来週末からお盆休みだ~!
って、なーんも城攻めの予定がないんです
お盆って道路も電車も混むからねー。
玄蕃尾城にリベンジしかけに行こうと思ったけど、
どうせなら支城の東野山城と一緒に攻めたい!という考えに至り、
「玄蕃尾は整備されてるけど、東野山は整備されてないんじゃ?」ということで中止。
「資料館だ、資料館!」ってことで安土城考古博物館に行こうかと思ったけど、
「近江八幡城も行ったことないんだよねー。あ。。。近江北之庄城・・・・」 → 中止
(近江北之庄城=近江八幡城の尾根続きの城)
姫路城も考えたけど、置塩城に行きたいので中止。
(置塩城=姫路市にある赤松氏の山城。でっかいスズメバチの巣があるとの話)
ど、どこも行けない~~!。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。
※真夏に山城に行こうという段階で間違っています。
結論 : 大人しく家で資料の整理をしましょう。
彦根城でもらった資料だけでも小冊子にできる量だし、
写真のバックアップとか考えてみれば色々やることあるね~。
でも暑くてやらずに終わりそう
と、とにかく結論が出たところで、H24.3.11(日)の桶狭間レポ行きまーす!
“ザ・今夜はヒストリー”で紹介されたパティスリー ラ・ピュールさん(HPはコチラ )へ寄り道した後
義元さんの首実験をしたという長福寺へ
義元公首実検跡 今川軍先発隊 瀬名氏俊さんの着陣地
そこから数分歩けば古戦場公園
桶狭間古戦場公園にある銅像
「座ってるのに義元さん、信長様と身長同じ!?座高高っ!」
って思ったら、台座の高さが違うじゃないのさ
「太ってて適する馬がいなかった」とか「胴長足短で鐙に足が届かなかったから馬に乗れなかった」
などと言われている義元さんですが、それは後世の創作です。
輿に乗ることを幕府から特別に許可されていたので、
そうやって出陣することも領主たちへの示威行為だったそうです。
信長さんギョロ目で怖ひ・・
公園内には義元さんの首を洗った泉やお墓があります
「~伝えられ」に線がひいてある(^^;)
ここにも義元さんのお墓があります。
公園の向かいにある高徳院の桶狭間古戦場資料館は閉館中です。
鷲津砦
【鷲巣砦案内板 要約】
・大高城の今川勢をけん制するために大高城の北東約700mに築かれた
・大高と鳴海を結ぶ交通路を押さえる位置に当たる
・桶狭間の戦い緒戦で今川の重臣 朝比奈泰能の軍勢によって全滅
(実際は朝比奈泰能の息子 泰朝だとのこと)
松平元康(後の徳川家康)さんが攻め落とした丸根砦
初代 名古屋おもてなし武将隊の桶狭間の戦いの演劇で、
「最初の報告にあったの丸根砦のぅ、あれ攻め落としたの・・・ワシなんじゃ!
すまんのぅ(笑)
さも織田軍のようにしておったが、わし当時、今川軍におってな。
義元さんに、ようやったと褒められたわ」
と家康さん得意な顔をしておられました
主君にあたる人を「義元さん」といったのに対して、
「近所のおっさんか!」と前田利家さんが突っ込んでました(笑)
その元康さんが兵糧を運び入れた大高城
本丸跡 土橋(両脇のモッサリが空堀)
桶狭間の戦いの年表やこの日学んだことを記事にしましたが、
カナリ重い内容になったので、やめます
これでようやく位置関係や状況がつかめてきたので、もう一度踏査したいです
あと“蓬左文庫”にある“桶狭間合戦之図”をじっくり見て(蓬左文庫 のHP)
「“漆山”が本陣ではないか」というのを確認したいところです{現代地図も持ってかんとね
“戦国の合戦”という展示も気になるところです。
もっとも私はこのときはソフトドリンクを頼んでましたが(^^;)
会場は無双シリーズとコラボしてたはなの舞さん(※現在はコラボしていません)
“家康の最後の晩餐(鯛のてんぷら)”など面白いメニューがたくさんありました
そして始まるサイガさんと幸村!さんのコアな桶狭間の戦いトーク。
レベル高すぎて、女性3人はただただ相槌を討つことしかできませんでした
(メモしたくてもボールペンのインクがなくてメモれなかったのよ)
「今川氏はなぜ津島を押さえなかったんだろ」から始まる物流や街道の話だったり、
「義元さんはなぜ出てきちゃったんだろ」から始まる国人(土豪?)と支配者の話とか。
興味ある方は幸村!さんが主宰する城人のブログをどうぞ(桶狭間踏査会 3.11 ④ )
今回の講師サイガさんのブログはコチラ(サイガのブログ・人間万事塞翁ヶ馬
)
これにて桶狭間踏査会レポ完結です