7月の夕暮れ、町のグラウンドに子供たちの笑い声が響いていた。木俣ケンイチ、かつてスペインの2部リーグでDFとして守備の要を担っていた男。今は地元の少年サッカーチームのコーチとして、汗と泥にまみれた子供たちに守備の基本を教えている。2年前、膝の靭帯断裂で選手生命を絶たれ、日本に帰国。夢のピッチを失ったケンイチだが、子供たちの輝く目に、かつての自分を見ていた。

「ケンイチ! 子供たち、めっちゃ楽しそう! でも、ちょっと熱血すぎない?」
グラウンドの脇から、ルミの声が飛んできた。白衣に犬の毛がついたまま、自転車を押して現れた彼女は、都内の動物病院で獣医師として働く幼なじみだ。ルミは猫の去勢手術や老犬のケアに追われながら、命と向き合う日々を送っていた。ケンイチが帰国して以来、ふたりの時間はまた増えていた。
「熱血じゃないよ。守備は命綱だからな」
ケンイチは笑って汗を拭った。
「それより、ルミ、クマできてんぞ。寝てんのか?」
ルミは自転車を止め、フェンスに寄りかかった。彼女の手には、コンビニの袋と一緒に、白い検査キットが握られていた。ケンイチの目がそれに釘付けになった。
「ケンイチ…これ、陽性だった」
ルミの声は、診察室で飼い主に難しい説明をするときのそれに似ていた。
ケンイチの頭が一瞬止まった。去年の冬、ルミのアパートでスペインの試合の話をしながら、ワインを飲んでいた夜。懐かしさと勢いで、ふたりは一線を越えた。あれ以来、友達と恋人の間を漂っていた。避妊したはずなのに、胸が締め付けられる。
「…俺?」ケンイチの声は低かった。
ルミは目を逸らさず、静かに頷いた。
「うん。ケンイチの」
その日から、ケンイチのコーチングとルミの診察室は、新しい意味を持った。ケンイチは子供たちに守備の読みを教えながら、「父親」という未知の役割に戸惑った。ルミは動物の命を救いながら、腹の中で育つ小さな命に不安を覚えた。
ある夜、ルミの動物病院の待合室で、ふたりは向き合った。診察後の静かな部屋には、消毒液の匂いと、壁に貼られたペットの写真。テーブルの上には、ルミが淹れたインスタントコーヒーが湯気を立てていた。
「ケンイチ、怖いよ。獣医として命を扱ってるけど、母親なんて…私、ちゃんとできるかな」ルミはカップを握り、目を伏せた。
ケンイチはルミの言葉を聞きながら、スペインでの日々を思い出した。試合で相手の猛攻を跳ね返したとき、ルミが国際電話で「ケンイチなら守れるよ」と笑ってくれた。あの声が、今のルミの不安な瞳と重なった。
「ルミ、俺も怖い。ピッチを去って、指導者としてやり直してるけど、父親なんて想像もつかない。でも…」ケンイチはルミの手を握った。「スペインでゴールを守ったみたいに、お前と子供を守る。ふたりなら、どんな攻撃も跳ね返せるだろ」
ルミは驚いたようにケンイチを見上げ、唇を噛んだ。それから、くすっと笑った。
「ケンイチ、ほんと、サッカー馬鹿。でも…なんか、安心するよ」

数ヶ月後、ふたりは市役所で婚姻届を提出した。ケンイチはコーチの給料に加え、夜間の配送バイトを始めた。ルミは産休まで診察を続け、老犬の飼い主から「赤ちゃん、元気でな」と励まされた。結婚式はなかったけど、ルミの病院に通う子供が「コーチの赤ちゃん、ボール蹴れるかな」と笑ってくれた。
新しいアパートに引っ越した夜、ルミが言った。
「ねえ、ケンイチ。名前、考えよう。赤ちゃんの」
ケンイチはルミの膨らんだお腹を見て、スペインのピッチで感じた誇らしさを思い出した。選手としては終わったが、指導者として、父親として、守るべきゴールがあった。ルミの手を握ると、グラウンドの芝の匂いと、動物病院の優しい空気が混ざり合うような、未来の予感がした。
「そうだな。強い名前がいい。ピッチでも、命のそばでも、守れるやつ」ケンイチは笑った。
ルミも笑って、ケンイチの肩に頭を預けた。窓の外では、夏の虫の声が静かに響いていた。