皇国日本の国体とは 「天祥地瑞」 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

*昭和8年12月23日に口述された、「霊界物語」第78巻『天祥地瑞』巳の巻、第18章「神嘉言(かむよごと)」〔1974〕の最後には、

 

 本章を口述し初むる折しも

 皇太子殿下御誕生遊ばさる

 との号外来り、我国民の魂を蘇らせ歓喜せしめたるぞ畏けれ。

 

以上の文章が記されています。この「天祥地瑞」は「霊界物語」の奥義篇であり、「至高の聖典」とされるものですが、このように「皇太子殿下(今の上皇様)御誕生」のニュースがわざわざ記されているとは(しかも大文字で)、やはり出口王仁三郎聖師にとって、また大本神業にとって、皇室がいかに重要な意味を持っていたかが窺えます。もちろん、「霊界物語」の断定的な解釈は誰にも許されないとされており、これは私自身の個人的な思いにすぎません。ただ不可解なことに、昭和35年に刊行された「天祥地瑞」復刻版では、この三行は削除されてしまっております(八幡書店版、みいづ舎版には掲載)。

 

 さらに、この78巻の「序文」には、以下のように記されていたのですが、

 

「序文」

 皇国日本の国体は、万世一系の天皇之を統治し給ふ神聖無比の神国である。畏くも天皇は神聖不可犯にましまして天立君主であり、唯一絶対にして宇宙間何物も対立するものがなく、憲法は君主立憲制である。

 日本の天皇は宇宙絶対なるが故に、時到らば必ず宇宙を統一遊ばす御方である。国防などと謂ふ消極的なものでなく、所謂破邪顕正の絶対的境地に御立ちにならなければならぬ。如何なる強国でも、横暴なれば押へ付けねばならぬ、如何なる小弱国と雖も、正義であるなれば援けねばならぬ。全く造化の御心持で、宇宙を生成化育する事が日本天皇の御心持であらせられる。故に皇道は君と臣下と対立するものでなく、絶対唯一のものである。忠孝と謂つても、日本の忠孝は絶対の大忠大孝でなくてはならぬ。

 吾人は斯かる尊き天津日嗣天皇の君臨あらせられし日本に、安逸なる生を送り得る事の大恩を感謝せなくてはならぬのである。そして皇道の大本源に溯り、その真相を闡明し奉るは吾等臣民の一大義務である。

 この物語も、余り広範囲に亘るが故に、容易に諒解し難き憾みはあれども、日本人にして皇道を知らざる人士の多きは、非常時国家の今日忌々しき大事なれば、神務の閑を割きて、茲に本書を著述し、以て大本信徒をして宇宙の大本、皇道の本源を諒解せしむべく、天神地祇に祈願を怠らず、本書を発行する所以である。

昭和八年十二月二十日 旧十一月四日

 

 昭和35年の復刻版ではこの「序文」も全文が削除されています

 

 また、「霊界物語」第80巻『天祥地瑞』未の巻「総説 言霊の活用」の原文は、以下の通りなのですが、

 

 “皇道に顕れたる神といふ意義に就ては四種の大区別がある。曰く幽の幽、曰く幽の顕、曰く顕の幽、曰く顕の顕、之なり。而して幽の幽神は天之峰火夫(あまのみねひを)の神以下皇典所載の天之御中主神及び別天神(ことあまつかみ)迄の称号にして、幽の顕なる神は天照大神、神素盞嗚尊等の神位に坐します神霊を称するなり。天照大神、素盞嗚尊等は、幽の幽神の御水火(みいき)より出生されたる体神(現体)なるが故にして、尊貴極まりなき神格なり。

 次に顕の幽なる神は大己貴命(おほなむちのみこと)、少彦名命等の称号にして、一旦地上の現界にその尊姿を顕現して顕実界を主宰し給ひたるが、定命尽きて神界に復活され幽体となられたる意義の称号にして、菅公、楠公、豊公、其他の現人没後の神霊の称号なり。次に顕の顕なる神は則ち畏くも万世一系の皇統を垂れさせ給ひて、世界に君臨し給ふ現人神(あらひとがみ)に坐しまして、天津日継天皇の御玉体に坐しませるなり。故に皇道日本国の神なる意義は頗る広汎に亘りて、外国人の唱導する如き単純なる神にあらざるを知るべきなり。

