中学卒業の日、ひとみは菊地英治に勇気を振り絞った。グラウンドで仲間と笑い合う英治に、純子に背中を押されて近づいた。
「菊地くん…あたし、ずっと好きだった。迷惑だったかもしれないけど、言わないと後悔するから。」
英治は黙ってひとみを見つめた。いつもより柔らかい目だったが、彼は静かに言った。
「中山、気持ちは…ありがとな。でも、おれ、誰かとそういう風になる気、ないんだ。」
ひとみは涙をこらえ、笑顔を作った。
「うん、わかった。ありがとう、菊地くん。」
踵を返し、英治の視線を感じながら歩き出した。英治は何かを言おうとしたが、結局黙って彼女を見送った。
それから10年以上がたった。ひとみは地元の大学で文学を学び、今は小さな出版社で編集者として働いている。得意だった文章を書くことで自分の居場所を見つけた。運動音痴なのは変わらず、ジムに通うたびにトレーナーに笑われるが、彼女は笑い返す余裕を持っていた。
ひとみの生活に新たな仲間が加わっていた。2年前、保護犬施設で出会った雑種犬のハルだ。黒と白のまだら模様で、片耳が少し折れたハルは、ひとみの帰宅をいつも尻尾を振って迎えた。ひとみはハルに心を開き、夜中に仕事の愚痴を話す相手になっていた。
ある日、ハルが食欲をなくし、元気がなくなった。ひとみは心配でたまらず、純子に相談すると、意外な情報が返ってきた。
「ねえ、ひとみ、知ってる? 菊地くん、地元で獣医師やってるよ。評判いいみたいだし、ハル連れてってみたら?」
ひとみは一瞬息を呑んだ。英治の名前を聞いて、胸がちくりとした。でも、ハルのためなら、と自分を奮い立たせ、純子が教えてくれた動物病院の予約を取った。
英治の動物病院は荒川沿いにあり、白い外壁に大きなガラス窓の清潔な建物だった。ひとみはハルを抱き、緊張しながら受付を済ませた。待合室でハルの頭を撫でながら、10年前の卒業式を思い出していた。
「中山ひとみさん、ハルちゃん、診察室へどうぞ。」
看護師の声に、ひとみはハルを連れて診察室に入った。そこには、白衣を着た英治がいた。少し日焼けした顔、落ち着いた瞳。柴犬を連想する髪は健在だが、黒ぶちのメガネをかけている。
「…中山?」
英治が驚いたように目を見開いた。ひとみは少し笑って答えた。
「うん、久しぶり、菊地くん。ハルが元気なくて…診てほしいんだ。」
英治は一瞬固まったが、すぐにプロの顔に戻り、微笑んだ。
「了解。ハル、ちょっと見せてな。」
英治はハルを診察台に上げ、丁寧に触診を始めた。ハルは最初落ち着かなかったが、英治の穏やかな声と手つきに安心したのか、じっとしていた。ひとみは英治の変わらない真剣な表情を見て、胸が温かくなった。
「血液検査の結果、軽い胃腸炎みたいだな。薬と食事の管理で大丈夫。…ハル、いい子だな。」
英治がハルの頭を撫でると、ハルは尻尾を振った。ひとみはほっと息をつき、笑顔で言った。
「よかった…ありがとう、菊地くん。獣医師になったんだね、すごいな。」
英治は照れたように笑い、首を振った。
「まあ、昔から動物好きだったしな、獣医は子供の頃からの憧れみたいなもんだし。…中山は? 」
「うん、小さな出版社だけど、楽しくやってるよ。ハルが私の癒しでさ。」
二人は自然に笑い合い、昔のぎこちなさが少し溶けた。英治はハルのカルテを書きながら、ふと言った。
「中山、昔…卒業式のとき、ちゃんと答えられなくて、悪かったな。」
ひとみは驚いて英治を見た。でも、すぐに柔らかく微笑んだ。
