中山ひとみは窓際の席で、静かにノートにペンを走らせていた。彼女の周りにはいつも柔らかな静けさがあって、クラスメイトは「ひとみって、なんか別世界にいるよね」と囁く。
ひとみはそんな声を気にしない。ただ、胸の奥に小さな秘密を抱えていた。菊地英治への、ほのかな想い。
「よっ、中山! やっと見つけた!」
その静けさを破るように、英治の声が響いた。ひとみはびくっと肩を震わせ、ノートから顔を上げた。英治はいつもの笑顔で、ひとみの机にどんと手を置く。明るくて、誰とでもすぐに打ち解ける英治。クラスの中心にいる彼は、ひとみにとって眩しすぎる存在だった。
「え、うそ、ずっとここにいたよ…?」
ひとみは少し照れながら、小さく笑った。英治の笑顔を見ると、胸がきゅっと締めつけられる。好きだなんて、口に出せない。でも、こうやって話しかけられるだけで、ひとみは幸せだった。
ふたりの関係は、図書委員の仕事で一緒になったことから始まった。ひとみは本が好きで、静かに仕事を進めるタイプ。英治は騒がしいけど、意外と真面目に本の整理を手伝った。
「おれけっこう本読むの嫌いじゃないよ。モモとかはてしない物語なんかハマったね。中山はどんな本が好き?」と笑う英治に、ひとみは初めて心を許した。そこから、英治は何かとひとみに絡むようになった。
放課後に「一緒に帰ろうぜ!」と誘ってきたり、休み時間にひとみの席にやってきて他愛ない話をしたり。
ひとみは嬉しかった。英治の明るさに引っ張られて、普段は閉じている心が少し開く気がした。橋口純子に「菊地くん、ひとみにベッタリだね。多分あれ、ひとみにホの字だよ」と言われたとき、ひとみは「うそ、別に…」と否定したけど、胸のざわざわが止まらなかった。
ひとみは英治のことが好きだ。でも、その「好き」は、静かに見つめるだけでいいものだったが、英治の大きな声や、ぐいぐい来る態度に、ひとみは少しずつ恋の炎を大きく燃やしていった。
その日の放課後、英治はひとみを校舎裏に呼び出した。銀杏の木の下、夕陽が葉を赤く染めている。ひとみは「菊地くん、なんか用…?」と少しドキドキしながらやってきた。英治がこんな風に呼び出すなんて、珍しい。もしかして…なんて、淡い期待が胸をよぎる。
「中山、ちょっと大事な話があんだけど。」
英治はいつもの軽い調子じゃなく、真剣な目でひとみを見た。
「う、うん…なに?」ひとみはスカートの裾をぎゅっと握り、緊張で声が震えた。
英治は一瞬、目を逸らし、深呼吸した。そして、はっきりと言った。
「おれ、中山のことが嫌いだ。」
ひとみの世界が、音を立てて止まった。胸の奥で何かがぽきっと折れる音がした。英治は続ける。
「嫌いって、友達としてとかじゃなくて…全部。ひとみがそばにいると、なんか、落ち着かないんだ。いつも静かにおれのこと見てて、なんか…期待されてるみたいで、息苦しい。おれ、ひとみとこうやって毎日話すの、しんどいんだ。」
ひとみの目は大きく見開かれ、唇が震えた。「…え、うそ? 菊地くん、あたし…そんなつもりじゃ…」
「わかってる。中山は悪くねえよ。」
英治は少し声を柔らかくした。
「でも、おれには合わねえ。ひとみがおれのこと、どう思ってるのか…なんとなく、気づいてた。けど、おれ、そういうの、応えられねえ。ごめん、はっきり言うけど、もう関わりたくない。」
ひとみは下を向いた。目から涙がぽろっと落ち、銀杏の葉に染みた。英治の言葉は鋭いナイフみたいに、ひとみの小さな「好き」を切り裂いた。でも、ひとみは泣き声を上げなかった。ただ、静かにうなずいて、こう言った。
「…わかった。菊地くんがそう思うなら、あたし…もう、話しかけない。ごめんね、迷惑だったんだ。」
「そういう言い方、すんなよ。」
英治は眉を寄せ、ちょっとイラついたように言った。
「中山が悪いわけじゃない。おれが、中山はといるの、楽しくないだけだ。」
ひとみは小さく微笑んだ。悲しい、でもどこか透明な笑顔。
「菊地くん、ほんと、はっきりしてるね。…いいよ。あたし、平気だから。」
彼女はくるっと背を向けて、校舎の方へ歩いていった。英治はその背中を見送りながら、胸のモヤモヤが少し晴れるのを感じた。罪悪感もあった。でも、はっきり言えたことで、なんかスッキリした。
次の日から、ひとみは英治に話しかけなくなった。廊下ですれ違っても、静かに目を伏せる。クラスの女子の間では「ひとみ、なんか元気ないよね」なんて噂が流れたけど、英治には関係なかった。
ひとみは新しいノートを開いた。そこには、英治の名前をそっと書いたページがあった。でも、ひとみはそのページを丁寧に破り、ゴミ箱に捨てた。「これで、いいよね」と呟きながら。
英治はひとみの変化に気づいていた。少し、申し訳ない気持ちもあった。でも、あのとき、はっきり言ったから、ふたりとも前に進めた。それでいい。