【旅行】たみトラベル Vol.4 謎を呼ぶ古代のミステリー。ペルーの「ナスカの地上絵」を散策!② | たみ散歩~いつでもどこでも働ける、フリーランスという生き方~

【旅行】たみトラベル Vol.4 謎を呼ぶ古代のミステリー。ペルーの「ナスカの地上絵」を散策!②

プログラミング情報まとめサイト「プロマリ」を更新しました。新しい情報収集をしたい皆様、プログラミング学習者、エンジニアの方ご参考にされて下さい。

 

引き続き、謎を呼ぶペルー古代の「ナスカの地上絵」のバーチャル旅行を楽しみたいと思います(前回の記事はこちら

 

オアシスとして知られる「ワカチナ(Huacachina)」でバケーションを楽しんだ後は、ナスカの地上絵に行く前にペルー南部・海岸砂漠地域にある「迷子たちの渓谷(Canon de los Perdidos)」に立ち寄りましょう。

出典:2 enRuta


この渓谷は、イカの街から70キロ、サンティアゴ地区の南西にあるモンテグランデに位置していて、深さ200メートル、全長5メートルもの浸食された美しい谷が続いています。名前の由来は、この渓谷にたどり着く為に迷子になった人たちにちなんでいるとのことです。イカ川に流れ込むセコ川の浸食によって形成された渓谷で、2011年に発見されました。渓谷の真ん中にはラグーンがあります。この渓谷にはハゲタカが頻繁に出没するそうです。


出典:Toto Nuñez

いよいよ「ナスカ(Nasca)」に到着致しました。地上絵で有名なナスカは、ペルーの南部砂漠地帯イカ県にある人口3万人程の町です。紀元400年頃に潰えたナスカ文明の首都が築かれていたあたりに建てられた古い町で、ナスカはペルーの首都、リマから南に444km離れています。長距離バスで6~8時間(Cruz del SurとOltursaのバスがイカとパラカスを経由して運行)といったところです。

 

ナスカはナスカ文化が栄えた場所としても知られ、文化圏としてはピスコからアレキパにいたる範囲だったと推測されます。ナスカは海岸部からも遠く、経済活動としては農業が主だったと考えられています。しかし乾燥しきったこの地では、近くを流れる川も年40日のみ水をたたえるだけ、また地下水脈も深さ4~5mの場所にあり、潅漑に利用するのは難しかったといわれています。それを解決するのが、遺跡として発見されている用水路です。常に水を得るために作られた、技術的にも高い建造物と言われています。これによりナスカでは、トウモロコシ、豆、かぼちゃなどの野菜を栽培することが出来たようです。

 

ナスカの地上絵を見る前に「アントニーニ考古学博物館(Museo Arqueológico Antonini)」へ行ってみます。


出典:Aníbal Clemente

アントニーニ考古学博物館は、イタリアの考古学者ジュゼッペ・オレフィチ博士(Giuseppe Orefici)が担当するCentro Italiano Studi e Ricerche Archeologiche Precolombiane (CISRAP)によって運営されており、1982年以降、ペルーのナスカにあるナスカ時代の都市遺跡「カワチ(Cahuachi)」の儀式中心地やナスカ川渓谷の他の重要な遺跡で行われてきた「ナスカ・プロジェクト」による考古学調査の成果をもとに、ナスカ地域の考古学的遺産を保存・研究しています。この博物館にはカワチ神殿で見つかったナスカの人々の頭部が展示されています。ジュゼッペ・オレフィチ博士は、「頭というものが非常に重要なものと考えられていた。当時のナスカの人々にとって最も重要なものを神に捧げるという意味で頭が使われていた」と話しています。特に若い男性の首が生贄として捧げられたと考えられています。

ナスカのことを語りだすと、それこそブログで紹介できないくらいボリュームがありますので、まずはセスナによる遊覧飛行でナスカの地上絵を見たいと思います。町から10分ほどにあるバスターミナルほどの小さなナスカ空港からセスナでフライト致します。


出典:Viator Travel

ナスカの地上絵が見えてきました。ナスカの地上絵は長い間知られずにいましたが、1926年に、この地域の上空を飛んだパイロットによって発見されました。1941年にアメリカ、ロングアイランド大学の歴史学者ポール・コソックが古代の灌漑システムを調査するため、この地を訪れ、地上絵と出会いました。コソックが帰国する際、彼の研究を引きついだのが、当時リマの国立博物館で働いていたマリア・ライヘでした。マリア・ライヘは1903年、ドイツのドレスデンに生まれました。大学では数学を学び、27歳のときにペルーにやってきました。家庭教師などで生活費を稼ぎ、1937年にリマの国立博物館で働きはじめました。コソックが調査に来たとき、彼女はコソックの現地助手をつとめたのです。1946年、マリアは地上絵の調査を開始し、以後、地上絵の研究と保存に一生をささげました。マリアの研究とその著書“Mystery on the desert”によって、ナスカの地上絵は世界に知られることになりました。


出典:Visit Peru

ナスカの地上絵の多くは、紀元前200年頃~西暦700年頃のナスカ時代に描かれたと考えられています。地上絵は500㎢もの広大な範囲に点在しています。数は数千とも言われ、その全貌は未だに把握されていません。中でも、サルの絵は代表的な地上絵の一つで、横83メートル、縦70メートルです。ナスカ時代の初め頃に描かれました。サルのしっぽには豊かさを表す重要な表現があります。当時、ナスカの人たちは水が何よりも大切な乾燥した地域に暮らしていました。