 凡て宇宙も、神も、万物も、その大原は天之峰火夫の神即ち大宇宙の大極元の言霊幸はひ坐して成り出でませるなれば、実に至貴至尊なるものは此言霊をおきて何物も無しと知るべし。

 著者は天祥地瑞未の巻を口述するに当り、皇道言霊学上より見たる声音の一部を略解しおかむと欲するなり。”

 

 この中の、

 「次に顕の顕なる神は則ち畏くも万世一系の皇統を垂れさせ給ひて、世界に君臨し給ふ現人神(あらひとがみ)に坐しまして、天津日継天皇の御玉体に坐しませるなり」

 の箇所が、昭和35年の復刻版では単に、

 「次に顕の顕なる神は現人神(げんじんしん)なり」

大幅に削除され、ルビも変えられています。なぜこのような改竄がなされたのか、いったい当時大本教団で何が起こったのか、「霊界物語」の奥義篇たる『天祥地瑞』の文章が、かくも無惨に改竄されるなどあってはならない事なのですが。

 

*それにしても、第78巻の「序文」に「日本の天皇は宇宙絶対なるが故に、時到らば必ず宇宙を統一遊ばす御方である」とありますが、これはいくら何でも表現が誇大すぎて信じ難く、たとえ極端な右翼思想を持っている方でも天皇陛下が宇宙を統一されるなどと考えている人はいないと思います。また「唯一絶対にして宇宙間何物も対立するものがなく」ともありますが、絶対王政のような政治形態や力による統治については、「霊界物語」の中で明確に否定されています。ですが、本来聖典はその内的な意味を汲み取ることが重要であり、文字通りに解すべきものではありません。もしかしたらこれについては、日本の国体は、宇宙、もしくは天界=高天原との相応を目指すべきであるということが示唆されているのかもしれません。もしそうであれば、天皇制とは本来どうあるべきかということよりも、いったい何を目指すものなのか、ということの方が重要な問題となります。「皇道の大本源に溯り、その真相を闡明し奉るは吾等臣民の一大義務」とも書かれていますが、そもそも天皇制とは神勅に基づいて始まったものであって、人民が話し合いで決めたものではありません。ゆえに、単に現行法制上において云々といった唯物論的な議論の対象となるべきものではなく、天皇=スメラミコトという存在の霊的な意義について、果たして大神様の御神意はいかなるものであるのかを悟るべく、日本国民は各自が主なる神に意識を向ける必要があるのではないかと思います。出口聖師は「祭政一致」について説いておられますが、その目的は神人合一の連鎖にもあり、頂点に立つ天皇陛下の政治的な役割のみならず霊的な役割のことが、これからはもっと重視されねばなりません。しかし、かと言って私は天皇陛下が人間を超越して神になられるとか、宇宙絶対、超自然的な至高の境地を達成されるなどとは考えていません。あくまでも天皇は人間であって、崇拝対象となるべき神ではありません。そうではなく、宇宙絶対の存在に相応する「地上の存在」として、天皇陛下を通じて天下万民に大神様の大稜威が耀きわたるようになる、ということではないかと考えています。聖典によれば、天界=高天原には、主なる唯一の神である、独一真神たる大国常立大神=天之御中主大神が神臨され給ふのであり、つまり天界は決して複数の神々による共和制ではなく、よって合わせ鏡となるべき地上においても、主神に相応する唯一人の最高権威者が立てられるべきであって、そのような制度が確立されねばならないと思うのです。ローマ・カトリック教皇やチベットのダライ・ラマの制度はそれに近いものですが、彼らには霊統の継承はあっても血統の継承はなく、霊肉一致・天地合わせ鏡は成立しません。日本の皇室の他に、このように霊肉一致した万世一系の家系はないのです。また出口王仁三郎聖師は経(たて)の万世一系とともに、新たに緯(よこ)の万世一系も必要となることを主張され、経の萬世一系と緯の万世一系とが揃って世界十字に踏みならす、とも言われています(「霊系を尊ばねば治まらぬ」)。今後、もし日本人が神国の民としての自覚を持ち、国を挙げて天界との相似・相応を目指すとしたら、これからどのような国体をかたちづくっていくべきなのか、この日本の国土に高天原を移写させるためにはどうすればよいのか、我々日本国民はもっと天皇陛下、皇室の霊的な意義について関心を持つべきだと思います。

