中山ひとみの言葉は、まるで冷たい風のように佐竹哲郎の胸を突き刺した。
「あたしのことなんてすぐに忘れて欲しい。」
その声は震えていて、どこか壊れそうな脆さを孕んでいた。哲郎はひとみの瞳を見つめた。そこには、決意と後悔が混ざり合った複雑な光が揺れていた。
「ひとみにとっての俺は友人じゃなくて、転がっている石ころみたいな存在だと言うのか!こんなにも君を愛してるのに!」
哲郎の声は思わず大きくなった。感情が抑えきれず、拳を握りしめる。ひとみは一瞬目を伏せたが、すぐに顔を上げ、静かに言った。
「あなたにはあたしなんかよりステキな奥さんがいるじゃない!」
その言葉に、哲郎の心はさらに乱れた。確かに哲郎は結婚している。哲郎は歯を食いしばり、ひとみに一歩近づいた。
「めぐみのことなんて、今関係ないだろ!俺は昔から君のことが…………」
「やめて!」ひとみが遮った。彼女の声は小さかったが、鋭く響いた。
「あたしは…あたしはもう、誰かを傷つけることしかできない。だから、佐竹くんには幸せになってほしい。あたしなんかに縛られずに。」
哲郎は言葉を失った。ひとみの目には涙が滲んでいたが、彼女はそれを必死にこらえているようだった。哲郎の差し伸べた手は宙を彷徨い、結局力なく下がった。
その夜、哲郎はひとみの自宅を後にして、ひとり街を歩いていた。冷たい夜風が頬を撫で、頭の中はひとみの言葉でいっぱいだった。
「ひとみがいない部屋から見える空は、あの頃よりもなんだか狭く見える。心にぽっかり穴があいてしまったみたいだ。」
彼は詩的な呟きをし、空を見上げた。星一つない曇天が、まるで彼の心を映しているようだった。
「運命が俺の心をひとみに繋ぎ止めてるみたいに思える。結局俺はひとみから離れられないんだ。」
哲郎は立ち止まり、ポケットに手を突っ込んだ。そこには、ひとみがかつてくれた小さなキーホルダーがあった。安っぽいプラスチック製で、二人で訪れた遊園地の思い出が詰まっていた。あの頃のひとみは笑顔で、まるで世界に何の悩みもないかのように振る舞っていたのに。
「どうして…どうしてひとみは自分をそんな風に閉ざすんだ?」
哲郎はキーホルダーを握りしめ、唇を噛んだ。ひとみの言葉が、頭の中で何度も反響する。それはまるで、ひとみ自身が自分を罰しようとしているかのようだった。
翌朝、哲郎はひとみの自宅を再び訪れた。ドアをノックする手は少し震えていた。昨夜の会話がまだ胸に重くのしかかっていて、ひとみをこのまま放っておくことなんてできなかった。
ドアがゆっくり開き、ひとみが出てきた。彼女の目は少し赤く、寝不足のように見えた。
「佐竹くん?どうして…」
「ひとみ、話したい。」
哲郎はまっすぐ彼女を見つめた。
「昨日のこと、全部忘れろなんて言われても無理だ。君がそんな風に自分を責めるの、見ていられない。」
ひとみは目を逸らし、唇を引き結んだ。
「佐竹くん、あたしは…」
「いいから、聞いてくれ。」
哲郎は一歩踏み出し、彼女の肩にそっと手を置いた。
「君がどんな過去を背負ってても、どんな間違いを犯したと思っていても、俺には関係ない。俺にとってのひとみは、大切な存在だ。笑ったり、泣いたり、怒ったりする、あのひとみだ。」
ひとみの目から一筋の涙がこぼれた。彼女は哲郎の手をそっと振りほどき、顔を覆った。
「そんな風に言わないで…あたし、佐竹くんのこと大事だから…だからこそ、離れててほしいの。」
「離れるなんて、できるわけないだろ。」
哲郎の声は低く、しかし力強かった。
「君がどんなに突き放そうとしても、俺はここにいる。ひとみが自分で自分を許せるまで、俺は待つよ。」
ひとみはしばらく黙っていた。部屋の中には静寂が広がり、ただ時計の秒針の音だけが響いていた。やがて、ひとみが小さく頷いた。
「…ありがとう、佐竹くん。でも、時間が必要なの。あたし、自分と向き合うために。」
哲郎は微笑み、そっと彼女の頭に手を置いた。「時間なら、いくらでもある。急がなくていい。俺はいつだって、君の手を握ってるから。」
ひとみは目を閉じ、哲郎の手の温もりを感じた。その瞬間、彼女の心の枷が、ほんの少しだけ軽くなったような気がした。
空はまだ曇っていたが、哲郎の心には小さな希望の光が灯っていた。ひとみが自分を取り戻す日まで、彼は決して手を離さないと誓った。たとえそれがどれだけ長い道のりであっても。