日本を代表する財閥、花桂院家。広大な邸宅には、手入れの行き届いた庭園が広がっていた。そこで働くメイドの一人、山野ツバキは、今日も庭の隅々まで目を配り、落ち葉を掃き集めていた。
花桂院家の一人息子、葉月は、ツバキにとって遠い世界の住人だった。 たまにしか顔を合わせることはなく、見かけても、ガラス越しに見る温室の花のように、美しくもどこか手が届かない存在だった。
ある日、ツバキは屋敷の奥にある、普段は立ち入りを禁じられている温室の掃除を命じられた。足を踏み入れると、そこは外界とは別世界のようだった。色とりどりの珍しい花々が咲き乱れ、甘く濃厚な香りが満ちている。
掃除をしていると、温室の奥から低い声が聞こえた。驚いて振り返ると、そこにいたのは葉月だった。彼は、熱心に一つの鉢植えを見つめている。
「あの…葉月様。」
ツバキが声をかけると、葉月は顔を上げた。整った顔立ちには、いつもどこか憂いを帯びた表情が浮かんでいる。
「ああ、あなたは…山野さん、でしたか。」
葉月は、ツバキの名前を覚えていてくれたことに、彼女は少し驚いた。
「はい。本日は、温室の掃除を仰せつかりました。」
「そうか。ご苦労様。」
葉月はそう言うと、再び鉢植えに目を戻した。それは、鮮やかな赤い椿の鉢だった。しかし、数枚の葉が黄色く変色し、元気を失っている。
ツバキは、庭の手入れで培った知識から、その椿の状態が気になった。
「葉月様、あの椿は…少し根詰まりを起こしているのかもしれません。」
葉月は、興味深そうに顔を上げた。
「根詰まり、ですか?」
「はい。もしよろしければ、わたくしが植え替えをいたします。この時期でしたら、まだ間に合うかと。」
意外な申し出に、葉月は少し考え込んだ後、言った。
「…お願いできますか。実は、この椿は亡くなった母が好きだった花で、どうしても枯らしたくなかった。」
ツバキは、その言葉に胸が締め付けられた。財閥の御曹司である葉月にも、大切な思い出があるのだ。
それから数日、ツバキは葉月の温室に通い、椿の植え替え作業を行った。上質な土を選び、丁寧に根をほぐしていく。普段はほとんど言葉を交わすことのない二人だったが、椿の手入れを通して、少しずつ会話をするようになった。
葉月は、ツバキの植物に関する知識や、真摯に作業に取り組む姿に感心していた。ツバキもまた、普段は見せない葉月の優しい一面や、母親を偲ぶ寂しげな表情に、これまで抱いていた遠い存在という印象とは違う感情を抱き始めていた。
植え替えを終えた椿は、数日後には徐々に元気を取り戻し始めた。新しい葉が芽吹き、赤い花が再び咲き始めたとき、葉月は心からの笑顔でツバキに感謝を告げた。
「山野さん、本当にありがとう。おかげで、母の形見の椿がまた美しい花を咲かせてくれました。」
その笑顔は、温室の陽光のように優しく、ツバキの胸にじんわりと広がった。その瞬間、ツバキは自分の心の中に、これまで感じたことのない温かい感情が芽生えていることに気づいた。それは、尊敬や感謝の気持ちを超えた、淡い恋心だった。
ある日の夕暮れ、手入れを終えたツバキが温室を出ようとした時、葉月は言った。
「山野さん、少し時間がありますか? よろしければ、お茶でも飲みながら話しませんか。」
突然の誘いに戸惑いながらも、ツバキは頷いた。ガラスの温室の中で、二人は初めてゆっくりと言葉を交わした。身分の違いはあれど、植物を愛する心を通して、二人の距離は少しずつ近づいていく。
そして、いつしかツバキの中で募っていった葉月への想いは、抑えきれないほど大きくなっていた。それは、ガラスの温室でひそかに育まれた、禁断の恋の始まりだった。