心臓が跳ね上がる。友達は少ないが、吹奏楽部の時間だけは別だった。アルトサックスを手にすれば、音に身を委ね、心が軽くなる。そこでは、自分が自分でいられたのだ。
一方、菊地英治は学校のスターだった。サッカー部のエースで、明るい笑顔と気さくな性格で誰からも好かれる。グラウンドを駆ける姿は、ひとみにとって遠い世界のものだった。でも、ある日の放課後、その距離が急に縮まった。
吹奏楽部の練習中、体育館の裏でひとみが一人でサックスを吹いていた。いつものように音に没頭していると、聞き慣れない足音が近づいてきた。振り返ると、そこには英治が立っていた。
「お前のサックスの音色、好きだな。なんか、胸に響くんだよね。」
英治はニッと笑ってそう言った。ひとみは顔が熱くなり、言葉が詰まった。ただ小さくうなずくのが精一杯だった。それ以来、英治はひとみの心に住み着いた。廊下ですれ違うたび、グラウンドで彼がボールを蹴る姿を見るたび、胸が締め付けられる。でも、こんな自分に彼が振り向くはずがない。ひとみはそう思い込んでいた。
季節は秋に移り、文化祭が近づいていた。吹奏楽部は体育館で演奏を披露する予定で、ひとみはソロパートを任されていた。緊張で押しつぶされそうだったが、顧問の先生に「君の音は特別だ」と言われ、逃げ出さずに練習を続けた。
ある日、練習後に英治が体育館に現れた。彼はサッカー部の仲間と笑い合っていたが、ひとみの姿を見つけると近づいてきた。
「よ、中山。文化祭の演奏、楽しみにしてるぜ。特に、お前のソロ。」
「え…なんで、知ってるの?」ひとみは目を丸くした。
「吹奏楽部のポスターに名前出てたじゃん。ちゃんと見てんだから。」
英治はいたずらっぽく笑った。
「あの音、また聴きたいな。」
ひとみは動揺して俯いた。英治が自分のことを覚えていて、しかも演奏を楽しみにしてくれている。そんなことがありえるなんて、夢みたいだった。
文化祭当日、体育館は人で溢れていた。ひとみは舞台の袖で震えていた。観客の中に英治の姿を見つけた瞬間、心臓が止まりそうになった。彼は最前列で、仲間と笑いながらこっちを見ていた。
演奏が始まり、ひとみのソロパートがやってきた。目を閉じ、深呼吸してサックスを構えた。最初の音を吹いた瞬間、会場が静まり返った。ひとみの音色は、切なく、温かく、聴く者の心を掴んだ。英治は目を離さず、じっと聴き入っていた。
演奏が終わると、割れんばかりの拍手が響いた。ひとみは放心状態だったが、舞台を降りると英治が待っていた。
「やばかった。めっちゃ良かった。中山、すげえな。」
「…ありがとう。」
ひとみは消え入りそうな声で答えた。
「なあ、ちょっと話さね?外で。」
英治の声は少し真剣だった。
校庭のベンチに二人で座った。夕暮れの空がオレンジ色に染まっていた。ひとみは膝を抱え、緊張で息が浅かった。
「俺さ、お前のサックス聴いてから、なんか気になってたんだ。」
英治が切り出した。
「あの音、めっちゃ心に残るんだよ。で、今日の演奏見て、確信した。お前、めっちゃ特別だよ。」
ひとみは信じられなかった。英治がこんなことを言うなんて。自分なんて、目立たない、卑屈ネガティブなブスなのに。
「でも、あたし…全然、特別なんかじゃ…。」
「そんなことないよ。」
英治は真っ直ぐひとみの目を見た。
「お前がサックス吹いてるときの顔、すげえキラキラしてる。おれ、そういうお前が…好きだ。」
ひとみは息を呑んだ。頭が真っ白になり、言葉が出てこなかった。英治は少し照れながら続けた。
「だからさ、もしよかったら…おれと、付き合わない?」
ひとみは涙が溢れそうになるのを堪えた。こんな日が来るなんて、想像もしていなかった。でも、英治の笑顔を見ていると、怖さが少しずつ溶けていく気がした。
「…うん。」
小さな声だったけど、ひとみは確かにそう答えた。
英治は「よっしゃ!」と笑って手を差し出した。ひとみは躊躇いながらも、その手を握った。温かくて、安心する手だった。
ひとみと英治が付き合い始めてから数週間が過ぎた。ひとみにとっては夢のような日々だった。英治は相変わらず明るく、放課後に一緒に帰ったり、試合の後に「サックス吹いてよ」と笑顔でせがんだりした。ひとみはそんな彼に心を許し、少しずつ笑顔が増えていた。自分みたいな地味な子が、英治のような人気者と一緒にいられるなんて、奇跡だとさえ思っていた。
