大本事件と二・二六事件 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “筆者が警察の独房の中にいた昭和十一年二月の終わり、隣の独房に深町霊陽がいた。この人は大本でも問題の人であって、第一次大本事件の時は綾部町に居住して、大本の神具店を開いており、大本青年隊長でもあった。

 第一次事件のとき、大本は金(きん)を貯蔵しているという噂で、警察はその金はどこに隠しているのだと捜し、各家々を家宅捜索して深町の家に来た時、「隠している金ならここにあるぞ」と大声で叫び、尻を捲くって官憲に見せたということ等、話題になったことがある。その深町が昭和神聖会を創立した時から関係していたために、拘禁されたのである。

 この深町は何回もこうした拘禁を受けたことのある人で、監視の警官たちとも心安く話をする。まことに融通自在の性格の人である。その深町と筆者は古くから友人のように交際していた。その深町が京都の中立売警察署の牢に隣り合わせに収容されたのであるから面白い。深町はすぐに監視の巡査とも仲がよくなっていた。そのため、初めて留置場の空気に接した筆者には、深町はまことに心強い頼りになる人であった。

 手で暗号のようなことをしてみせたり、目でいろいろの意味を知らせたりする。出口聖師が中立売署の房に入って来られた時も、深町が一番先に筆者に知らせて来た。その後も、誰がはいって来た、誰は他の警察の房へ転房したとか、今日は誰々が調べ室に引き出されたと話してくれた。

 

 その深町が突然、筆者の房をのぞき込むようにして、小さい声で、「東京で大事件が起きた。重臣も殺され、警視庁は占領されて大騒ぎとなった。青年将校が蹶起した。革命となった。しかも、これは大本との関係で起きたといって、ここの監房を武装警官がとり巻いて、全部銃殺するという模様だ、覚悟しなくてはいけないよ」と小声で教えてくれた。

 おかしいことだと思っていると、なるほど武装した監視の姿が房をとり巻いている。これは大変だと思い、隣の房にいる高木鉄男氏へ伝えようとしたが、既にその時に、各房の前に武装の監守が立っているようになった。

 武装監視は厳重であった。何の動きもなかったが、夜になると、今迄の電燈を更に小さいものと取り替え、各房は暗くて、人の姿すら見ることが出来ぬまでになった。これは容易ならぬ非常事態で、深町が耳打ちした如く銃殺の模様だと思い、筆者も覚悟した。

 しかし、こうした非常事態は十日ばかりで終わった。すると深町がソッと寄って来て、「若手将校と大本とは手をつないでいたが、革命の失敗で大本はいよいよ苦しいことになり、大本のものだけを断頭台に乗せるという噂がある。大国君、これが最後の別れとなるのかもしれぬ」と三度耳打ちしたが、その後いつの間にか彼の姿を見ることができなくなった。あるいは他の警察の房に転送されたのかもしれないと思っていた。

 

 このように、確かに十日ばかりは非常警戒で暗い地獄の生活で、ピストルを帯びている監守たちも、きびしい顔つきをし、一言も物を言わせなかった。

 このように二・二六事件を、それとなく知った。とうとうやったのか、と筆者は青年将校たちの身の安全を房の中で祈った。

 この青年将校たちの動きに関しては、筆者はずっと以前から知っていた。東京の四谷の料亭で、ともに食事をし、いろいろ時局のことについて話したことがあり、真実の日本の姿に立替え立直しをしないと官民共に滅ぶことになりかねないと、話し合ったことは、二度や三度ではない。

 そのころの青年将校の動きは、実に真剣そのもので、声涙共にくだるていの態度であった。そして、大本の立替え立直しの予言は今日の状態を指された神様の言葉であると、彼等青年将校は確信しているようであった。

 筆者は、大本の立替え立直しの予言は、こうした形で進行するのかもしれないと思い大いに語りあったが、しかし、それはいつ、いかなる形で、どうするかということは話をしたことはなかった。

 大本と青年将校、軍部の人々との関連は、昭和六年九月の満洲事件後、急速につながりが起き、密接な動きになっていた。各地の憲兵隊は、大本青年の運動には出来る限りの援助をし、大本の昭和青年、昭和坤生会は愛国婦人会の動きよりも、在郷軍人の動きよりも速やかに、陸海軍の後援的運動に呼応して手足の如く動いていた時であるから、官憲は、大本の昭和神聖会、坤生会とは深い関係にあるものと思い、非常に疑惑の目をもって厳重に監視していた時である。従って青年将校の動きと大本の青年会、神聖会とは、何か暗黙の裡に密契のあるものと疑心暗鬼であった。

 特に不穏な青年将校と大本の青年会とは、密接につながり、革命の急先鋒になるかもしれないと注目し、またそれがために出口聖師の動向や、大本青年の言動は、洩らさず内偵され、それぞれの期間で検討されていた。”

 

(「いづとみづ」№72 大国美都雄『第二次大本事件の原因は何か(2)』より)

 

 “二・二六事件、大本事件と、何かその間に黙契があるごとく考えるものもあるが、それは一応研究すべき問題であると私は提起しておく。青年将校たちの不穏な言行を封ずるために大本を弾圧し、未然に騒動を抑えるため、大本を解散させておくことが、重臣をはじめ警務当局者の方針であったかもしれない。したがって、大本検挙の材料を作るため、大津市にアジトを置き、神書類を研究し、宗教法人の許可を得ていない私的な宗教として大本を潰滅し、立替え立直しなどという怪しい言葉を散布する革命的色彩の強い宗教団体を日本より抹消し、社会不安を一掃する方針のもとに、大本を地上から抹殺すべく特高の手で検挙したのである。ところが、この大本に刺激された若手将校たちは、決起して二・二六事件となった。したがって、大本という存在は、社会や国家を対象として立替え立て直しを叫び混乱を引き起こす大陰謀の集団であると持っていかねばならなかった。

