突然、相原徹が振り向いて手を差し出してきた。ひとみは一瞬、時間が止まったかのように感じた。相原徹の差し出した手は、夕陽に照らされてほのかに赤く染まっていた。横から差し込む光が、彼の髪の毛の先を金色に輝かせ、いつも少し無愛想なその顔に、どこか柔らかい表情を添えている。

「…何?」
ひとみは声を絞り出すようにして言った。心臓の鼓動はますます速くなり、胸の奥で何かがざわめいている。彼女の手は前に出したまま動けなかった。
「ほら、早くしろよ」
徹は少し照れたように笑い、差し出した手を軽く振った。
「このままじゃ、置いてかれちまうぞ」
ひとみは目を瞬かせた。置いてかれる? 何のこと? 頭の中が一瞬真っ白になったが、すぐに周りから聞こえてくる賑やかな声に気づいた。なかまたちが楽しげに話しながら、この後の予定についてを交わしている。今日は確か、みんなでBBQやるって話だったっけ。でも、ひとみはいつものようにその輪の中に入れず、隅でぼんやりと時間を潰していたのだ。
「え、でも、あたし…」ひとみは言葉を濁した。実はBBQが苦手だなんて口に出して言えない。そんな思いが頭をよぎる。
「いいから」
徹はひとみの迷いを遮るように言った。
「お前、いつも一人でいるじゃん。今日くらい、みんなと一緒に来いよ」
その言葉に、ひとみは胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。いつも一人。徹の言う通りだ。クラスでは誰とでもそれなりに話せるけど、深い関係にはなれない。友達と呼べる存在はいるはずなのに、どこかでいつも距離を感じてしまう。そんな自分が、徹には見透かされていたのだろうか。
「…なんで?」ひとみは思わず口にしていた。「なんで、あたしなんかを誘うの?」
徹は一瞬、言葉に詰まったように見えた。差し出した手が少し下がり、彼の視線がひとみの顔から外れて窓の外へと彷徨う。夕陽が教室の床に長い影を落とし、静かな時間が流れた。
「別に…深い意味はないよ」
徹はようやく口を開いたが、その声はいつもより少し低かった。
「ただ、なんか…お前が一人でいるの、気になっただけだ」
ひとみは息を呑んだ。気になっただけ。そんな簡単な言葉なのに、なぜかその一言が心の奥にずしりと響いた。徹の顔を見ると、彼はもうひとみの方を見ず、頬を軽く掻きながらそっぽを向いている。いつもは自信たっぷりに見える相原徹が、こんな風に少し気まずそうにしているなんて、初めて見た気がした。
「…行く?」
徹が再び手を差し出した。今度はさっきより少し控えめな仕草で、どこかぎこちない。
ひとみは手に力を込めた。行きたい。行きたくない。頭の中で二つの思いがぐるぐると渦を巻く。でも、徹の目を見た瞬間、なぜか「行きたい」が少しだけ勝った。彼女はゆっくりと手を伸ばし、徹の手に触れる前に、軽く拳を握ってから開いた。
「うん…行く」
ひとみは小さく頷いた。声は震えていたけど、どこか晴れやかな気持ちが胸に広がっていくのを感じた。
徹は「よし」と短く言い、にやりと笑った。その笑顔は、いつもみたいにちょっと生意気で、でもどこか安心させるものがあった。彼はひとみの手を掴むでもなく、ただ先に立って銀嶺荘に向かって歩き出した。ひとみは慌てて彼の背中を追いかけた。
なかまたちの声が一層大きく響いてきた。菊地英治が「遅えよ、相原!」と叫び、徹が「うるせえ!」と返しながら笑っている。ひとみはその後ろを歩きながら、ふと思った。自分は今、こんな風に誰かと一緒に笑い合える場所にいるんだ。いつも遠くから眺めていただけのその場所に、今日は少しだけ足を踏み入れている。
夕陽が廊下の窓に映り、橙色の光がひとみの頬を温めた。徹の背中は大きく、どこか頼もしく見えた。彼女は小さく息を吐き、胸の鼓動が少し落ち着くのを感じながら、一歩、また一歩と前に進んだ。