しかし、ある日の放課後、ひとみの世界は音を立てて崩れた。
理科準備室の前を通りかかったとき、ドアの隙間から聞き覚えのある声が漏れてきた。英治の声だった。ひとみは足を止め、なぜか胸がざわついた。ドアにそっと近づくと、英治と親友の相原徹の会話が聞こえてきた。
「中山ひとみって、ちょろいな。ちょっと優しくしただけで、簡単におれになついてんの、マジ受けるわ。」
英治の声は軽薄で、いつもひとみに見せる優しさとはまるで別人のようだった。
ひとみは息が止まった。頭が真っ白になり、足が震えた。
「お前ってほんと性格悪いよな。」
徹の声は少し苛立っていた。
「いい加減にしろよ。あの子、めっちゃ真剣なんだから。」
「は? 別におれ、悪いことしてねえじゃん。ただちょっと遊んでるだけ。ほら、あいつのサックス、わりと本気でいい音するしさ。それ聴けるなら、まあいいかなって。」
英治は笑いながら答えた。
ひとみはそれ以上聞けなかった。涙が溢れ、足音を立てないようにその場を離れた。心臓が締め付けられ、胸が痛くてたまらなかった。英治の笑顔も、優しい言葉も、全部嘘だった。あの音色を好きだと言ってくれたことさえ、ただの遊びだったのか。
翌日、ひとみは学校を休んだ。布団にくるまり、英治の言葉が頭の中で何度もリピートされた。「ちょろい」「遊んでるだけ」。自分はなんて愚かだったんだろう。こんな自分が、英治に好かれるはずなんてないのに。
吹奏楽部の顧問から心配のメールが来たが、返事をする気力もなかった。サックスを手に取ろうとしたが、楽器を見るだけで涙がこぼれた。あの音色を英治が好きだと言ってくれたから、ひとみは自分を少しでも肯定できたのに。今はそれすら汚された気がした。
一方、英治はひとみの欠席に気づいたが、気にする様子はなかった。昼休み、徹が英治をグラウンドの隅に呼び出した。
「お前、中山のことどうでもいいってマジで思ってんの?」
徹の声は鋭かった。
「別に。まあ、ちょっと飽きてきたかな。あいつの人見知りっぷり、最初は面白かったけどさ、最近めんどくさいだけじゃん。」
英治は肩をすくめた。
徹は眉をひそめ、英治を睨んだ。
「お前、ほんと最低だな。あいつのサックス聴いたとき、すげえ感動したって言ってたじゃん。あれも嘘だったわけ?」
「いや、音はまあ、良かったよ。けど、それだけ。おれが本気でアイツにハマるわけねえだろ。」
英治は笑ったが、その笑顔にはいつもの輝きがなかった。
徹はため息をつき、背を向けた。
「ほんとお前ってやつは……。」
その夜、ひとみは吹奏楽部の部室にこっそり忍び込んだ。誰もいない部屋で、サックスを手に取った。吹こうとしたが、音が出なかった。指が震え、涙が楽器に落ちた。あの音色は、英治のために吹いていたものだった。でも、彼にとってはただの遊び道具だった。
「もう…吹けない。」ひとみはサックスをケースに戻し、部室を後にした。
数日後、ひとみは学校に戻ったが、英治とは目を合わせなかった。英治が話しかけてきても、短く答えて距離を取った。英治は最初、ひとみの態度にイラついたが、やがて興味を失ったように他の子と笑い合うようになった。
ひとみは吹奏楽部の活動にも顔を出さなくなった。顧問や部員が心配したが、ひとみは「ちょっと忙しくて」と誤魔化した。心の中では、もうあの音色を愛せない自分がいた。
月日は流れ、卒業式の日がやってきた。ひとみは最後まで英治とまともに話すことはなかった。英治は相変わらず人気者で、卒業アルバムには彼の笑顔が溢れていた。ひとみは自分のページを見ながら、かつての自分を思い出した。あの頃、英治の言葉に心を躍らせていた自分を。
式の後、ひとみは一人で部室に立ち寄った。埃をかぶったサックスのケースを手に取り、そっと開けた。楽器は静かにそこにあった。ひとみは深呼吸し、久しぶりにサックスを構えた。震える指で、ゆっくりと音を吹いた。
その音は、かつての輝きを失っていた。でも、どこかで、ひとみ自身の痛みと強さが混ざり合った新しい音色が生まれていた。英治のためじゃない。誰のためでもない。自分のために吹く音だった。
ひとみは目を閉じ、静かに微笑んだ。
「もう一度、吹けるかな。」