 

*以前のブログにも書きましたが、エドガー・ケイシーのリーディングによれば、それぞれの国々の運命は、その国の最高指導者の運命とリンクしているのであり、日本の運命は天皇陛下(MIKADO)の運命とリンクしています。日本国民として、皇室の弥栄を祈らずにはおれません。

 

*「幽の幽神は天之峰(あまのみね)火夫(ひを)の神」とありますように、「天祥地瑞」では、主神(⦿()の神)の御神名が、天之峰火夫の神となっています。この御神名は、古事記・日本書紀にはなく、宮下文書(富士古文献)にのみ記されている御神名です。宮下文書とは、神武天皇以前に富士山麓に存在したとされる富士高天原王朝について書かれているものなのですが、出口聖師も本来は日本には三つの王朝があったと語られています。

 

*既に述べましたように、「霊界物語」の断定的な解釈は誰であろうと許されてはいません。以上はあくまでも私の個人的な考えにすぎないことをお断りしておきます。

 

 “饒速日命は十種(とくさ)の神宝、二二岐命は三種の神器を貰はれた。王仁は饒速日だ。十種の神宝は天の数歌の一二三四五六七八九十のことで、十種は十曜だから王仁は十曜の紋をつける。経の万世一系と緯の万世一系と揃ふのが、世界十字に踏みならすことだ。〇に十は裏の紋だ。開祖は御所の中に入って守護すると、何時も言ってゐられた。今のお方は変らぬ、大○○○と似てゐられる。世界統一(道義的)は緯の万世一系の役。之がなければ、経の万世一系丈ではいかぬ。(昭和十七年十一月十六日)”

 

 “国常立尊は天照大神の元であるが、下に降って働かれるのである。総理大臣がしっかりしてゐるから治まるのである。天照大神は国常立尊の御分身である。饒速日命は二二岐尊の兄様であるが、先に十種の神宝をもって大和にお降りになって用意をされてゐたのであるが、神武天皇がお降りになった時におしらべになって天津日子のしるしのあるのを見てお譲りになったのである。十種の神宝を持った人が下に降って働かれるから神武天皇の御位が保たれるのである。其上にあって陛下は知ろし召さるればよいのである。(古事記には迩藝速日命と記しあり。)(三木善健氏拝聴)(昭和十八年二月)”

 

 “天皇は天御中主神の顕現であって、名前が万世一系だ。今迄は経ばかりの万世一系ばかりであったが、之から緯の万世一系を拵えて朝鮮、支那と言ふふうにして世界十字に踏みならすのだ。お筆先のことを開祖と自分(王仁)のことのみにとってゐるのは小さい事で、実は此の事である。

火は経であって日本は今迄経で来たのである。火丈ではいかぬから緯をつくるのだ。言ふてはいかぬし、言はな判らぬしそれで困るのだ。此事は今迄に書いていない。(昭和十八年)”

 

(木庭次守編「出口王仁三郎玉言集 新月のかけ」より)

 

 

 “出口聖師は男女の同権は明治の時代から主張されていた。実にその時代から云えば進歩主義者であって、社会には容れられないものであった。しかし同権は同権でも、性別を同一視されたものではない。性別のあるところ、かんながらに天職使命のあることを主張されたのである。そのことについて詳細に知りたいと尋ねると最後には必ず、

 

 「創造の真因に基ずくのじゃ」

 

と創造の始めよりの真と愛の原因から説明された。同権の意味も、真と善の価値比重の同一であるところから説かれるのであって、近代思想に基ずくものではなかった

 

 「思想というものが創造原理に基ずくものであれば、その思想は永遠の生命があるが、時代的に人間が考え出したものであれば、それは一時的である。またその思想が如何にも真理であるように見えていても神意に反しているものなら宗教者は排除しなくてはならない」

 

