「霊界物語」筆録の思い出 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “私はこの機会において御口述の有様をちょっと記させて頂きたいと思います。

 聖師様は、まずお床の上、あるいは寝台に横臥されます。お莨(タバコ)のセットと、お茶盆が前に置かれてあるだけで、何等の参考書もノートも用意されてはおりません。かくてお莨を一服か二服か召し上がれる中(うち)に、お口がほどけて、

 「大国常立の尊の御力によりて天地は茲(ここ)に剖判(ぼうはん)し、太陽、太陰、大地の分担神が定まった」

という風に口をついて出ずるまま述べ立てらるる。筆録者は一言も漏らさじと筆を揮います。一日口述の量は二百字詰め原稿用紙に四百頁ないし五百頁であります。一冊が二日で出来上がった時は一日六百頁以上口述されました。もっとも、一罫(けい)をおきに書いているのですから実数は二百頁から二百五十頁であります。三日間に三百五、六十頁の霊界物語が一冊完成する訳です。

 さて御口述の調子は早い時になると素晴らしく早く、速口の人が話しする程度でして、速記ならでは到底取れないような時もありますが、そういう時はまるで夢中で筆を飛ばします。それでも叶わぬ位早くなって五行、六行位も遅れる時があります。他の筆録者の体験はどうか知りませんが、かかる時私は思わず心の中で『神様助けて下さい』と叫びます。そうすると、原稿用紙の上にちょうどダイヤモンドと同じ光をもった小さな玉がパッパッと出て来ます。自分ではほとんど何を書いたか覚えぬような時でもちゃんと間違わずに書けて居るのに自分ながら驚いたことが幾度あるか分かりません。一番口の速いのは高姫さんで、豆がはじけるようにのべ立てられるのに反して、初稚姫(はつわかひめ)様などはおちついて淑(しと)やかなゆっくりしたお言葉です。だから初稚姫様が物語中に出てこられると、筆録者はホッと一息つきます。

 かくて書き上げたものはすぐ他の人が読みます。それを聞いておられて、違ったところがあれば、そこは違っておると仮名一字の間違いでも厳重に訂正されます。ですから筆録者の方では他人が読んで分かる程度に書かねばならぬのですからかなり苦心致します。だけれども調子は遅いよりむしろ早い方が書きよいので、何か外のことを考える余裕があるとかえって後(おく)れるので、考える余地がない位の速さで、ハーモニーがよく取れた時が一番よいのです。漢字交じり文で書くのですが、全く忘れているような文字でもその時は押し出すように出てきます。かくて口述せらるる方も筆録者も全く忘我の境地に置かれております。

 ツルツルと水の流るるが如くに出て来るのですが、途中で分からないことなどがあっても問いかえす訳にはゆかないので、問いかえすその瞬間ハタリと御口述は止まってしまいます。そしてしばらくは出なくなってしまいますので、どんなにわからぬことがあっても問いかえす訳にはいかず、済んでしまってから、あの処は分かりませんでしたから、もう一度言って頂きたいとお願いすると、王仁(わし)が言うておるのではない神様が申さるるのである、後から聞いても分かるものか、と申される。その上一言でも書き漏らすと取りかえしがつかぬ、神には二言がないからと申される。かくなると人間業では到底できないので、ひたすら神様にお願いしてご神助を仰ぐ外ないのでありました。”

 

 “言いおきにも書きおきにもないことを示すのであると御筆先にありますが、全く善悪にかかわらず神界、霊界の有様を暴露せらるるのですから、兇党界には大恐慌をおこしたと見えて妨害につぐ妨害があって、そのたび聖師様はもちろん筆録者一同もずいぶんひどい目にあったことも一切ならずでして、あるとき物語に言霊別(ことたまわけ)の神様が毒殺されんとする場面が出て来ましたが、その御口述のあった日、聖師様初め十六人の人が吐いたり下ろしたりして大騒ぎになったことがありました。

 また私は松雲閣の記録場に入って行くことがとても苦しく、門を入ることは槍襖(やりぶすま)の中を歩むような心地で、屠所の羊の歩を運んだことが幾月日だか分からないのでした。某霊覚者が同じ経験を語って、霊眼で見れば正に槍の襖であると申しておりました。悪霊は自分の素性を霊界物語によって暴露せらるるを非常におそれて極力妨害したのであると承りました。筆録者すらかくの如しですから、聖師様のおなやみは又格別で、筆紙に尽せぬ種々の出来事がありました。皆人間を使っての妨害でありまして、使われて居る本人はもちろんそれと自覚しては居りませんでした。”

 

(「神の國」昭和8年12月号 加藤明子『をりをり物語』より)