「いいよ、あの頃は私も無茶だったし。気持ち伝えられて、なんかスッキリしたんだよね。それに…今、こうやってハルのおかげで会えたし。」
英治は小さく笑い、頷いた。
「そうだな。ハル、ありがとな。」
ハルは二人の声に反応し、クゥンと小さく鳴いた。
ハルの治療が落ち着いた後も、ひとみは定期的に英治の病院に通った。ハルの健康チェックを口実に、二人は少しずつ話す時間を増やした。英治は獣医師として保護犬の活動にも関わり、ひとみは彼の情熱に感心した。ひとみは編集の仕事で動物関連の書籍を提案し、英治に取材を頼んだりもした。
ある日、病院の待合室で、ひとみは英治に言った。
「菊地くん、昔は正反対だと思ってたけど…今は、なんか、同じもの大切にしてる気がするね。」
英治はハルの首輪を調整しながら、穏やかに答えた。
「ハルみたいなやつらが、俺たちを繋いでくれるんだろ。…中山、友達として、これからもよろしくな。」
ひとみは笑い、頷いた。
「うん、友達として。よろしく、菊地くん。」
二人は恋人にはならなかった。でも、ハルを通じて、昔の片想いを越えた新しい絆が生まれた。ひとみはハルを抱きしめ、英治は微笑みながら次の患者を呼んだ。
ある日のこと、ひとみはハルを抱き、動物病院の待合室で穏やかな時間を過ごしていた。ハルの胃腸炎はすっかり回復し、黒と白のまだら模様の愛犬は尻尾を振って英治に甘えていた。ひとみと英治の会話は、昔のぎこちなさを越え、懐かしい友人のような軽やかさがあった。だが、その日の診察が終わる頃、ひとみの目に新たな光景が飛び込んできた。
診察室のドアが開き、すらりとした女性が入ってきた。長い黒髪をゆるく結び、知的な雰囲気の美人だった。彼女は白衣の英治に笑顔で近づき、肩に軽く触れた。
「えいじ、今日の予定、早めに終わりそう? 学校の資料、ちょっと相談したいんだけど。」
英治は柔らかく笑い、頷いた。
「うん、大丈夫。もうすぐ終わるよ。…あ、紹介する。ひとみ、こっちは冴子。ぼくの妻で、中学の理科教師やってる。」
ひとみは一瞬、胸が小さく締め付けられるのを感じた。だが、すぐに笑顔を取り戻し、冴子に会釈した。
「はじめまして、中山ひとみです。ハルの飼い主で…英治くんとは中学の同級生です。」
冴子は明るく微笑み、ひとみの手を握った。
「 えいじから話聞いてるわ。ハルちゃん、めっちゃ可愛いね! えいじの診察、いつも助かってるでしょ?」
冴子の声は温かく、ひとみはすぐに彼女の魅力に引き込まれた。冴子は二人の出身中学で理科教師をしており、英治とは獣医師としての彼の知識を借りて、授業で動物の生態を取り上げることもあると話した。ひとみは、冴子の生き生きとした話し方や、英治を見る柔らかな目に、彼らの幸せな関係を感じた。
診察後、ひとみはハルを連れて病院を出た。夕暮れの空は中学時代を思い出させ、ひとみは少しだけあの頃の自分を振り返った。英治への片想い、届かなかった気持ち、卒業式の涙。あの時、英治は誰とも深く関わらず、サッカーと生き物観察に没頭していた。でも、今の彼は冴子と築いた家庭を持ち、獣医師として地域に根ざしている。ひとみは自分の道――編集者としての仕事、ハルとの生活――にも誇りを持っていたが、英治の変化に少し驚いていた。
その夜、ひとみはハルを撫でながら、純子に電話をかけた。
「純子、聞いてよ。今日、菊地くんの病院行ったら、彼、結婚してた。奥さん、めっちゃ美人で、うちの中学の理科教師なんだって。」
純子は驚いた声を上げ、すぐに茶化してきた。