と云っておられたところに出口聖師の明確な批判の根拠があった。

 それだから「女は弱し」という昔からの言葉を、「女は強し」と上段に宜り直されたこともある。そこで何故「強し」と云われたのですかとつめよると、

 「そう真面目になるな。女は創造の初めに愛が主だ。愛は絶対じゃ。強いのは当たり前じゃないか」

 こうした談笑のうちにも創造の原則というものが出口聖師から伺えるのである。

 

 「いろいろの思想を研究せよというのも、その思想が神意に反しているか、真因に即しているかを研究せよというので、思想そのものを研究せよというのじゃない。宗教に来ていて他の思想を研究するなんてどうかしている。宗教は、どの思想は良い、どの思想は悪いと、神意によって批判し、人類を神意に添わしめるように指導するものが宗教だ」

 

 現代社会の思想を宗教者が立別け、神が表に現れるように教化育成しなくてはならない。宗教者が思想に溺れて、自己を失ってはなんにもならないというのが出口聖師の主張であった。”

 

(「おほもと」昭和32年8月号 大国以都雄『出口聖師と現代社会』より)

 

 “霊界が現界に相応してくるといっても、全然異なっている形式の世界が相応するものではない。相応するには相応する形式がほぼ出来ていなくてはならない。動物霊は動物的の形式、即ち精神に相応し、天使は人としての内分が天界に向かっているときに相応してくる。それだから神界を現界に相応せしむるには、現界そのものが神界とやや形式が類似して来なくてはならぬ。そこで神は天国を地に来たらしむるために神意を啓示し、教化の道を開示するのである。そして現界に住む人間の心の中に、天界を容れ収むる形式が少しでもできれば、そこに基礎が相応して来るのである。それだから教えの無い、神の意図の啓示されていない宗教がいかに発展していっても、天国は地上に建てられるものではない。教の権威はその点にあるのであって、人智をもって人の心を導くことは危険至極なことであって、天界との相応が成り立たないのである

 人のあり方が道義的であり、正しい道に向かっているときには法律というものでも、重大に考えられなくなるが、そうして心的の方向が失われて、体的となり、どん欲的となるに従って法律というものが強化され、それが尊重されて来るのである。法律が強化されるには、どうしても権力というものが裏付けされなくては、法が力を発揮することができない。そうなると、力が人を支配することになる。力が支配している間は天界は相応するどころか、次第に天界は遠ざかるものである。天界が接近して来るのは力よりも真理、愛善という状態にならなくてはならぬ。一言にして言えば、正しい宗教、正しい宗教情操が常識化された世界とならなくてはならないのだ。宗教が基礎となった人類文化世界が建てられなくてはならない。それだから、人はそうした世界を建てるための共通の使命、責任があるというのである。

 人類の進歩、人類の文化向上ということは、天国との接近、天界との相応に目標があるのであって、いくら人権が尊重され法律が強化されて秩序ができたからといって、それで進歩した文化の世と思うのは誤りであり、天界と相応しない現界は、永続性があるものではない。それで人々は天界と相応せしむる世を建てるべく目標を置くと同時に、それに向かったあらゆる努力が払われなくてはならない。

 神は静的の存在ではない。常住不断の活動に坐しますものだ。また宇宙万有、活動の無いところに生命も発展も無いのである如く、相応するには、人もまた活動的でなくてはならない。活動を否み、努力を怠る世界に相応はないのである。しかし如何に活動し、努力していても、神と離れた心の状態にある人には、何か淋しい足りないものがあって、次第に努力活動することが嫌になるのである。それは天界と接近する心的状態ができていないで、外分的の努力活動だからである。内分的の状態に在って努力活動すれば、益々歓喜と幸福に満たされてきて、実に光明的となる。天界と接近し、相応するが故である。”

 

(「海潮」昭和25年7月号 大国以都雄録『相応の世界』より)

 

 

・国魂(くにたま)による世界の再編成  (神意に基づいた平和論)

 