*出口聖師と東雲社員(右から二人目が加藤明子さん)

 

*出口ナオ開祖は、お筆先を書かれる時、『紙の上にはいつも金色の文字があらわれ、その通りに運筆するので、灯を要しなかった』と語られていますが、霊界物語の筆録でも同じようなことが起こったようです。

 

・「霊界物語」を口述中の出口聖師

 

 “また聖師は口述中、真夏であっても、寒い場面の話になると、部屋にコタツを入れ、火鉢を入れて『おい、寒いから布団をかけてくれ』とおっしゃいます。また反対に寒い季節でも、暑い国の場面になると『あつい暑い』と言って汗をタラタラ流され、『火鉢やコタツをのけろ』とおっしゃるわけです。聖師は精霊がそういう場所に行っておられるので暑くてたまらんのでしょうが、生身の私たちは寒くてたまらんわけです。こんなことはよくありました。

 口述中の聖師は時間、空間を超越しておられますから、朝から夕方までぶっ続けで口述ということがあります。私たち筆録の者は腹がへってたまりません。ついにガマンしきれず、もうぼつぼつ食事にしましょうと申し上げると、『なにをいうか、こんなにおいしい食物や果物がでてくるのだから、お前たちも腹がいっぱいになるだろう』というわけです。聖師は想念の世界を縦横無尽に駆けまわられ、おいしい食物をいただかれるのでしょうが、私たちはたまりません。こんなこともよくありました。

 それから最奥天国の場面になると、『神さんの光は大きいやろう』とおっしゃいます。私にはサッパリわかりません。『お前にはあれが見えんか、お前は天国にはまだ入れんなァ、もっとやちまたで修行せんといかんな』とおっしゃる。私はヤンチャですから、私はやちまたで結構です、とへらず口をたたいたものでした。また宣伝使がたくさん出てくる場面では、「たくさんの宣伝使がおるが、お前が一番かわいそうじゃのう」なんでですかと聞くと、『一番最後まで残って地獄まで行っていなければならんからだ』とおっしゃるんですね。そして『神様の使命を帯びたら、地獄を天国にしなくてはならん。お前が適任じゃ』とおっしゃる。”

 

(「おほもと」昭和52年2月号 大国美都雄『聖師と霊界物語』より)

 

・神人感応

 

 “私は、朝から晩まで物語を読んで、一体何を得たんやろうと考えてみたことがあった。当時照明館の御神前で、大きな声で一生懸命拝読していた。聖師さまが来ちゃったらしいが、気がつかなかった、面白くて……。あとで聖師さまが、

「大国、あの状態になったら神さまと相応するわい。そこまでいったらわからんでもいいわい。天国はその状態だ。その状態を体験し、それをつみ重ねていったら最高に行けるぞ。神の意志想念と人間のそれが一致するという状態になり、人間の世界を忘れてしまう。そこにはじめて救いがある。それを一生懸命やったらいいぞ」

 と言われた。”

 

      (「愛善苑」昭和46年8月号 大国以都雄『聖師の血と肉霊界物語』より)

 

 

・言霊神劇 (霊感者には音読している場面が映像で見える)

 

 “霊界物語はなるべく声を出して読んだ方がよい。霊眼の開けた人には、物語を声を出して読んでいると、多くの霊が聞きに集まってくるのが見えるそうである。また物語を読んでいる人の口から、声に応じて、強い霊の光が噴霧器のように飛び出しているのが見えるそうである。とにかく、声を出して読むと、目と口と耳に、文字や言葉の刺激が加わるために、記憶が一そうはっきりすることは確かである。また、皮膚全体からその雰囲気を感じることができるのである。

 周囲の状況から、声を出して読むことができない人は、声を出さないで唇を動かすようにしてもよい。要するに、文字だけを見て速く読んでしまわないで、普通に我々が話をする位の速度で、ゆっくり読むのである。読むというよりも、その人物の気持ちになりきって、話をするという気持ちである。すなわち、はじめは努力が必要であるが、慣れると、読む言葉に応じてテレビのように、脳裡に物語の劇が上演されるようになるのである。これを「読む劇」というのである。物語の場合には「言霊劇」と言った方がよいかもしれない。この「言霊劇」がちょっとでも見えるようになると、もう物語が面白くてしかたがなくなる。俗悪な世間の小説やテレビ小説などは、読んだり見たりすることが馬鹿らしくなるのである。この「言霊劇」を見ていると、心が朗らかに温められ、清められて、ゆったりとしいた気分にひたることができるのである。そして、物語の拝読が無常の楽しみになるのである。”

 

(「霊界物語の栞」第2号 浅井昇『拝読は読む劇』より)