「え、マジ? 菊地くん、ついに捕まったんだ! でも、ひとみ、大丈夫? なんか、昔のこと思い出したりしない?」
ひとみは笑って首を振った。
「うん、大丈夫。ちょっとびっくりしたけど…なんか、菊地くん、幸せそうでさ。冴子さんもいい人で、ほんとお似合いだったよ。」
純子は少し黙り、優しく言った。
「ひとみ、強くなったね。昔のひとみなら、絶対落ち込んでたよ。」
ひとみはハルの耳を撫でながら、静かに微笑んだ。
「ハルのおかげかな。…それに、あたしも自分の道、結構気に入ってるし。」
それから数ヶ月、ひとみはハルの定期健診で英治の病院に通い続けた。冴子とも顔を合わせる機会が増え、彼女の明るさと情熱に惹かれた。ある日、冴子がひとみを学校の文化祭に招待した。
「ひとみさん、編集者って聞いて、めっちゃ興味あるの! うちの生徒たち、文章書くの好きな子多いから、ゲストで話してくれない? ハルも連れてきてよ!」
ひとみは少し緊張したが、冴子の熱意に押されて引き受けた。文化祭当日、ひとみはハルを連れて中学の校舎に足を踏み入れた。懐かしい廊下、理科室の匂い。英治も獣医師として動物の授業を手伝いに来ており、三人は一緒に生徒たちと交流した。
ひとみは生徒たちに、文章で気持ちを伝える楽しさを語った。冴子は理科の視点から犬の生態を解説し、英治はハルを例に、獣医師の仕事について話した。ハルは生徒たちに囲まれ、尻尾を振って大はしゃぎ。ひとみは、英治と冴子の自然なやりとりを見ながら、昔の自分が想像もできなかった穏やかな気持ちを感じた。
文化祭の後、英治と冴子がひとみをカフェに誘った。ハルは英治の足元で寝そべり、三人は中学時代の思い出を語った。
「中山、覚えてる? 理科の実験で、お前、いつも橋口に助けられてたよな。」
英治が笑いながら言うと、ひとみは頬を膨らませた。
「うっ、覚えててほしくなかった! 」
冴子が楽しそうに笑い、会話に加わった。
「えいじ、中学のときはサッカーと生き物にしか興味なかったんだってね」
英治は照れたようにハルの頭を撫で、冴子に軽く肘を突いた。
「冴子、お前も大概だろ。授業で犬の話するたび、目キラキラさせてるくせに。」
ひとみは二人のやりとりに笑いながら、ふと思った。英治は昔、誰とも深く関わらなかった。でも、冴子と出会い、獣医師として動物と向き合う中で、こんな風に心を開くようになったんだ。
カフェを出ると、夜の空には星が瞬いていた。ひとみはハルのリードを握り、英治と冴子に別れを告げた。
「またハルの診察で来るね。冴子さん、今日、ほんと楽しかった。ありがとう。」
冴子はハルを撫でながら、にこっと笑った。
「ううん、こっちこそ! ひとみさん、編集の話、すっごく面白かったよ。また学校来てね!」
英治はひとみに小さく手を上げ、言った。
「中山、ハルのこと、ちゃんと見てやるから。またな。」
ひとみは頷き、ハルを連れて帰路についた。家に着くと、ハルはいつものようにひとみの膝に頭を乗せて寝始めた。ひとみはハルの耳を撫でながら、昔の片想いを思い出した。あの頃の切なさは、今は温かい記憶に変わっている。
英治は冴子と幸せな家庭を築き、ひとみはハルと自分の仕事に充実感を見出していた。二人は恋人にはならなかったが、ハルを通じて、友達として新たな絆を紡いでいた。
ひとみはハルにそっと呟いた。
「ハル、菊地くんと冴子さんに会えてよかったね。私たちも、もっと楽しいこと見つけようね。」
ハルは小さく鼻を鳴らし、ひとみの手に頬を擦り寄せた。
