ひとみは嘘をついた。
「明日には忘れてるから」と。そして、不意にうつむくと、いとおしいひとに背を向ける。その唇が、泣き出しそうに歪んだ。…それでも、この出会いは幸せだったと思いたい。
ひとみが背を向けた瞬間、夜の空気が一層冷たく感じられた。街灯の淡い光が、彼女の細い肩をぼんやりと照らし、地面に長く伸びる影が揺れていた。彼女の言葉、「明日には忘れてるから」が、頭の中で反響する。嘘だとわかっていた。それでも、その嘘を信じたい自分がいた。
「ひとみ、待って。」
声をかけたのは、彼女に背を向けられた佐竹哲郎だった。彼の声は少し震えていた。ひとみの足が止まる。彼女は振り返らない。背中越しに、彼女の肩が小さく震えているのが見えた。
「なんで…なんでそんなこと言うんだよ。」
哲郎の声は、怒りと悲しみが混ざり合っていた。
「忘れるなんて、できるわけないだろ。俺だって、ひとみだって…こんなの、忘れられるわけない。」
ひとみは唇を噛んだ。彼女の心臓は、痛いほどに鼓動を刻んでいた。哲郎の言葉は、彼女が必死で閉じ込めようとした感情を揺さぶった。彼女は知っていた。この出会いが、どんなに特別で、どんなに壊れやすいかを。彼女が嘘をついたのは、自分を守るためだった。いや、哲郎を守るためだったのかもしれない。
「てっちゃん…」彼女の声は小さく、ほとんど風に消えそうだった。
「ごめん。あたし、怖いんだ。」
「怖い?何が?」
哲郎は一歩近づいた。彼女の背中に手を伸ばしかけたが、途中で止めた。触れたら、彼女が本当に壊れてしまいそうで。
ひとみはゆっくりと振り返った。彼女の瞳は、涙で濡れていた。街灯の光がその涙に反射し、まるで星の欠片のようだった。
「全部だよ。てっちゃんと過ごした時間、笑ったこと、喧嘩したこと…全部が、こんなに大事なのに、いつかなくなっちゃうんじゃないかって。それが怖い。」
哲郎は言葉を失った。ひとみの瞳に映る自分を見ながら、彼は自分の心も同じ恐怖に囚われていることに気づいた。この出会い、この瞬間が、あまりにも美しくて、だからこそ失うのが怖かった。
「でもさ、」哲郎はようやく口を開いた。
「それでも、俺は幸せだったよ。ひとみと会えて、こうやって一緒にいられて…それだけで、俺には十分だ。」
ひとみの唇が、泣き出しそうに歪んだ。彼女は一歩踏み出し、哲郎の胸に額を押し付けた。彼女の涙が、哲郎のシャツに染み込んでいく。「あたしも…あたしも幸せだった。ほんとに、ほんとに幸せだったよ。」
二人はしばらくそうしていた。言葉はなく、ただ互いの温もりを感じながら。夜の街は静かで、遠くで車の音が聞こえるだけだった。この瞬間が永遠に続けばいいと、二人とも心のどこかで願っていた。
でも、時間は止まらない。ひとみはゆっくりと顔を上げ、哲郎を見つめた。
「ねえ、てっちゃん。もし…もし明日、私が本当に忘れちゃったら、どうする?」
哲郎は少し考え、柔らかく笑った。
「そしたら、また一から始めよう。俺、ひとみに何度でも会いに行くよ。そしていつかは、ひとみが忘れられないくらい、すげえ思い出作ってやる。」
ひとみはくすっと笑い、涙を拭った。
「バカ。そんなの、無理に決まってるじゃん。」
「無理じゃない。」
哲郎は真剣な目で彼女を見た。「だって、俺はひとみを絶対に忘れないから。」
その言葉に、ひとみの心は少しだけ軽くなった。彼女は小さく頷き、哲郎の手を握った。その手は温かく、彼女の恐怖をそっと溶かしていくようだった。
二人は再び歩き出した。夜の街を、並んで。未来は不確かで、怖いものかもしれない。でも、この瞬間、二人にはそれで十分だった。出会ったこと、愛したこと、そして今ここにいること。それが、彼らの幸せだった。