「菊地くんにとってあたしってなんなの?」
ひとみは勇気をふりしぼって菊地英治に話しかけた。
「そんなのともだちだろ。」
「えっともだち……」
「そう、ともだち、それ以上でもそれ以下でもない関係」
ひとみを見る英治の目はいつも通り冷たい。それがひとみにはいっそう辛く感じる。
「じゃあね」
そう言って去っていく片想いの相手を黙って見つめることしかできない。
ひとみは立ち尽くしたまま、英治の背中が建物の角に消えていくのを見ていた。夕暮れのオレンジ色の光が、校庭の隅に伸びる影を長く濃くしていた。彼女の胸は、まるで空気が抜けた風船のようにつぶれて、息をするのも辛かった。
「ともだち…それ以上でもそれ以下でもないのか……」
ひとみは小さくつぶやき、唇を噛んだ。英治の言葉はあまりにも冷たく、まるでひとみの心を突き刺すナイフのようだった。でも、どこかで予想していた答えだったのかもしれない。英治はいつもこうだ。誰に対しても一定の距離を保ち、決して踏み込ませない。ひとみがどんなに近づこうとしても、彼の心には見えない壁がある。
それでも、ひとみは彼を好きになってしまった。英治の真っ直ぐな瞳、言葉を選ぶときの少しの間、サッカーの試合で汗を流しながら仲間を鼓舞する姿――そんな瞬間が、ひとみの心を掴んで離さなかった。
彼女は鞄を握りしめ、ゆっくりと歩き出した。校門を出て、いつもの帰り道。桜並木の葉はすっかり色づき、風に揺れてカサカサと音を立てていた。ひとみの足取りは重く、頭の中では英治の言葉が何度もリピートされていた。
「ともだち、か…。でも、あたしにはそれじゃ足りないよ…」
ひとみは立ち止まり、空を見上げた。夕焼けが空を赤く染め、遠くでカラスの鳴き声が響く。彼女の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。

翌日、ひとみはいつもより少し早く教室に着いた。まだ誰もいない静かな教室で、彼女は自分の席に座り、ノートを開いた。そこには、英治の名前を何度も書いたページがあった。恥ずかしくなって慌てて閉じた瞬間、教室のドアがガラリと開いた。
「よ、早いな、ひとみ。」
入ってきたのは、クラスメイトの橋口純子だった。純子は明るくて誰とでもすぐに打ち解ける性格で、ひとみとは一年からの付き合いだ。彼女はひとみの前の席に腰掛け、ニコニコしながら話しかけてきた。
「なんか、顔暗いよ? もしかして菊地くんと何かあった?」
ひとみはドキッとした。純子には、英治への片想いを相談していたのだ。
「…うん、昨日話したよ。でも、ダメだった。『ともだち』って言われただけ。」
ひとみは俯きながら、絞り出すように言った。純子は少し眉を下げ、ひとみの肩をポンと叩いた。
「うーん、菊地くんらしいっちゃらしいね。アイツ、生き物に関しては鋭いけど、人に対しては鈍感なんじゃない?」
「鈍感…かなぁ…」
ひとみは小さく笑ったが、心の中ではそんな簡単な話じゃないと思っていた。英治のあの冷たい目は、鈍感というより、まるでわざと距離を置いているように感じたのだ。
「ねえ、ひとみ。落ち込んでても仕方ないよ。菊地くんが今はそんな感じでも、ちょっとずつ心開かせればいいじゃん! ほら、作戦会議しよ!」
純子の明るい声に、ひとみは少しだけ元気を取り戻した。純子はノートを広げ、「菊地攻略プラン!」とでかでかと書き始めた。ひとみは苦笑しながらも、純子の勢いに乗せられて、少しずつ前向きな気持ちになっていった。
それから数日、ひとみは純子の「作戦」に従って、英治に少しずつ近づこうと試みた。放課後のサッカー部の練習をこっそり見に行ったり、休み時間にさりげなく話しかけたり。英治は相変わらずそっけなかったが、時折、ひとみの言葉に小さく笑ったり、意外な優しさを見せたりすることがあった。

ある日、ひとみは図書室で英治と偶然二人きりになった。英治は三国志の本を手に取っていてた。英治は社会より理科の方が得意だからなんか意外な気がした。ひとみは少し緊張しながら話しかけた。
「菊地くん、歴史好きなんだっけ?」
「…別に嫌いじゃない。」
英治は本から目を離さず答えたが、ひとみはめげなかった。
「あたし、結構歴史好きでさ、三国志は子供の頃に読んですっかりとりこになってさ」
その言葉に、英治が初めて顔を上げた。彼の目に、ほんの一瞬、興味の光が宿った。
「 へえ、どの武将が好き?」
ひとみは少し驚きながらも、嬉しくなって答えた。
「うーん、張飛かな。なんか、めっちゃ大胆でカッコいいなって。」
「張飛か。確かに派手なやつだな。でも、おれは張遼の方が面白いと思う。信念貫いてる感じがさ。」
英治の声に、いつもより少しだけ熱がこもっていた。ひとみは心臓がドキドキするのを感じながら、話を続けた。二人はそのまま、三国志の話で盛り上がり、図書室の閉館時間まで話し込んでしまった。
帰り道、ひとみはひとりで歩きながら、今日のことを思い返していた。英治の意外な一面を見れたこと、彼が少しだけ心を開いてくれたかもしれないこと。それだけで、ひとみの心は温かくなった。
「まだ、ともだちかもしれないけど…。少しずつ、近づけてるよね?」
ひとみは夜空を見上げ、そっと微笑んだ。彼女の片想いは、まだ始まったばかりだった。