 “「民族自決」の言葉が第一次欧州大戦の平和会議で日本から提案されたとき、一応否決されたが、既にそれより以前に、出口聖師は―― 国魂を源流として民族というものが発展したのであるから、国魂を混合したり、無視したりしたら、世界は治まるどころか混乱する。真の平和な世界をつくろうとすれば、国魂によって民族は自決し、国魂に基づいた国家の形成ができなくてはだめだ。将来民族問題は大きく紛争を繰り返して、如何な大国が力をもって統治しようとしても、どうにもならぬことになる―― と主張されていた。

 『わしは平和の世界をつくるには垣をとれといって来た。その垣というのは一つは民族と民族の垣だ。優秀な民族だの、劣等民族だのと、時代の盛衰によって征服されたり、征服したり、民族の発展期のものと眠りにおち入ったものとを表面から見て批判し優劣をきめるようでは平和は来るものではない。神性の解放、魂の解放によって、相互が平等に、互いに尊重し合うようになれば平和の世界は期せずして出現する。わしの平和論は根源を神性に発しているのだから、近代思想などから結論される平和論とは本質において異なっている

といっておられた。

 そこで、

 「神意によるみろく世界の構想は、それでは国魂の国家形態でなくてはならないのですね」

と念を押して尋ねてみると、

 『そうだ、国魂を無視して、いかに国家形態をつくり、力で統治していても、いつかは反抗して争うことになる。世界に流布されている思想も、その国魂の反抗や不平等から変形的に発生するものが思想の形をとって現われたものもあるから、その点を注意して見ないと、思想だけを見たのでは判らないところがある。だから歴史というものも、国魂の動きと関連して見るようにしなくては真実をつかむことはできない

ということであった。

 国魂ということになると、これは容易ならぬ問題であって、世界の創造の歴史にさかのぼってゆかなくてはならなくなる。しかし、そうした研究資料というものは無いといってよいのだから、どうにもならないことになる。

 「国魂の歴史を研究するには、どういう文献によったらよいのでしょうか」

 『それは古い宗教書によることになるが、それだとて断片的だ。そこでわしは霊界物語で国魂の配置や、そのかんながらの性格や、動き方について比喩的に発表しておいた』

 「霊界物語に国魂のことは出ていますが、なかなか判りません」

 『知識的に見ても判るものではない。神的英知によったら判る』

 神的英知ということになれば、普通人としてはあり得ないことである。不可能に近いのであきらめるより仕方はない。そこで、

 「研究は不可能ですね。われわれには神的内流はないのですから」

 『ある。信仰信念によって身魂を浄化向上させ、天的な相応の状態になれば、おのずから英知は輝いて来る』

 「そうすると、みろく世界の構想も、真の世界平和のあり方も、すべて宗教的根源から研究しないと判らないことになるのですね」

 『そうだよ。みんなは宗教的宗教的というが、神の創造した世界で神の守護にある以上、神意、神則を見ないで、世界の構成や発展が判るはずがないじゃないか。しかし神ということが判らぬから宗教的にゆかなくてはならないだけのものであって、神の世界ということが判っているものには、宗教的とか信仰的とかいう言葉が、いかにもつけ足したように感じられる。要は宗教的に進んで行くことが真実をつかむのに早いだけであって、神の世界ということが確かになっている者には、みろく世界も、平和世界も、メシヤの降臨する世界も一つで、国魂によって人類はその位置を得、互いに協力一致すれば、それが神代なのだ』

 「そうですか、元の神代にかえすぞよといわれるのは」

 『元の神代の元ということには国祖という意味もある。現代は神をないものにして、人間主体となっている。元切れて末続くと思うなよという神諭もあるが、すべての元、根源に一応帰一して、そこから一切の眼鼻をつけなくては、神的の順序が違うのだよ。外流ではものはなりたたない。内流が外へと流れて形体ができるという根本がつかめておれば、わけなく理解されるじゃないか』

 「知恵や学では世は治まらぬというのですなあ」

 民族問題については、霊界物語の山河草木の卯の巻にも出ていることであるが、出口聖師の民族論も、国家再編成というみろく神世の構想も、神的秩序による根源からいわれるのであって、平和論のごとき、時には誤解を招いたこともあるが、時代思想から批判すると間違いが起きるのもうなずけるのである。

 

(「おほもと」昭和32年8月号 大国以都雄『出口聖師と現代社会』より)