 二・二六事件となった時、まだ京都警察に留置していた大本の被告を奪還せよという声が起き、そのために大本の被告たちを、イザとなれば射殺する態勢を十日以上は続けたことなど、一連の動きが無言のうちに行なわれたという。まだ大本の被告たちが拘置所にいる時、十六師団の将兵が奪いに来るなどと噂も立ち、その時も警察の房内は非常警戒の形となっている。さらには洛北青年同盟の愛国団体が蹶起するというように、武装看守が警戒している。

 こうした噂が真実の如く流布されるため、警察部は、早く全被告の罪状を作り上げなくてはならぬとあせり、あらゆる暴行をもって被告を苦しめた。聖師の長髪を手にかけて引きずり廻したということは、留置場の者は誰も知っていることであり、日出麿氏は頭を叩きつけられ、その他ほとんどの人が身体の一部に傷害を受けて、刑務所に収容され、手当てを受けている。

 このように、暴行で犯罪を作成し、これを裁判にかけた。しかし第一審では被告の答弁は一切用いられず、警察の取調べ調書を基本として判決を言い渡した。控訴院では、犯罪内容は当局で作成されたものであるということが判り、本来ここで全被告を即時釈放すべきであったが、日本歴史にもない大事件として新聞雑誌に報道せしめた関係上、あれは作られたものであるということもできず、政府の面目もあって、ニ、三人ずつ被告を出所せしめつつ時を待った。大阪の刑務所へ聖師、二代、宇知麿氏を留置したまま、時の経過を待っていたのが真相である。このようにまでして当局の顔を立てなくてはならぬほど、この事件はあまりにも大芝居じみたものであった。”

 

(「いづとみづ」№74 大国美都雄『第二次大本事件の原因は何か(4)』より)

 

*明日は二・二六事件が起こった日ですが、実は第二次大本事件が二・二六事件の原因の一つでもあったことはあまり知られていません。二・二六事件を扱ったドラマや映画でも、このことに触れたものはないように思います。当時の皇道大本は軍内に信徒が多く、本文中にあるように、特に日本最大の右翼団体でもあった昭和神聖会の幹部たちは青年将校たちと深く交流していました。故に私は、二・二六事件とは、青年将校たちが大本に触発されて起した彼らなりの「立替え立て直し」だったのではないかと思っています。しかし、皇道大本の主張は、あくまでも平和主義であって、武力革命を肯定するものではなく、彼らは北一輝などの過激な思想の方に、より影響されてしまったのかもしれません(北一輝が事件に直接関与したわけではないようですが)。

 

*ちなみに、三島由紀夫先生の短編「英霊の声」は、この二・二六事件の青年将校たちの霊が語るという内容になっています。帰神法が行われる場面がありますが、取材のために、三島先生は山口県に本部のある神道天行居の友清歓真氏を訪ねています。この友清氏はかつて皇道大本の信徒で、彼の鎮魂帰神術は大本での幽斎修行によって修得したものでした。

 

*あと、私は第二次大本事件は、出口聖師によって仕組まれた「立替え」のための一つの「型」であった、つまり聖師が「大本がつぶれれば日本がつぶれる」と言われていたように、日本の雛形である大本教団をあえて弾圧させることによって大日本帝国を崩壊させようとした、古い日本を解体して真の日本に生まれ変わらせようとしたのだと思っています。そして聖師は、日本が『われよし』を改めない限り、何度も苦難や試練を受けることになるとも言われました。ということは、その「型」の作用は、もしかしたら今も続いているのかもしれません。出口聖師が裁判のときに言われたように、ミロクの世は徐々に到来するものであって、何か一つの大きな出来事を境に、この世界がいきなりミロクの世へと突入するわけではありません。

 

 “覚也はこの日、まず今の戦争のこと、そして将来の日本についてうかがっている。

 「日本は負けるのですか」

 盟友の大本信者からそれをきいて以来、もっとも気にかかっていた心配事だ。

 聖師はその問いに首肯される。

 当時、聖師はアメリカ軍の動向を逐一察知され、近辺の者に予告され、また陰に陽にアメリカの戦勝をほのめかされていたという。その頃としてはその発言は危険きわまりない。

 覚也はさらにこんなことを尋ねている。

 「日本はなぜ戦争を起こしたのですか」

 これに対して聖師は、

 「いまの日本のえらい人たちは、『われよし』で自分たちが一番正しく、えらいと思っている。それで戦争が起きるのだ。日本ばかりではなくアメリカもソ連も他の国の人々も、この『われよし』を改めないかぎり戦争はあとをたたない。」

と答えられた。覚也はさらに、戦争に敗けたあとの日本はどうなりますか、とも問うてみる。

 「いま、戦争を起こしているのは、ほんとうの日本ではない。また、ほんとうのアメリカでもない。日本に巣くう、もっとも悪い日本の一部と、アメリカのそれが戦っている。そして『われよし』主義の日本が敗ける。こんなめでたいことはない。早く敗けてほんとうの日本に生まれ変わることだ」

というのが聖師の答えであった。この時代に日本が敗けるというだけでなく、それがめでたいとは実に剣呑な放言で、警官がきいていようものなら、またまた監獄へ逆もどりだ。それでも聖師はおかまいなしに談論風発をつづけられ、

 「ほんとうの日本は、世界人類愛善の旗のもとに、世界平和を打ち建てる宿命を神からおわされているのです。好むと好まざるを問わず、自然にそういう使命の道を歩かざるを得ない」

 なるほど神国日本という真の意味はそういうものなのかと覚也は感じた。”

 

(島本邦彦「大地の叫び 島本覚也の生涯」(酵素の世界社)より)