 

 

多くの象徴的な絵柄のうち、最も多くみられるのはハチドリです。ハチドリはしばしば花と一緒に描かれ、花の蜜を吸っています。ハチドリは非常に象徴的な存在です。なぜならハチドリは危険にさらされると心拍数が落ちて仮死状態となり、その後再び元の活動に戻ることができるからです。ある意味ハチドリはナスカの人々にとって再生のシンボルのような存在となったのではないかとイタリアの考古学者ジュゼッペ・オレフィチ博士は考えています。


出典:Discovery UK

なぜ古代ナスカ人は上空からしか全体像を把握できないような巨大な絵を描いたのでしょうか。読者の皆様はなぜだと思いますか。これらの地上絵は空の上から眺めるためのものであり、人々が自分の目で見る必要はありませんでした。神々への儀式であり捧げものだったからです。神ともいうべき擬人化された神話的存在は土器や織物に度々描かれており、常に空を飛んでいる姿をしています。考古学者ジョニー・イスラはハチドリやサル、クモなどの絵を地上から判断するのは困難、重要なのは、人間に見せることではなく高みの存在に見てもらうことだったと考えています。


出典:Travel And Discover

紀元前200年~紀元650年頃にかけ栄えたナスカ文化の英知を今に語り継ぐ証左は、なにも地上絵だけではありません。ナスカの前身とされるパラカス期から受け継がれた色鮮やかな織物や土器もまた、5000年におよぶアンデス文明で傑出した芸術性を誇っています。パラカスはナスカの地上絵によく似た線ですが、実際にはもっと古いものです。チンチャの地上絵がナスカより前に存在したパラカスの文化に属することは明白です。ナスカの地上絵に代表される砂漠に線を引くというアイディアはパラカス時代に生まれたと考古学者チャールズ・スタニッシュは話します。


ナスカの地上絵を解くこのビデオシリーズは面白いのでご紹介します。日本語なので分かりやすいです。


出典;HISTORY公式

 

近年、ドローンを手にしたペルーの考古学者たちが、ナスカのすぐ隣のパルパで、地上からは見えない、かすかな線で描かれた地上絵を新たに50点以上発見しました。さらに、地元の人々だけに知られていた地上絵をドローンで初めて調査し、これまでにない詳細な地図を作ったんです。新たに発見された地上絵のなかには、この地域で西暦200年~700年まで栄えたナスカ文化のものもあったが、その多くはもっと古く、紀元前500年~西暦200年のパラカス文化やトパラ文化のものと考えられています。


出典;HISTORY公式

最初の地上絵の描き手パラカスの人々については、フランスとペルーの考古学者による合同の調査が行われています。有名なナスカの地上絵は、大半が上空からしか見えませんが、それより古いパラカスの地上絵は山腹に描かれていて、ふもとの村から見ることができます。二つの文化は、芸術的なテーマも違っているんです。ナスカの地上絵の多くが直線や幾何学図形であるのに対し、新たに発見されたパラカスの地上絵の多くは人間を描いているのです。地上に絵を描くために、当時の人々はナスカ台地の特徴をうまく利用しました。

 

ではどうやって何十メートルにも及ぶ大きな絵を描いたのでしょうか。これは今ではほぼ解明されています。まず元となる原図を描き、それを中心点から杭とヒモを使って拡大して行くという方法です。これは難しいようで実は簡単で、やり方さえ知っていれば小学生でもできることを、九州産業大学が日本の小学校で証明しています。


出典;HISTORY公式
 

紀元前200年以降、ナスカを中心とする文化が発展し、次第にパラカスの文化を吸収していきました。その後、ナスカもまた衰退の道を辿り始めました。この地域で水が枯渇し始めたのです。ナスカはゆっくりと進む砂漠化に直面しました。ナスカの時代には、パラカスの時代より多くの地上絵が作られました。砂漠化の進行によって水を祈願する儀式は増加したと考えられます。


出典;HISTORY公式

水を得ることは権力を得ることでした。カワチの神官たちは川から水を引いた肥沃な帯状の土地に居を構えていました。しかし、気候変動は否応なく進み、干ばつや洪水が度々起こるようになるとナスカの人々の信仰は揺らぎました。捧げものをしても成果が得られず共同体は危機に瀕し、信仰の中心地カワチは衰退し始めました。


ちょっとグダグダになっちゃいましたが、お料理コーナーへと参りましょう。本日は「タクタク(Tacu Tacu)」を。


出典:Llama Kitchen

ペルーの言葉で「混ぜまぜ」という意味のタクタク。ご飯に魚のソースで出来た豆の煮込みを混ぜて焼いたもので、上には目玉焼きがのっています。付け合わせに肉や魚介が付いていたり、ソースをかけたりと、食べ方のバリエーションが豊富です。食べやすく優しい味なので、自分でも試しに作ってみたくなるペルー料理ですね。

 

ちなみにペルーのお米はインディカ米で、長粒米。油、塩、にんにくと一緒に炊く家庭と日本と同じように水だけで炊く家庭があります。古くは中国人がペルーに入植してアジアの米文化が生まれ、さらに続けて日本人が入植して米の改良を重ね、今の食文化があるといといいます。


ナスカの地上絵のミステリーを探ったところでナスカの地上絵編はお終いです。次回は空中都市マチュピチュをご紹介します。お次は「【旅行】たみトラベル Vol.5 ペルーの世界遺産である空中都市マチュピチュを散策!①」をお届けしますのでお楽しみに!


written by たみと