コロナ禍で久しぶりの東京出張。
新しく誕生した都心のビルを見ると、古巣(鹿島建設)で20年30年先を見据えて、開発事業を企画した当時が懐かしい。
グランドデザインを描き、ソフト&ハード両面のインフラ(仕組み)を創るのが、私のライフワークである。
例えば、羽田空港跡地とその周辺の大規模開発も自らプロモートした。
国際線が成田空港に移り、羽田空港は国内線専用だと頑なだった運輸省航空局(飛行場部長)に掛け合い、30歳そこそこの私が、ヒースローやラガーディアの利便性を訴えて、羽田の再国際化を提案。
用地不足や騒音問題を危惧する声には、沖合展開・跡地活用・航空機の静音化を力説した。
空港跡地や空港周辺の大規模土地の利用について、グランドデザインを描き、石原運輸大臣(当時)や東京都や大田区などを何度も口説いて回った。
東京都心の開発事情は都知事選に立候補した21人の中で、私が最も詳しいという自負があった。また首長経験があったのは、増田寛也さんと私だけだった。
北区長当時、呼ばれて市長執務室に行くと、橋下市長から「まだ詳しいことは言えないが、東京で凄い人に会ってきた。その方が中川さんのことをよく知っていて、褒めていた。」と、謎掛けのような話をされたことを思い出した。
それから間もなくして「日本維新の会」が結成され、石原氏と橋下氏が共同代表に就いた。
改めて、石原慎太郎氏のご冥福をお祈りする。